その11

 波打ち際に足を浸して、ネムははしゃいでいる。
 グリーンの布地に、黄色い星がプリントされたセパレート水着が海の色に浮かび上がり、盛大に振ら
れた尻尾の先端から、水しぶきが弧を空中に描いた。
 かなみさんが見立てたその水着は、一見、子供っぽいデザインだが、実は割と大胆なローライズだっ
たりする。尻尾を出さないといけないため、必然的に『腰で履く』ような水着しか着れないのだ。ポリエス
テルとかナイロンの生地は伸縮性が高過ぎて、俺の手では上手く『尻尾穴』の加工ができなかったのもある。
「ワウ!!」
 雄叫びと共に、こちらにビーチボールを投げてくる。軽くトスして返してやると、耳の生えた頭でヘディ
ングして上手く打ち返してきた。放物線を描いたボールは、かなみさんの方に飛んでいく。
 彼女の水着は、上半身はピンクのホルターネックで、下はジーンズ風の短いホットパンツ。パンツのボタ
ンは開けてあり、ピンクの布地がのぞく。また、それは紐で止める水着らしく、ジーンズの横から余った紐
が飛び出していた。それが無造作なようで、ジーンズのアクセント的な飾りになっている。全体的にスレン
ダーなスタイルを、さらにほっそりと見せる効果があるのかもしれない。
 かなみさんは少しバランス崩しながらも、上手くボールをレシーブした。
「よっ、と……そっち!」
「はい!」
 神野さんがそれを受けて、更に高くトスした。
 これまた随分大胆で布地の面積が少ない水着に身を包んでいる。黒いビキニにはパレオも付いておらず、
その代わりにレースのような布が所々についていて、遠目に見たら少し派手目の下着にすら見えてしまう。
それがこの場に居る中では最もグラマーな身体を更にはちきれんばかりに強調していた。
 動くたびに目のやり場に困るような動きをする胸は、まったくもってけしからん。
 後が怖いから、あんまり見ないようにしてるけど、トスする時に身体が反らされ、それでまた胸が強調
されて、揺れて……うん、これ見るなってのが無理。
「あっ!」
「ふぇ……」
 高々と上がったトスは、ネムの方へ飛んでいく。獣人は、一瞬だけ重心を落とすと、そこから跳躍した。
 足場の悪い砂浜とは思えない高度に達すると、その右手がボールと重なった。
 一瞬、ほんの一瞬、空中の金色の瞳と視線が交錯する。その目は明らかに笑っていた。
 次の瞬間、右手が全身のバネごと、ビニール製のボールに叩きつけられる。
「危ないっ!」
 言ったのは、神野さんだったか、かなみさんだったのか。
 何にせよ、黒ビキニに目を奪われていた俺の反応は、絶望的に手遅れだった。 
「ぎょばっ!」
 空気を裂いて急襲したボールはものの見事に俺の顔面を捕らえ、ダウンを奪う。
「どんくさいですわね……」
 仰向けに倒れると、反応が遅れた間接的要因が、呆れながらこちらによって来た。
「大丈夫ですか?」
 おぉう……そうやって屈まれると、ホワイトバレー(白い谷間)が結構アレな感じで、グラヴィティっ
てワンダホー!!
 ……いかん、頭を巡る衝撃と刺激的な水着のせいで、言語中枢がルー大柴仕様になってる。
「なぁに、舞い上がってんのよ!」
 妙にテンションの高いかなみさんが、俺の頭の上で腰に手を当てている。
 つか、その位置取りはアレですよ? スカートだったらパンツ見えるアングルで、水着でも刺激で言え
ば余り関係なくて――
「ガル! ヒヨワメ!!」
「おぅぶっ!」
 意味の解らないことを言いながら、ネムがいつもどおりに俺に飛び乗ってきた。
 あぁ、でもこの状況、第三者の目で見たら天国だろうなぁ。野郎一人に、女の子三人。それなんてハー
レム? って感じだ。
 これが太陽の照りつける海だったら、多分周囲から殺気の篭った目を向けられるんだろう。
 誰だってそうする。俺だってそうする。

