その4

「ネム……」
 まったく無用心に、俺は一歩を踏み出して、歩み寄った。
 足元で、枯れ枝が乾いた音を立てて折れる。
 それを聞いて、ネムの耳がピクリと動き、次の瞬間にはこちらへ振り向いて臨戦態勢を取っていた。
 身体を低く伏せ、四足の肉食獣が獲物を捕らえる寸前の構えだ。
『フウウウゥゥゥゥ!!!』
 と、剥き出しの牙の隙間から、低い唸り声を上げて、こちらを睨らみつけてくる。全身の毛が逆立ち、その身
体が一回りほど大きく見えた。
 だが俺の姿を認めると、その顔から一気に警戒が抜けていく。
 ひとまず胸を撫で下ろすと、俺はもう一歩、近づいた。
 ネムの顔が、歪んだ。
 泣きそうな、心細そうな、噴出した感情の塊が今にも内側から溢れそうな。
 
 ――なんで、そんな顔するんだよ。
 
 俺が一歩進むと、ネムは一歩下がる。
 もう一歩進む。一歩下がられる。
 彼女は、二つの盛り土のちょうど間に挟まる位置まで下がっていた。
 足元の草が脛の辺りに絡みついてくるような感触を帯びる。無論それは錯覚で、単に朝露に濡れた葉が
くっついているだけなのだが、まるで俺の邪魔をしているような、嫌な感触だった。
 ふいに、ネムが、そっとその場にしゃがみこんだ。
 そのまま、向かって右の十字架の根元を掘り返し始める。
「お、おい……」
 俺の呼びかけにも答えず、ネムは手を止めない。
 やがて、穴からネムは何かを取り出した。
 それは、何か四角い包みだった。青いビニールで密閉されているように見える。
 ネムはその包みをこちらへ放り、穴を元通りに埋めると、再び背を向けて森の奥へを消えていった。
 いきなり突き放されたような気がして、それを追うこともできず、俺は包みを拾い上げる。
 ビニールを解くと、その下は木綿の布でさらに包んであった。
 その下から出てきたのは、一冊の手帳だった。

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 この手帳を見て居る人が、どんな人かは解らない。もしかしたら、永遠に誰の目にも触れない可能性もある。
 だが、わずかな希望を込めて、文字を綴らずには居られない。妻も死んだ。私も、もう長くはない。あぁ、
駄目だ。まずは、順を追って書かなくては。
 熱と苦痛に耐えながら書いている。どうか、読みづらいのは、許して頂きたい。

