その1

『グルルルルル……』
「あー……落ち着け、なっ?」
『ガウゥゥゥッ!!』
「うわああああああぁぁぁっ!!」
 皆さん、始めまして。私、別府タカシと申しますが、目下猛獣に追いかけられて、生きるか死ぬかの
瀬戸際におります。『万物の霊長』というフレーズが、食物連鎖のピラミッドの中ではいかに薄っぺら
く、思い上がりに満ちたものかを痛感している次第。
 だからさ、助けてよ。
 そもそも、どうしてこんなことになったのか。
 アレだ。そもそもの原因はアレだ。
 日頃絶望的なまでにクジ運が悪い俺が、奇跡的に町内会の福引で一等の『マカオリゾート四泊五
日の旅』なんか当てちまった。
 考えてみれば、色々不吉な兆しはあったのだ。
 出発当日の朝には靴ヒモが切れ、空港に着けばパスポートを落とした。それは親切な人が届けてくれ
たから何とか助かったけど、飛行機の中で急病人が出たのには閉口した。『お客様の中でお医者様は
いらっしゃいませんか!?』なんてリアルで聞くとは思わなかったよ。
 まぁ、現地についてみればそんなの吹っ飛んだけどな。天候は少し悪かったが、青い海に白い砂浜。
ホテルではアジア系の褐色の肌したお姉ちゃんに迎えられ、もうマジで夢のようなひと時だった。
 ――具体的には、三時間ほどだが。
 夕方になって、クルージングに出たのが間違いだったのさ。船長の
「テンキ、ちょとワルいけど、ダイジョブネー!」
なんて台詞、信じなきゃよかった。南国特有のおおらかな性格ってのは、えてして『大雑把』の裏返し
なのだ。
 案の定、船酔いした俺は、外の空気を吸うためデッキに出た。これも駄目だったな。
 船縁に身体を預けて、大きく深呼吸をした途端だ。
 一際大きな波が船体を揺るがし、次の瞬間には宙に放り出されていた。
 俺は鼻から容赦なく入ってくる海水に涙目になりながら、遠ざかっていく船を見送るしかなかった。


 ――そして、現在。
 目が覚めたときには、全く見知らぬ砂浜に流れ着いていた。
 幸い、大きな怪我もなかったので誰か居ないかと歩き回った結果、俺は今猛獣に圧し掛かられて、そ
の鋭い爪を喉に当てられている。
 お父さん、お母さん、タカシは見知らぬ島で、見知らぬ動物の餌となって果てます。ごめんなさい。
『グルルルルルル』
 獰猛に喉をならすそれは、全く見たことのない動物だった。いや、動物と言っていいのかさえ危うい。
 何しろ、全体的には人型なのだ。遠目に見たとき、人間だと思って喜んだ三分前の俺を殴りたい。
 身体のあちこちに、密生して生えてるフサフサした毛。手足の爪はメチャクチャに鋭い。頭にはピン
と立った耳、そして尻にはフサフサした尻尾。
 それらの要素が、人間の女の子をベースにした身体にくっついている。
 あぁ、地球って広いなぁ……。
 生命の進化へ思いを馳せることで現実逃避をしながら、馬乗りになった獣のお嬢さんに爪を立てられ
る。見た目によらず、その力はかなり強い。
 首の皮が切れて、血が流れてるのが解った。うん、血抜きをした方が肉は美味いらしいしね。
 肉食獣の牙を向いて、彼女は俺の顔を見た。
 大きい、金色の瞳に獲物である俺の姿が映る。
 どう見ても詰んでる状況でも、死にたくないのが人の性ではある。しかも、触れ合ってる体はかなり柔
らかい。フサフサした毛に覆われているものの、それ以外の部分は人と同じ皮膚なわけで。
 顔から目線を下ろした俺は、毛に埋もれるようなピンク色のポッチに目が釘付けになった。自慢じゃな
いが、生で見るのなんて初めてだ。それを恥ずかしがらないところも、彼女が人間ではないことを示している。
 死の恐怖と、海水でカピカピになった服越しに伝わる温もり。捕食者たる獣は、愛嬌のある顔をした
女の子型モンスターであるという非現実感。
 それらが頭の中で渦巻いて、俺は多分壊れた。
 どうせ死ぬなら、とやけくそになったのもあるかもしれない。
 マウントになった彼女の、胸のポッチに向けて俺は両手を伸ばした。