 ――でも、今は俺らの周りに誰も居ない。
 だって、夜だもの。



 ことの起こりは、三日ほど前。テレビで海開きのニュースをやってたことに始まる。
 まぁ、皆様の予想通り、ウチの子が大はしゃぎしてねぇ、
「ツレテケ! ウミ、イクゾ! ツレテケ!」
ってうるさくてねぇ……。
 思わずおばば口調になってしまうほど、散々ネムに絡まれた。
 そして興味を持ったら、とことん調べるのがウチの獣人の習性だから、本だのネットだので『海水浴』
の資料を集めまくったわけです。まぁ、どう転んでも集めるのは俺になるんだけどさ。
 そうなると、『スイカ割り』だの『日光浴』だの『ビーチバレー』だの『水着はビキニだ!』だの『俺の下
はスタンドだ!』だの、魅力的な単語が目白押しでして、なおさら
「ツレテケ! ウミ、ウミ! URYYYYYY!!」
って掃除機の先っぽでスイカ割りの素振りを始め、最高に『ハイ』ッってヤツになっちゃった(一部脚色有)。
 こっちとしては、普段部屋に押し込めてる引け目があるから、たまの我がままくらいは聞いてやりたいと
思うのが、人情じゃない?
 でも、実際問題、人でごった返してる海水浴場に、水着姿の獣人を連れてくのはどうやっても無理じゃな
い?
 そんで、多少、海水浴の趣旨からは外れるかもしれないけど、夜に行こうってことになったワケ。まぁ、
ネムも最初は不満気だったけどな。
 で、少しでも海水浴気分を出すなら人数が多いのに越したことはないので、かなみさんと神野さんにも声
かけた。
 それから、かなみさんと一緒にネムの水着を買いに行って、レンタカー借りて、クーラーボックスにジュ
ースと酒を詰めて、今に至るわけだ。ちなみに、『スイカ割り』は嫌な予感しかしないから、残念ながら今
回は中止。
 人気がない海水浴場の、さらに端の方にレジャーシートを広げ、陣取っている。
 他に人はちらほら居るものの、幸い、ここからはかなり離れていた。コンビニなんかは向こうの方が近
いから、そちらに、たむろしてるんだろう。こっちに来る気配もないし、耳と尻尾を出してても、夜だし、
遠いから見える心配もない。
 万一、人が来たら、ネムには毛布を頭から被って、隠れてもらうことにしてる。
 少し向こうには、更衣室や海の家が建っているが、当然閉店で鍵はかかっているので、着替えは車の中
で交代でした。
 しかし、二人とも誘ったときは案の定、
「はぁ? 夜中に海水浴ぅ!?」
「何だか、侘しいですわね」
とか文句タラタラだったが、今は割りと楽しんでくれてるようだ。
 神野さんとネムは、波打ち際で遊んでいる。
 夏といっても、夜は水温も冷たいだろうから、余り深いところまでは行きそうにないので安心だ。今日
は香水はつけてないのか、ネムも意外と神野さんに懐いてくれてる。
 それで、俺はといえば、砂浜に敷いたレジャーシートの上でかなみさんの相手をしていた。
 さっきから妙にハイテンションなかなみさんだが、その原因は間違いなく右手に握られているチューハ
イの缶だ。
 キャンプ用のライトに照らされた顔は赤味が差していて、僅かにアルコールの匂いもした。

