その13

「……きて……かし……」
 ん……なんだ……?
「起きて下さい……タカシさん」
「んく……」
 目を開けて身体を起こすと、そこには見ず知らずの女の子がいた。
「あぁ、やっと起きましたね……ご飯冷めty――」
「うわっ!」
「きゃっ! な、なんですか? どうかしました!?」
 飛び起きた俺に、女の子も驚く。だが、それどころではない。
「えっ、誰?」
 窓の外は既に朝だった。泥棒にしては働くのが遅い。
「だ、誰って……」
 戸惑った表情で、女の子は頭の上の耳を、ピクピクと動かして見せた。

 ――耳?

 ゆっくりと、視線を下ろしていく。
 耳から、長く伸びた髪の毛。大きい、金色の瞳。繊細な鼻筋のラインに、細いあご。
 それから、白く滑らかな首筋に、鎖骨がパジャマの襟口から覗いている。その下は、布地を持ち
上げるどころかパンパンに張ってるくらいの盛り上がり……。
 すらっと伸びた腕から、腰の辺りに目を転じると、その後ろでピンと張っている尻尾が見える。
 尻尾……?
 ――うそ……そんな、まさか……。
「ね……ネム、さん……ですか?」
「なっ、なんで敬語なんですかぁ!!」
 うん、俺もそう思う。
 大人っぽい見た目にそぐわない仕草といい、それと連動して慌しく動くフサフサの尻尾といい……
どうやら、間違いないようだ。
「な、なんでっ……!」
「なんでってなんですか!! もうかれこれ五年は一緒に住んでるでしょう!」
 プゥッっと頬っぺたを膨らませて、彼女――いや、ネムは抗議した。
 五年って……そんな。
 何か言おうと口を開きかけたが、視界の端に移った写真立てで、その言葉は止まった。
 そこには、満面の笑みでこちらにピースをするネムと、少し照れたような俺がいた。

 ――ネムは、純白のウエディングドレスに身を包んでいた。



 朝食の席は、きまずい沈黙に覆われていた。
 不機嫌そうに、自分の分の味噌汁を啜るネム。その薬指にはシルバーの指輪がはまっていた。
「なぁ、その……悪かったよ」
「……フン!」
「寝惚けてたんだって……機嫌直してくれよ……」
「あ〜、ヤダヤダ。寝惚けたくらいで、自分の奥さん忘れる人と結婚したんですね、私」
「だからぁ……」
 すっかり流暢になった日本で、ネムは俺をなじった。
「これだからオジさんは、困ったものです」
 それを言われると辛い。なにしろ、こっちはネムより一回りは年上だ。三十路も近い。
「頼むよ……ほら、アレ買ってくるから! 『荒巻屋』の絹ごし豆腐」
「ぐ……そ、そんなので、私が釣られるなんて……っ!」
「……尻尾」
 自分のそれがパタパタと振られていることに、ネムはたった今気付いたようだった。
「あっ……こ、これは……べ、別に何でもありません! ただの生理現象ですっ!!」
 顔を赤くして、答えるネムが可愛くて、俺は身を乗り出した。
「あっ……」
 ちゃぶ台越しに、耳の生えた頭を撫でる。
「くぅ……じゃ、じゃなくて!! べ、別に喜んでなんか……」
 一瞬、目を細めかけたネムだったが、すぐに自分を取り戻す。
「よしよし……毎日、バランスの取れた食事、ありがとうな」
 肉と野菜織り交ぜた、品目の多い食事を見て、俺は言う。毎朝これ作るだけでも、結構な手間の
はずだ。
「が、がうぅ……だ、だって、タカシさんはオジさんですし……でも、私より先に死んで欲しくな
いから……」
「ハハ、大丈夫……長生きするよ。ほれほれ」
「ぜ、絶対ですからね!!」
 喉元をくすぐってやると、ネムは真っ赤な顔で言った。
 朝食を食べ終え、身支度をすると、ネムは玄関まで出迎えてくれる。
「よし、じゃぁ、行ってくるよ」
 靴を履くと、ネムは俺の首に腕を絡めた。
「お、おい……」
「早く、帰ってきて下さいね?」
「な、なんか、今朝はやけに素直だな……」
「だってぇ……最近、寂しいくて」
「俺も課長になってから、忙しくてねぇ……」
 俺の上司だった前の課長がリストラされて、大分経つ。今、どうしてるんだろうなぁ、あの人。
「お願いです。今日は、早くぅ……でないと、放しませんから……」
 甘えた声で、ネムは腕に力を込めた。
 五年のうちに、あれよあれよと成長した胸が、柔らかく形を変える。っつか、こ、これって……。
「ノ、ノーブラ……」
「フフ、ほら♪」
 ぴろ、っとネムは服の襟を捲って見せた。褐色の肌に、柔らかそうなカーブ、そしてその先っぽ
のピンク色までが丸見えで――
「こ、コラ! こ、こんな玄関先で……」
「クシシ……続きは、帰ってきてからですからね」
 そう言って笑うと、ネムは俺の頬にキスをして
「行ってらっしゃい」
と手と尻尾を振って見送った。
「うん……早く帰ってくる」
「絹ごし豆腐も、忘れないで下さいね?」
「はいはい」
 俺は笑って、ネムの胸を突付いた。
「わうぅ……」
 咄嗟に胸を庇って、俺から離れるネム。
「感じやすいなぁ……」
「せ、セクハラですよ! こんな……」
「フフン、年長者をからかうからだ……あ、そろそろマジでヤバいな。行ってきます!」
 腕時計を見ると、俺は慌てて玄関のドアを開けた。
 ドアの外は、吹雪が轟々と音を立て、大地を思うさま蹂躙する、極寒と白銀の世界。その真っ白
な視界を切り裂くように、赤い何かがこちらに近づいてくる。恐ろしく長い胴体に、耳まで避けた
口。全身を覆うのは、一つ一つが盾のような鱗。その隙間からさえ炎を噴き出した姿は、まさに灼
熱の悪魔、炎の化身。
「ギオオオアアアアアアアアアァァァ!!」
 雄叫びと共に口から出た炎が、天を焼く舌のように見える。彼奴が大地を這う度に、熱で周囲の
雪が一瞬で蒸発し、蒸気がその禍々しき姿を覆う。
 俺はスーツ姿のまま、家の前に集まっている同胞へ告げた。
「今こそ! あの呪われた悪魔を、地獄の釜へと返すときが来たのだ!!」
「「「オオオオオオオォォォォ!!!」」」
 同胞はそれぞれ用意した、フィギュアを曇った空に突き上げて、その怒りを爆発させる。翠星石
のフィギュアを手にした、お隣の山田さんが、涙ながらに訴える。
「俺の嫁は、アイツに無惨に溶かされたんだお! 俺の、俺のハルヒがあぁぁ!!」
「その翠星石は?」
「それとこれとは別だお」
 生粋のツンデレ好きである彼の悲しみは、計り知れない。ただの焦げたプラスチックと化した嫁
の無念は、最早、奴の首でしか償えぬのだ!
 鼓膜を揺るがす化け物の叫びは、金属質な響きすらも帯びて――


