その17

「じゃ、これで……」
 旅行鞄と、お土産の入った紙袋を提げて、俺は車を降りた。
 アパートの前に、不釣合いな黒い外車。
 三日前と同じ光景。中村さんがドアを閉めて、こちらに一礼してから運転席へ戻る。
 ウインドウが開き、リナちゃんが顔を覗かせた。
「それでは……」
「あ、うん。わざわざ送ってもらって、ありがとね」
「別に、ついでですから」
 事務的な受け答え。それも、三日前と変わらない。
 だが、変わった事もある。
「また明日……タカシさん」
「うん。また……リナちゃん」
 以前に比べれば、すっかり自然になった呼び方だが、それでもまだ完全ではない。かすかな違和感を遮
るように、ウインドウがスルスルと閉まった。
 走り去る車を複雑な思いで見送ってから、二階の角部屋を見上げる。
 
 ――三日ぶりの我が家。
 
 ファックスもメールもあるこの時代に、果たしてこの出張は意味があったのか?
 泊りがけでやるような価値が、会社にとって本当にあるのか?
 そんなことは、もはやどうでもいい。

 ――俺は帰ってきた!!

 カツカツという足音を、ネムに聞かせるようにしてゆっくりと俺は階段を上る。
 時計を見れば、7時半ジャスト。時間も完璧。
 通路の一番奥の、見慣れたドアの前に立つ。
 ちなみに、かなみさんの部屋からは気配がしなかった。多分夜勤だろう。お土産は明日渡すことにする。
 チャイムに手を伸ばして、一回鳴らした。
 ネムはどんな風に俺を迎えるだろうか。
 多分、不機嫌そうな顔でチェーンをかけたまま、ドアを細く開け『カエッテキタノカ』とか言うはずだ。
俺が『ただいま』と返すと、しぶしぶという態度でチェーンを外す。玄関で靴を脱ぐよりも前に、そのま
ま頭を撫でる。ネムが『ガル……』と頬を膨らませるが、その尻尾はパタパタと揺れているはずだ。今日
は、夕食を作る気にはならないから、外食にしようかな……。
 そんなことを考えていると、バタバタとドアの向こうで足音がした。
 ほら、きた。
 にやける顔をどうにか収めて、ドアが開くのを待つ。
 チェーンは掛けられていなかった。慌しい足音に反して、ドアは細く、控えめに開けられる。
 隙間から、ネムがピクピクと耳を動かしてこちらを見上げていた。
 その表情は予想に反して、困ったような顔を浮かべている。いや、『困った』というより、もはや泣き
出しそうだ。
 想定外の表情に戸惑う俺の鼻を、部屋の奥から漂ってきた匂いが掠める。
 
 ――焦げ臭い。
 
 気付いた瞬間、ネムを押しのけて、部屋に入った。ネムは素直に道を開けた。
 靴を脱ぎ捨て、ドアを開けて回る。
 風呂場。異常なし。
 トイレ。同じく。
 臭いはどうも台所から来てるようだった。
 その先にあるものを隠すように閉められた戸を開ける。ベッドの上へ荷物を放り出すと、その発生源に
向かった。
 コンロにかけられた鍋が、煙をあげていた。鼻を突く異臭に、思わず口元を押さえる。コンロの火が消
えているのを確認すると、中身を見た。
 ブスブスと音を立てて、真っ黒いタールのようなものがべったりと鍋肌にくっついている。わずかに残
ったオレンジ色は、どうやらニンジンらしい。だが、あとはただひたすらに炭だった。
「おいおい……なにやってんだよ……」
 大急ぎで窓を開けて、換気扇のスイッチを入れた。
「そっちも、窓開けろ!」
 振り返ってネムに指示を出すと、既にタンスの横の窓を開けているところだった。
 疲れて帰って見れば、この騒ぎ。
 一体俺が何をしたというのさ?
 いや、『俺が』というより……
「……なにしてたんだ?」
 料理らしきことをしていたのは解る。だが、ここまで派手に焦がした理由が解らない。
 ネムは座布団の上にあぐらをかいて座り、そっぽを向いていた。目を合わせようともせず、頬を膨らま
せている。
「……カンケイナイ」
「関係あるだろ!!」
 思わず叫んでいた。ビクッとネムは身体を竦ませて、こちらを一瞬だけみたが、すぐにまた顔をそらす。
謝りもしない横柄な態度に、怒りが沸き立ってきた。
「あのな! 一歩間違ったら、火事だったんだぞ! 解ってんのか!?」
「……ガゥ」
 それでも、まだネムはこちらを向こうともしなかった。何もかもが面白くないという顔だった。
 その様子に、全身を脱力感が覆う。何を言っても無駄だという諦めを伴う、心地よさの欠片もない感覚
だった。怒りが引っ込む代わりに、今頃どっと出張の疲れが出てきた。
 正直、もう寝てしまいたかったが、一応聞いてみる。
「……飯は食ったのか?」
「……マダ」
「そうか。外食にするから、準備してくれ」
「……グルゥ」
 不服そうな顔でダラダラと支度を始めるネムに、俺はため息をつきかけた。