 ぶっちゃけ、酔っ払いの面倒を見てるわけだ。

「えっと、かなみさん、そのくらいにしておいた方が……」
「ん〜? へーきよぉ、こんくらいぃ」
 語尾がおかしな風に伸びている。全然平気に聞こえなかった。
 内心ヒヤヒヤの俺を置いて、かなみさんは神野さんの方をチラリと見る。二人が会うのは、これが二度目
だったはずだ。
「あの子、仲いいのぉ?」
 『乳酸菌摂ってるぅ?』の人みたいな喋りで、かなみさんは缶を持った方の手で神野さんを指差した。
「え、まぁ、仲いいって言うか……職場の後輩で中途採用だったもんで、俺が指導役に……」
「ふぅ〜〜〜〜〜〜ん」
 長い相槌を打つと、そのままブツブツと毒を吐き始める
「何よ、私が猫ちゃんに引っかかれて心身ともに傷ついてる時に、アンタはあんなボインちゃんと会社でよ
ろしくやってんだ。どうせ私なんかヒョロヒョロよ、食い足りないでしょうよ! フンだ!」
「いや、かなみさん?」
 俺はかなみさんを食べた覚えなんかないんけどな。それに『ボインちゃん』って久々に聞いた。
 神野さんたちが、今の声の届かない距離にいることを確認すると、俺はなだめにかかる。
「いや、そんなことないですよ? 俺人望ないから、そんなに慕われてないですし……」
「しぃたわれてなかったら、なぁんで誘いに乗るのよぉ!」
 そんなの俺が聞きたい。
 ネム大好きなかなみさんはともかく、神野さんに声をかけたのは全くのダメ元だったのだから。
「つか、俺が別に誰と仲良くしてても、かなみさんには関係ないんじゃないですか?」
「あっ! あーっ! 言った! それ言っちゃった!! 本日のNGワード言っちゃった!」
 俺を指差して、かなみさんは手をバタバタと振った。
「ったく、なによぉ……どーせ、行き遅れですよぉ……だ」
 誰もそんなこと言ってない。
「おとーさんも、おかーさんも、『早く結婚しろ』ってうるさくさぁ。ぬこちゃん達のためにお勉強してた
だけだっつーの、私は。そしたら恋話もなく、青春終わっちゃうしさぁ……あー、今まで助けた雄ぬこちゃ
んが、人間になってお礼しに来てくれないかにゃぁー!!」
 むしろ、かなみさんの方が猫に近づいてる。
 相当に酔ってるように見えるが、実はまだ一本目だったりする。その一本目にしても、500mlの缶か
らは、振られる度にチャポチャポと音がしていた。
 そりゃ、アルコール駄目な人は一滴だって駄目だろうが、彼女はそんな素振りも見せない。また缶に口を
つけて、一口飲む。
 何でも自覚のないのが一番タチが悪いと思うんだ。
「なぁによぉ、どーせ、クリスマスケーキとか言いたいんでしょー」
「そ、そんなことは、ないですよ? ほら、そっちは、職場でいい人とか居ないんですか?」
「居たらあんたと夜の海なんて来てないっつーの! バカ!」
 どうやらこれは不用意な質問だったようで、缶を持ってない方の手で殴られた。
「この甲斐性なし! 浮気者! 安月給〜!!」
 悪口のバリエーションが夫婦喧嘩みたいだ。一言ごとにポコポコ叩かれる。酒のお陰でそれほど力は入っ
てないが、正直めんどくさい。
 もう殆どかなみさんは涙ぐみながら、わめいている。
「大体ね! こんなときは、『俺が貰いますよ!』くらい言ってみなさいよ! 根性なし!!」
「い、言えませんよ、そんなの!」
 なんで酔っ払いにはたかれながら、そんなこっ恥ずかしい台詞を言わねばならんのだ。
 こんな状態で言ったところで、翌日に覚えてくれてる可能性も限りなく低い。
「何よ! あたしなんかとじゃ結婚できないってわけ!?」
「いや、そりゃ……」
 いきなりアパートの隣人と結婚できるわけないでしょうが。そういうのはもうちょっと段階というものが
あるはずで……。
 そう言おうとしたが、完全にヒートアップしたかなみさんは、俺の言葉を完全に遮った。
 ――行動で。
「あたしだってねぇ! オンナなんらからね!」
 言うなり、首の後ろ、うなじ辺りに手をやると、そこにある紐を引っ張った。
 それがどんだけ非常事態か。解らない奴はとりあえず『ホルターネック』でイメージ検索でもしてくれ。
「ちょ、待て待て待てええぇぇ!!」
「お姉さんはパッドなんか入れてないんだぞー! どーてー君には解んないだろーけどさー!!」
「どーてーとか言うなあぁぁ!」
 咄嗟に手首を掴む。
 ホルターネックってのは紐を首の後ろで結んで、ブラを止めている。逆に言えば、コレが取れるといわゆる
『ポロリ』しちまうわけだ。
「あによー! てーこーすんなー! アンタは、両手を合わせて『ありがたや』ってあたしの観音様でも拝んで
ろー!!!」
 『観音様』なんて今時オヤジも言わないし、そもそも胸のことを示す言葉でもない。さっきから気になってい
たが、語彙がいちいち90年代だ。つか、それより、どこまで脱ぐ気だ!
「お、落ち着いてくださいよ!」
「うるさーい! あたしが折角かわいそーなアンタに、お情けでナイスバヂーを見せてやるってんだよー!」
「だ、駄目です! とにかく、その紐から手を離してください!!」
「ふがーー!! どこで脱ごうがあたしの勝手だろー!」
「外で脱いだら犯罪です!!」
 とうとうネム譲りの唸り声を上げて派手に暴れまわるかなみさんと、決死の押し問答。絡み酒に脱ぎ癖ってマジ
で相性最悪じゃね?
 軽い気持ちで酒など用意した自分を呪いながら、どうにか手を首筋から遠ざけようとする。だが、しっかりと紐
を掴んでいるため、無理矢理引っ張ったら、それこそ俺が脱がしたみたいになってしまう。
 指を一本一本、引き剥がしていくしかないが、人差し指を伸ばせば小指が曲がり、小指を外せば中指が掴み、キ
リがない。
「かなみさん、いい加減に……!」
「いー加減にすんのはアンタでしょー!! あたしの気もしりゃないでー!! どっかーん!!」
 『どっかーん』って何だ。爆発したのか?
 俺の疑問をよそに、気に入ったのか、かなみさんは『どっかーん』を連呼する。
「どっかーん! どかーん! このぉ……鈍感!!」
「え?」
「鈍感……ほんと、アンタ……鈍感……」
 声のトーンが少しずつ落ちていくと、かなみさんはチューハイをまた一口すすってから、シートの横の砂を細い
指でいじり始めた。
 今度は泣き上戸ですか……。
「にゃによぉ……アンタなんか、背も低いし、バカだし、気も利かないし……」
 身長は普通だと思うのだが。
「すぐ遭難するし、バカだし、だらしないし、バカだし……」
 遭難は一回しかしてない。つかバカ多いな。
「顔だって普通だし、優しいし、セクハラ大王だし、好きだし……」
 はいはい、すみませんね。親が凡庸な顔だったもんでね。それに優しいのm――
 ――
 ――――
「……え?」
「ふぇ? 何?」
 かなみさんは、顔を上げて、キョトンと俺を見た。
「今、なんて言いました?」
「え? なんてって……何g――」
 絶句すると、只ですら酒で赤い顔が、さらに爆発したような紅に染まった。

「う、うわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 突然に絶叫。そして、いきなりシートから立ち上がると、
「うああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
と缶を放り出し、サンダルも履かずに砂浜を駆け出した。
「え? ちょ……」
 ヤバい。追っかけないと……と思ったら
「うひゃぁっ!」
――三歩でこけた。
「あの〜……」
 非常に声をかけにくい雰囲気。
「あうぅ〜……」
「大丈夫ですか?」
 かなみさんは顔を上げてこちらをキッと睨みつけた。だが、すぐに眉がハの字になり、今にも泣きそうな顔に
なる。こんな顔は始めて見た。いつも、気が強くて、俺を罵ってばかりなのに、今はやけに弱々しい。
 投げ捨てられた缶から、中身がこぼれて砂に染み出していた。
 俺は、尋ねてみた。
「……優しい、って言いましたよね?」
「……聞き間違い」
 言うまでの間が、その言葉が真実ではないことを示していた。
「その……好k――」
「聞き間違いって言ってんでしょ!!」
 いつもの調子の大声で、かなみさんは言う。だけど、それは完全にいつもの調子ではなかった。出したくない
声を、無理矢理に出しているような、そんな響きを感じる。
「う、うぬぼれないでよ! わ、私がアンタを好きなんて、そんなことあるわけないでしょ!」
「そ、それは……そうかも知れないですけど」
「っ……だから、『そうかも』とか言うなっつってんの!!」
 急にまた、彼女は感情を爆発させた。
「え?」
「アンタ、本当にバカなの!? 人に何か言われたら、すぐなびくわけ!? そんなときは……そんなときはね
ぇ……っ!!」
 そこで、かなみさんは言葉を切る。細い首の、小さな喉仏がコクリ、と動いた。俺も、気が付けば唾を飲み込
んでいる。
 今夜は熱帯夜だった。だが、絡みつくような暑気にも関わらず、俺は背筋を震わせた。
 かなみさんは、口を開ける。だけど、言葉は出てこなかった。
 一度、口を閉じる。またすぐに開けた。