「グルアアアアアアアイイイイイイイィィィ―――ィィィィイイイイイリリリリリ!!


「はっ……!」
 目を開けると、そこは見慣れた天井だった。
 耳の奥には、夢で出てきた妖怪だかの叫びがこびり付いていて、目覚ましの音とごたまぜに響いて
いる。
 ゆっくりと頭を振りながらベルを止めて、ベッドの横を見ると、
「ンガ……」
とネムが枕に涎を垂らしていた。シャツがまくれて、豪華にヘソを出している。
 このチンチクリンが、夢の中の敬語なんか使って、料理上手で、ちょっと大胆な嫁に――
 さっぱり想像できない。苦笑すると、俺は朝食の準備を始めるべく、ベッドを降りた。
 今朝は油揚げの味噌汁にしてみる。あと、目玉焼きに、昨夜の残りの煮物もつけた。個人的なこだ
わりだが、目玉焼きの黄身は半熟以外認めない。
 ネムを起こして顔を洗わせ、
「いただきます」
を言うと、俺は早速、目玉焼きをご飯の上に直接乗せる。そのまま、黄身を箸の先で開き、そこへ醤
油を垂らした。その黄身のソースを、白身の上に塗り広げて、ご飯と一緒に口に運ぶのが、俺のささ
やかな朝の楽しみだった。
 最近は、ネムも俺の真似をして似たような食べ方をしている。余り行儀のいい食べ方ではないが、
この件に関しては『やめろ』とも言えないので、『余所でやるなよ?』と注意するだけにしている。
「ガウ……」
 ネムが味噌汁の椀をこちらに押し出してきた。
「はいはい」
 俺のより一回り小さいお椀を手にとって、息を吹きかけながら話す。
「そういやさ、さっき変な夢見たよ……フー」
「ユメ?」
「あぁ、ネムが大人になっててさ……フー」
「ガル……ボン、キュ、ボン?」
「どこで覚えてくるんだ、そんなの……まぁ、そうだったけど……フー」
「クシシシ……ホレタカ?」
「惚れたどころか、夢じゃ結婚してたよ……フー」
 何の気なしに言うと、ネムは突然黙り込んだ。
 異変に気付いて視線を味噌汁の水面から移動すると、相手は眉を寄せて、困惑した顔で俺を見てい
た。
「? どうした?」
 尋ねると、
「ネム……ケッコン、デキル?」
と言った。俺は首を傾げると、答える。妙なことを聞くもんだ、と思ったからだ。
「いや……難しいんじゃないかな」
 法的に考えても、それは明白だろう。第一、相手を見つけるのが大変だ。同じ種の雄なんて、この世
に居るかどうか。
「……ダトオモッタ」
 俺の反応に、ネムは途端に詰まらなさそうな顔になって、ちゃぶ台の下で足を蹴ってきた。
「ハヤク、シロ!」
「いてっ! バカ、こぼれるからやめろって!」
 冷ました味噌汁を渡してやると、ネムはやはり両手で受け取って、一口飲み、感想を述べた。
「……サマシスギ」
この文句も毎朝のことなので、
「はいはい」
と軽く流す。ネムは不満そうに、チラリと目線を横へ走らせた。
「グゥ……」
 部屋の片隅に置かれたスーツケースを恨めしそうに見やると、口を尖らせる。
「リョコウ、ズルイゾ……」
「だから、旅行じゃなくて出張だと何回言えば……」
 ため息をついて、俺は卵をまぶしたご飯を口へ運んだ。
 課長の指令により、今日から神野さんと共に三日間の出張だ。
 そのことは、散々言い聞かせてあるはずなのに、どうにも機嫌が直らない。
 やはり、俺が留守の間の面倒を、かなみさんに任せてしまったのが不満なのだろうか。別に『かな
みさんのところに泊まれ』と言ってるわけでもないのだが。
 ネムも簡単な料理くらいなら出来るようになったし、食料さえ買っておけば、三日くらい何とかな
ると思っている。
 それとも万一のために、かなみさんに合鍵を渡したのが気に入らないのだろうか。
 少し想像してみる。