「チクビーーーーーーーム!!!」
 
 俺 は 何 を や っ て る ん だ。
 
 先ほどとは全く別の意味で、両親に謝らなくてはならない所業だ。
 だが、人差し指に感じるグミのような感触に、俺はこのとき確かに『死んでもいい!!』と思ってしまった
のである。たとえ変態と罵られようと、最期の言葉が『チクビーーーーム!!!』でいいのかと問い詰めら
れようと、男として乳首で満足していいのかと笑われようと、俺はもう満ち足りていた。
 さぁ、殺せ!!
 俺は彼女を見据え、笑った。この散り際、とくと目に焼きつけよ! 我が人生に一辺の悔い無し!!
 そう言わんばかりの笑顔で。
 そして、乳首を人差し指で押したままで。
 相手は、突然の俺の絶叫にキョトンとしていたが、ゆっくりと俺の喉を掻き切ろうと指に力を込める。
 その拍子に、指が胸と擦れた。
『キャウンッ!』
 いきなり、捕食者は悲鳴のような鳴き声を上げる。
『フゥゥッ……クゥン……』
 大きな瞳が潤み、頬が紅潮している。
 と、喉に食い込んだ手から力が抜けた!
 俺は慌てて上体を起こす。それに驚いたのか、彼女は俺の腹から素早く飛びのいた。
 三メートルほど距離を取り、身体を地面に伏せて、こちらを睨んでくる。
 また押し倒されては今度こそ勝ち目がないので、俺も必死になって警戒しながら、なにか作戦はない
かと考え続けた。
 どれだけ時間が経っただろう。そんなに長くはなかったかも知れないが、張り詰めた空気の中で、背筋
に嫌な汗が垂れ始めた頃だ。いきなり相手が
『チッ』
と舌を鳴らすと、近くの草むらへ身を翻した。
「あっ、おい!」
 後を追うが、その後姿はあっという間に木の間に紛れて、見えなくなった。
「なんなんだ、一体……」
 呟いてから、鳥肌が立った。
 ……まさか、仲間を呼びに行ったんじゃあるまいな?
 そうだとしたら、こんなところでボンヤリしてる場合じゃない。
 俺は全力で駆け出し、その場を後にした。

 
 さて、逃げ出した後で一通り歩き回ってみたが、ここはどうも島らしい。それもかなり小さい島だ。
 人の気配はない。無人島だ。
 一日中飲まず食わずで歩き回ったために、どうにか寝床を見つけた頃には俺は疲れ果ててしまってい
た。海に程近い場所にある洞窟に、俺は身を横たえた。
 ごつごつした岩肌が痛かったが、葉っぱやらを集めてベッドを作るような気力もない。このままでは、遠か
らず飢え死にしてしまう。ロビンソン・クルーソーとか、子供のときもっと読み込んでおけば良かった。
 とても静かな夜だった。波の音が、洞窟の壁に反響して聞こえ、天井から水滴が落ちる小さい音も、
はっきりと耳に入ってくる。入り口から差す、月の冷たい光が目に優しかった。
 明日起きたら、水や食料を確保しなければ……。
 起きることが、できたなら……。
 何だかどうでも良くなって、投げやりな気持ちで目を閉じると、洞窟の奥から物音がした。
 何かが、小石を蹴り飛ばしたような音。
 ……熊でも住んでいたのか?
 もしそうだとしたら、俺になす術はない。なにしろ、さっきみたいな未知のクリーチャーが住んでる島だ。
熊よりヤバい奴だったら、どうしよう。
 油の切れた機械みたいに、ぎこちない寝返りを打って、俺は入り口に背を向けた。
 月明かりに照らされたシルエットは、それほど大きくなかった。
 熊ではない。
 だが、ある意味で熊の方がマシかもしれない。
 熊に殺されるというのは、まだ想像がつくが、半人半獣のモンスターに殺されるなんて、現実の外だ。
「……また、会ったね」
 俺の台詞に、相手は答えず、足首を掴むと洞窟の奥へ乱暴に引きずり始めた。
 グッバイ、この世。
 まな板の上の鯉と言うのは、まさにこんな心境だろう。
「フ〜ナは生じゃ〜、食えないはず〜さ〜、泥くさ〜い、生ぐさ〜い、フィッシュフィッシュフィッシュ♪」
 自分は食っても不味いというメッセージを一昔前の歌に込めても、当然通じる相手ではない。空しく反
響して消えるだけだ。
 引きずられながら、あちこちに擦り傷が出来るが、これは血抜きの一環だろうかうんそうだろうねアッハハハ。
 いい加減怖いモノもなくなってきたころ、唐突に足が止まった。
 そのまま、乱暴に振り回され、空中に投げ出される。メチャクチャな腕力だが、それどころではない。
 叩きつけられる!
 そう思って反射的に頭を庇う。
 だが。