「そんなときはぁ……そ、『そんなことn――――――

 かなみさんの台詞は、途中までしか聞けなかった。
 俺の右こめかみに、ネムの飛び膝蹴りが入ったので。



「あぁ……グラグラする……」
 こめかみに、冷えたジュースを当てて、砂浜に寝転ぶ。
「ガゥ?」
「お前なぁ、悪ふざけにしても、タイミングと手加減というものをだな……」
「?」
「キョトンとするな」
 夜の砂浜は日中に受けた熱を既に吐き出して、冷たく心地よかった。顔の周りが濡れてるのは、俺の意識を
戻すために、ネムが水をぶっかけたからだ。
「はぁ……」
 かなみさんは、結局何を言おうとしてたんだろう。
 っていうか、『好き』って……。
 思い出すと、顔が熱くなってきた。
 いやいや、そんなことあるわけない。それはやはり、かなみさんの言うとおり聞き違いでしかないはずだ。
 首を捻って、レジャーシートの方を見ると、神野さんとかなみさんが何やら話している。
 今更だが、俺は何で年上と年下の両方を『さん』付けで呼んでるんだろう? 後輩くらい呼び捨てにしても
いいような気がしないでもないのだが。
 そんなことを考えていると、かなみさんがこちらを見た。
 一瞬だが目が合ってしまい、俺はすぐに目を逸らしてしまう。
 くっ……やはり意識して妙な感じに……。
 だが、意識するなというのが、無理というものだろう。
「はぁ……」
 ため息をつくと、ネムが首を傾げた。
「グゥ……?」
「お前には解らんだろうよ……はぁ……」

『……好きだし』

 ぐあぁぁぁぁぁ!!
 フラッシュバックで、俺は悶えた。
 もうね、目線反らして顔真っ赤にして『好きだし……』とかね! 俺の顔見たくてもちゃんと見れなくて、
顔が赤いのは酒のせいだけじゃなくて、その上恥らう姿がね、もうね!
 これ聞き間違いだったら、へこむなぁ……。
 と、砂浜の上で、炙られたスルメみたいに動いていると、
「ガル……ッ!」
いきなり前髪を鷲づかみされた。
「いでっ! 痛い痛い痛い!!!」
 そのまま、上に引っ張り上げられて、俺は悲鳴を上げる。缶ジュースを放すと、ネムの手を掴んだ。
「ネム。やめ、放せえぇっ!」
 頭が持ち上がり、中途半端に腹筋してるような姿勢になる。てか、抜ける! マジ抜ける!
 俺の抵抗もお構いなしに、ネムはそのまま、頭を乱暴に振り回す。足をバタつかせて、どうにかその
動きに対応していると、
「ガウ……」
と。こんどはパッ! といきなり開放された。
 俺の頭が落ちたのは、砂の上ではなかった。
「……膝枕?」
 ネムは、いつの間にかいわゆる『女の子座り』になっていた。柔らかい太股の上に俺の頭が乗っている。
 それから缶ジュースを拾って表面の砂を払うと、俺のこめかみに当ててくれた。
「あぁ、サンキュ……」
「ガウ♪」
「でも、次からは髪を掴むのはよせ、頼むから」
 ウチは代々ハゲない家系なんだ。白髪の渋いオヤジになる前に、髪をむしられたら敵わない。
 だが、ネムは不機嫌そうな顔で言った。
「ツギガ、アルト、オモウナ」
「えぇ〜……そりゃ残念」
 この優しさは、もっと大切にして欲しいなぁ……。
 見上げると、こちらを見ている金色の瞳と、ピコピコ動いている耳。そしてその向こうに広がる暗い空
が見えた。
 星のよく見える、晴れた夜だった。
 浮かんでいる月は半月と三日月の中間くらいで浜を照らし、お陰でビーチボールで遊べる程度には明る
い。寄せては返す波の音と、海へと吹き抜けていく風が、眠気すら誘った。
 ネムも、視線を俺の顔から空へ転じた。
「ホシ、スクナイ……」
「そりゃ、あの島よりはな」
 空気だって汚れてるだろうし、明かりが少ないと言っても無人島には負ける。
「ガル……」
 心細げな唸りを上げると、ネムは海の方へ目を向けた。
「シマ……アノ、ズット、ムコウ……?」
「……そうだな」
 黒い鏡のような海には月が映り込み、波の形に歪んで見えた。ポツポツと船の明かりらしいものも見え
る。
 あの島の正確な位置は、俺には未だに解らない。けれどもマカオ近海で漂流したからには、そこから割
と近いはずだ。今見てる海は太平洋だから、方向的には逆に当たる。
 けれども、そんな間違いを正す気にもならなかった。
 寂しそうにネムは
「クゥ……」
と喉を鳴らすと、ジュースを持っていない方の手で俺の頭を撫でた。
 波が浜で砕けて、足に飛沫が飛んできた。海と空の境界は、今は月の光で浮かび上がっている。
「……帰りたいか?」
 言ってから、すぐに迂闊な質問だと後悔した。
「……ベツニ」
 ネムなら、そうやって強がるのは解りきってし、実際、ネムはそう言った。
 だけど、俺には何も出来ない。
 いつもいつも、そうだ。
「ネムゥ〜〜〜〜!!」
「ガ、ガゥッ!」
 俺はおもむろに、ネムのなだらかな腹へ顔を寄せて抱きついた。
「俺が、幸せにしてやるからなぁ〜!!」
「ワ、ハ、ハナセ!」
 手足をバタつかせて、ネムは暴れる。
「はははは、照れるな〜!」
「テ、テレテナイ! マタ、ケルゾ!」
 ……俺には、何にも出来ない。
 せいぜい、茶化してうやむやにする程度のことしか、出来ないのだ。
 