 ――バギッ

 嫌な音がした。
 顔を上げると、ネムがベッドの上の土産物の袋に座っていた。靴下を履こうとしたのだろう。手にはそ
の片方が握られている。慌てて立ち上がると、惨状を確認して悲しそうな目で俺を見た。
 お菓子の詰め合わせが、袋ごと真っ二つに折れていた。かなみさんや会社の人の分も入っている。

 俺は、今度こそ心からため息をついた。
 


 一夜明けて。
 あれから、ネムは最低限の言葉しか話さなかった。
 『ネル』『キガエル』『オヤスミ』『オハヨウ』。
 一体、鍋で何をしようとしていたのか、何回も繰り返し尋ねてみても、ネムは頑として答えなかった。
 それなりに落ち込んでいるようだったから、俺も昨夜のことはあまり言わないことにする。流しには、
中の黒い鍋に水が張られて置いてあった。一晩浸けてみたが、どうもちょっとやそっとじゃ落ちそうにな
い。
「ガル……」
 ネムが味噌汁の入ったお椀をこちらに寄越した。ごく自然にそれを受け取り、いつも通りに冷ます。
 それにしても、汁物くらい、いい加減自分で冷ましてもらえんかね。手間のかかる。
 言っても無駄なんだろうけど。
 諦め交じりのため息で味噌汁を吹いていると、玄関のドアが開く気配がした。
 鍵は閉めたはずだという疑問と、ここまで無遠慮に入ってくる人物は一人しかいないという確信を同時
に感じる。
 かなみさんが、いつもどおりに戸を開けて現れた。
「おはよう、ネムちゃん」
 機嫌の悪そうな目で俺をチラリと見てから、ネムへ向けて挨拶する。俺は全くの無視。いつものことだ。
「ガウ……」
 ネムは、なぜかしょんぼりと頷いた。意外な反応だ。怯えるとか、警戒するなら解るのだが、かなみさ
んの顔を見て悲しそうというのは、良く解らない。
 俺は手に持ったお椀を一度テーブルに置くと、たずねた。
「……どうしたんですか? こんな朝早くに。っていうか、鍵は?」
「用事がなきゃ、夜勤明けにアンタの顔なんて見に来ないわよ……ほら、返すわよ」
 かなみさんが、何かを放った。キャッチすると、出張の前に渡した合鍵だった。
「あんた無用心ねぇ。チェーンくらいかけときなさいよ」
 大きなあくびをしながら言う。目が少し充血していた。
 確かに昨夜は疲れ果ていて、チェーンをかけた覚えがない。だが、そのお陰でここまで入ってこれたの
だから、この人に言われる筋合いはないと思う。例によって口には出さないけど。
 ふと、ネムを見ると、困ったような顔でかなみさんと台所の方を交互に見ていた。
「なんで、あんたの前にお味噌汁が二つあるの?」
 その視線には気付かずに、彼女はちゃぶ台の上を指差す。
「いや、ネムの分なんですけどね。こいつ、猫舌なもんで、俺が冷ましてるんですよ」
 それを聞いたかなみさんが、きょとんとした顔で聞き返した。
「あんたが? 冷ましてんの? 毎朝?」
「はぁ……一人じゃこぼしたりして、上手く冷ませないもんで……」
 苦笑いを浮かべる。
 だが、かなみさんは眉を寄せて怪訝そうに言った。
「え? でもネムちゃん、私のところでシチュー食べt――っ」
 途中まで出た言葉は、突然途切れた。かなみさんは自分の口を押さえている。
 言ってはならないことを、言ってしまったように。
 その目はネムを見ていた。そちらに顔を向けると、金色の瞳が、かなみさんに責めるような眼差しを送
っていた。
 そして、俺はその目を睨みつける。そのまま、かなみさんに質問した。
「……シチュー、食べたんですか?」
「……うん」
 観念したように、彼女は答えた。
「自分で冷まして?」
 自分の声が強張るのを感じる。
「そうだけど、ちょっと待ってよ。そんなに怒らなくたっt――」