 ――夜。
 日もとっぷりと暮れた深夜、玄関の鍵がカチリと音を立てて回る。
 キシ、と僅かに床をきしませる足音。
 そして廊下の戸が開き、そこから顔を半分だけ覗かせたかなみさんが――

 『ねえぇぇむぅぅぅたぁぁぁん!』

 ――全くないと言い切れないのが、悲しい。
 だが、やはり念のために手を打っておくのは必要なことだと思うし、何の後ろ盾もなしにネムを三
日間一人にするのは正直不安だ。合鍵の件も、やむを得まい。大体、戸締りの件なら、鍵と別にチェ
ーンがあるんだから、それで安泰じゃないか。
 それに、今さらどうこう言ったところで、出張は今日からなのだから、どうしようもない。
「とにかく、火の始末だけはちゃんとしてくれよ?」
「ソレ、ロク、カイメ」
 うんざりした顔で、ネムも目玉焼き乗せご飯を食べる。こっちも余りクドクド言いたくないが、仕
方ない。
「外出するなとは言わないが、出るならちゃんと帽子を被って――」
「ハチ、カイメ」
「寝る前にはちゃんと戸締り――」
「ゴ、カイメ」
「何か困ったことがあったら――」
「ケイタイニ、デンワ」
「……」
「ガル……」
 恨めしそうにこちらを見るネムに、俺は苦笑いした。
 確かに、もう少し信用してもいいかもしれない。もう何も知らない子供ってわけでもないし。
 俺は、夢の中でしたように、テーブル越しに手を伸ばして、耳の間に置いた。
「ワゥ……メシ、タベニクイ……」
 文句を言いながらも、やはり手をのけようとはしない。目を細めて、食事の手を止め、感触を味わ
っている。こういうところは、夢に出た大人ネムも、目の前の現実ネムも似ている。
「三日、しっかり家を守ってくれよ?」
「ガル……シ、シカタ、ナイ」
 しぶしぶといった感じの言葉だったが、尻尾はしっかり振られていた。