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「一体、何がありましたの?」
 リナはビールに口をつけて尋ねた。
「べ、別に、何でもないから、はは、ハハハ〜」
 笑って誤魔化す彼女は、すでに完全に酔いから醒めている。手にはペットボトルのウーロン茶を持っ
ていた。
「なにやら、のっぴきならない事態かと思ったので、ネムちゃんに止めるようお願いしたのですが……」
「あ、そ、そう……」
「まぁ、あのような止め方は予想外でしたけど」
 確かにそうだろう。ムエタイの選手も真っ青な跳び膝蹴りは、ものの見事にタカシの意識を脳の外に
弾き出したのだから。
 その後、顔に海水をかけられて蘇生したタカシを見届けてから、二人はレジャーシートへ戻ったのだ。
よく考えれば、かなり雑な処置と言えないこともない。
 リナは、一瞬の間の後、
「……もしかして、お邪魔でしたかしら?」
と尋ねた。
「な、なな、なんのこと!?」
 ある意味図星なだけに、かなみは動揺を隠せない。
 だが、そんな彼女を置いて、リナはポツリ、と言った。
「……少し、気になっておりましたの」
「な、何が、かな?」
 リナは缶をシートの上に置くと、居住まいを正した。黒い水着の上に、今は薄手のパーカーを羽織っ
ている。
「別府さんとは、どんなご関係なのかしら?」
「ふぇ? ど、どんなって……」
 唐突な質問に、かなみは砂浜に寝転がっているタカシの方を見た。偶然にも、同じタイミングでタカ
シもこちらを見ていた。
 反射的に目を逸らす。
 あのバカ、やっぱり意識してるじゃない……と思ったが、それは酒のせいとはいえ自分のミスなので、
もはやどうしようもない。口を出た言葉は、何をしても取り返せないのだ。
 憮然としながら、かなみは答える。
「別に……アパートの、隣人ってだけよ……」
「そうですか」
 かなみの酷く苦い口調に対して、リナの返事はあっさりとしたものだ。かなみは、どうも面白くない。
自分が年上のはずなのに、まるきり立場が逆な気がしたからだ。
 リナは、ビールをもう一口飲むと、緩くカールした髪についた磯の香りを気にしながら、まるで自分
の好きな食べ物を言うような口ぶりで、言った。