「いや、ダメです」
 俺は断言した。
「ネム」
 かなみさんを見ていたネムは、はっと俺に視線を移した。
「……どうして、自分で出来ることを俺にさせるんだ?」
「ガル……タカシ、ネムノドレイ……」
「違うだろ!!」
 バン!と思わずテーブルを強く叩いてしまっていた。ビクッとネムが跳ねる。味噌汁が少しだけ、テー
ブルにこぼれた。
 頭の中で、ぐちゃぐちゃと感情が渦巻いていた。
 三日間だけとはいえ、ネムと離れていたせいか、昨夜からこいつの横柄さやワガママが妙に鼻について
いた。
 いや、問題はそんなところにはない。
 鍋を焦がすのもいいだろう。
 土産物を駄目にしたのも許す。
 本当は出来るのに、味噌汁を俺に冷まさせていたのも、別に構わない。
 失敗や多少の思いあがりくらいなら、誰だってある。
 だが、それで謝らないのはどういうつもりなのか。
 謝ればそれでいいという話でもないが、『ごめんなさい』の一言が言えないのは、どういうことなのか。
 眉を寄せて、怯えたような顔を向けるネムに、さらにイラだつ。そうして、追い詰められた動物のよう
にしてれば、こちらが折れると思ったら大間違いだ。
 俺は朝食に手をつけないまま立ち上がると、背広を着た。
「ちょ、ちょっと……」
 かなみさんが取り成そうとするが、聞こえない振りをした。
「食器はそのままでいい。でも……」
 鞄を取り、台所の流しを指差す。
「あの鍋はちゃんと洗っとけ」
 自分の失敗は、自分で責任を取る。当たり前のことだ。
 逆にこれでもネムが何もしないようなら、いよいよ付き合い方を考えなくてはならないだろう。具体的
なことは何も思い浮かばないが、もう少し厳しくする必要があると思う。大体、今までが甘やかしすぎだ
ったのだ。
「ねぇ、なんでそんな怒ってんの? 別に、お味噌汁くらいで――」
「人間には、人間のルールがあるでしょ? かなみさん」
 自分でも驚く程、物凄く、うっとうしそうな声が出た。かなみさんとネムが、はっとしたように目を見
開く。多分、二人とも聞いたことのない声のはずだ。俺だって、自分からこんな声が出るのが意外なのだ
から。
「悪いことしたら謝る。自分で出来ることは、自分でするってのは、当然でしょうが」
「いや、そうだけど……」
 言い淀む彼女を見て、俺はさらにはっきりと言い切る。
「とにかく、これは俺らの問題ですから」
 それだけ言い残して、部屋を出た。

 会社では、ます出張の報告だった。朝飯をほとんど食べてないから、昼まで腹が空いて仕方がない。
 同僚や課長から、土産の一つもないのかとチクチク言われたが、笑って流した。
 神野さんはお土産について聞いてきただけで、相変わらず事務的な態度だが、今はそれがありがたい。
 ネムのことで、頭があの鍋みたいに焦げ付きそうだった。
 怒った後というのは、大抵、後から後から自己嫌悪のオンパレードだ。100%相手が悪いとか、怒っ
てせいせいしたというパターンはそれほど多くない。
 今回も、また後悔のパレードがやってきた。
 怒鳴ることはなかったんじゃないか?
 感情に任せすぎじゃないか?
 もっとうまいやり方があったんじゃないか?
 ――正直、うんざりだ。
 仕事もあまり手につかない。ミスを連発。課長が叱責。それに乗じてまたお土産に言及。しつこい。
 疲労と苛立ちで、思考が切れ切れになる。それでも何とか定時には帰宅。
 チャイムを鳴らしても反応がない。流石に気まずいかと思い、自分で鍵を開けて部屋に入った。
「ただいま……」
 テーブルの上には、きれいになった鍋がぽつんと置かれていた。朝食の跡も片付けられている。


