その1

 スズメの鳴き声で目を覚ます。
 すかさず二度寝へ移行しようとしたが、それはタイミングよく鳴った目覚ましの音で阻まれた。
 傷だらけの時計を慌てて止め、身体を起こす。
 ベッドから降りて掛け布団を直すと、俺はまず顔を洗うべく洗面所へ向かった。
 洗顔を終えて頭がスッキリすると、次に朝食の準備をする。
 昨夜セットした米が炊けているのを確認して、鍋を火にかける。今日はワカメの味噌汁だ。冷奴も
忘れずに用意しておく。味噌を溶いて一煮立ちさせたら、ほぼ完成だ。お椀にご飯と味噌汁を盛ると、
俺はさっきまで自分が寝てたベッドへ声をかけた。
「おーい、起きれー」
「グルウゥゥ……ムニュ……」
「起きろってば!」
 俺が寝ていた場所のすぐ横から、唸り声が聞こえる。
 掛け布団のかかった肩を揺すると、ようやく相手は薄く目を開けた。眩しそうに顔を歪めて、ゆっ
くりと身体を起こす。
「おはようさん」
「ン……ムグ……」
「ほれ、顔洗って来い」
 らしくない酷く緩慢な動作で、同居人はベッドから降りた。
 顔を洗い終える頃には、味噌汁もご飯も猫舌好みの温度になってるだろう。
 パジャマ代わりのTシャツの裾から毛むくじゃらの尻尾が突き出している。頭の上にピンと立った
耳を動かしながら、ネムは洗面台へ向かった。


「いただきます」
「イタダキ、マス」
 手を合わせて、味噌汁を一口すする。うん、我ながら美味い。
 ネムは先によそって冷ましておいた味噌汁を、さらに吹いて温度を下げようとしていた。
「ネム、行儀が悪いぞ」
 一所懸命に吹くあまり、味噌汁がテーブルに飛び散っている。
「グルゥ……アツイ……」
 不機嫌そうにネムは頬を膨らませ、ティッシュを取った。
 こいつと一緒に住むようになって一ヶ月。ルールやマナーに関することは、出来るか出来ないかは
別として、割と素直に言うことを聞いてくれる。
 むしろ問題なのは、一ヶ月経っても味噌汁を自分で冷ませないことと――
「サマセ」
 言いながら、お椀をグイと俺の方へ突き出すワガママさだろうか。頼られてると思えば悪い気はし
ないのだが、いい加減に汁物くらい自分で飲めるようになって欲しい。俺は心を鬼にすることにした。
「自分でやるんだ」
「ガル……ケチ」
「ケチとかじゃないだろうが。味噌汁くらい、一人で飲め」
「ヘンタイ、チカン……サケブ、ゾ……」
 こうして無垢な獣人は都会の垢に塗れていくのでした……。チクショウ、変な知恵つけやがって。
 まぁ、実際叫ばれたら困るとは言え、結局言う通りにしてしまう俺にも問題はあると思うけど。
「わーったよ。ったく……」
「ウルサイ、ヤレ」
 ところどころイントネーションがおかしい命令を受けて、俺はネムのお椀を受け取る。
 口を尖らせ、味噌汁に息を吹きかけながら上目遣いに見ると、金色の瞳と目が合った。毎朝のこ
とだが、ネムはの表面が味噌汁が波立つのをとても興味深げに目を輝かせてみる。何が珍しいのか、
俺には理解のできないことなのだが。
 目が合った瞬間、ネムは取り繕うようにして、箸で器用に冷奴をつつき始めた。冷奴は猫舌の獣
人の大好物で、食卓にないと途端に不機嫌になってしまう。酒のつまみが好きなオヤジみたいで、
なんだか複雑な気分だ。
 そうこうしてる内に味噌汁もあらかた冷めて、人肌より少し暖かい程度になる。
「ほらよ」
「ガル……オソイ」
 憎まれ口は一人前ですな、全く。
 ネムは箸を一旦置いて、両手でお椀を受け取る。それを押し頂くようにして、ゆっくりと口へ運
ぶのが常だった。一口啜ると、満足そうに目を細めて見せる。
「ング……マァマァ」
「そうかい。ワカメついてるぞ」
 尻尾を嬉しそうにパタパタ振って強がるネムの顔へ、俺は手を伸ばす。
「ほら、取れた」
「ガウ……ネムノダ!」
 指先についたワカメの欠片を見ると、ネムは素早く俺の手を掴んだ。
 そのまま、自分の口へ指を含んでしまう。
「お、おい……」
「アム……ン……チュゥ」
 音を立てるな。変な気分になっちゃうぞ? 最近になって、ようやく一緒に寝るのも慣れてきた
ウブな俺をからかってるのかい?ベイベ。っていうか、上目遣いも寄せ、頼むから。
 「ング……チュプ……プハ」
 必要以上にいやらしい音を立てて、ようやく俺の指は解放される。唾液で濡れた指先を見て、俺
はため息をついた。
 食い意地が張ってるんだから、まったく。