 私が医師としての定年を迎えてすぐ、妻と共にマカオへ旅行へと行くことにした。仕事をしている間は、碌に
どこかへ連れて行くこともなかった、せめてもの罪滅ぼしにと、計画したものだった。
 私たちには、子供が居ない。結婚してすぐに妻は妊娠したが、生来病弱であった上に流産してしまい、結果と
して子を産めない身体になってしまった。それも、私がいわゆる『家族サービス』を怠る一因だったのかもしれ
ない。医師として、妻に何もしてやれなかった後ろめたさが、そうさせたのかも知れない。
 しかし、彼女は不平も言わず、よく私を支えてくれたと思う。いや、違う、それは今はどうでも良いことだ。
 とにかく、私と妻は初めての夫婦水入らずの旅へ出たのだ。そして、そのクライマックスとして、セスナで夜
景を見るツアーへと参加した。
 空から見る夜景は素晴らしいものがあったが、結論を言えばそれを楽しめたのは最初だけだった。
 コックピットから、バイタルが低下したときに鳴るのとそっくりな警告音が鳴り始め、それから私たち夫婦と
数人の乗客は緊急時の姿勢を取らされる事となった。
 そこからは、よく覚えていない。高度が見る見る内に下がり、内臓が引き攣る感触と共に私は意識を失った。
隣に座っていた妻が、私の手を強く握っていたのは、覚えている。
 気が付けば、見知らぬ島の砂浜に妻と二人で手を繋いだまま、倒れていたのだ。
 この手帳を見ている人は、きっと『彼女』と出会ったと思う。この島に人間が訪れたら、この手帳を渡して
くれと、『彼女』に頼んだから。
 私たちは『彼女』に『アズサ』と名前をつけていたので、以降そう呼ぶことにする。これは、流産した子に
つけようと用意していた名前で、妻が言い出したことだ。
 意識を取り戻した妻と、一先ず五体満足であることを喜び合い、島を散策した先で、私たちはアズサと出会
った。
 彼女は足に怪我をしていた。洞窟の中から動かず、私たちに向かって警戒心を剥き出しにしているようだっ
た。見た目としては、人間で言えば小学三、四年生といったところだろうか。私は彼女の容姿にまず衝撃を受
け、すぐにでも立ち去りたかったのだが、妻の勧めで手当てを試みることとなった。とは言っても、たいした
こともできず、せいぜいが服の袖を破って作った包帯で止血をする程度のことだが、激しい抵抗に会い、終わ
る頃には私も妻も、全身が引っかき傷だらけになってしまった。
 だが、結局彼女は私たちが敵ではないと判断してくれたようだ。
 アズサは、私たちが彼女の住処である洞窟へ留まることを許してくれ、また年齢で身体の自由が利かない私
たちの食料の調達も手伝ってくれた。
 夜はアズサを挟んで、三人で川の字で寝た。夜中に時折目がさめると、アズサのとても安らかな寝顔を見る
ことができた。そんな彼女を、次第に私たちは自分たちの娘として扱うようになっていた。特に、妻は特別な
愛着を持つようになっているようだった。それは、最初の子のことがあったのかも知れない。結婚生活の中で
そのことを口にすることは一回もなかったけれども、妻がそのことに対して、私とは違った種類の罪悪感を抱
いているのを知っていた。
 私と妻は、いつしか真剣に救助を求めることをやめていた。
 どの道、短い余生を送るだけの人生しか残されてはいないし、身寄りも殆どいない。
 それならば妻と共に、この島で人生を終えるのも悪くはないと、そう思ったのだ。

 結局、私と妻はこの島で三ヶ月ほどを過ごした。
 アズサは知能も高く、、簡単な日本語でコミュニケーションを取れるまでになった。
 彼女は、私と妻を『パパ』『ママ』と呼び、私たちも実の娘のようにアズサと接した。アズサが『パパ』と
『ママ』の本当の意味を理解しているのかは判断ができないが、つかの間の奇妙な親子関係は仕事漬けだった
日々で凝り固まった私を確かに癒してくれた。
 
 少なくとも、妻が急死してしまうまでは。
 
 その日、妻は雨が降る中『果物を取ってくる』と言ったきり、日が暮れても帰って来なかった。
 心配そうな顔をするアズサと共に帰りを待ったが、結局その日は二人で眠ることになった。
 翌朝、崖の下で事切れた妻を発見したのは、アズサだった。
 足を滑らせて滑落し、打ち所が悪かったのだろう。
 頭蓋骨骨折による脳挫傷。カルテならば、そう書く。一生書きたくないカルテではあるが。
 アズサはずっと、『ママ、ママ』と呼びかけ続け、後頭部の傷に薬草を噛み潰したものを塗ったりしていたが、
やがて妻が死んだということを理解すると、大声で泣き叫んだ。
 クリスチャンというわけではないが、少しでもそれらしくするため、木の枝で十字架をつくり、花を添えられ
るようにした。その前で手を合わせる私に、アズサも神妙な顔でそれに倣った。ただ、私の動作を真似ただけの
行動なのだろうが、私はそれを見て、ようやく妻の死に涙を流すことができた。
 アズサの小さな身体を抱きしめ、私は日が暮れるまで、子供のように泣き続けた。
 