 ――ネムは居なかった。
  

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 ホワイトシチューという料理は、何を入れても大抵は無難に仕上がる。
 ニンジンやタマネギといった定番を始め、マイタケやシメジといったキノコとも合う。ブロッコリーや
カボチャの彩りも、目に楽しい。ホウレンソウなどの葉物もオツなものだが、その場合は煮込むと緑の色
素が移って見栄えがよくないので、あらかじめ下茹でしてから最後に加える。
 肉も牛豚鶏となんでもよいし、シーフードならばエビや鮭なんかを入れてもおいしい。
 もちろん、合わない具材というのもある。ラム肉は臭いが強すぎるし、同じ理由でサバなどの青魚も向
かない。
 だが、基本は好きなように具を入れて楽しむのが王道だろう。

 以上が、かなみが語ったシチューについての講釈だ。
 それを踏まえた上で、ネムはタカシに電話をした。
 何のことはない。シチューに入れる具は何がいいのか、聞こうと思ったのだ。ところが、肝心のタカシ
が調子に乗って『寂しいんだろ』などと言うから、ネムもつい熱くなってしまい、その計画は失敗に終わ
った。
 結局、ニンジンにジャガイモ、タマネギに牛スネ肉というベーシックな具材となった。それでも、タカ
シが嫌いなものは入っていないはずだった。
 かなみの監督の元、市販のルウを使わずに、バターと小麦粉から作るホワイトソースも作った。
 苦心の末に出来た料理は、多少コクが足りなくて、具材の切り方も不揃いではあったが、十分に食べら
れるものだった。
 別に、タカシが喜ぶ顔を見たいとか、そう言ったことではない。
 ただ、何かにつけ子供扱いするタカシを、見返してやりたかったのだ。
 家を守ることはもちろん、料理に同居人の好きな食材を入れるような気遣いもできることを、思い知ら
せてやりたかった。具の件に関しては、早々に失敗していたが。
 昨日までのネムの頭には、タカシがネムの作ったシチューに舌鼓を打ち、感涙にむせび泣く姿がはっき
りと描かれていた。それから、子ども扱いは嫌だと言うのに、その大きな手で無遠慮にネムの頭を撫でる
ことも、予想できていた。
 それを思うだけで尻尾が振られていたのには、ネム自身ですら気付いていなかったことだけれど。

 だが、現実には。

 今朝、タカシが部屋を出てから、かなみはタカシが指差した鍋を見て一言、
『やっちゃった?』
と尋ねた。酷く言いにくそうな顔だったが、ネムは素直に頷いた。
 タカシが帰ってくる前に、暖めなおしておこうという気遣いだったが、二つの点で裏目に出ていた。
 一つは、かなみが夜勤に出る前、『じっくりと暖めるのがよい』と言い残していった点。ネムは、タカ
シが帰ってくる一時間前に点火した。明らかに早すぎたが、その辺りの経験が圧倒的に不足していた。
 そしてもう一つ決定的なのは、一向に温まる気配のないシチューに痺れを切らし、うたた寝をしてしま
ったことだ。少し横になるだけのつもりだったが、気付かないうちにぐっすりと眠りこんでいた。慣れな
い料理で疲れたせいだろうか。
 タカシが鳴らしたチャイムの音で、ネムは目覚めた。
 そして、覚醒と同時に自分の取り返しのつかない失敗を知った。
 慌ててコンロの火を止めても、溶岩のような鍋の中身は、酷く嫌な音と臭いを放ち続け、戻ることはな
かった。
 その上、タカシが買ってきた土産物も、尻に敷いて台無しにしてしまう。
 真っ二つに折れた袋を見たときの、タカシの失望に満ちた、ため息。
 それは多分、あのときネムが最も聞きたくなかったものだ。
 犬や猫が粗相をしたときと同じような、『仕方がない』といった感情。
 その片付けは『飼い主』である自分が、片付けの出来ないペットの代わりにやるのだ、という憂鬱な義
務感。
 ピンとたった耳の奥に、いつまでもその深いため息はこびり付いていた。
 だが、一晩寝れば、いつものように朝がやってくる。タカシも大分落ち着いているようだった。
 いつもの習慣で、タカシに味噌汁を突き出す。
 一日の始まりであるこの光景に、何の疑問もなかった。
 そして、現れたかなみが、口を滑らせる。
 タカシの問い詰めに対して、ネムは答えなかった。
 顔をそらして、膨れっ面を作る。嘘が滲みそうな顔を、見られたくなかった。
 そして、決定的な一言。
 何よりも、昨夜のため息よりも、ずっとずっと、聞きたくなかったもの。