「んじゃ、行って来るから。おとなしくしてるんだぞ?」
「ガル……」
 恨めしそうな顔でこちらを見るネムの頭を軽く撫でて、ドアを開ける。
 外から見られても平気なように、ネムには耳が隠れる大きさの帽子を被らせてあった。
 なぜなら――
「あら、おはよう」
 この人が居るから。
「おはようございます、かなみさん」
 ご紹介します。アパートのお隣に住んでる、椎水かなみさんです。
 俺の部屋は二階の角部屋なので、隣はこの人だけだ。
「せっかく爽やかな朝なのに、なんで私と一緒に出てくるわけ?」
「さ、さぁ……?」
 ここは曖昧な返事に留めておく。肯定でも否定でも、彼女に明確な意思表示をするのはご法度だ。
ただですら毎朝のように、豚を見るような目を向けられていると言うのに、言い返したら何が飛ん
でくるか解らない。
 そう、この人は毎朝のように、俺と一緒に玄関を出てくる。
 俺は時間を合わせて家を出ているつもりはないので、きっと朝一番に俺を罵りたいために、タイ
ミングを計っているのだろう。ただ、語り口はサバサバしてるので、こっちもあんまり本気で怒る
ようなことはない。
「ふん。まぁ、いいけど……どうせ今日は……」
 そこでかなみさんは言葉を切った。
「今日は……?」
 首を傾げる俺に、かなみさんはピクピクと頬を引き攣らせて、首を振った。
「なんでもないわよ! そ、そもそも何かあったところで、アンタなんかに言うわけないじゃない!」
「そうですか……」
「あ、ネムちゃん。おはよう!」
 俺のときとは打って変わって満面の笑みで、ドアの隙間から顔を覗かせるネムへ挨拶するかなみ
さん。
「グル……」
「ほら、ネム。ご挨拶は?」
「オハ、ヨウ……」
 それを聞いたかなみさんは、満足そうな笑顔を見せる。子供好きなんだろうか?
「ホラ、突っ立ってないで行くわよ! 遅刻するでしょ!」
「あ、はい。じゃぁ、ネム。火の始末には気をつけて――」

 バタン!