「んじゃ、行ってきます」
 スーツケースを手に玄関を開けると、隣からかなみさんも出てきた。
「あ、おはようございます」
「ん……」
 不機嫌に声を漏らすと、玄関の鍵を閉める。こちらのドアの隙間から、ネムが様子を伺うように覗
いていた。
「おはよう、ネムちゃん」
「ガル……オハヨウ」
 いつも通りの、ぎこちないやり取り。だが、どこかが違う。
「はぁ……」
 浮かない顔で、かなみさんはため息をついた。このままというのもなんなので、声をかけてみる。
「あの……」
「……何よ」
 睨まれた。朝から、自分が何かやらかしたのかと不安になる。
「えぇと、出張の間、ネムのことお願いします」
「あぁ、はいはい」
 暗い目のままで、かなみさんはネムの方を見た。
 何だか妙だな。かなみさんなら、狂喜乱舞すると思ってたのに。いや、実際、出張の話をして合鍵
渡したときは、物凄くテンションが高かった。
『三日!? もう帰ってこなくていいわよ!』
とまぁ、蕩けそうな笑顔で辛らつな言葉を繰り出したものだ。
 だが、今はすっかり意気消沈して、鬱々とため息を繰り返している。
「あの、大丈夫ですか?」
 この人が素直に体調の悪化などを言うわけがない。それは解っていたのだけど、なんだか心配にな
ってきた。病気の人にネムを押し付けるのも気が引けるし……。
 かなみさんは半目で俺を見たまま、腕組みをした。
「別にぃ〜。私が、あの後輩ちゃんとアンタが二人きりでイチャイチャ旅行するからって、なんで不
機嫌にならなくちゃならないのかしら?」
 いや、どう考えてもソレが原因しか思えないのだが。
 昨夜も、ネムのことを頼んだ時は上機嫌だったのに、神野さんと出張と言った途端に、機嫌が悪く
なってしまった。
 なぜ不機嫌になるのか、その因果関係は解らないのだけd――
 ……いや、心当たりは一つある。

『好きだし』

 海水浴の時、かなみさんが酔っ払って言った言葉が、今になって脳裏を掠めた。
 この言葉が聞き間違いでなければ、かなみさんが不機嫌な理由に、一応の説明はつくわけで……い
や、説明ついたらついたで困るし、それをこの場で口に出して確かめるような度胸は俺にはないんだ
けど。
 何を考えてるのか顔に出てしまったのか、かなみさんは俺を見て、頬を染めた。
「……な、何か、また変なこと考えてるでしょ!!」
「か、考えてません! じゃ、じゃぁ、ネム! 行ってくるから!」
 慌てて否定すると、それ以上の追及を避けるべく、通路を駆け出した。
「あっ、待て! このっ!」
 かなみさんも後を追ってくる。
 階段を降りると、アパートのすぐ前の道に黒塗りの外車が止まっていた。
 通勤、通学途中の人たちが、チラチラと横目で見ながらその横を抜けていく。
「あ……」
 俺が声を出すと、スモークの貼られたウインドウがスルスルと開いた。
「おはようございます」
「お、おはよう……集合って、駅じゃなかったっけ?」
 確認すると、神野さんは涼しい顔で答えた。
「少々早く着きましたもので。拾っていった方が、効率的だと思っただけです」
「はぁ……」
 そう言うと、運転席からいつもの執事の人が出てきて、後部座席のドアを開けた。確か中村さんだ
ったっけ。
「おはようございます、別府様」
「あ、ども……」
 姿勢もよく、キビキビとした動作だった。寸分の隙もない仕草に、変な話だがこちらが恐縮してし
まう。
 後ろを見れば、かなみさんがドアの奥の神野さんをまじまじと見ていた。
「あら、御機嫌よう、椎水さん」
「おはよう、神野さん。大変ねぇ、こんなのと出張なんて」
「えぇ、でも、上司からの辞令には逆らえませんもの……まったく、災難ですわ。ホホホ……」
「ホホホ……せいぜい、襲われないよう、気をつけて……」
「えぇ、まぁ、そんなことになれば、社会的に抹殺して差し上げますけど、ホホホホ……」
「まぁ、怖い。オホホホホ……」
 自分の信用とかより、俺は二人の乾いた笑い声の方が怖い。多分、サハラ砂漠でもこんなに乾燥し
てないと思う。
 背中に嫌な意味で火傷しそうな視線を感じながら車に乗ると、中村さんがドアを閉めてくれた。開
いたままの窓から、こちらを睨んでいるかなみさんに、もう一度念を押しておく。
「あの! ホント、ネムのこと、よろしくお願いします!」
「あぁ、はいはい、解ったわよ!!」
 かなみさんが手を振って怒鳴りつけるような声を発すると同時に、ウインドウが勝手に上がってき
た。中村さんが、運転席で操作してるのだ。
「あ……」
「参りましょう。それほど余裕があるわけでもないので」
「……うん」
 確かにこれ以上しつこくしても、出にくくなるだけだろう。
 俺はそこでようやく、シートに腰を落ち着ける。
 ふと、顔を上げるとネムが、部屋の窓からこちらを見下ろしてるのが見えた。
 スモークガラスだから、ネムからこちらが見えてるわけがないのだが、なぜか目が合ったような気がした。

 少しだけ寂しそうで、少しだけ悲しそうだった。


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