その15

 何が起きているのか、全く解らない。
 俺は出張でここに来たはずで、こんな事態は発生する要素なんか、どこにもなかったはずだ。
 神野さんが突然、『シャワーが壊れているので貸してほしい』とホテルの部屋を訪ねてきたのが、
ほんの十五分程前。
 いや、今にして思えば確かに、少し変だとは思ったのだ。いつもの彼女なら、
『こんな安ホテルなんかにするから、いけないのです! 監督者として、不行き届きですわ!』
――とか、
『言っておきますけど、覗いたら日本では生きていけないと思ってくださいね!』
――とか、シャワーが故障した時点で、このくらいの文句はあってしかるべきではあった。
 だが、今夜に限って、彼女は妙に無口だった。
 必要なことだけを話すと、黙々とバスルームへ消えたのだ。
 俺も昼間の疲れと、夕食で腹が膨れていたせいで深く考えもしなかった。
 しばらく、シャワーを使う音が聞こえた後、
「別府さん……」
と呼ぶ声に振り向いて見れば。
 
 ――そこには、バスタオル一枚の神野さんが居た。

 完全に時間が凍った。
 空調のかすかな唸りと、テレビからの笑い声が、空々しく聞こえる。
 なんだか、現実感がなかった。
 だって、アレだよ? 
 お金持ちのお嬢様が、こんなビジネスホテルの一室で、バスタオルだよ?
 夢とか幻覚とか疑わない方が、どうかしてるだろ。
 だが、幸か不幸か俺の神経は正常だったようで、
「別府さん……」
と、もう一度呼ばれ、俺は我に帰った。といっても、パニックなのは変わらず、
「えっ? ちょ……な、何……?」
とか意味不明な言葉が口から出るだけだった。
 『何』ではない。
 男と二人きりの部屋で、バスタオル一枚で風呂から出てくるなんて、よっぽどのアクシデントがな
けりゃ、一つしかないだろう。俺とてそこまで初心でもないですよ。平静でいられるほど擦れてもな
いけど。
 だが、この時点でも、俺はどこか否定したかったんだと思う。
 『よっぽどのアクシデント』を願ってた。ほら、間違って服を全部濡らしちゃったとか、ガラガラ
ヘビが排水溝から出てきたとか。
 けれど、それは神野さんの次の一手で、完全に封じられてしまう。
 
 彼女は一歩で距離を詰め、俺の体でその身を隠すように、抱きついてきた。

 衣擦れの音がした。言うまでもない。バスタオルが落ちた音だ。
 それまでタオルに閉じ込められていた香りが、一気に鼻へ流れ込んでくる。甘い、汗の匂いだった。
 こっちは、スーツ姿から背広とネクタイを外しただけの格好だ。薄っぺらいYシャツの生地が、ほと
んどダイレクトに柔らかさを伝える。反射的に受け止めた素肌の肩は、しっとりと僅かに汗ばんでい
て、手に吸い付いてきた。
 とにかく、どこもかしこも、埋もれてしまいそうなくらいに、柔らかい。
 以前、車の急ブレーキのせいで密着してしまったことを思い出したが、その比じゃない。
 咄嗟に、引き離そうとした。だが、すぐに留まる。
 一つは、離せば彼女の何もかもを見てしまうことになるからだ。それは、とてもマズい気がした。
見てしまえば、後戻りが出来なくなる気がした。
 そしてもう一つは、神野さん自身が背中に手を回して、離れようとしない点にある。
 俺の肩辺りに顔を埋めているので、その表情はうかがい知れない。俺からは、なだらかなラインを描
く背中が見える。
 そして少しアゴを引けば、互いの胸板に挟まれて柔らかく形を変えている、二つの……アレですよ、
アレ。
 何か、声をかけなければと、口を開いた。いつの間にか喉がカラカラなのに、そこで気付いた。  
「じ……神野s――」