 ――『人間には、人間のルールがある』

 自分が人ではないと突きつけられたような気がした。
 人ではないが、人のルールを覚えられる、都合のよい生き物。
 人ではないが、とりあえずは人として生きられる、中途半端な生き物。
 その言葉は裏側で、はっきりとそう告げていた。

 胸の奥が、苦しくて、痛くて、詰まっているみたいだった。

 朝食の食器を片付けて、焦げ付いた鍋を苦労してきれいにした頃には、それは最高潮に達していた。
 知っているようで、知らない感覚だった。堪らなく不快なようで、同時に身を完全に預けてしまいたく
なる。
 上手く説明できないのが、もどかしい。
 もう少しで、はっきりとそれを表す言葉が見つかりそうだったが、それはいつも薄皮一枚の距離でスル
リと逃げてしまう。
 語彙の少なさ。言葉の拙さ。
 言いたいことを、伝えられない。聞きたいことを、聞き出せない。
 まだ日本語を覚えて間もないのだという諦め。些細な行き違いの度に少しずつ膨れる焦り。
 それらさえ薪にして、さらに燃え上がっていく、苦しくて、痛くて、詰まっているみたいな感覚。
 消したかった。
 朝からずっとネムの胸を占拠しているものを、全部追い出してしまいたかった。
 タカシのせいだと思った。他の原因などあり得なかった。
 嫌いだ。タカシのことなんか。
 タカシを考えると、水面に石を荒々しく投げ込んだように、ネムは平静を保てなくなってしまう。
 だから、離れるのだ。
 忘れてしまえるように。
 何もかも、元通りになるように。

 一人ぼっちのあの頃に、戻れるように。

 ネムの手には合鍵が握られている。
 アパートから10分ほどの河川敷。三日前は、背後に見える土手の上から、野球を見ていた。
 これを投げて捨ててしまえば、もう自分はあそこには戻れない。鍵を開ける術がないのだから、戻りよ
うがない。
 靴下や靴が濡れるのも構わず、ネムは川辺に脚を浸して、立ち尽くしていた。ここの水は、あの島のそ
れと違って、酷く臭い。鼻を突き刺すような得体の知れない臭いに、生き物の腐った肉の臭いがした。
 川面に満月が映っていた。たぷん、と足元で水が音を立てる。

