・ ツンデレが裸にチョコ塗ってリボン巻いて「私を食べて///」って言ったら その2

 そのまま、何も考えずに家まで全力疾走した。玄関の鍵を開け、中に入ると自分の部屋
まで一気に駆け上がり、そのままベッドに頭から突っ込む。
「兄さんのバカ……」
 私は小さく、恨み言を呟く。
「何も……理沙先輩と一緒にいる時に、わざわざ声を掛けなくたって……」
 いや。分かっている。兄は天然と言えるほどに鈍感で空気が読めない。きっと、私を見
かけたから、ごく自然に声を掛けただけなのだ。理沙先輩もきっと内心では、兄が私に声
を掛けたことを嫌がっていると思う。二人きりで、あわよくばとか思っていたところに邪
魔が入ったのだから。
 それでも、私を笑顔でお茶に誘うなんて、人間が出来てる。気持ちの切り替えが早いと
か、私じゃ絶対無理だ。
 そして、兄が手に持っていた紙袋の手提げバッグ。多分、理沙先輩からのチョコレート
だろう。随分と大きかったから、きっと中身も豪華なんだろう。
「やっぱり……敵わない…… 私じゃ……無理だもの……」

――全裸になって、全身にチョコを塗ってさ。それからリボンを巻きつけるの。それで、
潤んだ目付きで、『私を食べて……』って

 ああ。いけないいけない。また友子の変な妄想入りまくりの助言が浮かんで来てしまっ
た。それを振り払い、私は引き出しに仕舞っておいた、バレンタインチョコを出して手に取る。
――こんなの……兄さんなら、たくさん貰ってる……そうに決まってる。
 小さくため息を付いた。あの二人は、あの後どうしただろう? 理沙先輩は兄さんをお
茶に誘ったのだろうか? もしかしたら、お茶だけじゃなく、その後も――
 私は頭を振って嫌な妄想を振り払おうとする。しかし、そんな程度じゃ私の不安は拭え
なかった。理沙先輩のあの身体で迫られたら、いくら愚鈍な兄だって……
――嫌だ!! そんなの……
「ただいまー」
 私の思念を突き破って、玄関のドアの音と、そして呑気な兄の声が聞こえた。私はガバッ
と顔を上げる。
――兄さんっ!?
 そのまま、後先考えずに、まっしぐらに階段を駆け下りていった。
「兄さん!?」
 玄関に出て、兄の姿を見るなり私は大声で声を掛けた。私の様子に、兄がちょっと引い
ているのが見える。
「た……ただいま…… って、敬子。どうしたんだお前? ただならぬ形相で階段駆け
下りてきて」
 そこで私は、自分の取り乱しっぷりに気が付いた。恥ずかしくて、思わず兄から視線を逸らす。
「何でもありません!! 兄さんはいちいち私の行動を気にしないで下さい!!」
「そ、そうか…… 何か、ただならぬものを感じてさ。いや。お前が何もないって言うな
らいいけど……」
「だったら、もう何も聞かないで下さい。それより兄さん。随分と早いお帰りですね」
 一番気になっていることを、私は遠回しに聞いた。しかし兄は何の事か分からず、首を捻る。
「そうか? 普通に帰ってくればこんなもんだと思うけど。ていうか、むしろ遅いくらいだろ」
 兄の鈍さにイライラして、私は遠回しに聞くのをやめ、直接聞いてしまった。
「そういうことではありませんっ!! 理沙先輩はどうしたんですか? 一緒に帰ったん
じゃなかったんですか?」
 すると、ようやく兄は私が何を聞いているのか気付いたようだった。
「ああ。神野さんとは途中で別れたよ。いや、二人だけでもお茶しないかとは言われたけ
ど、荷物もあるしさ」
 そう言って兄は紙袋を持ち上げる。理沙先輩からのとは別の、小さい袋もあった。
「今年も随分と、たくさん貰ったんですね」
「ああ。全く、どうしてみんな、俺なんかにくれるのかは分からないけどな。でも、こう
いうのも気持ちだから、一応感謝して貰ってるよ」
 それは、兄さんがカッコ良くて、みんな憧れてるから。本気で好きな人もたくさんいる
から。そう、私はつまらない気持ちで、内心で呟いた。
「本当、私も分かりません。どうしてみんな、兄さんみたいな男にチョコをプレゼントするのか」
 嫉妬もあって、私は不機嫌そうに吐き捨てた。そんな私に、兄は困ったような笑みを浮かべる。
「なかなか手厳しいな。まあ、妹という立場から見ると、そう見えるのかも知れないけどな」
「兄さんにチョコあげるような女性は、みんな目が曇っているだけです」
 そう突っぱねると、さすがの兄も、ちょっと厳しい顔つきをした。
「そう言うなよ。みんな気持ちを込めてくれているんだからな。いくらお前だって、それ
を否定するのは行き過ぎだと思うぞ」
 その言葉は、私の心にグサッと突き刺さる。本当にみっともない。嫉妬のあまり、他人
を卑下するなんて。今の一言で兄さんに嫌われたとしても、それは自業自得だ。
「貸してください」
 私は、兄さんの言葉には答えずに、手を差し出した。
「え?」
 兄が不思議そうな顔をするので、私は言葉を続けた。
「紙袋です。どのみち冷蔵庫に入れるのでしたら、部屋まで持っていくのは邪魔でしょう。
私が持って行ってあげますから、兄さんはさっさと部屋に行って着替えて来てください」
 そう言うと、兄はいささか戸惑いがちだったが、それでも納得して頷いた。
「あ、ああ。悪いけど、そうしてくれ」
 兄から紙袋を受け取ると、私はプイッと兄に背を向け、後は一顧だにせずにさっさと台
所へと向かったのだった。