 そして私もまた、妻の元へ旅立とうとしている。
 典型的な破傷風の症状であり、生傷の絶えない生活と年齢をを考えれば、ごく自然な成り行きと言える。抗生
物質などが手に入らない状況では、医師といえども手の施しようがない。私の医師としての能力は、あくまでも
文明国という枠組みの中でのみ有効なものでしかないのだ。
 今はただ、彼女を一人で残してしまうことだけが気がかりだ。
 アズサの本当の両親はどうしたのか、私は知らない。とにかく、私たちが流れ着くまで、彼女はたった一人で
この島で生活してきたはずだ。だが、きっと温もりを知ってしまったアズサは、もう以前のけだものではない。
きっと、私が死んだら、彼女は妻の隣に私を葬るだろう。そっくり真似て、十字架をつくり、時折花を捧げて。
 たとえそれが只の真似事であったとしても、それはアズサの優しさを損なうものではない。
 あぁ、こんなことから、きっと初めから優しくするべきではなかったのだ。
 けれども、子供を持つ喜びを知ってしまった私たちには、もはやそれは手放せない、大切なものだった。
 
 これを見ている人に、どうか一つだけお願いしたい。
 あなたが、いかなる選択をするせよ、どうか彼女を、アズサを、大切にしてあげて欲しい。
 あの子は私たちの娘で、とても優しい子なのだから。
 
 
 雨が、長く降っている。
 きっと、止むまではもたないだろう。

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 手帳の日付は、二年前になっていた。
 温い風が吹いて、川面に波紋を作る。それに反応したのか、魚が跳ねてさらに波を立てた。
 俺より先に、この島へ漂着した人たちが居た。
 そして、その人たちは、あの十字架の下で眠っている。
 奥さんは、雨の日に死んだ。
 旦那さんも、恐らく雨の日に、息を引き取った。
 ネムにとって、雨の日は、別れの日なのだ。
 二年の間、雨が降るたびに、たった一人でそのことばかり思い出して……。
 だから俺が勝手に居なくなったことに対して、あれほどの怒りを見せたのだろう。
 そう考えると、自分の軽率な行動が悔やまれた。
 日は既に高く、空は底抜けに青かった。風が少し強くなっていたが、それが程よく暑気を払って心地よい。
 洞窟から出て、思い切り背伸びをする。座り込んで手帳を読みふけっていたせいで、背骨がパキパキと鳴った。
 
 [アズサを、大切にしてあげて欲しい]

 ……そうは言われても、どうすればいいのか解らない。
 俺にはまだ、この島で生涯を終える覚悟はない。こう言っては何だが、定年を迎えた老人とは違うのだ。
 けれども、島の外へネムを連れて行くことも、現状ではためらわれる。
 
 ――どの道、いつかは別れなくてはならないのかもしれない。
 
 それをとても真剣に考えてしまっている自分に気付いたととき、、背中に何かが当たった。
 振り向くと、いつもの果物が転がっていた。
 茂みの向こうで、ネムがこちらを見ている。悪戯が見つかった子供ような、バツの悪い表情だった。
 俺は果物を拾い上げると、
「ありがとうな」
と礼を言ってから、一口食べた。そういえば、俺が食べ物に関してネムに礼を言うのは初めてではなかったか。
 俺が食べている間も、ネムはその場から動こうとしない。俺も、あえて呼ぶようなことはしなかった。
 食事を終えると、草のベッドへ寝転ぶ。腹が膨れて、眠くなったのだ。
 ネムは、洞窟の入り口まで来ていたが、入ろうとしない。
 俺は、自分の隣をポンポンと叩いた。
『ガウ……?』
「……昼寝でもしようぜ。風が気持ち良いからさ」
 俺の誘いに、ネムは少しだけ戸惑いの表情を見せたが、すぐにいつもの位置に寝転んだ。
『クウゥゥン……タ・カシィ』
「タカシ、な。タ・カシじゃなくて」
『グゥ……タカシ?」
「そうだ。偉いぞ」
 頭を撫でてやると、心地よさそうに喉を鳴らす。
「……しばらくは、どこにも行かないし、どこにも行けないからさ」
 そっと身を摺り寄せ、目を閉じたネムに、腕を貸しながら言う。
『……』
「……よろしく頼むよ、ネム」
 とにかく、今はこいつと仲直りしたい。
 いつかは別れないといけないかもしれないが、それでも、せめて一緒に居る間は……。
『クゥ……クゥ……』
 既に寝息を立てて、寝たふりを決め込んだネムだったが、その尻尾は嬉しそうに揺れていた。


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