「リナ、と呼んで下さい」
 
 出鼻を挫かれて、喉の奥が、ひゅ、と鳴った。
 いつかの台詞が、頭の奥から蘇ってきた。
 俺がほんの些細なイタズラのつもりで、彼女を『リナちゃん』と呼んだときだ。

『……あまり人前で呼ばないで下さい』

 人前じゃなきゃいいのか、という突っ込みは、心の中に留めておいたのだが。
 今にして思えば、あの台詞こそが、この事態に繋がる発端ではなかったのか。
「な、なんで……」
 口から出るのは、また意味のない言葉。この場の打開には、何の役にも立たない。
 それどころか、神野さんはまた限りなく直球の言葉を繰り出した。
「ずっと、お慕いしていたのです……べ……タカシさん」
「!?」
 ずっと跳ねっ放しの心臓が、一際大きく鳴った。
 そこで、神野さんが頭を起こす。
 真っ直ぐに俺を見る、切れ長の瞳。震える唇は、少しだけ突き出されている。いつもゴージャスにカ
ールしている髪の毛は、シャワーを浴びたせいで緩いウェーブになっていた。その先端から、湯の雫が
一滴、床に落ちるのまでが見えた。
 手の下で、細い肩が震えていた。
 大きく、息を吸うと、彼女は言った。

「ずっと、ずっと……お慕いしていました。あの……海の上から……ずっと……」

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 何が起きているのか、全く解らなかった。
 その船は、リナが乗っている豪華客船からしたら、吹けば飛ぶような小さいものだった。
 だが、気がつけば彼女たち乗客は、広間に押し込められていた。ほんの十人程度の海賊は、凄まじい
手際で乗員の殆どをそこへ集めていた。
 入り口を一つだけ残して封鎖し、男は奥のほうへ、女子供手前の方へ。
 そのたった一つの入り口に、自動小銃を手にして、彼は立っていた。
 機械油と日焼けで、真っ黒になった肌。ランニングにポケットの沢山ついたズボン。ゴツゴツとした
ブーツを履いていた。彫像のようにいかめしい顔で部屋を見回している。
 今にして思えば、表情が固かったのは、単純に緊張していただけなのだろう。何せその銃は正真正銘
の本物だったが、当の本人は撃ったことなどなかったのだ。
 だが、それでも乗客を威嚇するには十分だ。
 リナを含む全員が息を潜めていた。かなりの数の人間がいるにも関わらず、そのホールは静かで、時
折すすり泣くような声が聞こえるだけだ。
 それを耳にするたびに、見張りをしていた彼は、眉をひそめた。なぜか、バツが悪そうだった。
 ――と。
 
 タン、と音がした。
 
 それは、小さな緑色のボールだった。
 タン、タン、と場違いに小気味よい音を立てて弾み、彼の足元へ転がってくる。ボールが来た方を見
ると女の子が、母親と身をすくませていた。二人とも水着姿だった。屋外プールで遊んでいるところで、
襲撃を受けたのだろう。
 怯えた眼差しのまま、彼女は母親に身を寄せる。母親も、彼女を庇うようにして抱きすくめた。
 襲撃者の機嫌を損ねたのではないか。その機嫌次第で、彼はいとも簡単に自分達を殺してしまうので
はないか。
 恐怖は一気に伝播した。
 悲鳴も、泣き声もなく、国籍もバラバラの集団だったが、全員が同じ感情を共有していた。
 ある者は、母子を責めるような目で睨んだ。
 ある者は、親子が撃たれるものと決め付けて、耳を塞いだ。
 ボールが跳ねたという、ただそれだけで、一気に限界まで糸は張り詰める。誰も叫びださないのが、
不思議なくらいだった。
 見張りは、右手をトリガーにかけたまま、左手でボールを拾った。
 そのまま、親子の方へと歩み寄る。人々が自然に割れて、通路が出来た。
 母親が、何かを言った。許しを乞う言葉だったのだろうが、彼には理解できなかったようだった。
 ただ、首を傾げると、彼は黙ってボールを差し出した。
 子供は受け取ろうとしなかった。
 海賊はその反応で眉を寄せると、その場にしゃがみ込む。
 それから、トリガーも放し、ストラップで提げた銃も背中の方にやって、子供の目に触れないよう
にする。それから、もう一度、ボールを差し出した。
 笑ってはいなかったが、受け取ってもらえなければ困るというような、情けない顔をしていた。
 恐る恐る、子供は手を伸ばした。
 それから、熱いものに触るときのように、ボールを引っ掴むと、すぐに手を縮める。目は相手の目を、
真っ直ぐに見ていた。まるで、母親を守ろうとしているかのようだった。
 彼は苦笑いを浮かべると、元の位置に戻る。そのときにはもう、元通り、銃のトリガーに指をかけて
いた。
 