 ――ネムは、大きく手を振りかぶった。


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「かなみさん! かなみさん!!」 
 隣の部屋のドアを、アホみたいに乱打する。
 程なく、血相を変えて部屋の主が飛び出してきた。
「うっさいわよ! なに考えt――」
 怒鳴り声は、尻すぼみに小さくなった。自分の顔は見えないが、多分尋常じゃないような酷い顔なんだ
ろう。美術の教科書に載ってた、ピカソの『泣く女』みたいな。実際、泣いてたかもしれない。
「ネムが……ネムが、居なくなったんです!!」
「……あっそ」
 俺の悲痛な叫びに対して、呆れたような眼差しで、かなみさんは告げた。
「あっそって……」
「さっき、なんか出て行くような気配がしたのよね」
 あっさりと言う彼女に、俺はぽかんと口を開ける。
「出て行くって……な、なんで……」
「なんでって何よ? 私が止めないといけないわけ? 今朝あんた言ったじゃん。『俺らの問題です』
って」
「う……」
言葉に詰まる。さらに被せて、かなみさんが続けた。
「まぁ、こんなところでぐずぐずやってる暇があるなら、探しにでも行けば?」
「さが……す……」 
 『探す』。
 なぜか、聞いたこともない遠い外国の言葉のように聞こえた。
 混乱が嘘のように引いていった。
 かなみさんに突き放されることで、冷静さが戻ってくる。だが、冷静であるがゆえに、いつもの疑問が
よみがえってきた。
 これまで、何十回と悩んできた疑問が、頭の中で翻訳されて、口から滑り出た。
「探して……いいんでしょうか?」
「……は?」
 呆気に取られるかなみさんに、俺は自分が何を言ったのかを悟った。
 言葉にならない弁解を、心の中で重ねる。
 だって、俺がもともとネムをここに連れてきたことだって、正しいとは限らないことじゃないか。
 そのネムが、自分から出ていくと決めたってことは、その決断を尊重するべきじゃないのか?
 俺なんかに付き合わせて連れ戻したとしても、また同じことを繰り返すだけじゃないのか?
 言葉を失って戸惑いながら目を泳がしている俺に、かなみさんは鋭い一瞥を投げた。
「あのさ……」
「え?」
 とても、可哀想なものを見る目だった。生き物を見る目ですらない。まるで、スクラップになった自動
車を見るような、冷たい目。
「グダグダなんか考えてるみたいだけど……私に土下座したときも、そんな色々考えてたわけ?」
「え?」
 怪訝な顔をする俺に、かなみさんはさらに辛らつな言葉を浴びせた。
「出張の間に脳味噌まで小さくなったわけ? ネムちゃんのことが、私にバレたときのことよ」
 俺は思い出した。
 確かに、あのときは無我夢中で、ネムと離れてたくない一心で――。
「あのときも、そんなグダグダ悩んでやったわけ?」
「……いえ」
 とても簡単な問題を間違えて、怒られている気分になった。だが、その問題が何なのか、まだ曖昧で見
えない。
 憮然として、かなみさんは息を吐いた。それから、思い切り吐き出す。
 それから、俺の目を真っ直ぐに見て、言った。
「保健所って行った事ある?」
「……え?」
 唐突な質問に、俺は答えられなかった。
「保健所。捨てられた犬やら猫やらが保護されてるんだけど」
 それは知ってる。知ってはいるが、行った事はない。
 そう答えると、かなみさんは流れるように、一気に話した。
「ペットにも流行り廃りってのがあるんだけどさ。保健所にいくと、だいたい一世代前の流行の子が多かっ
たりするわけよ。あっさり捨てちゃうわけ。飽きたからとか、飼えなくなったとか言って」
「……あの」
 その話は、何か関係があるのだろうか。
「いい気なもんよね。お金持ちは、さっさと次のペットが飼えるけど、そのペットは保健所で処分されるの
を待ってるわけ。あんたも、犬か猫を飼おうと思ったら、保健所から貰いなs――」
「あの、何を……」
 わけが解らず、俺は焦れてかなみさんの話を遮った。
 瞬間、胸倉を掴まれた。
 それまでとは全く違う、怒鳴り声が耳を貫いた。

「あんたは、あの子が居なくても生きてけるけど、あの子にはあんたしかいないんでしょ!!」

 息を呑む。
 いきなり距離が詰まり、アップなった顔。通った鼻筋に、柔らかそうな唇。肩までの髪が揺れた。
 だが、それ以上に、俺は長い睫毛に縁取られた目に、釘付けになっている。
 その瞳は潤んでいた。今にも零れ落ちそうな涙を息と一緒に吸い込むように、もう一度、大きな深呼吸を
すると、彼女は手を離した。
「だからって、ペットと同列に見てたら、ぶん殴るけどね」
「……」
「あんたのために、シチューまで作ってくれるような子だもん。『教えてくれ』って私に頭下げてさ」
「あ、頭を、下げて……?」
 頭の中を黒く焦げた鍋と、きれいになった鍋が同時によぎった。そうか、あれはシチューだったのか。
 だが、まるで想像できない。ネムが誰かに頭を下げて、ものを頼むなんて。
 かなみさんは、戸惑う俺を嘲るような笑顔を見せた。
「それが、『人間のルール』だからでしょ?」
 皮肉に満ちた口調だったが、頭を殴られたような衝撃を覚える。
 いつか、かなみさんが言った言葉。

『それに……あの子、アンタが思ってるほど子供じゃないわよ』

「あとさ……お味噌汁の件だけど」
 面倒そうな声で、現在のかなみさんが言った。
 何回も、繰り返して同じ問題を教えているような口調で、頭を掻いていた。
「あ……はい」
「これは私の予想だけど……あんたの冷ましたのが、飲みたかったんじゃないの? ネムちゃんは」
 