 ザッバ〜ン!!  

 俺は、水の中に放り投げられたのだ。一瞬慌てたが、水深は浅く、立ち上がれば腰くらいまでしかない。
 洞窟の中の地底湖のようだった。染み出した地下水が、一滴ずつ溜まっていったものらしい。広さも結構
あるし、天井の裂け目から光が差しているのもありがたい。
 そして何より、それは真水だったのだ。
『グウゥゥ……』
 地底湖を始めて見て、呆気に取られている俺に唸り声を上げると、ヤツは奥の方へ去って行った。
 どういうことだ?
 食う前に、洗おうということか? ある島の猿にサツマイモを与えると、海水で洗って食べるそうだが、そ
れと似たようなものだろうか。
 何はともあれ、飲める水だ。いや、実際のところは飲んだらまずいかもしれないが、この際細かいことは
言ってられない。手で掬って、何度も口へ運んだ。体中の擦り傷に染みたが、お構いなしだ。
 人生の中で、もっとも美味い水だった。
 どうにか一心地つき、水から這い出す。服の水を絞ると、俺は悩んだ。
 後を追うべきか、逃げるべきか。
 普通考えれば、逃げるべきだろう。
 だが、もしもヤツが俺を助けようと、この水へ叩き落したとなると、放ってもおけない気がする。
 しかし、ただの気まぐれだったら、今度は確実に食われるだろう。
 神秘的な雰囲気の地底湖を見ながら、一人で悩んでいると、いきなり背中を押された。
「ごぼぁっ!! ぷはっ!」
 折角絞った服が、ズブ濡れだ。
 振り返ると、ヤツが立っていた。手に何か持っている。
 それを、ポンポンとこちらへ投げてきた。
 水面に浮かんだのは、何個かの実だった。マンゴーに似ているが、はっきりとは解らない。
 半目でこちらを見ている相手に、無駄と知りつつも
「これ……くれるのか?」
と聞いてみた。
 やはり、相手の答えはなかったが、俺は沈黙を肯定と受け取り、その実を一口齧ってみた。
 途端に、口の中に瑞々しい果汁と、蕩けそうな甘味が広がる。美味い。
 投げられた3個ほどを、中央に入っていた種を除いてたちまち平らげた。その間、相手は湖に足を浸し
て俺から目を離さず待っていた。
 食い終えたのを見届けると、ついて来いとでも言うように、一度手を振ると、ゆっくりと歩き出した。
 俺も今回はそれほど悩まず、素直に従う。どうも、昼間と違って危害を加える気はないようだ。
 何回か枝分かれしている洞窟を進むと、やがて出口についた。どうやら、この島の何箇所かの出入り
口を繋いでいるらしい。
 殆ど真っ暗な中、先を歩く足音を頼りに懸命についていった俺は、疲れ果てて膝を着いた。はぐれたか
と思うと、気が気ではなかったのだ。
 ヤツはいたって平然とした顔で、俺に近寄ると唐突に顔を手で挟んだ。
 ……あ、食われるかも。
 少しだけそう思ったが、どうも違うらしい。単純に、見慣れないものを観察しているだけのようだ。それか
ら、かなり乱暴に首を捻られたり頬を引っ張られたりしたが、どうにかすぐに解放される。
 ようやく落ち着いて周りを見回すと、洞窟の一角に乾いた草が敷き詰められ、その中央が窪んでい
た。更に、良く見れば幾つか動物の骨らしいものや、果実の種、先を削って尖らせた木の棒などが目に