「わたくし、別府さんのことをお慕いしていますの。無論、男女の仲として、のことですわ」

「!!??」
 その一言は、まさに衝撃だった。
 なんでもないように、リナは続ける。 
「だから貴女が恋敵となると、とても厄介ですわ。何しろ、貴女の方が私よりずっと、物理的に近い場
所に居ますから」
 ため息をつくと、リナは新しい缶を開けた。
 そこでかなみは気付く。
 こうして二人で並んで座ってから、それほど時間も経っていないはずなのに、リナの傍らには、既に
5本ほどの空き缶が転がっている。
 かなみは少しの酒で酔うが、リナは量をこなすタイプらしい。
 リナの酒が顔に出ない体質も、災いしていた。いつの間にか完全に出来上がっている。よく見れば、
目が完全に据わっていた。
「そ、その、神野さん、落ち着いて……」
「正直に、言って欲しいですわ」
 ぐうぅっと、顔を思い切り寄せられ、かなみは動けなくなる。
 長い睫毛に、切れ長の冷たい瞳。蝋のように白く滑らかな肌は、かなみの収入では到底行けない店で
手入れをされていた。
 気品のある容姿に、鼻を掠める微かな酒の臭いだけが不似合いで、彼女はどうしていいか解らなくな
る。
「女同士、腹を割って話しませんこと?」
「ぁ……う……くっ!」
 いよいよ進退窮まったところで、かなみは突然、リナの持っているビールの缶を奪い取った。
 ここで黙っているのはとてもマズい。目の前の相手に、このまま主導権を握られるのも癪だ。
 だからこそ、かなみは酒の力を借りることにしたのだ。
 そのまま呆気に取られる相手を置いて、まだ三分の二ほど残っている中身を一気に飲み干すと、空い
た缶を放った。
「……ぅっく……ぇぷっ」
 缶を放った手は、そのまま力なくシートの上に落ちる。俯いた顔は、リナからは見えない。
「えぇと……椎水さん? 大丈夫ですの?」 
「………れ………ょ」
 ボソッと、何かを呟くのが聞こえたが、リナには聞き取れない。聞き返そうかと思い、口を開いた瞬
間、かなみの顔がすっ、とリナを見据えた。
「ちょーし、くれてんにゃらいわよぉ!!」
 折角醒めた酔いを取り戻したかなみは、いきなりぞんざいで呂律の回っていない口調で喋りだした。
「あらしはねぇ! あんたがアイツと会う前から、ずっと好きらったのよぉ! あいつが海外旅行で行
方不明ってきーたとき、あらしがどんらけ心配しらと思うんにょおぉ!!」
「…………」
「二ヶ月で五キロは痩せたっつーの! 横から取ろうらって、そーは行かないんらからねぇ!!」
 一気に(彼女からすれば)大量のアルコールを摂取したため、酔いの回りに伴う感情の昂ぶりも激し
かった。本人の前では絶対に言わないような台詞が次々に飛び出す。
「……そうですか。じゃぁ、ライバル、ということで、よろしいかしら?」
「ら、らいばるぅ!? い、いーわよ! やってやるわよー!」
 かなみは興奮して立ち上がりかけたが、そこでふと荷物の方へ目を留め、また腰を落ち着けた。酔っ
払い特有の、集中力の散漫さだった。
「あれ……花火なんかあるらよー!」
「あら、別府さんにしては、気が利いてますわね」
 リナの一言に、かなみは訝しげに眉を寄せてから、苦笑した。
「いいの? あんなんでも、一応上司じゃないのぉ?」
「上司ではありません、先輩ではありますけど」
 その様子を見て、かなみは笑って見せた。さっきまで『ライバル』などと煽り合っていたのが嘘のよ
うな、親しげな口調だった。
「へへ〜、あらしたち、なんであんなの、好きなんだろうね?」
 それを聞くと、リナももうこれ以上言い争いをする気はなくなってしまったらしい。
「全くですわね、フフフ……」
と、口元に手を当てて上品に笑ってみせる。
 二人はまた顔を見合わせてしばらく笑い合うと、タカシの方を見た。
 なにやらネムと波打ち際で遊んでいるのが見える。
「ライバルと言えば、あの子も侮れないわよ〜?」
「そう、でしょうか。やはり……」
「らって、物理的な距離で言えば、同じ部屋で住んでるんだもん」
「でも……人間ではありませんわ」
 リナのその言葉は、獣人に対する差別というより、その点で自分がネムより優位だと、自分へ言い聞か
せているようだった。
 実際、二人が遊んでいる様子はとても仲がよさげに見える。
 ネムがタカシにタックルして、水の中へ引き倒した。
 そのまま、頭を押さえ込むと、タカシの手足がバタバタと暴れる。
 しばらくして、髪を掴み、自ら上げる。
 ――と思ったら、また水へ突っ込んだ。
「……あれ、マズいんじゃありません?」
「ん〜? へーきれしょ? 生命力はゴキブリ並みなんだから、あいつ。それよか、花火やろー?
「えぇ、いいですわ」
 言うなり、リナはパーカーを脱いだ。胸を見せ付けるようにして、背筋を逸らすと、
「フフン……」
とかなみを見る。早速の宣戦布告だった。
「む……」
 明らかな挑発を受けて、かなみはムスッとした顔をすると、立ち上がってホットパンツを脱ぎ捨てた。
ピンクの水着が現れると、リナのものより細い脚が、そこから伸びていた。
「く……」
「フフン」
 さっきリナがしたのとそっくり同じに、かなみは鼻で笑うと、肩までの髪の毛をかき上げた。
 静かな火花が一瞬、二人の間に散る。
 やがて、二人は花火を持ちタカシたちの方へ歩き出した。