 台所のテーブルに紙袋を置くと、私はフゥッ、と吐息をついた。
「全くもう……こんなにたくさん……」
 一つの紙袋には、幾つか、他の人のくれたチョコも入っている。全部で20数個はあるだ
ろう。私は、包装されたチョコを一つ一つ見やる。
「結構……みんな、豪華なチョコばかり。これなんて多分……三千円とかするだろうに……」
 お小遣いを貯めて買った程度の私のチョコなど、足元にも及ばない。これらだけでも、
敗北感満載だというのに……
「理沙先輩の、チョコ……か……」
 取り出したチョコと比べてみても、何か紙袋に入れたままなのに、威圧感というか存在
感が別格である。
「ちょっと……見てみよう。見るくらいなら……いいよね?」
 包装はされておらず、紙の箱に入れてあるだけだった。これならば、中をちょっと見た
としても、キチンと元通りに入れ直しておけば、勝手に開けたと気付かれる事もあるまい。
 蓋を止めてあるセロテープをキレイに剥がし、私は蓋を取り外した。
「ス……スゴイ……」
 思わず感嘆の声が上がった。手作りのチョコレートケーキ。キレイに焼き上がったそれ
には、刻んだホワイトチョコが掛けられている。そして、さらにその上に、チョコクリー
ムでデコレートされていて、St.Valentine’s Day、と書かれた小さな板チョコまで乗っている。
「理沙先輩……本気だ……」
 恐らく、素材として使われているチョコ自体が、そのまま贈り物に使えるような高級
チョコだと思う。中身は見ていないが、多分これに勝てるチョコはないだろう。私のなん
て、これに比べれば、ゴミみたいなものだ。
「ダメだ……どうしよう。敵わない。兄さん……私だって……兄さんのこと……」
 目を伏せた時、箱にメッセージカードが添えられているのに気付いた。折りたたまれた
それは、ケーキを巻いた紙に目立たないように、立て掛けられていた。
――何だろう? 気になる……でも、これは兄さん宛だし、だから私が開けちゃマズイし、
だけど……だけど……
 震える手で、カードを開けた。

