その3

 結局、あれからぐっすり眠ることはできなかった。
 明け方に少しだけウトウトした程度だ。ただですら慣れない環境なのに、寝不足では堪ったものではない。
 空もどんよりと曇って、今にも雨が降りそうだった。
 そして、なによりも深刻なのは。

 ――ネムが、居ない。

 少しの時間、浅い睡眠をとっただけだというのに、その間に消えてしまっている。
 気配を殺すのも、野生動物の特技ということだろうか。
 急に一人で取り残されて、不安が込み上げてきた。枕元を見れば、いつもの果物がそっと置いてある。
 う〜ん……『出かけるから、飯でも食っとけ』ということだろうか。
 何にせよ、今日は自由行動ということでよかろう。
 果物を齧りながら洞窟を出て、大きく背伸びをした。朝の清浄な空気が肺を満たすと、自分が何をするべき
かがはっきりと解った。
 俺は虫眼鏡をポケットに入れると、海岸へ向けて歩き始めた。ここに来るときは洞窟を通ってきたので、方
角がさっぱりだが、何せ狭い島だ。歩いていれば、その内着くだろう。



 海岸に出たら、ひとまず付近を通る船に向けて狼煙を上げてみる。
 それが、俺の計画だった。
 だが、火がつかない。
 当然だ。曇ってる。火種を凸レンズに頼るしかない俺にとっては、致命的だ。
 どうして気づかなかったのだろう。アホじゃあるまいか。
 そんなわけで俺は今こうして砂浜で膝を抱えて、遥か彼方の水平線を見ている。
 あぁ、この海の向こうに家族が待ってる日本があるんだね。太陽も隠れてるせいで方角が合ってるかはよく
解らないのだが、まぁ、とにかく。
 そして、家族といえば、昨夜のネムの寝言。

『パァパ……マ、マ……』

 それが日本語における意味を示しているのかも、俺には解らない。
 もしかしたら、『切る』と『KILL』みたいに、発音が似てるだけの、別の言葉だった可能性もある。
 だが、それ以上に。
 ただの寝言の癖に、その台詞が帯びていた悲しそうな響きが、耳にこびり付いて取れなかった。
 もし、普通に言葉が交わせるなら、事情を聞きだすこともできるのだろうが、今のところそれは不可能だ。
 もしかしたら、火がつかない虫眼鏡を持って海岸に来たのは、単にネムと顔を合わせたくなかっただけかも
知れない。
 他人事のようにそんなことを思って海岸から目を転じると、生い茂る森の向こうに、小高い丘が見えた。
 高いところに行けば、船でも見えるかもしれない。
 俺は重い腰を上げて、再び歩き始めた。



 息を切らして丘の頂上まで登ると、海から微かに潮風が吹き付けてきた。
 丘の上は短い草で埋まっていた。緑色の中に名前も知らない、小さな白い花が点々と咲いている。弁当を持
ってピクニックに来るには持って来いではないか。
 空は相変わらず、くすんだ灰色をしているが、俺は当初の計画を反故にして、その場に寝転んだ。裸の背中
を、草が柔らかく受け止めてくれる。
 親はどうしてるだろうか。 
 多分、まだそんなに心配していないかもしれない。旅行に出て一日目に遭難したのだ。連絡が取れなくても、
特に気には留めないのではないか。
 それとも、ホテルが異変を察して、既に連絡を入れているかもしれない。そうなったら、親が現地入りして、
地元のレスキュー隊か何かと連絡取ったり。もしかしたら、とっくにニュースになってたりしてね。
 行方不明の人間が、死亡扱いになるのって、何年くらいだっけ? それまでには帰りたいなぁ……。
 あ、ハードディスクの中身とか、見られたくねーなぁ。秘蔵のフォルダとか開かれた日には、このまま無人
島生活するしかなくなる。
 なぁ、尊(脳内彼女)。俺はもう帰れそうにないよ。どうか、俺のことは忘れて、いい人を見つけて、幸せ
になってくれ。
『ば、馬鹿なことを言うな! 根性なしが! 戻って来い! 泳いででも戻って来い!』
 だって、無理だよ。水平線の向こうまで、泳ぐような体力ないよ。
『お前はいつもいつも、そうやって諦めるんだな! わ、私を幸せにすると言ったではないか! あれは嘘だ
ったのか!?』
 嘘じゃないけどさ、物理的に無理になっちゃったよ。ごめん、尊(脳内彼女)。
『イヤだ! わ、私は、イヤだからな! わ、私は、お前とじゃなきゃ……幸せに、なりたくない! お前の
居ない幸せなんか、私にはないんだ!』
 尊(脳内彼女)……
『私は……私は……お前が――
 
――アアアアアアオオオォォォォォォン!!!!

