その16

 かなみの家で夕食を食べてから、ネムはそこに留まっている。
 テレビを見ながら、他愛もない雑談をした。話題は大抵タカシのことだった。 
 これほど警戒心のない自分が、ネムは少しだけ意外だった。
 本来、そこはかなり殺風景な部屋なのだろう。
 本棚に置かれている本は、ほとんどが『獣医学概論』や『イエネコの病理学』といった専門書、論文
の類で埋め尽くされている。壁に面しておかれているデスクも、スチール製の事務机だった。
 ただ、本棚の空いたスペースに配置された置物や、デスクに飾られたポスター、写真が、軒並みネコ
で統一されている。シンプルなパイプベッドも、大小さまざまなネコの縫いぐるみが鎮座し、もこもこ
とその輪郭をぼかしていた。
 ネムは、デスクの前の壁を埋め尽くすように張られている猫の写真を見た。一つ一つ画鋲で貼られて
いるのだが、良く見れば、その下にコルクのボードが隠れていた。
 土台のボードから溢れるようにはみ出している写真に、ネムは眉を寄せる。単純に、これだけ大量の
写真を見たことがなかったのだ。
「うちの患者さんよ」
 かなみが、アイスティーの入ったグラスを二つ、お盆に乗せてテーブルの上に置いた。『患畜』では
なく『患者』と呼ぶところが、彼女らしかった。
「みんな、退院してったのよ。お願いして撮らせてもらったの」
「ガル……」
「はぁ……ほんと、可愛いわよねぇ………ぬこは……」
 クッションの上に座り、うっとりとした目で壁のポスターを見る。青みがかった灰色のブリティッシュ・
ショートヘアが、大きく口を開けて伸びをしていた。
 その瞳に本能的な危険を感じて、ネムは忘れかけていた警戒の色を浮かべる。
 少しの間、蕩けた目でポスターを見ていたかなみだったが、その様子に気付くと途端に苦笑いを浮かべ
た。
「大丈夫よ、この間みたいなことはないから」
「ガル……」
 まったく信用していない目つきで、ネムは睨みつける。
「本当だってば。ほら、座ってお茶でも飲んで?」
「ガル……」
 ネムはそろそろとテーブルに近寄り、手だけを伸ばしてグラスを取った。それから、十分に距離を取り、
あぐらをかいて座った。
「はぁ……信用ないのねぇ、私」
 さすがに落ち込んだようだった。がっくりと肩を落として、グラスの水面を見つめる。
「まぁ、そのね。健康診断のときに、騙すようなことしたのは、謝るわ。ごめんなさい」
「ガウ……」
「でも、その……ね? お隣さんだし、仲良くやっていきたいって言うか、その……仲直り、して貰えな
いかな?」
 おずおずと上目遣いにネムを見た。
 真剣な謝罪と、真剣な反省が感じられた。
 ネムは少しの間それを見ていたが、やがてため息をつくと、腰をずらしてかなみの向かいに移動する。
「あ……」
「……シチュー」
「え?」
 ネムはそこで一度、アイスティーを啜ると、かなみの方を見ずに言った。
「……シチュー、ウマカッタ」
「あ……」
 居心地が悪そうに、もう一口紅茶を飲むネムに、かなみは声を漏らしてから、
「フフ、ありがとう」
と笑って見せた。かなみには既に十分だったかも知れないが、ネムははっきりと言葉にした。
「ナカナオリ、スル」
「うん」
 かなみが頷いた。
 ネムは、そのときに自分が彼女に対して警戒を解いた理由が解った。
 
 かなみは、自分と人間同士のように接している。
 
 猫のような獣と思うからこそ、あのような馬鹿みたいな可愛がり方をしたのであって、人間相手のか
なみは、いたって常識人なのである……タカシという例外はあるけれども。
 その変化の理由までは解らなかったし、ネムにとっては、どうでもいいことだった。
 嬉しそうな笑みを浮かべるかなみに向けて、指を一本立てて見せる。
「……イッコ、オネガイ、アル」
「え、なぁに?」
「……」
 ネムは、そこで、とても、真剣な眼差しで、かなみの顔を見た。