 ものっそい乱暴にドアが閉められ、続いて鍵のかかる非情な音がした。
「あう……」
 背中にかなみさんの冷たい視線を感じる。
「あんた……何かしたんじゃないでしょうね」
「べ、べべ別に、何も?」
「どうだか。っていうか、アンタみたいなのによく預ける気になったわね、その叔父さん……だっけ?」
「はぁ」
「自分の娘をこんなのにねぇ……交通事故の傷が治る間とはいえ、ううん、あたしだったらなおさら耐
えられないわ」
 児童虐待のニュースを聞いた後のような、不機嫌この上ない顔で、かなみさんは言った。
 まぁ、ウソなんですけどね。俺に叔父さんなんて居ないし。
 俺が必死に頭を絞って考えたネムの境遇を、かなみさんは殆ど説明してくれた。
 つまりネムは親戚で、交通事故に逢い軽度の障害が残った、可哀想な子供。叔父さんは男手一つでネ
ムを育ててきたが、今は海外に赴任中なので俺が預かり、世話をすることになった、というわけだ。こ
の説明なら、ネムの変な喋り方や昼間に学校へ行かない理由も誤魔化せる。頭の帽子も『包帯が取れな
い』と言っておけばいい。
 かなり不謹慎なウソだが、俺の脳みそじゃ、この程度しか思い浮かばないのだから仕方ない。
 まぁ、あんまり長い間つき通せるウソではない。金が貯まったら、もう少しご近所の付き合いが希薄
なところへ引っ越そうと思ってる。別にかなみさんが鬱陶しいわけじゃないが、かといってネムのこと
がバレていいわけでもないし。
 ――なんか思考が犯罪者っぽくて、ちょっと自分が恐い。
「言っときますけど、アンタの部屋で何か騒ぎがあったら、即通報だからね!」
「何かって、なんスか?」
 駅までの道を辿りながら、かなみさんは不機嫌を絵に描いたような顔で言った。
「何かって……そりゃ、悲鳴とかよ! そんくらい解りなさいよね! バカ!」
「はぁ」
 悲鳴って、俺のだろうか。
 既に野生の腕力で目覚ましが三個、叩き壊されている。
 何か気に食わないとすぐ引っ掻いたり蹴ったりするし、結構しんどい。
「と、とにかく、ネムちゃんに何かあったら、アンタは社会的に抹殺してあげるんだから!」
「子供好きなんですね、かなみさん」
 多少無理やりに、話題の方向を変えることにする。。
 俺の質問に、彼女は首を傾げた。俺に毎日厳しく接する人だが、根は割と単純なようで、すぐに乗っ
てくれる。
「う〜ん、ところがそうでもないのよね。っていうか、ネムちゃんって中学生くらいでしょ? 子供と
は言えないんじゃない?」
「はぁ……」
「なんていうか、普通とは違うのよね、あの子。あたしのレーダーに凄く反応するって言うか……」
 この人の言うレーダーというのは、通称『ぬこレーダー』である。
 とにかく猫に関することなら、恐ろしく目ざとく見つけてしまうのだ。
 近所の猫が居る家を完全に把握してるのは朝飯前。駅前のゲーセンに猫の縫いぐるみが入荷すれば、
俺に取れるまでやらせる。歩いていても、本屋の店先に猫が表紙の雑誌があればフラフラとそっちへ
行ってしまう。
 一度など、『あんた、猫の夢見たわね!』とか言われた。その日は確かにテレビで動物番組を見た
せいか夢を見た気もしたのだが、それにしたってどういうレーダーだ。
 とにかく、こと猫に関する限り、この人はニュータイプである。
 
 ――そして、そのレーダーに、ネムが反応している。

 内心ビクビクしながら、俺は愛想笑いを浮かべたが、それを見たかなみさんの顔は不快を顔に貼り
付けていた。
「なにニヤニヤしてんの? キモいんだけど」
 そう言うなり、プイと俺から離れていってしまう。
 『ぬこレーダー』ね。
 確かにそれほどの猫好きならば、今彼女が入っていった建物は天国だろう。
 駅前に立つその動物病院は、彼女の職場なのだ。
 俺はさっき『豚を見るような目』という表現をしたが、獣医ならきっと豚にだってもう少し暖かい目
を向けるんじゃないか。
 さて、今日も満員電車が待っている。俺は首を振りつつ、定期を改札に通した。



