その7

 その生き物が、どうしてその島に現れたのか、それは定かではない。
 だから、かつて『アズサ』と呼ばれ、今は『ネム』と名づけられた彼女のルーツも、よく解らない。
 彼女の一番最初の記憶は、とても暖かく心地のよい場所だった。そこには、自分と似ている二匹の
生き物が居て、まだ小さい彼女を抱きすくめて眠っているのだった。その生き物たちは、日なたの土
のような、とてもいい匂いがして、彼女をとても安心させた。
 二匹は、彼女の両親だった。そういう自覚は彼女にはなかったけれども、それでも自分にとってト
クベツな存在だという認識はあった。
 当時、三匹は森を見下ろせる高台の洞窟に住んでいた。
 次の記憶は、夜中だった。
 やっぱり彼女は二匹に抱かれていて、その日食べたウサギの後ろ足の骨の味を思い出しながら眠り
に落ちようとしていた。
 なんだか、嫌な夜だった。
 不安だとか、胸騒ぎとか、そういう具体的な言葉は持っていない。それらのことは、全て『嫌』と
いう感覚にまとめられていた。逆に言えば、その夜彼女が感じたものは、不安であり胸騒ぎでもあり、
その他のものでもあったわけだが。
 ふいに、地面のずっと下の方が低く唸り声を上げた。
 寝そべって地面についた耳に、その音は確かに入ってきた。
 それは獲物を威嚇するために、彼女の父親が出す唸り声にも似ていた。あるいは遠く、海のずっと
向こうで鳴る雷の音にもそっくりだった。風が吹いて枝がガサガサ鳴るのにも似ていたし、鳥の騒々
しい羽ばたきにも似ていた。
 それがだんだん近くなるにつれて、彼女の両親も目を覚ました。
 いまや、その音は地面に耳をつけなくてもはっきりと聞こえた。
 鳥が派手な音を立てて、枝から夜空へ飛んでいった。
 それを合図にしたかのように、地面が大きく揺れ始めた。
 何か途方もなく大きいものが、島をおもちゃにして遊んでいるような、そんな揺れだった。
 彼女はどうしていいかわからず、母親の胸にすがった。父親は家族を守るようにして、洞窟の入り
口で遠吠えをしていた。
 ふいに、彼女の顔にパラパラと砂が降ってきた。
 見上げると同時に、洞窟全体がひび割れ、壁が内側に倒れこむように崩れた。
 岩肌が絶叫してるかのような音を立てたとき、彼女の身体は中に浮いていた。
 それをしたのが父親だったのか母親だったのか、それはもう彼女自身にも解らない。
 確かなのは、大小の岩石で埋まった隙間から、彼女を突き飛ばした手が一本、力なく伸びていたこと。
 爪が剥がれるのも構わずに、岩に指を突き立て、両親を掘り出そうとしたこと。
 泣きながら闇の中を這いずり回って、どうにか海の傍の洞窟へ出たこと。
 海に反射して二つに見える月がやたらと恐くって、泣きながら叫んだこと。

   ――そして、この日を境に、彼女は一人ぼっちになってしまったということ。



   両親の見様見真似で、餌を取り彼女は育っていった。まさに文字通り、一人きりで彼女は生きていた。
 『パパ』と『ママ』に出会うまで。
 それは、些細なミスだった。
 果物を食べて、枝から景気よく飛び降りたときのことだ。
 着地点の足元の草に隠れて、鋭く尖った枝が落ちていた。彼女はそれに気づかず、飛び乗ってしまった。
 足を深く傷つけてしまい、激痛を引きずって洞窟へ戻ると、彼女はそのまま眠った。
 近づく足音に目を開けると、そこには見慣れない生き物が二匹、立っていた。
 血が止まらなかった。意識が朦朧とする中、彼女は自分の縄張りを荒らす侵入者を威嚇した。二匹は怯
えたように身を竦ませ、一旦は立ち去ろうとした。
 だが、彼女の足を傷を見ると、その態度が急変した。
 二匹は彼女に引っかかれ、噛み付かれながらも、傷の手当てをした。血は止まり、痛みも引いていき、
彼女は彼らの胸の中で安らぎに満ちた眠りを得た。両親と同じ、日なたの土のような、とてもよい匂いが
した。
 やがて、彼女は『アズサ』と呼ばれるようになる。
 そして『アズサ』になった彼女は、『パパ』『ママ』と彼らを呼ぶようになった。



 そして、今。
 『パパ』と『ママ』が死んで、二回、季節が巡った。 
 二人が死んだときに、胸に広がった苦いモノが、また彼女の胸を満たし始めていた。
 嫌だった。何もかもが嫌だった。
 タカシたちの会話を、明確に理解できたわけではなかった。
 けれども、タカシが居なくなってしまうということは、なぜか理解できた。

   彼女と出会った者は、いつも彼女を一人ぼっちにしてしまう。
 一人にして、どこか遠くへ行ってしまう。

 空と海の境目が滲んだ。 

 獣道を駆け抜け、森を分け入って、俺は高台に出た。
 いつか眠り込んでしまった、白い花の咲いている、あの丘だ。
 そこに、ネムは居た。
 丘のてっぺんで、海の方を向いて立っている。
「ネム……?」
 声をかけると、ビクリと方を震わせて、振り向く。目元から、涙がこぼれて、太陽の光で輝いた。
「泣いてるのか?」
 そう言うと、ネムは必要以上に目をこすって、こちらを睨みつけてきた。
 金色の瞳が燃えるように輝いていて、この島で彼女と初めて出会った時を思い出させた。
 色々なことが頭の中を回っていて、慌ててしまう。
 ネムが泣いていたこと。会話を聞かれていたこと。ネムが怒っていること。
 
