その8

「いいのかい?」
 レイの言葉に、俺は頷くしかなかった。
 砂浜は真っ白で、そこにマーがハンドルを握る黒いゴムボートが乗り上げていた。エンジンの唸りが、
この島に酷くそぐわない。
 起きてからも、俺はネムを探す気力もなく、ただ砂浜で二人が来るのを待つしかなかった。
 親指の先ほどに見える船から、レイとマーを乗せたゴムボートがこちらに寄ってきた。
 多分、それを出迎えた俺の顔は、ひどいもんだったと思う。
 ろくに眠れもしなかった上に、朝から何かを口に入れる気もしなかった。顔がむくんで、頭がうまく
働かない。脳みその真ん中を、人肌よりもほんの少し熱い塊が占拠していた。
 俺の様子とネムが居ないことで何かを察したのだろう。レイの冒頭の台詞に戻るというわけだ。
 マーも、太い眉を寄せて心配そうな顔をしている。
 もう一度、砂浜の奥、森へと続く茂みを振り向く。何度繰り返したか知れない動作だったが、やはり
そこにネムの姿はない。
 昨夜はどこで夜を過ごしたんだろう。
 寒さで風邪を引いてないか。もしかしたら、どっか怪我して動けなかったりしてんじゃないか。
 アイツの基礎体力を考えれば、そんな心配はほとんどいらないのは解ってるのだが、最後くらい、元
気な顔を見たかった。
 レイが片方の眉を上げて、重苦しい空気を払うように、手を振った。
「……いいのなら、行くかね」
「……はい」

 手の傷は、まだ、痛い。



 二つの十字架の前で、彼女は膝を抱えて座り込んでいた。
 昨日、タカシと別れてから、彼女はずっとそこでそうして座り、微動だにしていなかった。いつも南
国の太陽を映して輝いている瞳は、今はとても虚ろだ。

 胸の奥が痛くて、苦くて、詰まっていた。

「ガウ……」
 鳴いても、『パパ』と『ママ』は、答えてくれない。日なたの匂いのする手で頭を撫でてくれること
もないし、眠るときに優しく抱き締めてくれることもない。果物の皮を食べやすいように向いてくれる
こともないし、優しく垂れた目で暖かく微笑むこともない。
 タカシも、日なたの匂いがした。初めこそ驚いて襲い掛かってみたものの、実際にはとても弱ってい
て、可哀想な生き物だった。それはただの同情だったのかもしれない。子連れの獲物を見逃すような、
ただの同情。けれども、彼は『パパ』と『ママ』のことを知った後も、彼女に優しく接したし、自分の
『抱き枕』としてはこれまでにないほど、寝心地がよかった。

 胸の奥が痛くて、苦くて、詰まっていた。

 どうして、みんな謝りながら居なくなるのだろう。
 どうして、みんな怪我をしていない自分に謝るのだろう。
 タカシは、今日居なくなってしまう。この島の外のことは、彼女は想像もしなかったけれど、少なく
とも自分が知らないほど遠くに行ってしまうのは確実だった。島を取り囲む、辛い水のずっと向こうに
行ってしまうのだ。
 
 胸の奥が、痛くて、苦くて、詰まっていた。

 彼女は右手を胸に当てて、大きく深呼吸をした。けれども、それを吐き出すことはできなかった。
 頭がクラクラした。まるで、小さい頃に熱を出したときのようだった。
 心臓が破裂しそうだった。まるで、怪我をしたときの傷口のようだった。
 そして、そのときに彼女は気づいた。
 気付いたと同時に、立ち上がっていた。長い間座っていたので、膝の関節がポキポキと鳴った。
 