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 鼻に海水が入って、水の中で盛大にむせた。その拍子に、新しい水が呼吸器に浸入してくる。
「がぼっ、ごぼっ!」
「ガル……」
 ザバ、と顔が水から上げられた。後ろ髪を掴まれ、うつ伏せの姿勢で、俺は波打ち際に転がされてい
る。口の水を吐き出し、空気を吸おう口をあけた瞬間、また沈められた。
「ごぶっ! ごぼぼぼっ!」
「グルゥ……」
 ザバー。
「ぎょ、ごめんなざい……調子に乗りすぎまじだ……ゴホっ! ずびばぜんでじだ……」
 顔中の穴から海水を垂れ流して、俺は謝罪した。
 流石にいきなり抱きついたのはやり過ぎだったらしい。どうも、過度なスキンシップは命取りになり
かねn――
「あぶぅっ! ごぶごぼっ!!」
「クシシシ……」
 死んじゃう! 笑ってないで、俺死んじゃうから!
「なぁに、やってんのよ……」 
「今度は何ですの?」
 二人がこちらに寄ってきているようだ。俺にはお花畑しか見えないけどな!
「ガル?」
 ふいに髪の毛が開放されて、水の中へ落とされる。その隙に急いで飛びずさり、ネムから離れた。
「ぶはぁっ! し、死ぬかと思った!!」
「っていうか、生きてたんだ」
 かなみさんが、かなり泣きっ面に蜂なことを言う。
 海水で鼻水と涙を洗うと、少しだけすっきりした。つか軽く水恐怖症になりそう。
「そんなことより、花火やりませんか?」
 神野さんが、手に持った線香花火を掲げて言った。
「ハナ、ビ……?」
「綺麗なんよー。ネムちゃんは初めて?」
 かなみさんの問いに、ネムは頷く。つか、この人また飲んでるな……。
 神野さんは、その点、足取りもしっかりしてるし、酒も余り飲んでないようd――
「もたもたしないでくださいな」
 ――なんか、いきなり腕組んで来ましたよ? どういうこった?
 俺を波打ち際から引っ張り出そうとしてるのか、そのまま引っ張られる。
 でもそうなるとですね、とてもやらかい例のブツが、ベタベタでなシチュエーションでありながら、
容赦なく俺の肘の辺りに当たるんですよね。こないだ俺をセクハラで訴えようとしてた人と、同一人
物とは思えない。
 俺もわざわざそれを言って火種を起こすつもりはないが、やっぱり酔ってるんだろうか。
 そう言えば、微かに酒の香りがするような……。
「ほ、ほら! なにトロトロしてんのよ!」
 気を取られてる間に、かなみさんに反対側の腕を組まれる。
 な、なんで二人ともわざわざ腕を組むんだ!?
 しかも、かなみさんはなぜかパンツを脱いで、下は水着だけになっていた。
「あ、あの……だ、大丈夫ですから……」
気を使ってさりげなく腕を抜こうとすると、
「あ?」
「何か?」
と凄まじい目で睨まれた。まるでワケが解らん。
「あんまり動かさないでくれる? 好きでやってんじゃないんだから!」
「そうですわよ。本格的に訴えられたいんですの?」
「え? なんかコイツ、職場で訴えられるようなことしたの?」
「あぁ、なんだか解りませんけど、奇声を上げて私の身体を――」
「わ、うわあぁぁぁぁ! 花火、花火やりましょ! ね!?」
 俺は大声を上げると、二人を引きずるようにして歩き始めた。
 さりげなく腕を抜こうと割と早足で歩いているつもりなのに、二人は俺の腕を掴んだままついて来る。
 何か企んでるんだろうか。このまま二人で俺を車のトランクに詰めて……とか。
 そんなくだらない妄想をしてると、いきなり後ろから何か飛んで背中にぶつかった。
「ぬおぉっ!」
 前に倒れそうになるのを、必死に踏ん張って堪える。首に腕が回された。
「ガルゥ♪」
 ネムがいきなり俺の背中に飛びついてきたのだ。両足をしっかり俺の胴体に絡めて、身体を擦り付け
てくる。
「お、おい、ネム……」
「ワゥガゥ♪」
 やたらと上機嫌で、ネムはしがみついてきた。
 つか、気付いた。
 口にしたらかなり人に軽蔑されそうなことだけど、気付いちゃった。

 こいつ、無人島にいたときより、ちょっと胸が大きくなってる。
 
 控えめながらも、確かな柔らかさが背中に伝わってきた。家じゃダボダボのTシャツばかり好んで着
るから、解らなかったのだ。
 はぁ、やっぱり、ブラとか買いに行かねばならんのかなぁ。店員の目を思うと、気が重い……。
 正直、成長を喜ぶとかより、そっちの方に考えを取られてしまう。
 あと、両隣で、かなみさんと神野さんが、
「……ね? 侮れないでしょ?」
「そうですわね……天然でこれですものね……」
などと言ってるが、その真意は俺には永遠に解らないんだろうなぁ、と思った。