――愛して、います。理沙――

 胸が、締め付けられるように苦しくなった。カードを戻すと、勢いよく蓋を閉め、その
まま、力を込める。
 まるで、その言葉が永遠にそこから出て来ないように――封印、するように――
「おーい、敬子。とりあえずお茶にしようぜ。神野さんから貰った奴、早めに食わないと
悪くなっちまうし、一人じゃ食い切れないから、お前も一緒に食おうぜ」
 兄の声に、私は振り返った。着替えの終わった兄が、ちょうどキッチンに入って来ると
ころだった。
「ん? どうかしたか?」
 私の様子がおかしい事に気付いたのか、兄が怪訝そうな顔をした。
「知りませんっ!! に、兄さんには関係ありませんから!!」
 私は、そう言い捨てて、キッチンを後にしようとする。すれ違いざまに、兄が声を掛けた。
「お、おい。ケーキ、食わないのかよ」
 しかし、私は足を止めず、兄の顔も見ずに答えた。
「兄さんが貰ったものでしょう? 私にあげるなんて、それこそ向こうの気持ちを踏みに
じるようなものじゃないですか。大体、私は兄さんのチョコなんて食べたくありませんから!!」
 キツイ言葉で言い捨てると、私はパッと駆け出した。
「ちょ、ちょっと待てって。敬子!! おい!!」
 兄が制止するが、構うことなく、私は一気に自室へと駆け戻った。


――嫌だ!! 兄さんが私の元から去るなんて嫌だ!! イヤ、イヤ、イヤッ!!
 今度はベッドに転がる気力すらなく、私はそのまま床にくず折れた。涙が……自然と溢
れてくる。
「兄さん……ヤダ……理沙先輩と付き合うとか……ヤダァ……」
 しかし、泣いたってもう遅い。兄が、あのメッセージカードを見れば……多分、断る事
はないだろう。明日、兄は理沙先輩に返事をして……それで、全部、おしまい。
「ううっ……うぐっ……えぐっ……ヒック……」
 何で、兄妹なんかになってしまったんだろう? ううん。多分そんなの関係ない。妹で
なかったら、私は兄さんと会話すら出来なかっただろう。もっと優しく接していれば、
もっと素直であったら、もっと積極的だったら…… 後悔は後を絶たなかった。
 その時、出し抜けにまた、私の心に友子の助言が響いた。

――裸にチョコを掛けて……私を食べてって……そうすれば別府先輩だって……

 だけど、もうその言葉は、私にとっては馬鹿げた戯言なんかではなかった。ううん。
もうそれしかないようにすら思えた。
 いや。実際、兄さんに振り向いてもらえるチョコは……あの、メッセージカードに勝て
るのは、もう、それしかない。
 だけど、そこまでやって、それでも兄さんに拒絶されたりしたら、私はただのバカだ。
恥ずかしい勘違い女に成り下がってしまう。
 だけど……だけど……それをしなかったら、私は負け犬確定だ。
 何かに取り憑かれたかのように、私はフラフラと立ち上がった。マフラーとコートを着
け、財布を引っ張り出す。
――それしかない……もう、それしか……
 階段を下りると、兄とかち合った。しかし、私は無視して玄関へと向かう。
「お、おい? 今から出掛けるのか?」
 明らかにおかしい私を気遣って、心配するかのように兄が声を掛ける。
「悪い? 別に、兄さんには関係ないのですから、構わないで下さい」
 そう言って兄を絶句させると、私はもう、構わずに外へと飛び出して行った。