 タカシが、『パパ』が『ママ』が、彼女に謝る理由が、ようやく解ったのだ。

 答えは、とても簡単だった。
 それが理解できると同時に、彼女は、大急ぎで周囲に咲いている花をありったけ摘んで、お墓の前
の空き缶にギュウギュウに詰めた。
 
 二人を置いていくのは悲しかった。だが、今度は自分がサヨナラしても、きっと二人は許してくれるだろう。

「しっかし、意外だったなぁ」
「意外って?」
 マーが大声で言うと、レイも同じくらいの声で返した。エンジン音が激しく、声を張らないと会話がで
きないのだ。
「かあちゃんだったら、あの子を売り飛ばそうとか言いかねないと思ったんだけってぇっ!」
 台詞の途中で、レイがゲンコツをかました。その拍子にハンドルが乱暴に切られて、船が大きく蛇行する。
「バカが! 分相応ってもんがあんだよ!」
「……相応?」
 予想もしなかった単語が出てきて、俺は思わず繰り返した。
 レイはこちらをチラリと見ると、加えていたタバコのフィルターを噛み潰してから答えた。
「あのな、あんなもん、ただの海賊なんかに捌ききれるもんじゃないだろうが。
 そりゃ、はした金と引き換えに捕まえてもいいって連中も居るだろうが、あたしゃゴタゴタはごめんなん
だよ。海賊なんて悪いことやってんだから、それなり収入源でそれなりの儲けでいいのさ」
 一気に言い放つと、タバコを口から離し、灰皿代わりの空き缶に落とした。
「さっすが、かあちゃん! カッコいい!」
 能天気な声を出すマーに、再びゲンコをやる。
 その様子を見て、俺は気になっていたことを尋ねた。
「あの……かあちゃんって……」
「あ? なんだい、あんた。あたしが、このオッサンの母親に見えるのかい?」
 両手を挙げて、全力で首を振る。見た目からして、レイの方が年下だ。
 っていうか、それだけのことで銃を向けないでくださいよ。お願いだから。ホイホイ殴られるマーの気持
ちが、よく解った。
「ったく……全くもって遺憾だけど、このバカはあたしの……アレだ。わかんだろ?」
 レイの頬が、わずかに赤く染まった。
「何照れてんだ? かあちゃん」
「てっ、照れてるもんか!」
「照れてんだろ」
「照れてない!!」
「いや、照れてる、そういう声だ」
「だぁかぁらぁ〜!!」
 いや、第三者が見ても照れてますよ。つーか、すぐ殴らないのがもう完全にその証明だと思うんだけど。
「えっと……夫婦?」
「そういうこった」
「あたしの人生最大のミスだけどね。本当は、話すだけで恥なんだ! か、勘違い、すんじゃないよ! あ
たしは、ガキが両親そろってないと可哀想だから、仕方なく……」
 最後の言葉はどっちに向けたもんだろうか。
 芸能人でもホイホイ離婚するご時世だというのに、この人はどうして真っ赤になってんだろう。
 マーが、そっと俺の方を向いて、レイに見えないように舌を出し、小さな声で言った。
「可愛いだろ?」
 その声は、殆どエンジン音に紛れてしまっていたが、俺は笑って頷いた。
 この二人って、実際にはマーのほうが上手なんじゃないか。
 そう思って、憮然として新しいタバコに火をつけるレイを見る。

 そして、その向こう。

 もうだいぶ小さくなった、島の海岸。

 白い砂浜に、小さな点が見えていた。


 ――アアアアアアアアアアアオオオオォォォォォォン!!!!!

 遠吠えだった。

 ――アアアアアアアアアアアオオオオォォォォォン!!!

 見送りに着てくれた。
 思わず立ち上がって、身を乗り出す。
 二人も、遠吠えを聞いて首を島の方へと向けた。
 点が、フラフラと歩きながら、こっちへ近寄ってくる。その足が、波打ち際に浸った。
 一歩、また一歩。

「ネムーーーーーーーーーーー!!!」

 いつの間にか船縁から身を乗り出して、大声で叫んでいた。
 ネムが、また一歩、海水に浸る。
 もう膝の高さまで、水につかっているようだった。
 だが、その足は止まらない。
 さらにこちらに近づいてくる。
 背筋を、冷や汗が伝った。 
 嫌な予感がした。
 だが、それは同時に嬉しい予感でもあった。



 胸の辺り間で水につかったところで、彼女は地面を蹴った。
 川で泳ぐのには慣れているが、この塩辛い水は勝手が違う。常に波が立って泳ぎにくいし、鼻に塩水が
入ると一気に目の下の辺りが痛くなってむせてしまう。
 だが、彼女は手足を動かすのをやめなかった。
 タカシは遠く、虫のようにしか見えない。大声で『ネム』と呼ぶのが波音に混ざって聞こえる。
 足先に海藻がまとわりつくのを振り払って、水を掻く。体中の毛が水を吸って、まとわりついてきた。
 胸の奥は、まだ痛かった。
 けれども、タカシに近づくにつれて、痛みが薄れていく。

