その9

 朝日が顔に差して、目が覚めた。
 早めに寝たつもりだったが、頭の奥がまだボヤけている。なんだかんだで寝付けなかったせいだろう。
 早朝の冷えた空気を肺いっぱいに吸い込むと、俺は手を伸ばして、カーテンを開けた。
 外は晴れていて、人々がいつもより少しだけ寝坊しているような、休日特有の気だるさが漂っていた。
 暑くなる前に、買い物を済ませてしまうことにしよう。
 俺は身支度をするべく、ベッドを這い出した。


 
 日本に戻ってから一月が経った。
 
 しばらくは、騒々しいだけの日々が続いた。
 海外で日本人が行方不明ってだけでも結構なニュースなのに、おまけに無人島生活がオプションについ
てたら大騒ぎにもなる。何回か新聞やらの取材も受けたし、職場でも注目の的だった。
 だが、人の噂もなんとやら。情報化社会の中ではそんなニュースなど七十五日も待たずに、あっという
間に廃れていく。
 実際、こうして昼下がりの雑貨屋で棚を物色してても、誰も俺のことなんて見ない。少し前までは、遠
巻きにヒソヒソ言ってるのが聞こえてたというのに。
 今は、どうにか職場への復帰も果たせたし、たまの休日にレンタカーでドライブに出ることもできる。
 俺は、完全に日常を取り戻していた。
 新しいマグカップを手に取って、近くの店員に声をかける。
 美しい海と椰子の木の砂浜がプリントされたカップ。あの島に土産物屋があれば、きっとこんなものを
売ってたんだろう。

 ――ネムのことは、当然誰にも話してない。

 これ以上面倒が増えるのはごめんだし、話しても誰も信じてくれないだろう。 
 今でも、これでよかったのか、という疑問は胸の底にこびり付いている。
 雑貨屋を後にした俺は、その足で図書館に寄った。
 二年前の新聞を調べると、その記事は意外とあっさり見つかった。

『マカオの夜景観覧ツアー中にセスナが墜落、乗り合わせていた日本人の老夫婦が行方不明』

 読み進めると、近所でも評判のおしどり夫婦で、夫は翌年の春から医大で講師をすることになっていたら
しい。
 きっと、彼らがネムの『パパ』と『ママ』なのだろう。
 島から持ってきた手帳は、まだ捨てずに持っている。いつか、二人を知る人が見つかったら、渡そうと考
えていた。
 恐るべきは、日本のメディアの容赦のなさというか何というか。二人の間に子供がないことや、奥さんが
病弱だったことなど、かなりデリケートな部分まで記事にしている。身寄りがないから、止める人間もいな
かったのだろう。俺も戻らなかったらこうなってたのかと思うと、寒気がした。
 これでは、ますますネムのことを知られるわけにはいかない。
 俺は図書館でそう気を引き締めたのだった。


 
 必要な買い物をすると、結構な量になった。
 昼前には家を出たのに、今はもう日が暮れかけている。
 レンタカーを浜辺に乗り入れて、俺は車を降りた。今の季節は海開きにも早く、人影はない。
 ここでは、太陽は海に沈まないし、夕焼けの色も少しくすんでいる。
 南国の、目に痛いほど鮮やかに水平線を染め上げる夕焼けは望めない。
 入り江に突き出した岩の上で、ネムを膝の上に乗せたままで見た夕焼けを思い出す。
 ネムの寝顔を見ながら、日が暮れるまで水平線を見ていると、やがて赤い空は深い藍色へ変わり、それから
真っ黒に塗りつぶされてしまう。完全に夜が訪れると、空は星で埋め尽くされてメチャクチャに綺麗だった。
流れ星を三つ見つけたところで、ネムを起こして洞窟に帰ったっけ。しかも、なぜだかネムが手を繋いできて。
暗かったから、気を使ってくれたのだろうか。それとも、それ以上の意味があったのかもしれない。
 
 ――これで、よかったんだろうか。

 灰色の砂浜は、完全に日が没すると何も見えなくなった。
 腕時計のバックライトで時間を確認すると、俺は車から懐中電灯を取り出した。
 タールのように黒い海に、小さい明かりがついているの見つける。
 それへ向けて、大きくライトを持った腕を回してやった。
 一分ほど回していると、その明かりが同じように円を描いて動き出す。
 それが回転しながら、少しずつ大きくなるのを、俺は腕を回し続けながら見ていた。
 エンジン音が聞こえると、期待に胸が膨らむ。

 ――ネムは元気でいるかな。すぐに解ることだけど。

 ゴムボートに人影は三つ。
 ボートの舵を取るマーに、タバコをくわえてライトを持っているレイ。
 そして、大きめの帽子を被り、ダボダボの服を身に着けた、もう一つの影。