 財布の中のお金を全て使い切り、ありったけのお徳用チョコを買ってきて家に帰った時
は、もうとっくに夕食時だった。
 兄に怪しまれたくないから、物音が出ないようにそっとドアを閉める。靴を脱いでソロ
ソロと静かに階段を上り、息を殺して自分の部屋まで辿り着いた。
「フゥ……」
 ホッとため息をつく。時間は七時を回ったところ。まだ……準備するのは早い。
「そうだ。とりあえず……お風呂、わかそ……」
 ノロノロと身体を起こした。正直、自分が何をしようとしているのか、ここに来て実感
が湧かなくなっていた。このまま考え事に耽っていると、臆病風に吹かれてしまうかもし
れない。とにかく、何かをやって兄が自室に篭る夜中まで、時間を潰さなければ。
 階段を下りたところで、兄と鉢合わせをしてしまった。
「きゃっ!?」
「何だよ。化け物でも見る目で見んなって。つか、お前、いつ帰ってたんだ?」
 ビックリした。すごくビックリした。よくよく考えてみれば同じ家にいる以上、当たり
前の事だし、それにまだ慌てる時間じゃないと言うのに。
「わ、私がいつ帰ってようが、兄さんには関係ないことでしょう。いちいち詮索しないで下さい」
「これでも、一応心配してたんだけどな…… 急に出掛けたりするし、何か様子がおかし
かったから」
「余計なお世話です。兄さんに心配されるほど、私は子供じゃありません」
 兄が優しい態度を見せれば見せるほど、今は心が痛かった。この優しさが、別の女性
――理沙先輩に振り向けられる事を思うと、切なくて苦しくて仕方なかった。
「まあ、何も無いならそれでいいけどさ。ところで……メシなんだけど、今日父さんと母
さんいないだろ? それで――」
「私は今は食べたくありません。食べたいなら、兄さんが勝手に用意して一人で食べれば
いいでしょう?」
 今の私は夕食どころじゃない。そもそも食事など喉を通らないし、いつもと変わらない
兄と顔を付き合わせて、平常心でいられる訳も無い。
 もっとも、何の罪もない兄に、その言葉は余りにもキツイ言い方だったが。
「……体調、悪いのか? なら、お粥でも作ってやろうか。それと、具合悪い時は無理し
ないで休んでれば――」
「構わないでって言ってるでしょう? さっきから兄さんは、いちいち私のことに干渉し
過ぎです。別に体調の問題じゃないですから、後はもう放っておいて下さい!!」
 そう言い捨てると、私は兄の横をすり抜け、兄が何かを言う前にお風呂場に入って、ド
アを荒々しく閉めた。
「何で……私ってば……」
 ドアに背中を持たれかけさせる。自然と、目から涙が溢れた。
「兄さん……悪くないのに……ああいう言い方ばかり……あんなんじゃ……」
 例え、決死の覚悟を持ってしたバレンタインチョコですら、拒否されるかも知れない。
そうなったら、私はもう、二度と兄の前に顔向け出来ないだろう。
「とにかく……お風呂、洗わないと……」
 グイッと服の袖で涙を拭う。シャワーからお湯を出し、湯船を濡らしながら、私は拭い
ても拭いても溢れ出る涙と格闘していた。


 目覚ましが、けたたましい音を立てて鳴る。
 私は、ガバッとベッドから体を起こした。慌てて目覚ましを止める。
「……もう……こんな時間……」
 時刻は夜の11時。大体、この時間だと兄は自室に篭る。もし、風呂上りの後にリビング
でテレビを見ていたにしても、私が風呂から出る頃には自室に行っているはずだ。
 私は、風呂の準備をして、階段を下りる。1階の確認をするが、電気が消えていた。兄は
もう、部屋に行ったようだ。
 私はちょっとホッとして、風呂場に入った。
――今日は……いつもより、念入りに洗わないと……
 私がこれからする行動。それによって兄がどう行動するかは、分からない。分からない
けど、要求する以上は、何があってもおかしくないのだから、身は清めておかねば。
 まずは一度、ナイロンダワシで全身を丹念に擦る。石鹸を洗い流してから、一度、鏡で
自らの裸身を確認した。
――自分で言うのもなんだけど……貧相よね……
 胸の膨らみは、手で包み込む事が出来るくらい。何となく、女の子の身体付きにしては
骨ばっている感じもする。
「せめて……理沙先輩とまでは行かなくても、暎子くらいのボリュームがあれば、もう少
し自信が持てるんだけどな……」
 そうひとりごちて、私は湯船に身を沈めた。暖かいお湯に身体が包まれて、ちょっと
ホッとした気分になる。それから、私は自分の身体を眺めた。
――湯煎して……チョコを溶かして…… どのくらいの量になるんだろう? やっぱり……
胸と、股間は全部掛けておかないと。それから、身体に掛けて……
 全身を覆いつくせるほどの量があるかどうか。多分、無いだろう。となると、適当に、
チョコで自身をデコレートするしかない。
 自分で、自分の身体にチョコを掛けるなんて……
 その行為を想像するだけで、ゾクリと身体が疼いた。
「あ……」
 小さく、声が漏れる。私は、湯船の湯を手で掬い、勢い良く顔に掛けた。バシャッと音
がして、熱い湯が、欲情に浮かされた私の脳を、ほんの少しだけ正気に戻す。
「垢落とし……しないと……」
 とにかく、兄の前に自分の裸身を晒すのだ。せめて……せめて、清潔にだけはしないと。
 夢中で身体をゴシゴシ擦る。それこそ皮までもそぎ落とさん勢いで。
 首から、腕から、胸から、腹から。
 そして、腰まで来た時、私はある事に思い至った。視線の先にある、股間の茂み。決し
て濃いとは言わないが、それでも、陰部を守るかのように、それはしっかりと生えている。
――どうしよう……
 一瞬、心が動揺する。このままだと、直接チョコを掛ける事になってしまう。だけど、
それは……兄に、不快な思いをさせるのではないか? 人の毛なんて、髪の毛一本だって
口に入るのは不快なのに。
 答えは分かっていた。分かっていたけど、結論を出すのには勇気がいった。
「でも……やっぱり…… どうせ、恥ずかしいのは同じだもの。やるなら……とことん、やらないと……」
 決意を決めた私は、剃刀を、手に取った。