「んぐ……あ……いかん、寝てたか」
 顔に落ちた水滴で、俺は目覚めた。曇ってると思ったら、とうとう降り出したらしい。
 寝不足が祟ったか……。
 頭を降りながら、上体を起こすと雨脚が強くなっていった。
 いかん、スコールというヤツか。あっという間にバケツをひっくり返したような雨が降り注ぐ。
濡れる服は殆どないが、風邪でもひいては敵わないので、ひとまず近くの木立へと駆け込んだ。

――アアアアアアオオオオオォォォォン!!!

 何かが遠吠えをしてる声が、雨音の向こう側から聞こえてくる。狼でも居るのか、この島は。
 ……いや。
 俺の知る限り、この島で遠吠えしそうな動物は一匹しかない。
 
――アアアアアアオオオオオォォォォン!!!

 そのつもりで聞いていると、もうヤツの声にしか聞こえなくなる。
「……ネム……か?」
 その、空気を裂く様な遠吠えに、背筋が逆立つような感覚を得る。胸が掻き毟られるような、聞いているだ
けで不安を掻き立てられてしまうような。
「……戻ろう」
 呟いて、俺はここまで上ってきた道を全力で駆け出した。

――アアアオオオオオオオォォォォォン!!!

 遠吠えに、呼ばれているような気がした。
 しかも、それはどういうわけか助けを呼ぶ、切羽詰った声のように聞こえたのだ。
 

 
 近づくほど遠吠えが大きくなっていくことによって、推測が確信に変わる。
 歩きながら、ボロ布の切れ端を結んで目印をつけていたのが幸いし、俺はすぐに洞窟の前まで戻ることができた。
 洞窟の前では案の定、ネムが雨の中、空を見上げて吠えていた。
 俺の姿を認めると、その表情が一瞬戸惑いになり、それからすぐに怒りに転じる。
 ……やべぇ、戻らないほうが良かったかも。
 そんな後悔を裏付けるように、ネムは真っ直ぐに俺のほうへ突っ込んできた。
 降り注ぐ雨の粒が、ヤツの体に触れて、砕け散る。その様子が、スローモーションで見えた。
 体を大きくたわめて、振りかぶる。全身の筋肉がギシギシと鳴るようなテイクバックの後、
『グルアアァァァァァッ!!』
という咆哮と共に繰り出される一撃。
 俺にはその雄叫びが、『悲鳴を上げろ。豚の様な』と言ってるように聞こえた。
 全身のバネを使ったその拳は大気を切り裂き、そして俺のどてっ腹に風穴を開ける勢いで叩き込まれた。
「ごほあぁぁぁぁっ!!」
 悲鳴と共に、俺は五メートルほども吹き飛び、木に叩きつけられる。
「ぐほっ……ごあっ!!」
 北斗真拳で『たわばっ!』とか言って死ぬ直前って、こんな感じなんじゃないだろうか。自分の内臓が、好き勝手
な方向へ捩れて蠢いているような感覚だ。
 力なく倒れる俺の腹の上に、ネムは容赦なく乗っかってきた。
 痛みに体から噴出す脂汗を、スコールがあっという間に洗い流していく。
『ガルゥ……!!』
 牙を食いしばり、憤怒に歪んだ顔は、昨日寝言を言っていたときとはかけ離れていた。
「わ、悪かった、から……勝手に、出かけたりして、悪かった」
 切れ切れに、なんとかそれだけを口にする。
 だが、半面で不思議でもあった。
 自分は勝手に出かけておいて、俺が居なくなった途端、どうしてここまで怒るのか。しかも遠吠えで呼び出しておいて。
短い付き合いだが、あの声は間違いなく俺を呼んだものだと、なぜか確信していた。
『ガウ……』
 ネムは鋭い爪の生えた両手を大きく振りかぶった。
 そのまま、今度は顔を張られる。
 一発、二発、三発……とにかく、沢山。
 スコールが止み、雲が割れて日が差すころ、ネムの折檻は終わった。
 俺はと言えば、謝罪どころかまともにしゃべるのも難しくなっていた。多分、鏡を見たら熟れたトマトが映ってるに
違いない。瞼も腫れあがって、視界も殆ど効かなかった。
「うぐ……ゴフっ……』
『フウウゥゥゥ……』
 ネムは一声唸ると、俺の足を掴んで無造作に地面を引きずる。
 俺は自分の怪我よりも、洞窟を離れただけでネムがどうしてここまで怒るのかの方が気になっていたが、途中で
力尽きて意識を失った。