「タカシィーーーーーー!!!」

 派手な水しぶきと叫び声を上げて、それはゴムボートから海へ飛び込んだ。
 まだ腰の深さ程ある水を掻き分けて、こちらへ向かってくる。
 レイとマーが、それを苦笑して見ていた。
 飛び込んだ拍子に帽子が脱げ、その下からピンと立った耳が現れる。

「ネム……」

 相手はせっかくの服をずぶ濡れにして、一気に駆け寄ってくる。その反応が嬉しかったのもつかの間。
 距離が数メートルになって、全く減速しないのに気づき、俺はようやく慌て始めた。
「うわ、ちょ、おま……」
 避ける間もなく。

 ビチャ

 と嫌な音を立てて、ネムは俺に激突して停止した。
「お暑いねぇ! お二人さん!」
 マーが叫ぶと、レイがすかさずその頭を叩く。
 二人とも、Tシャツに短パンという軽装だった。サンダル履きの足を波に浸して、レイがボートから
降りる。足元の脱げた帽子を拾い上げると、こちらへ投げて寄越した。
「ふぅ……久しぶりだね」
「はい……お久しぶりです。キャプテン」
 帽子の水を絞りながら、俺はそう答える。
「よしとくれよ、あんたはもうウチの船員じゃないんだから」
「タカシィ……」
 海水を染み込ませつつ俺の服に顔を埋めるネムを見て、俺は二ヶ月前のことを思い出した。


 
 二ヶ月前。
 浮き輪に捕まりながら俺の胸に顔を埋めるネムを抱えて、俺は決断を迫られていた。
『……あんた、どうすんだ? 一応言っとくが、そんな生き物、連れて行けないよ。普通』
 島に残って、ネムと共に暮らすか。
 それとも、日本へ帰って元の生活を手にするか。
 きっと、ネムがただの犬か猫であれば、こんなに迷うことはなかったと思う。
 でも、俺の腕の中で海岸からここまで泳いできた生き物は、殆ど人って言ってもいいくらいに賢くて、
優しくて……そして、認めるのは癪だけど、愛しかった。
 だが、日本での生活だって、俺にはある。親もいるし、友人も(少ないが、多分)心配してくれてると
思う。何より、無人島で一生過ごすと決意することは、俺にはできなかった。
 浮き輪に捕まったままで、帰国への誘惑と、ネムのすがるような目つきに挟まれている俺に、レイが呟
いた。
『フツーは、ね』
『え?』
 見上げると、面のように感情が読めない顔と目が合った。
『覚悟がいるよ』
『……覚悟』
『その子を守るためなら、どんなことでもするっていう覚悟。一生を棒に振るかもしれないという覚悟がね』
 新しいタバコに火をつけて、レイは言った。有無を言わせず、断じるような声だった。
『その覚悟があるなら、あたしたちがフツーじゃないことをしてあげようよ。』
 そのときの俺は『普通』というものに対して、どこかマヒしてたんだと思う。
 そもそもの発端である『マカオでのバカンス』ってだけでも、十分俺にとっては非日常な出来事なのだ。
加えて無人島に漂着して、獣人と出会って、海賊に救出されて……。
 いまさら、普通じゃないのが一つ二つ増えたところで何の支障があるというのだ。
 俺は『覚悟』を示すために海賊船で働くことになった。
 それと引き換えにして、ネムを『密輸』してやろう、という取引だったのだ。
 ただ、レイが俺を本気で海賊として働かせようとしていたかはかなりの疑問だった。
 働くと言っても、中身は炊事掃除洗濯といういたって普通の家事だったし、俺を表に出すこともほとんど
なかった。
 人手が足りずに一度だけ見張りをさせられたことがあったが、それにしても銃を持って突っ立てればいい
という仕事だった。多分、本物のライフルを持ってる俺は、被害にあった豪華客船の乗客よりも顔色が悪か
ったんじゃないかと思う。
 一ヵ月後、マカオに近い漁港で下ろされ、俺は日本大使館へ連絡した。
『無人島で生活した。近くを通った漁船に乗せてもらった。どこの船かは知らない』
 レイの指示で、ひたすらそれだけを繰り返しながら、ほとぼりが冷めるまでさらに一月。
 その間、ネムはレイたちのところに預けられ、今日を待っていたのだ。
 この二人ならネムをぞんざいに扱うことはないだろうと、信頼はしていたが、やはり連絡も取れないとなる
と心配ではあったわけで。
 こうして再び無事なネムの顔を見ることができて、一安心といったところだった。
 けれども、胸の疑問は、消えない。 
 