 たまに思うことがある。
 俺は旅先で漂流する羽目になり、ネムが居た無人島へ流れ着いた。
 そこから色々あって、今は元通りしがないサラリーマンとして、会社の歯車になっている。
 ――どっちが良かったんだろうか?
 下げたくない頭を下げ、どうにか暮らせるだけの金を得て、文明を満喫するのと。
 無人島で自給自足の生活を続けて、自由気ままに暮らすのと。
 今となっては、もう選択の余地はない。俺はここに戻るのを選んだし、実際こうして出勤して朝礼に
参加しているのだから。
 それはさておき、今朝はいつもと少し様子が違った。
 課長の横に、若い女の子が立っている。俺より若く、学生と社会人の中間のような印象を受けたが姿
勢はよく、素人目にも高そうなスーツを身に着けていた。物怖じすることもなく、堂々としたものだ。
 むしろオドオドしてるのは課長で、そちらを横目で伺いながら、禿げ上がった額の汗をハンカチでせ
っせと拭いている。なんだか緊張しているようだが、彼女との対比で余計にそれが目立った。
「えー……今日は、皆さんに新しい仲間を紹介します。えぇと……」
 しどろもどろの課長を押しのけるようにして、彼女はズイと前に出た。
「神野リナと申します。よろしく、ご指導のほどよろしくお願いしますわね」
 その口調に、その場にいたほぼ全員が呆気に取られた。上司が話してる途中で割り込んで喋るのもそ
うだし、なにより口ぶりが完全に俺らと対等に聞こえる。少なくとも、先輩へ向けた口ぶりではない。
 随分半端な時期に異動かと思ったが、どうもワケありのようだ。俺自身、既に『ワケあり』の身なの
で、出来ればこれ以上の揉め事は避けたいんだけd――
「あー、じゃぁ別府。神野さんに、仕事教えたげて」
 うん、クジ運が悪いってのは、当たらないことを言うんじゃないよね。
 当たりたくない時に当たり、当たりたい時に当たらないことを言うんだよね。
 しかし、『神野さん』? ウチの課長は女子社員でも呼び捨てにするはずなのだが。
 とりあえず、黙ってるのもマズいので、
「はーい」
と返事をしておく。思いのほか気のない返事になってしまった。
 神野さんは、その声を聞いて俺の方へツカツカと歩み寄ってきた。俺なんかより、全然仕事の出来そ
うな歩き方だ。彼女は俺の一メートル前で止まると、一瞬顔をしかめてから、はっきりとした口調で言
った。
「よろしく。別府さん」
ハキハキというわけではなく、むしろ吐き捨てるような、冷たく事務的な言い方だった。
「あ……よろしく」
 まぁ、お世辞にも冴えてるとは言い難い男だ。そういう反応も別にいいだろう。
 朝礼が解散になったあと、課長はすぐに俺を呼び出した。
「いいか、くれぐれも粗相のないようにな」
「粗相って……なんスか?」
 やっぱりワケありだったようだ。面倒に巻き込まれつつある自分の身を呪いながら、俺は質問した。
「粗相は粗相だよ。ヘタすりゃ、俺もお前もクビが飛ぶぞ?」
「……何者なんです? 彼女」
「……さる財閥のご令嬢だよ。元は明治時代の華族のお家柄だそうだ」
 華族がどんくらい凄いのか、根っからの庶民の俺には丸で解らない。
「ウチの会社の筆頭株主の一人娘で、『下々のお仕事を見学させていただきますわ』ってウチの課に
来たんだよ」
 そっちの方が解りやすいぞ。いまどき『下々』なんて言い方をするかはかなりの疑問ではあるが、
この辺は課長フィルターだろう。
 当の本人は、泣き出しそうな顔をしていた。まぁ、確かに若干可哀想ではある。『下々のお仕事』
って、ウチの課は本当に『下々』だ。見たところ俺なんかよりかなり有能そうだし、バリバリやれる
部署なんか他にいくらでもある。この人もクジ運がない類の人だろうか。
 だが、こうして来てしまった以上、それについて考えるのは無駄だろう。
「君、最近頑張ってるみたいだし、頼むよ」
 課長がお世辞丸出しで付け足すように言ったが、それは誤解だ。
 前はダラダラ仕事をしていたが、ネムが来てからは残業を避けるために時間を使うようになった。
仕事の密度は増えたが、量自体は変わってないはずだ。仮に、本当に仕事がデキるなら、もうちょ
っとモテていいはずだしな。
 現実には、半端にデキるように見えて、こうして余計な仕事を押し付けられている。
「頼むよ? ねぇ、ホント、お願いだよ?」
 ほとんどうわ言のように懇願しだした課長を置いて、俺は自分の机に戻った。神野さんがすぐ横
に立って待っている。相変わらず姿勢が良く、結構大きめな胸がスーツの下から自己主張をしてい
た。できるだけそれを見ないようにして、声を掛ける。
「ごめんね。お待たせ」
「まったくですわね」
 先制パンチですか。
 と、思う間もなく彼女はそのまま、俺の顔をまじまじと見つめてくる。
 こうして改めてみると、かなりの美人だ。上流階級の気品とかはよく解らないが、確かに普通じ
ゃない生活をしているのは見て取れた。緩くカールした髪の毛の一本一本まで丁寧に手入れをされ
ているし、漂う香水は高そうでありながら、下品にならない程度に抑えられている。
 少しどぎまぎして、俺は頭をかいた。
「ん……? 何?」
「いえ……どこかでお会いしませんでした?」
 おいおい、口説いてんのかい、ハニー。
 調子に乗ってそんな言葉が出かけたが、先ほどの課長が頭の裏にチラつく。
「……いや、多分初めてだと思うけど?」
「そう……まぁ、いいですわ。忘れてください」
「ん、じゃぁえっと……まずはね」
 マニュアルを引っ張り出しながら、俺は説明を始めた。
 晴れていた空はうっすらと陰り始めて、なんとなく胸騒ぎがした。