 彼女は、傷ついているのだ。
 血も出てないし、どこも腫れていないけれど、自分は傷ついている。
 胸の奥が痛くて、苦くて、詰まっているかから、きっと胸の奥が怪我をしているはずだ。
 そして、彼女はこれまで、自分を傷つけた生き物を、断じてそのままにしておくことはしなかった。
 必ず、仕返しをしてのけたのだ。
 『パパ』と『ママ』へ仕返しをするのは無理だけれど、タカシには間に合うはずだ。
 ちょっとやそっとじゃ済まさない。
 一生かけて、仕返ししてやる。でなければ、割りに合わない。

 息継ぎが怪しくなってきた。
 口と鼻を、容赦なく波が塞ぐ。鼻の奥にツーンと来て、涙が溢れてきた。濡れててよく解らないが、鼻水
も出てると思う。
 波に現れる視界の向こうで、タカシの乗っているボートが揺れている。自分が揺れているのか、ボートが
揺れているのか、もう解らなかった。距離感が消えて、ふいに、全身の力が抜ける。
 ふいに、手足が止まって、言うことを聞かなくなった。。
 虫のように見える相手へ向けて泳ぐことなど、狭い島ではなかったことだ。彼女自身、気付かないうちに、
体力を使い果たしていた。昨夜から何も食べていないせいか、思うように力が出ない。
 
 沈む。
 
 足のつかないほどの暗闇へ、引きずりこまれるように、彼女は沈んでいった。
 水面の下から見る光は、ゆらゆらとしていて、とても綺麗だった。青の中に、白の日光が光って、それが
一時も休まずに様々な形を見せた。
 やがて、揺らめきが『パパ』の顔になり、『ママ』の顔になり、本当の両親の顔になった。
 そして、光がカシの顔の形になったとき、磯臭さに混じって、微かに日なたの土の匂いがした。



「ブハァッ!!」
 俺はネムを抱えあげると、ゴムボートから投げられた浮き輪に捕まった。
 ネムを落とさないように捕まらせて、その肩を揺する。
「おい! ネム! 起きろよ! ネム!!」
 自分で出した声なのに、意外なほど切羽詰っていて、悲痛な声だった。
「ウ……グゥ……?」
 薄く目が開き、それからゆっくりと大きく首を回して辺りを見る。その焦点が俺の顔に定まると、途端に
その顔がクシャクシャになった。
 笑っているような、泣いているような顔だった。
 多分、俺も同じような顔をしていたと思う。
 その様子を見て、潜水したばかりで切れている息の合間に言ってやった。
「バカだな……お前……っ……バカ……」
「ガウ……タカシ……」
 ネムは、ゆっくりと身体の力を抜いて俺の身体に身を預けてきた。
「……オソイ」
「うるせー……」
 ボキャブラリーが少ないくせに、憎まれ口は一人前ですか。
 エンジン音が近づくと、レイが浮き輪についたロープを手繰りながら渋い顔をしていた。
「……あんた、どうすんだ? 一応言っとくが、そんな生き物、連れて行けないよ。普通」
「……」
 どうすればいいのだろう。
 ネムを連れて行くことはできない。こっちは旅行中に行方不明になった身だ。それでなくても、外国から生
き物を持ち込むのって、いろいろ面倒だった気もするし。加えて、こんな獣っ娘なんぞ連れて行った日には、
どうなるか解らない。
 こうなってしまっては、やはり俺が残るしかないのだろうか。無理やり別れを告げても、こうして自分の体
力も省みずに追ってきてしまうのだから。せめて、家族だけは安心させたい。例えば、レイたちに家族への手
紙を託しておくとか。
 エンジンの排気の匂いが鼻についた。
 レイは涼しい顔で、俺の目を見つめ、決断を待っている。
 マーは俺とネムとレイの三人の間で、落ち着きなく視線を動かしていた。
 ネムは俺を潤んだな瞳で見上げて、捕まる手に力を込めた。
 
 俺は…………。


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