 吸い込まれそうな金色の瞳に、かなみの微笑がすっ、っと引いた。

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 出張二日目は、予定が少し遅れ気味だった。
 渋滞にはまったり、話が長引いたりで、辛うじて時間に遅れることこそなかったものの、二人とも余裕
のない一日を過ごした。タイトなスケジュールって大嫌い。
 その日最後の訪問先を出ると、西日が目を刺した。手をかざしてそれを遮る。
 と、後ろから、
「これで、今日の分は終わりですわね」
と、神野さんがわざわざ口に出して言った。流石に疲れが滲み出ている。なにしろ、昼飯も満足にとって
いないのだ。
 俺は頷くと、提案した。
「少し早いかもしれないけど、晩飯にしない? ホテルの方に歩きながらさ」
 ここから宿泊場所まで、歩いて10分といったところだ。
「えぇ、いいですわよ」
「まぁ、店のチョイスは適当だから、神野さんの口に合うかは解らないけd――」
「リナ」
「……はぇ?」
「……もう、お忘れなんですか?」
 唇を尖らせた表情に、俺は『何が?』を飲み込んで、言い直した。
「……リナちゃんの口に合うか解らないけど、適当に探してさ」
「わたくしの口に合うところを探していては、夕食が3時間ほど後になりますわ」
 満足そうな顔で、じんn――リナちゃんは言う。
 俺とて、忘れていたわけではない。だが、午前中に訪問先で『リナちゃん』と呼んだら、
『仕事中はやめて下さい!』
と先方に聞こえないようにこっそりだが、怒られたのだ。
 俺としては『神野さん』と呼び続けていたほうが、気が楽である。本音を言えば、『リナちゃん』と
名前を呼んでしまうと、変に意識してしまいそうで、気が重い。
 それを先送りにできるのが有難かった。本当に、仕事が終わるまでの先送りでしかなかったけど、こ
うして呼んでみると結構な違和感を感じる。
 もっとも、急にそこから『神野さん』に切り替えたのがかえって不自然だったようで、先方が妙にニ
ヤニヤしてた。彼女自身は、全く意に介していないようだったが。
「さすがにお腹が空きました。適当に済ませましょう」
 今も、涼しい顔でさっさと歩き始めていた。
 
 ――まるで、昨夜のことなど何もなかったかのように。

 自信に満ちた足取りは、昨夜あられもない姿で『抱いてください』なんて言った女の子と、同一人物
とは思えなかった。
 だが、俺がこうして名前で呼んでいることが、何よりの証だ。
 正直、今日は一日気まずかった。
 いや、それで手を出したと言うなら、今頃ラブラブでハッピーエンドなのだろう。
 だが現実には、据え膳を食うか食わずか迷ったあげくに、そのまま腐らせたような優柔不断さ。
 気まずいなんてもんじゃない。
 しかも、相手はそれを一切表面にも出さず、相変わらずテキパキと仕事をこなす。それが無言の圧力
のようで、また辛い。
 かと言って顔に出されても、それはそれで困ってしまうんだけど……。
 俺は大きく息を吐くと、その颯爽とした後姿に声をかけた。
「リナちゃん」
「……はい?」
 きっちりカールしている髪が、艶やかに夕日を反射した。振り返った顔は、やはりどこまでも端正だ。
髪を耳にかける仕草や、その細い指先までもが、夕日で色づいただけで、十分に絵になる。
 彼女はきっと、とても強いんだと思う。自分の思ったとおりに行動しても、後悔しないように覚悟を
決められる人。そして、実際に後悔せず、いっさい引きずらない人。
 だから、俺なんかとは釣り合わない。いや、釣り合うとか、釣り合わないとか、そういう考え自体が
おかしいのかも知れない。だが、言うとしたら、他の言葉が見つからない。釣り合わない。
 ネムの件だって、俺は未だに揺らぎ続ける程度の覚悟しか持ち合わせてないのだから。
 ……あぁ、またネムのことを考えてる。
 脳裏に浮かんだ尻尾と耳のイメージを軽く頭を振って払うと、俺は言った。
 大きく、息を吸って。
 一息に。