 眠りが浅くなりすぎただけの、温い目覚め。
 目を開けることすら、遠い異国の風習にのように、自分には無縁のことに感じる。
 ふいに、なにか柔らかく湿ったものが、頬に押し当てられた。
 冷たくて、心地よかった。思わず、声が漏れる。
「う……ん……」
『タ・カシィ……』
 それに反応したのか、ネムの声が聞こえた。
 バカだな。そんな寂しそうな声出すなら、もっと手加減しろよ。本当に、バカだな。
 そう言ってやりたかったが、俺の意識は再び深い眠りへと攫われていった。



 目覚めると同時に、まず自分の視界がクリアになっていることに気づく。顔に触れて見るが、腫れは引いているよ
うだった。痛みもない。
 だが、それよりも結構な問題が。
 体中が、緑色の得体の知れないベタベタに塗れていた。
 触手にでも犯されたのか、俺は。
 だがよく観察すると、それは繊維質で、どうやら何かの草を細かくちぎったもののように思えた。
 とりあえず起き上がり、川の水で全身を洗い流す。緑色に染まっていく川を見て、これも些細な環境汚染なの
だろうかと馬鹿なことを考えた。水面に映る顔は、やはり元通りのいつもの俺だった。
 そこでようやく、今朝もネムが居ないことに思い至る。
 昨夜、夢うつつにだが俺の手当てをしてくれたのは覚えている。あの緑色は、きっと薬草の類だろう。
 だが、こういうときは看病に疲れ、俺に寄り添って眠っているのがあるべき姿ではないだろうか。けしからん。
 そう思って辺りを見回すと、洞窟のすぐ横の茂みから、ひょっこりネムが顔を出した。
「お? おはようさ……」
 そう声をかけた瞬間。
『グルゥ……』
 一声唸ると、身を翻して、そのまま再び木立の奥へ消えてしまった。
「あ、おい! 待てよ!」
 慌てて後を追って草むらに駆け込むが、すでに追いつける距離ではなかった。
 ただ日常的に通っているコースなのか、木立の間の草が踏まれて、獣道になっている。どうにか後を追うことはで
きそうだ。
 後を追って何になるのか、という疑問はある。だが、放っておけなかった。
 昨日から様子がおかしすぎるし、何かヒントでも掴めなければ、納得がいかない。
 獣道は鬱蒼とした森の奥に進むにつれて、次第にはっきりとしてきた。後は追いやすいが、ネムの姿はすでに見
えない。
 木漏れ日が差して、身体を即席の迷彩模様に染めた。草で身体を切らないように、注意深く進む。
 そのまま、十分ほど進んだだろうか。ふいに、目の前が開けた。
 野球のグラウンドほどの広場だった。
 その中央に、膝を抱えて座っている小さな背中があった。それを見つけて、俺は言葉を失ってしまう
 普段は、文字通り人間離れしたパワフルさを見せ付けているのに、このときはその背中がとても頼りなく見えた。
俺が一歩でもここから動けば、幻のようにそこから消えてしまいそうなほどに、儚い。
 ネムの向かいには、何かがある。
 一歩だけ近づくだけで、それが何か理解できた。
 同時に、俺は自分が文明人であることを後悔する。

 盛られた二つの土の山。
 その上には木の枝をツタで縛って、十字に組んだものが立っていた。
 すぐ前には、あの丘で見かけた白い花が、漂着物らしい空き缶に挿してある。


 

 ――どうみてもお墓です。本当にありがとうございました。


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