 たったそれだけのことだ。
 リナが見たのは、それだけ。
 
 ――けれども。

 それから、彼女は忘れられなくなった。
 部屋を見張っているときの、強張った顔や、困ったような、情けない顔が、頭の奥に引っかかってい
た。
 気がつけば、焦がれていた。
 あらゆる意味で叶わないと解っていても、もう一度会ってみたいと思い始めていた。
 自分でも理解の出来ない感情だった。
 海賊は、リナたちを広間に閉じ込めている間に、船室へ侵入して金目の物をあらかた奪っていた。リ
ナも誕生石であるサファイアのリングを盗まれた。当然、折角のバカンスも台無しとなった。
 それでも。
 リナは想い続けた。もう一度会いたいと。
 想い続ければ叶うという、陳腐な文句を信じているわけではなかった。ただ、そうせずには居られな
かったのだ。

 ――『ストックホルム症候群』という言葉がある。
 これは、誘拐事件などで、被害者が犯人に過剰な連帯感や行為を抱くことを差す言葉で、1973年
にスウェーデン・ストックホルムで起きた銀行立てこもり事件から名づけられた。
 実際にあった事例では、機動隊の突入を防ぐバリケードを築くのを人質が手伝ったり、あるいはテロ
リストと人質だった女性が事件の後で結婚したりといったことが報告されている。
 リナが相談したカウンセラーは、それらを説明した後で、こう言った。
 『症候群』と言う以上は、病気である。それは、極限状態が見せる幻影であり、まやかしなのだ。通
常は、立てこもりや誘拐など、換金されて犯人との接触が長期間に渡る場合に多く発症するものだが、
今回はリナ自身の感受性の豊かさが引き起こしたものだろう。
 きっとこの先、逮捕された海賊を改めて見れば、いかに彼がちっぽけな犯罪者かを思い知ることにな
る。
 そうなる前に、忘れてしまいなさい。
 カウンセラーは、そう締めくくった。
 リナも、それが正しいと、そう思った。
 想い続けたところで、二度と会えるわけもないのだ。事実、社会勉強の名目で今の会社に行くことが
決まったときには、その想いはほとんど消えかけていた。煩雑な日常に埋もれてしまえばいいとすら思
った。
 
 ところが、幻影のはずの彼は、再び現れた。

 全くの偶然だった。
 事実、目の前にしていながら、彼女はしばらくの間気付かなかったのだ。
 それだけに、気付いたときの衝撃も大きかった。
 まるで、絵の中の人物が突如として、目の前に現れたようだった。
 しかし、嬉々として想いを伝えるわけにはいかなかった。
 なぜならば、自分はは神野財閥の令嬢なのだ。
 相手が元海賊だから、というわけではない。そんなものは、彼女が黙っていれば済むだけの話だ。
 問題は、彼女の周囲にあった。
 リナの父や、リナ自身の周囲には、いつでもおこぼれを貰おうとピッタリくっついている人間が後を
絶たない。幼い頃からそういった環境に育った彼女にとって、今さらそれは苦ではなかったが、ただ、
タカシをそれに巻き込みたくなかった。流石に直接な危害を加える事はないだろうが、それでも利用の
仕方はいくらでもあるものだ。
 だから、誰が聞いているとも知れないような場所で、必要以上に親密に振舞うわけにはいかなかった
し、わざと事務的な口調で、素っ気無く振る舞うことしか、出来なかった。
 いや、リナ自身、恐かったのかもしれない。
 二度と会えないと思っていた人が、目の前に、余りにもあっさりと現れたのだ。今の状況を崩してし
まったら、それがあっさりと消えてしまうかもしれないと、馬鹿馬鹿しい考えに囚われていた。一歩を
踏み出して、拒絶されてしまったら、今のような関係には戻れないとも、思っていた。
 だが、今や手段やタイミングを計ってはいる余裕はない。
 何しろ、ライバルが二人も居る。
 この出張は、まさに僥倖だった。きっと、この出張中の態度次第で、リナの『研修期間』が終わるか
どうか決まるのだろう。そこまで見当がついていながら、それでもなお、どうでもよかった。
 