「……そっち、逆だよ」

「え?」
「いや、ホテル」
「…………」
「…………」
 微妙な沈黙。
 数秒後、夕日で赤く照らされた頬が、さらに朱を帯びた。開いた口から飛び出した言葉は、予想を裏
切らなかった。
「そ、そんなことは解ってます!」
「……ほんとに?」
 俺は半目になると、疑わしげな視線を向けた。その視線を受けて、リナちゃんの顔がさらに真っ赤に
なる。
「当然です! わ、わたくしは、タカシさんを試していただけですわ!」
 ここで試される意味が解らない。かなりの確信を持って、俺は言った。
「……やっぱ、リナちゃん、方向音t――」
「それ以上は聞こえませんわ! 参りますわよ! まったく、デリカシーのない……」
 ブツブツ言いながら、早足で逆方向の道を辿る彼女の背中を追いながら、俺は笑いをかみ殺す。
 断じて、方向音痴を笑ったんじゃない。
 なんだか、この数分ですっかり呼び慣れてしまった自分が妙におかしかったのだ。



 夕食を終えて、ホテルに戻ってきた。鞄を放り出して、上着とネクタイを剥ぎ取るように外すと、
そのままベッドに倒れこむ。
 何はともあれ、疲れた一日だった。
 申し訳程度についた窓からは、夏の長い日がようやく落ちて、空を紫に染めているのが見えた。今
夜も熱帯夜のようだ。……あぁ、ネムの奴、エアコン付けっぱなしで寝てないだろうな……。
 そんなことを考えながら、ウトウトとし始めたときだ。
 携帯が鳴った。
 一瞬無視しようかと思ったが、すぐに思いなおして身体を起こす。
 液晶には、家の電話の番号……つまり、ネムからだ。噂をすれば、じゃないが一体どうしたんだろ?
 その疑問とほとんど同時に、俺は出かける前のやりとりを思い出した。 

『なにか困ったことがあったら』
『ケイタイニ、デンワ』

 何かあったんだろうか。携帯を耳に当てて、
「ネム?」
と呼んでみた。
『…………』
 スピーカーの向こうは、沈黙だった。
 それが、どんな言葉よりも頭の奥をかき回すようだ。
 瞬間的に膨れ上がった苛立ちと焦りが、声に滲んでしまう。
「おい! ネム、どうしたんだ!?」
 何か非常事態なのか? 声も出せないような?
 俺はさらに何か言おうと、息を吸った。
 そのタイミングで――

『……ウルサイ!!』

 電話越しに一喝。
 窓ガラスに、きょとんと口を半開きにする俺の姿が映っているのが見えた。
『イキナリ、サケブナ!! バカ!』
「はぁ……すんません」
 反射的に謝罪が口を出たが、意味は自分でも解らない。
 一旦携帯を耳から離して、画面を見る。アンテナが一本だ。最初の沈黙は、単純に電波の状態が
悪いだけだったらしい。
 窓際に移動し、画面の表示を確認してから、仕切りなおしの意味を込めて咳払いをした。
「コホン……それで、どうしたんだ?」
『ガル……タ、タカシ……?』
「ん?」
『ア……ゥ……イツ、カエル?』
 とても言いにくそうに、ネムは質問した。
「え?……いつって、明日だけど……」
 それは言っておいたはずだ。首を傾げると、また怒られた。
『チガウ! ソレハ、シッテルゾ!!』
「じゃぁ、何だy――あぁ、待て、そういうことか」
 言いかけて、ネムが日にちじゃなく時間のことを聞いているのだと気がついた。
 少し考えると、俺は答える。
「夜になるかな?」
『ヨル、ナンジ?』
「あー……ちょっと待てよ」
 携帯を肩で挟むと、俺は鞄を漁る。手帳に帰りの電車の時間がメモしてあった。
「えっと……特急が美歩駅に6時31分着だから……大体、7時半には家に着くかな」
『シチジ……ハン』
 ネムはゆっくりと復唱すると、何か考え込むように呻いた。様子がおかしい。
 ほとんど同時に、俺はその理由に思い至った。
 なぁんだ、それならそうと、素直に言えばいいのに。
「……寂しいのか?」
『グッ……! サ、サビシクナイ!』
 解りやすい取り乱し方に、俺は噴き出してしまう。
「いやいや、寂しいんだろ?」
『サビシクナイ!』
「寂しいくせに……」
『サビシクナイ! ガルゥ……キ、キルゾ!!』
 ガチャッ! と乱暴に電話は切られた。
 俺は携帯を枕元に放り出す。顔がにやけるのが止められなかった。
 寂しい、と来たか。
 初めて会ったときは思いっきり襲い掛かって来たのにな。なかなか進展したもんだ。
 
 ――ネムとの出会いは、俺の薄っぺらい人生でも、そりゃぁ、ずば抜けてトップの衝撃だった。

 無人島で会ったとき、あいつは当然、服なんか着てない素っ裸だった。
 手足やら胸元が毛で覆われていて、遠目に見れば人よりも獣に近い姿で、あの無人島をたった一
人で駆け回っていたのだ。
 島に漂着して疲労の極みだった俺はあっさりと捕まり、馬乗りに押し倒されるしかなかった。 
 鋭い爪が、俺の喉を掻き切ろうとする。
 絶体絶命のピンチ。
 見知らぬ島で、見知らぬ獣に殺される恐怖。
 果たして、俺はこの危機をいかにして乗り越えたのか!?