 風呂から上がると、私は下着すら身に着けずにバスタオルを身体に巻いただけで風呂場
から出た。こそこそと周りの様子を窺う。兄と鉢合わせなんて事になったら、それこそ目
も当てられない。
 誰もいない事を確認して、私は物音を立てないよう気をつけながら、一度二階の自室へ
戻る。部屋にチョコレートが置きっ放しだったから。風呂に入る前に持って来れば楽だっ
たのだが、それだと兄に見つかる可能性も無きにしも非ずだったし。
 無事、チョコを入手し、キッチンへと入る。キッチンの明かりは付けず、流しの上の蛍
光灯一本だけを付けて、大きめの鍋にお湯を入れ、火を点ける。
――私……何やってるんだろう……?
 ここに来て、私の心に、臆病風が吹き始めた。
――こんな深夜に……バスタオル一枚で、台所に立って……
 しかし、想いとは裏腹に、作業は着々と進める。包丁で適度にチョコを細かく刻み、湯
専用の小鍋に入れていく。
――こんな事……風邪引くかもしれないし……そもそも……兄さんの気を引けなければ、
ただの変態でしかないのかも……
 湯が熱くなり過ぎないうちに、チョコを溶かし始める。ヘラでかき混ぜつつ、様子を見
ながら慎重にやる。
――でも……失敗しても……やらなかったら……兄さんは……
 兄と、手を繋ぎながら幸せそうに微笑む理沙先輩を脳裏に思い描いた瞬間、弱気な心が
吹き飛んだ。
――そうだ。やらなきゃ……ここまで来たんだもの。もう……後には引けない。やらなきゃ……
やらなきゃ……