 覚悟は必要だった。
 また、展開が急すぎるのも承知していた。
 
 けれども、それはリナには、賭けというより、これはむしろ必然のような気がしていた。

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 何がなんだか、解らなかった。
 海の上って何だ? 一緒に海水浴には言ったが、そのことではないのは明らかだ。
 言葉を失ってしまった俺に、神野さんは寂しげに笑いかけると、軽く首を振った。
「いえ……いいんです。それより……抱いて、下さい」
 まるで、そこにある物を取ってくれと頼むような、何気ない調子で、彼女は言った。
 いつかは言われたい台詞ナンバー1だったが、こんなわけの解らない状況でその通りにしてしまうの
は、いくら俺でも抵抗がある。
「いや、ちょ、ちょっと待った!!」
 俺は叫ぶと、目を閉じて無理矢理、神野さんを引き剥がした。
 見たいけど見ないようにして顔を反らしながら、ベッドに投げっぱなしの背広を掴んで差し出す。
「と、とにかく、これを着t―」
「お断りします」
 決然として、神野さんは言い放った。
「え……」
「わたくしが、生半な覚悟でこんなことをするような女とお思いですか?」
「いや、そうじゃないけど……とにかく、話を――」
「誰か、好きな方でもいらっしゃるのですか? それなら、わたくしも無理強いは致しません」
「あ、いや……」
「……ネムちゃんのことですか?」
 一気に畳み掛けられて、なぜか図星を差された気がした。いや、はっきりとネムを考えていたわけでな
い。だが、なぜか後ろめたかった。
「なら、大丈夫ですわ。引き離すような真似はいたしません」
 一糸纏わぬ姿であるはずなのに、その声は凛としていた。
 俺は、ベッドにそのまま座り込む。努めて相手を見ないように、俺は自分の膝に視線を集中した。
 大きく息を吐いて、唾を飲み込んでから、俺は答えた。
「……そうじゃないよ」
 自信のなさが出てなければいいな、そう思ったが、上手くいかなかった。
 それに被さるように、彼女は続ける。
「ならば拒絶する理由は、ないのではありませんか?」
 それは……そうだ。
 神野さんは美人で、お嬢様で、俺よりもずっと利口だ。ネムのことも知ってくれている。どういう経過
で彼女が俺のことを見初めたかというのは、微塵も解らないが、少なくとも俺に不利なことなんて一つも
ない。
 だけど……。
 拒む理由がないからとか、有利だの不利だのってのは、違うんじゃないだろうか。
 それがいくらキレイ事でしかないとしても、俺には納得できなかった。
 きっと神野さんだって、かなりの覚悟を決めてきたんだと思う。朝から妙に肩肘張ってたのも、思えば
このためだったのかも知れない。
 だけど……けれども。
 言葉が見つからない。何か言わなければならない。
 神野さんは黙って、こちらを見ている。悲しそうな色が、その瞳の中によぎると、俺はますます焦った。
 裸の女が同じ部屋に居るとは思えないほど、重苦しい沈黙だった。
 と。
「ふぅ……」
 彼女の細い喉から、ため息が漏れた。同時に、神野さんが纏っていた気迫が、ため息と一緒に吐き出さ
れたように、萎れていくのがわかった。
「……もういいですわよ。タオルを巻きましたから」
 淡々と、そう言った。顔を向けると、確かに彼女はバスタオルを身に着けていた。目のやり場に困るの
は変わらないが、それでも少しは目を見て話せるようになった。
「すみません。これ以上は、見苦しいだけですわね」
「あ、いや……そんな」
 それだけの台詞なのに、なんだか延々と言い訳をしてる気分になった。
 事実、彼女が遮るように軽く首を振らなかったら、俺はそうしていたと思う。
「いえ、解っています」
 そう言うと、彼女は笑った。
 それまでの煮詰まったような雰囲気のない、柔らかい笑顔だった。だが、同時にとても弱々しかった。
「少し、焦っていたかも、知れませんわ……」
「あ……うん」
 俺もようやく安堵を息を漏らして、頷く。
 神野さんは、そこでようやく頬を染めた。それまでの押し殺していた羞恥や緊張が、一気に噴出してき
たようだった。
「あ、あの……服を……着て参ります」
「あ、うん。えっと、テレビ見てるから、俺」
 テレビを見ているとかは、この際どうでもいいことだった。なんでそんなズレたことを言ったのか解ら
なかったが、神野さんは、笑ってくれた。
 バスルームへ続くドアが閉まると、俺はそのままベッドに倒れ込んだ。スプリングが控えめに鳴る。
 たかだか十分程のことだったのに、酷く疲れていた。