   神野さんはやはりデキる人だった。あと、何かにつけて
「不合理ですわ」
「マニュアルに頼りすぎです」
「くだらない」
といい続ける人だった。
 正直疲れた。まぁ、今日は彼女のお陰で、余り他の仕事を言いつけられなかったのがせめてもの救
いだろうか。もしかしたら、これも接待の一種なのかもしれない。
 とにかく、今日も定時に帰ることができた。
 それはいいんだけど……
「……雨ですか」
 会社を出る頃にはポツポツだったのだが、今は結構な勢いで降っている。
 走って帰っても、ズブ濡れは免れないだろう。
 どうしたものかと軒下で迷っていると、肩を叩かれた。
「あんた、何してんのよ。こんなとこで」
「あ、かなみさん」
 いつもの不機嫌そうな顔で、猫好きの獣医さんが立っていた。
「ったく、雨だけってでも辛気臭いのに、疲れた顔してんわね」
 折りたたみの傘を見せびらかすようにして、かなみさんは口をへの字に曲げる。
「はは、いやぁ……傘忘れちゃって……」
「あっそ」
「……」
「なによ、何もないなら、私は行くわよ?」
 自分から話しかけてきたのに、なんという理不尽。
 だが、ここはダメ元で言ってみることにしよう。
「えっと、傘、入れて貰えませんか?」
「ヤだ」
「ですよねー」
 即答で拒否。チクショウ!
 こうなったらコンビニ傘買うしかないのか。あれって、買ったときに何か敗北感を感じるからイヤな
んだよな。
 そう思って、横目で近くのコンビニを探していると、
「オホン!」
と咳払いが聞こえた。目線を戻すとかなみさんが、俺から目を逸らして、ボソボソと何かを言う。
「え、何ですか?」
 聞き返すと、横目で一瞬睨まれた。だが、すぐに目線を足元の水溜りに落とす。
 顔がほのかに赤い。それから、突然開き直ったような大声を出した。
「わ、私はイヤなんだけどっ! あ、ああんたがどうしてもって言うなら? あ、あああ、合い合い傘
してm――」

「んぬふううぅぅぅっ!!!!!!!」

「きゃっ!」
 かなみさんの台詞は、俺の絶叫によって阻まれた。びっくりしただろうが、それどころではない。
 俺の股間に傘の柄がめり込んでいる。『し』の字型に曲がった柄は、脚の間から背中の方へ伸びていた。
 目の前が真っ白になって、脂汗が噴出す。この感覚は……小学生以来……。
「ガルゥ……」
 聞き慣れた唸り声が背後から耳に入る。
 飛びかけた意識を何とか繋ぎとめて振り返ると、大き目の帽子があった。
「ネ……ム……サン?」
「……カサ。モッテキタ、ゾ」
「ウン、アリガト……おほおおぉぉぉ!!」
 ひ、捻りを加えちゃらめええぇぇぇ!!!
 み、見るな通行人! 俺を見るなああぁぁぁぁ!!


 
 ――五分後。

「ったく、変な声出すんじゃないわよ……私まで恥ずかしかったでしょ」
「男に生まれてから言ってください」
 まだ若干内股の俺を、ため息をついて見るかなみさん。普段はあんまり言い返さないことにしてるが、
こればかりは俺も黙ってられない。
 ネムは涼しい顔で、自分の傘を差して歩いている。ズボンは尻の部分が裂いてあり、その穴を囲うよ
うにして金属のリングがついていた。ここから尻尾を出せば、ズボンについているおもちゃのように見
えるのだ。もちろん多少は人の目を集めるが、ヘタに動かさなければそれ以上の注目は浴びずに済む。
 俺とて、ネムをずっと部屋の中に閉じ込めておくつもりはないのだ。
「つーか、ネム! ダメだぞ、あんなことしちゃ!」
「……グルゥ」
 ツーンと顔を背けるネムに、もう一言、お説教したかった。
 なんでイタズラされた俺の方が、膨れっ面を見せられなければならないのか。
「せ……く……のに」 
 横でかなみさんがブツブツ何か言っていた。
「どうかしました?」
「!! なんでもないわよ! バカ!」
 両手に花という言葉が世の中にはある。
 でも、俺の両側には不機嫌な花しかないようだ。誰か潤いをあげてやってくれないか、ベイビー。
 ちょっと泣きそうになりながら、針のムシロ帰宅タイムは流れるのだった。 


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