 いよいよ、本番だ。チョコを掛けたあと、最後に結ぶべきリボンも用意した。兄を呼び
出すための携帯も置いてある。
 テーブルの上に新聞紙を敷き詰めると、私はバスタオルに手を掛けた。さすがにドキド
キする。風呂場以外で裸になるなんて、羞恥心と言うものが身について以来無い事だ。
 ギュッと唇を噛み締めて、私はバスタオルを身体から取り除いた。白色の蛍光灯に晒さ
れ、肌がいつもより白く見える。
 テーブルの上に上り、身を仰向けに横たえた。早めに掛けないと、チョコが冷えて固ま
ってしまう。私はまずは下半身からチョコを掛け始めた。
「ハァ……ハァ……」
 自然と息が荒くなる。股間に掛けると、今度は胸だ。もう、ここに来て、チョコで胸を
隠すのは諦めていた。どれだけたくさん掛けても、身体を動かすうちに流れてしまう。だ
から、ある程度掛けておいて、少し残しておいて、身体にリボンを巻きつけてから最後に、
仕上げにもう一度掛ける事にした。その頃にはある程度固まってしまっているが、完全に
固まってなければ、乗せる事くらいは出来るだろう。
「ん……」
 胸にチョコを掛ける時、敏感になった先っぽがジクッと疼いた。欲望を押さえ、作業に
専念を心がける。腹と太ももは、出来る限る文様を描くように。もちろん、計算して綺麗
になんて出来ないから、前衛絵画のような複雑怪奇な模様になってしまったけど。
 仕上げに胸に掛ける分を残して、終了。チョコ塗れになってしまった身体を見やる。し
かし、休んでいる暇は無かった。あらかじめ、サイズ合わせをしておいたリボンを手に取る。
「ん……しょっと……難しいな……これ……」
 一応、ある程度どうやって結ぶかは頭の中で考えていたはずなのだが、思うように上手
く結べない。襷掛けみたいになってはみっともないので、首から肩に被せるように巻くと、
前でクロスさせ、片方は端を腰の辺りに止めたまま、もう一方を体から腿に掛けて適当に
クルクルと巻く。縛ると言うより掛けるという程度の緩さで、最後は腰の所でチョウチョ
結びにした。
 最後に、余ったチョコを胸に垂らす。
「出来た……」
 苦労して作った割に達成感の無い、素材私のチョコレート。どちらかと言えばやらかし
た感がとても強い。これで兄に白けられでもしたら……
 私はブンブンブンと頭を強く振った。ここまで来たら、もう引き返せないんだ。鍋を椅
子の上に置き、携帯を取る。この場からはもう動けないので、兄をここまで呼び出すしかない。
 電話帳から、兄の番号を呼び出し、震える手でボタンを押した。
 プルルルル……プルルルル……
――お願い……早く出て……出ないと私……切っちゃうかも……
 緊張感で胸が息苦しくなる。もうダメだ…… 兄は寝てしまっているのかもしれない。
起きるまで電話し続けるなんて、神経が持たない。
「もしもし?」
 唐突に、兄が電話に出た。しかし、安堵感はなく、むしろ緊張感が高まる。
「兄さん? 何してたんですか!! もう!!」
 なかなか電話に出てくれなかった怒りを、電話口の兄にぶつける。兄からはしかし、
キョトンとしたような不思議そうな声で、質問が帰ってきた。
「敬子か? お前……どっから電話してんだ?」
「質問に質問で返さないで下さい!! まずは兄さんが質問に答えてからです」
 本当は私の質問など、どうでもいい事なのだが、こういう所はキチンとしないと気が済
まないのが、実に余計だと思う。
「ああ。本読みながら寝落ちしてた。で、お前、今どこにいるんだ?」
 やっぱり寝ていたのか。一回で電話に出てくれた事はむしろ幸運と言うべきかもしれな
い。何度も電話する度胸が今の私にあるかどうか。
 さて、今度は私が質問に答える番だ。カラカラに乾いた口の中を無理矢理唾液を出して
濡らしつつ、震える声で私は答えた。
「えっと……その…… 今、キッチンにいます」
「キッチン? 何でそんなトコから電話してるんだ? 直接俺の部屋に来ればいいだろ?」
 もっともな意見だが、それが出来たら電話などしない。
「余計な事は言わなくていいんです!! と、とにかく、その……今からすぐ、キッチン
に下りて来てください。後の話は……こっ……こっちでしますから……」
 ついに、最後の引き金を引いてしまった。これでもう、完全に後戻りは出来ない。
「は? 何でだ?」
 事情を知らないから致し方ないが、兄の呑気な声が、精神的にテンパッている私の神経
を逆撫でする。
「話があると言っているでしょう? いちいち電話で話すことじゃないです!! いいで
すか? もう切りますから!!」
「あ、おい。ちょっとま――」
 兄が何かしゃべっているのも構わず、私は電話を切った。
――とうとう……呼んでしまった。兄さんを……
 チョコが崩れる事を考え、ほとんど私は身動きできない状態にあった。テーブルに体を
横たえた状態で、兄に体を差し出すのだ。酷く恥ずかしく……考えようによっては、酷く
間抜けなのかもしれない。
 ドクドクドクドクドクドクドクドク……
 心臓が早鐘のようになる。静かなキッチンに、ギシギシと音が鳴るのが聞こえた。兄が、
階段を下りて来ている音だ。
――来ちゃう……来ちゃう……
 トン、と音がして、兄が1階の降り立った事を示した。
――兄さんに……兄さんに、こんな格好を……
 兄が廊下を歩く音。あと、もう数歩で、この部屋に入ってくる。
「ダッ……ダメッ!!」
 ついに、私は緊張感と羞恥心に耐え切れなくなった。パッと身体を起こすと、椅子に掛
けてあったバスタオルを肩に引っ掛け、身体を覆う。
 その瞬間、ガチャッとドアの開く音がして、兄が姿を現した。
「おい。敬子。いるのか――?」
 兄が入るなり、キッチンの電気を点けた。途端に部屋全体がパッと明るくなり、バスタ
オルを引っ掛けただけの私の姿が浮き彫りになって晒される。
 そんな中で、私と兄は、思わず視線を交わしたのだった。


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