『拒む理由がないから……』
『有利だとか不利だとか……』

 そう。それは絶対に違うのだ。それは単に流されているだけで、それで関係を持ったところで、上手く
いくわけがない。

 ――だけど。

 それなら、ネムはどうなのだろう。
 拒む理由がないから、ただ諾々とついてきただけではないのか。
 有利とか不利とか、そういったことを考えるようなことが、あの頃のネムにできたのだろうか。
 ネムのことを『引き離すような真似はいたしません』と、神野さんは言った。
 だが、正直なことを言えば、俺はその言葉に、少しだけイラだっていた。
 彼女がそんなつもりで言ったんじゃないのは百も承知だし、まったくの場違いでもあった。
 それでも、胸の奥がつかえていた。
 
 ――それじゃ、あいつがこの先、ずっと一人立ちできないみたいじゃないか。
 
 結局、どうしたいってんだ?
 自立させたいのか、ずっと一緒に暮らしてたいのか。
 自立っつっても、どうやって? 一緒に居るって、どういうスタンスで?
 そして、何より一番、据わりが悪いのは――

 ――なんで俺はこんなときに、ネムのことなんか考えてるんだ?



 元通り、服を身に着けた神野さんが、バスルームから出てきても、俺は上手く言葉をかけられなかった。
 彼女も去りにくそうに、モジモジしている。なんだか、服を着ていないさっきよりも、かえって気まず
い。
 沈黙を破ったのは、やはり彼女のほうだった。
「あの……一つだけ、よろしいですか。我侭を言っても……」
「え?」
 思わず身構えると、彼女は苦笑いをして、言った。
「そうではないのです……ただ、その……リナ、と呼んでは、頂けませんか?」
「……へ?」
「あの、椎水さんも、ネムちゃんも……名前で呼ぶのに、わたくしだけというのも……その……」
 とても言いにくそうに、彼女は口を尖らせて語尾を濁した。
「プッ……ククッ……」
 俺は思わず笑ってしまっていた。
「な、何がおかしいんですか!? わ、わたくしは、真剣……!」
「あぁ、ごめん……いや、でもあの二人にヤキモチなんか妬かなくったって……ハハハ」
 まだ、喉の奥から笑いが込み上げてくる。
 そんな俺の様子を見て、神野さんは呆れた顔で大きなため息をついた。
「はぁ……本当に、鈍感ですのね」
「へ?」
「いえ、何でもありません。わたくしが言うのは、フェアではありませんから」
「??」
 かなり意味深な言葉を告げて、部屋の出入り口へ向かう。
 わけが解らなかったが、それでも俺は、挨拶だけは忘れなかった。

「おやすみ……リナちゃん」

 それを聞くと、彼女はハッとしたように、立ち止まる。それから、いつもの鋭い目つきで、

「また明日、タカシさん」

と返してくれた。
 ドアが閉まる直前、その表情が寂しげに曇るのを、俺は見逃すことができなかった。


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