 ――冷ました味噌汁を両手で受け取る。毎朝、変わらず。
 押し頂くように――大切なものを受け取るように。
 
 立て続けの衝撃に、頭の芯がカァッと熱くなる。
 一瞬で心が決まった。
 曖昧だった問題が、はっきりと見える。気付かなかった自分が、アホみたいだ。
「すみません……ちょっと行ってきます!」
 気がつけば、叫んで、駆け出していた。
 

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 騒々しい足音を立てて階段を降りていくタカシを見送ると、かなみはドアを閉めた。
 ベッドに座ると、ほとんど同時に目から涙が溢れ出す。我慢できる内に、あいつが居なくなってくれたの
はよかった。
「……バカ」
 口からこぼれる言葉は、自分とタカシ、どっちに向けたものだろう。
 何も気付かないタカシ。目の前で、涙目になってる女を見たら、その理由くらい聞くべきではないか。自
分が『なんでもない』と答えるのは、解りきっていることだけども。

 『問答無用、女の武器』『いつの時代も、料理上手な女というのはポイントが高いものよ』

 かなみに、シチューをレシピを教えたときの、母親の言葉だった。
 なぜ、その武器をネムにみすみす渡してしまったのか。未だに解らない。
 別に、教えることと自体が嫌だったわけではない。だが順序で言えば、自分が作ったものをタカシに食べ
させるのが先な気がした。ネムに教えるのはそれからでも、多分罰は当たらないはずだ。
 抱きついたり、押し倒したり、一緒に寝たり……。今のかなみには到底できないようなことを、ネムはあ
っさりとやってのける。安っぽい嫉妬だと、自分でも解っていた。
 しかし、本人に自覚があろうとなかろうと、今のままではマズいのは確かだ。タカシとて、健康な男なの
だから、いつ誘惑に負けてしまうか知れたものではない。
 ネムは、きっと見た目ほど子供でも、獣でもないと、かなみは判断した。だからこそ、猫のように可愛が
るのもやめて、態度を改めた。いや、改める前に、ライバルと見始めてから、そんな気持ちは萎えてしまっ
ていた。今も時折、動く耳や尻尾にウズウズすることはあるが、以前ほどではない。
 かなみは、自分は割と欲求に素直な部分があると思う。猫が好きでこの仕事を選んだのもそうだし、歯に
衣着せぬ言動も、そうした性格の発露だろう。
 だが、一番大きな欲求は硬い殻の中に封じたままだ。絶対にバレないように、隠したまま。
 そういったところが、ネムは自分と似ていると思った。
 ただし、ネム自身は、殻の中身が何なのか、解ってないかもしれないが。

『ジブンデ、タベルカラ……オシエテ、クレ』

と、頼まれたとき、かなみはその言葉を額面通りには受け取ることができなかった。
 タカシの帰りに合わせて、料理をしているのは明らかだった。
 確かに、その日は夜勤だったから、昼間は時間が空いていた。それでも、断る理由ならいくらでも用意で
きたはずだった。
 それでも、その頼みを受け入れた理由はなんだったのか。
 結局は、それもネムが自分に似ているからということに尽きるのだろう。
 
 『あんたは、あの子が居なくても生きてけるけど、あの子にはあんたしかいないでしょ!!』

 タカシに叩き付けた言葉は、同時に自分をも突き刺した。
 同じ理屈で言えば、かなみもタカシを明け渡すべきとなる。
 気付かないうちに掘っていた墓穴の底から、ネムとタカシの結びつきを自分がどれほど解っているかとい
う事実が見えていた。まったくもって、皮肉だった。

 ――勝てるわけないじゃない。

 声に出したのか、思っただけか、それすらもよく解らなくなっていた。
 タカシは、自分のために土下座してくれるだろうか。
 自分のために、あそこまで悩んでくれたことがあっただろうか。
 それを思えば、勝負は最初からついていたのかも知れない。
 突然、どこかで猫の鳴き声がした。携帯の着信音だ。
 どこに置いたか少し悩んで、まだバッグの中だったことを思い出す。

 液晶には『神野リナ』と表示されていた。


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