 それはもう、人には言えない手段ですよ。えぇ。

 文字通り、ネムは一糸纏わぬ姿だった。そんで、胸にですね。こう、二つのボタンがあるでしょ
う? はい、ピンク色の。いや、まぁ、ボタンって言いましたけど、押すためのものじゃないのは
解ってますよ?
 でもですね、あのときの俺はそれを、物凄く押したかったんですよ。えぇ。
 それでですね。
 両手の人差し指でこう、ポチッっと……はい、両手で一個ずつです。
 その上で、叫びましたですよ。

『チクビーーーーーーーーーーム!!!』

って。
 ……あぁ、みなまで言うな!
 俺だって、どうかしてると思ってるさ! こうして客観視してみれば、自分の行為がいかに馬鹿
馬鹿しいか解る。むしろ客観視したくない。
 他人からこんな話聞いたら、『男の人呼んでええぇぇぇーーー!!』ってなるわ!
 でも、あの時俺は極限状態だったんだ。あんなことしても、仕方ないと思うだろ? 思わないっ
てヤツは、とりあえず無人島に漂着するところから始めて来い。
 もうね、アドレナリンとかドーパミンとか、その他もろもろで脳味噌がいい具合に漬かってる感
じ?
 あの時はもうこれで死ぬんだと思ってたから、もう恥とか気にしなくてよかったわけだ。
 まさか、あれで危機を脱することができるとは思わなかった。
 ましてや、島から帰れるとは思わなかった。
 その上、襲い掛かってきたヤツと一緒に住むことになるなんて、ノストラダムスでも予言できまい。

 ネムの獣の証としての毛は、今はすっかり脱毛されて、ほとんど目立たくなってる。俺たちをあの
島から連れ出してくれた海賊が、ほぼ無償でやってくれたのだ。どうやって手回ししたのか、その辺
俺なんかには見当もつかないんだけどな。
 今日は、神野さんトコのシャワーは壊れないようだ。さっさと一風呂浴びて、寝てしまおう。
 
 ――明日は、早く帰らないといけないしな。

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 受話器を投げるように置いたネムは、不機嫌そうに頬を膨らませた。
 本来の目的を果たせなかったのもそうだが、なによりタカシが調子に乗っていた。一発叩いてやりた
がったが、電話越しではそれも出来ない。
 
 寂しいなんて、あるわけがない。
 
 ここに来る前は、ずっと一人でやってきたのだ。
 たかだか二日ばかり離れたところで、なんの不都合もない。どうせ、明日には帰ってくるのだから。
 だが同時に、それを思うと胸の奥が苦しくなってしまうのだ。
 今だけじゃない。
 
 ――例えば、普通の日にタカシが仕事から帰るのを待つ間。
 
 ――例えば、風邪を引いたタカシが酷く弱々しく見えたとき。
 
 ――例えば、夜の浜辺でタカシに膝枕をしたとき。
 
 胸の奥が、苦しくて、痛くて、詰まっているみたいだった。
 けれども、それは『みたい』というだけで、そのどれでもないのだ。
 かつて、いくつかの別れの時に味わったそれとは、僅かだが、確かに、違う。
 その奇妙な感覚は、次第に訪れる間隔が狭まってきていた。
 理由が解らずに、ネムはイライラして、首を振った。何かそこらの物に当り散らしたい気分だった
が、大きく深呼吸をして、どうにか抑え込む。
 電話をかけ直す気にはならなかったので、いつもの帽子を被ると、部屋を出た。
 鍵をかけて、隣の部屋の前へ。
 インターホンに指を伸ばすと、まだ触れてないのに、玄関のドアが開いた。
 少し驚いて目を見張ると、部屋の主であるかなみが、
「どうだった?」
と心配そうにたずねる。
 
 ネムは、無言で首を振った。


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