 そして、別れを告げなければならないこと。

 色々なことを同時に処理しなくてはならない。
 けれども、言葉が出てこなかった。
 何もできず、足が釘付けになってその場から動けなかった。
 喉の奥から、隙間風のように息が漏れて、無意識に言葉を紡いだ。

「ごめん……」

 次の瞬間には、視界いっぱいにネムの拳が迫っていた。



「ごめん……」

 その言葉を聞いた瞬間、彼女の頭に一気に血が昇った。
 それは、謝罪の言葉。自分がなにか悪いこと――例えば、人の物を取ったとき、人を傷つけたときに、
口にする言葉。
 彼女は、『パパ』と『ママ』にそう教わった。
 頭から血を流して倒れている『ママ』を見つけたとき、その肌はまだ暖かかった。
 抱き起こすと、口から血の泡を吐いて、それから薄く、薄く目を開けた。
 『ママ』は彼女の姿を認めると、

『ごめんね……アズサ』

と、掠れた声で呟いた。
 それを聴いた瞬間、彼女の全身の毛が逆立った。なぜかは解らないけれど、鳥肌が立っていたのだ。
 その場に居られなくなって、震える身体をどうにか押さえ込んで、『パパ』を呼びに言った。
 戻ってきたときには、『ママ』は事切れていた。
 『ママ』を地面に掘った穴に横たえて、土をかけながら『パパ』はとても虚ろに、
『すまない……すまない……』

と、『ママ』の名前を呼びながら、謝っていた。
 その『パパ』もしばらくして熱に浮かされながら、うわごとのように、彼女に言った。

『ごめんなぁ……ごめん……』

 どれ一つとして、彼女には全く理解ができなかった。自分は怪我をしていないし、物を奪われても居な
い。どうして謝るのかが、解らなかった。どちらも、辛そうにしているのは『パパ』であり、『ママ』な
のだ。
 けれども、彼女には一つだけ確かなことがある。
 『パパ』と『ママ』は、その言葉を口にしながら、彼女の前から居なくなった。

 だから、きっとタカシが言った『ごめん』も、居なくなる前の言葉なのだ。

 胸が痛くて、苦くて、窮屈だった。
 謝られても、それは絶対に消えないのだ。



 殴られる……!

 そう思って目を固くつぶった。
 けれども、来るべき衝撃は、いつまでもなかった。
 恐る恐る目を開けると、鼻先に拳が突き出されたまま、静止していた。
「ウゥッ……グウッ……!!」
 その手が、震えながらゆっくりと下ろされると、ネムの泣き顔が現れた。
 歯を食いしばり、必死に涙を落とすまいと、堪えていた。
「ガウゥ……タカシ……サヨ、ナラ?」
 搾り出すような声が、聞こえた。
 俺はどうしようかと思ったが、結局は頷いた。
「あぁ……さよならだ」
 ネムの顔が、さらに歪んだ。涙が頬を伝い、あごから落ちて、即席のブラの上に染みを作る。
 いたたまれず、謝罪を繰り返そうとして、俺は飲み込んだ。
「……ネム、ヒトリ……ミンナ、イッショ……タカシ、イッショ……」
 単語の羅列が、胸を穿つ。

   そんなこと言ったって、どうしもうないじゃないか。
 (短い間だったけれど、楽しかった。) 
 俺は、やはりこの島で一生は送れないし、お前はこの島から出られないんだから。
 (お前と会えてよかった。)
 もともと、一緒に居ていいような生き物じゃなかったんだから。
 (絶対に忘れない。)

   言うべきでない言い訳と、言うべき台詞が渦巻いて、頭の奥がジリジリと焦げつきそうだった。
「ネム……」
 せめて、ネムの涙を拭ってやろうと手を伸ばす。
 次の瞬間、三本の引っかき傷が手の甲に刻まれていた。
「つっ!」
「フウウウウウゥゥゥゥ!!」
 ネムは歯を剥き出し、一気に距離を取った。
 俺を襲った、一番初めのように。
「ガアアアァァァッ!!!」
 そのまま一声吠えて、俺が作った服をビリビリに引き裂いて見せる。
 破れた布切れが、俺とネムを隔てるようにして散らばった。
 足が動かない。
 声も出ない。
 手の痛みが、どこか遠くへと去っていく。
 葉の緑も、花の白も、海と空の青も、あっという間に褪せていった。
 視界には、金色の目しか映らない。
 怒りに満ちた、獣の瞳。
 さっきまで、のんきに昼寝をしていたネムは、そこには居なかった。

 それは、もう俺に気を許しているネムではなく、一匹の裸の獣だった。

 俺は、その獣が自らその場を去るまで、微動だに出来なかった。
 去り際にネムはチラリと、まるで食べ残した魚の骨を見るような冷たい目で、こちらを見た。
『どこへでも行っちまえ』
 瞳だけでそう告げて、ネムはあっという間に見えなくなった。
 


 最後の夜、ネムは帰ってこなかった。
 一人で洞窟の葉のベッドに寝転ぶと、手の傷がヒリヒリといつまでも痛かった。


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