付く。
 どうやら、ここがヤツの住処らしい。
 と、家主は敷き詰められた草の上に座り、再び手を振った。
 手招きではなかったのだが、何故か呼ばれている気がして、無用心に近づいてみる。
 すると、ヤツは俺の手を取り、座ったままで一気に引き倒してきた。凄まじい力に、なす術なく倒れ込
んでしまう。
床にぶつけた頭を痛がる間もなく、今度はヤツが倒れ掛かってきた。
 ヤツはそのまま、俺の傍らに寝転び、ピッタリと身体を寄せ付け、目を閉じる。
 ……おいおいおいおいおいおい。
 寝るのかよ。
 そう突っ込む間に、すでに寝息が聞こえてきた。
 いちいち行動が予想外すぎる。
 とはいえ、人肌……多分、人肌が傍にあって、平気で居られるほど俺も悟っていない。先ほどまで感
じていた餓死の恐怖を抜け出した今となっては、別の欲望がこう、ムラムラと来てですね、えぇ。
 さりげなく、手を回してみる。
『ウゥ……』
 息が漏れて、むずがるように身体が動いた。手を止めて、息を詰め、様子を伺う。
『……スゥ……スゥ……』
 再び穏やかな寝息が聞こえると、行動再開。
 背中に回した手をゆっくりと下ろしていく。滑らかな肌の感触に、心臓が跳ねるように踊るのが解る。
 更に手を下げて、尻尾を掠め、尻へ手を置いてみる。触ったことはないが、人間と変わらないように思
えた。っていうか、やらけー。
 チラリと様子を伺うと、まだ目を閉じて気付かないようだ。それに勇気付けられ、調子にのって尻を揉ん
でみる。心地よい弾力が指を押し返してきて、さらに興奮が高まっていった。
 やばいな。興奮したところで、何が出来るわけではない。襲い掛かっても、返り討ちにされるのがオチだ
ろうし。
 だが、そんな考えを余所に、指は勝手に感触を堪能している。
 あぁ、気持ちいい……もう死んでもいいかm

『…………グルゥ』

 ごめん、嘘。まだ死にたくないです。
 いつの間にか目覚めてらした家主様の手元から、一筋の光が奔った。
 人差し指を立てた手が、頬を掠めて、皮一枚を裂く。
『ガウゥ……』
 金色の瞳が、『お前なんか、抱き枕として連れてきただけだ。余計な真似をしたら餌だからな』と言っていた。
「……ごめんなさい』
『ガル……』
 俺の謝罪が通じたのか、ヤツは満足そうに目を細めて、先ほど爪で傷つけた頬をを一舐めした。何故
か母親に『良くできました』と言われたような気持ちになる。
 それから、再び俺の胸に顔を埋め、目を閉じた。もしかしたら、単に眠くて、止めを差すのが面倒なだ
けだったかも知れない。逆に言えば、俺の生殺与奪はいつの間にか、完全に握られてしまっているのだ。
『スゥ……スゥ……』
 可愛い女の子そのものの寝顔を見ていると、ここに来て一気に疲れが吹き出してきた。
 腕を頭の下に敷いて枕にすると、目を閉じる。
 なんだか全てがどうでもよくなっていたが、それは海鳴りを聞きながら思ったものとは違って、どこかぬるま
湯のように暖かいものだった。


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