 空き缶を切ってつくった即席のロウソク立ての中で、ゆらゆらと火が燃えている。そこに花火の先端
をかざすと、あっという間に火花が先端から迸った。
「オォ〜〜〜!!」
 ネムが歓声を上げると、早速やるべと花火を手に取った。
「人に向けんなよ?」
 向けられるとしたら間違いなく俺の可能性が高いので、一応お気まりの注意もしておく。
「え〜、つまんない」
 かなみさんが横から物凄く不満そうな声を出した。もっと人としての良心を大事にして欲しい。
 神野さんはと言えば、その場にしゃがんでじっと、自分の手元を見ていた。赤く輝く火花は、地面に
落ちる瞬間まで輝き続ける。それに照らされた姿に、俺は唾を飲み込んだ。
 緩く巻いた髪が一筋、顔に張り付いている。首筋に浮いた汗に花火の明かりが反射して、なまめかしく
夜の砂浜に浮かび上がっていた。物憂げに、根元へ向けて燃えていく花火を見ている姿はそれだけで一枚
の絵のようだ。
 ジ……と音がして、神野さんの花火が燃え尽きる。視線を上げると、目が合ってしまった。自分でも気
付かないうちに、かなり凝視してしまっていたらしい。
 何かまた言われるかと思い、身構える。
 だが、彼女は特に何も言わずに、微笑んで見せると、新しい花火を手に取りながら、
「どうかなさいました?」
と尋ねてきた。
 『見とれてました』とは言えないので、
「いや、ハハハ〜……」
と適当に誤魔化す。な、なんか機嫌がいいみたいだ。酔ってるだけかも知れないが。
「グル〜〜!!」
 ネムが無邪気な声を上げて、少し離れたところで線香花火を振り回していた。
 夜の闇の中に、その軌跡が明るく、目を灼いて浮かび上がる。
 満面の笑顔を浮かべるネムを見て、俺は大きく息をついた。
 あぁ、来てよかった……本当にそう思う。
「ねぇ、消えてるわよ」
 かなみさんが、俺の花火を指差した。
「あ」
「何、考えてたわけ?」
 燃えカスを水を張ったバケツに放り込んで、答える。
「いえ、来てよかったって……」
「ふぅん……私と来れたから?」
「あー……はい、光栄すぎて涙が……」
「白々しいのよ、バカ」
 言うなり、背中を平手で叩かれた。
「あでっ!」
「ったく……」
 何が不機嫌なのか、かなみさんはそれきり黙り込んでしまう。
「あ、あの……かなみさん?」
「……ん」
 話しかけても、ぶっきらぼうな返事しか返ってこない。目線も花火のままだ。それでも、俺は続けた。
「えっと……今日は、ありがとうございました」
「……ん」
「その……ネムも、いい気晴らしになったみたいで……」
「……ん」
「普段、部屋に押し込んで外出させないようにしてるもんだから、どうしてm――」
「……結局、ネムちゃんのため、か」
「え?」
「なんでもない」
 かなみさんは新しい花火に火をつけると、立ち上がってネムの方へ駆けていった。
「ほ〜ら、ネムちゃん!」
「ガウゥ♪!」
 赤と緑の炎が、それぞれ絡まるように空中へ弧を描く。
 ネムも今日は機嫌がいいのか、かなみさんを必要以上に恐れることもなかった。
 大人気なくネムと一緒に花火を振り回すかなみさんを見て、俺は言いようのない不安に襲われた。
 どうしよう、理由は自分でも解らないけど、明日から、かなみさんの顔、ちゃんと見れないかもしれない。
「……本当、苦労しますわね」
 神野さんが、しゃがんだ姿勢から俺を見上げていった。
「え? 苦労……?」
「椎水さんが。あとわたくしも」
「え? えっ?」
 それだけ言うと、神野さんも自分の花火を見つめて、何も言おうとはしなかった。
 戸惑う俺に向けて、ネムが走ってくる。手には花火の燃えカスを持っていた。
 それをバケツに投げ入れると、新しいのを二本、袋から取り出し一本を俺に差し出した。
「ん、あぁ、サンキュ」
 一緒に火をつけると、その場にしゃがみこんで燃える火を見る。
 パチパチと穏やかに金色の火を散らす花火は、何だか物悲しく、控えめに輝いていた。ネムも、振り回
したら消えてしまうと思ったのか、俺の隣で黙って見ている。
 金色の火花が、同じ金色の瞳に映りこんで、満月のように輝いて見えた……なんか、この例えって凄くキザ
な気がする。
 ネムはゆったりと尻尾を振り、花火を愛でている。
 俺が月に一度くらいの頻度で、ショートカットに切ってやってる髪の毛が、風で少しだけ揺れた。
 しっとりとした花火はそれほど長持ちせず、やがてポトリ、と先端を浜に落として燃え尽きた。
「ガウ……ワビ、サビ、カ?」
 どこで覚えたのか、ネムは首を捻って尋ねた。なかなか難しい質問だが、まぁ大きくズレてもないだろう。
「あぁ、そうだな。侘び寂びってヤツだ」
「フム……」
 難しい顔をして、ネムは次の花火に手を伸ばした。
 それも、青い光を放射状に散らす、地味なものだった。再び黙って、俺らは同じ花火を並べた。
 やがてその花火も燃え尽きる。
 新しい花火を取ってやると、ネムがポツリ、と言った。
 俺と目を合わせず、地面に向けて言っているような、普段とは違う、とても小さい声だった。

「……アリガト」

 俺はその一言に苦笑すると、頭を撫でてやる。
「後で、かなみさんと、神野さんにもお礼言うんだぞ?」
少しだけ父親面をして言うと、素直に頷いてくれた。
「ん、いい子だ」
「グゥ……コドモ、アツカイ……」
不服そうに頬を膨らませるネムだったが、頭を撫でられるのを拒むことはしなかった。

「ちょっとちょっと〜、なぁに、いいふいんきだしてんのよぉ〜」

 恨めしそうな声が聞こえます。『ふいんき』て、かなみさん。それじゃ変換できませんよ?
 そんなことより、後ろからいきなり締められた首がヤバい。
「ちょ、し、締まってますって!」
「締めてんのよ。ば〜か!」
 酒臭い息が耳元にかかった。それを言うなら『当ててんのよ』って言って欲しいんだけど、肝心のブツは
そんなに当たってない。
「まったく、女性を招いておいて放っておくとは、礼儀がなっておりませんわよ?」
「そーだ、そーだ!」
「えっと……構って欲しいんですか?」
 ……うん、自分でも馬鹿なこと言ったと思う。
「だっ! 誰がんなこと言ったのよー!!」
「そ、そうですわよ! 馬鹿も休み休み言って下さい! ただ、わたくしは礼儀としての――!」
 あぁ、やっぱり集中砲火……。
 まともに相手していては勝ち目ないのは自明なので、ここは早々に退散することにした。
「あの……ごめん!」
「あ、逃げたっ!」
「お、お待ちなさい!」
「ガルッ!」
 結局それから20メートルであえなく捕まり、延々と30分お説教をされました。
 そして、その間に結局ネムが花火を全部やってしまい、これもなぜか『量が足りない』と俺が怒られた。
 俺、社会人なんけどなぁ……。
 でも、水着姿の美女二人にお説教って、M系の趣味の人には溜まんないかもね。
 

 ――いや、俺は違うよ? ホントだよ?


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