 

「これで……良かったんでしょうか?」
 俺はこの一ヶ月、ずっと考え続けていた疑問を口にした。
 結局、俺はネムに故郷を捨てさせてしまったし、なれない環境に引っ張り出して、無理やり生活させようと
している。
 俺個人のことを言えば、法律を犯してるし、これからずっと周りに嘘をつき続けなければならない。
 何を言っても今更だけど、これが果たしてベストだったのか。
 俺に、ネムを故郷と別れさせる権利なんてあったのか。
 レイは涼しげな目をして、タバコの煙を細長く吐いた。
「さぁ? あたしは難しいことは解んないね。けど……」
「けど?」
 そこで、レイは再びタバコを吸った。赤い火が大きくなり、数ミリ根元へと移動する。ゴツゴツして荒れて
いる指は、タバコの火に照らされると奇妙な色気があった。たっぷりの間をとって、彼女はようやく口を開いた。
「……世の中、ベストのものってのはそんなに多くないからね。せいぜい、ベストに近づけてくしかないんじゃ
 ないかい? これから」
「……はい」
「この子は、あたしやアンタが思ってるよりずっと頭がいいからね。二人で、ゆっくり話しなよ」
 そう言うと、レイはネムの頭を撫でた。
「ガウ……レイ……」
「あたしたちとは、さよならだ。ネム」
「グルゥ……」
 一瞬、ネムはとても悲しい顔を見せた。レイも、少しだけ寂しそうに眉を寄せる。マーに至っては、大きな身体
を震わせて、すでに泣き始めていた。
「……ウン、サヨナラ……」
 溢れる涙を堪えながら、ネムはそれでも笑ってみせる。レイはそれを優しく拭って、ボートに乗り込んだ。
「んじゃ、もう二度と会わないと思うけど、お二人さん! 達者でなぁ〜!」
 相変わらず能天気なマーの声とエンジン音を響かせて、ボートはあっという間に小さくなっていった。
 ネムは俺の横で、見えなくなるまで手を振り続けていた。



「さて……行くか」
「ガウ……クルマ」
 ネムはさっさと助手席の方へ回り込むと、ドアを開けて乗り込んだ。
 半ば呆れつつ、俺も運転席に乗り込む。
「すっかり文明に染まりやがって……」
「タカシ」 
「うん?」
「セマイ……」
「我慢しろ、お前の生活用品なんだから。行方不明だった間の仕事が溜まってて、今日しか買いにいけなかったん
 だよ」
 一人前に車内空間に文句をつける獣人の頭を撫でると、海水でベタベタした。
「帰ったら風呂だな。服も濡れちまったし」
「ザマミロ」
 ……もしかして、確信犯ですか?
 感極まって待ちきれずに海に飛び込んだと思って感動した俺の立場は?
 それを裏付けるように、ネムは続けた。
「ネム、ホッタラカシニシタ、オシオキ」
「いや、別に放ったらかしってわけじゃ……」
「タカシ、ネムノ、ドレイ」
 なんか、しばらく見ない内に余計な言葉を覚えてらっしゃる。
 一体どんな教育を施したんだろう。あの二人。
「へいへい……とりあえず、帽子かぶっとけ」
 レイが拾ってくれた帽子を渡すと、お気に入りらしく妙に丁寧な動作で被った。
 前を向いてエンジンをかけようと、キーを差す。掃除して返さないとダメだな、こりゃ。
「タカシ」
「何だよ」
「……コッチ、ムケ」
 言うまま身体を捻ると、両手の人差し指で胸を突かれた。鋭く研がれていた爪は、今はきれいに切られている。
それだけでなく、手足を覆っていた毛も、きれいに脱毛されていた。その費用だけでも、一ヶ月働いただけじゃ
足りないだろう。きっと、あの気のいい海賊は『あたし達が匿うのに不便だから、勝手にやったことさね』とで
も言ってくれるんだろうな。
 ネムは、服の上から俺の乳首を正確にポイントして、得意そうな顔で笑っていた。
「クシシシシ……」
 例の特徴的な笑い声を上げるネムの頭を、俺はもう一度撫でる。
「よそですんなよ? 挨拶じゃねーんだから」
 これでよかったのかなんて解らない。
 けど、単純に期間で言えば、レイたちと居た時間の方が長いはずなのだ。それでも、ネムは俺を選んでくれた。
 だから、俺はその選択を正解にする義務があるんだと思う。
「よろしくな。ネム」
「ガウ!」
 ちゃっかりシートベルトを締めながら、ネムは大きく頷いた。


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