その18

 アパートを飛び出し、走る。
 右に行くか、左に行くか。
 考えるよりも、先に足。左。
 右は駅への道だ。帰り道ですれ違ったら気付いてたはずだ。横道に入ったという可能性は、一旦捨
てた。
 全速力で走りながら、ネムの痕跡を探す。
 感じられない匂い。残っていない足音。かき消えた体温。
 間違えてたら、また探せばいい。あぁ、チクショウ。いくらでも探してやるぞ。
 熱帯夜にスーツ姿で全力疾走する自分は、かなり危ない人間に見えるんだろう。すれ違った女子大
生が、ぎょっとした顔で俺を見てた。
 だが、なりふりは構ってられなかった。お兄さんは今取り込み中なんだよ!
 右手にコンビニが見える。少しだけスピードを落とし、横目で店内に居ないのを確認。また加速。
 道が交差するたびに、左右を見回して、見慣れた尻尾を探した。街灯がポツポツと点っている。だ
がそれだけ。どこにも居ない。
 どこかで曲がるべきだろうか。いや、やめとこう。曲がっても住宅のゴミゴミした路地だけだ。家
出なら、もっと広い道へ出ようとするはずだ。 
 ネクタイがうっとうしいので、走りながら外してポケットに突っ込む。気を取られて、角から出て
きた自転車とぶつかりそうになった。
「すみません!!」
 背後に怒声を聞きながらも、足は止めない。
 一体どこに行ったんだ?
 じきに、堤防にぶつかった。
 スピードを緩めず階段を駆け昇って、土手の上の道に出る。そこで一旦止まった。
 大きく肩が上下する。こんなに走ったのは、久しぶりだ。それこそ、無人島以来じゃないだろうか。
 堤防沿いの道に、上から目を走らせる。人影すらない。
 ゆるゆると、生ぬるい風が吹いていた。
 河川敷には、野球のグラウンド。50メートルほど向こうに、サッカーのゴールもおぼろげに見え
る。
 芝生の匂いがかすかに鼻を撫でた。川面には、月明かりが映り込んでいる。
 そちらに目を移した瞬間。

 土手の斜面をゆっくりと登ってくる人影。
 見慣れた尻尾と帽子のシルエット。

 一気に駆け出す。
 黒い影法師のような姿が、猛然と突っ込む俺に気付き、無言でその身を翻した。
 全速力では勝負にならない。トップスピードに乗る前に捕まえなければ。
 相手が身体を捻る。
 背中が向く直前。脇腹に向けてヘッドスライディング。
「ワウゥ!!」
「うおっ!」
 叫び。
 斜面。着地は考えていない。
 二人で転げ落ちた。手を離さないように。相手が怪我をしないように。
 やがて回転が止まると、ネムを抱きしめたまま背中から芝生を滑り落ちる。
 尻尾の感触。転げた時に帽子が落ちて、目の前にある耳。間違いない。
 その名を呼ぶ。
「ネム!!」
「ガルゥ……ハ、ハナセ!」
 動きが止まると、今度は暴れだす。転がったお陰で目が回って、頭がグラグラした。
「ま、待て! 落ち着けって!」
「ガルッ! ワウゥゥゥ!!」
 腕の中で、メチャクチャに活きのいい魚が跳ねているような感触だった。その動きを押しとどめる
ように、力を入れる。お互いの体がぐっと密着した。
「ハナセ! ハナセェッ!!」
「離したら逃げるだろうが!!」
 勝手に出た大声に、ネムがビクッと身体を震わせ、動きを止めた。
 まずい。また同じ間違いをしてしまう。
 ネムは、俺を見上げていた。
 その瞳が、不安そうな色を浮かべる。
 どうすれば、その色を拭えるか考えた。
 考えているうちに、沈黙だけが長くなっていく。
 荒い息遣いだけが、耳に入ってきた。自分のか。ネムのか。
 やがて俺の腹の上で、静かに、拗ねたような口ぶりでネムが行った。
「……ニゲナイカラ、ハナセ……」
「……わかった」
 ゆっくりと、手の力を抜いていった。放したら消えてしまうものを、そっと解放するような動きだ
った。
 ネムが立ち上がり、身体についた土を払う。
「……ナンデ、オッカケテ、キタ」
「何でって……」
 俺も顔についた芝の切れ端を摘んで捨てながら、答えた。
「お前が居なくなるからだろ? 心配したんだぞ?」
「……ナンデ、シンパイ、スル」
「いや、そりゃぁ、お前……家族だからだろ」
 『家族』という言葉が、咄嗟に出てこなかった。なんと言っていいか解らなかったが、今は『家族』
という言葉しか見つからない。
「……カゾク、チガウ」
「違うもんか」
 即答する。金色の奥に溜まった不安が、澱(おり)のように揺れた。
「グル……ネム、オマエノ、ペットカ」
「違う」
 また即答。ペットなんて思ったことは一度もない。
 同時に、『タカシ』と呼ばれなかったことに、軽く目眩(めまい)を感じる。
 隔たっている距離。
 ネムの息が、次第に荒くなっていった。爆弾のカウントダウンのように、その間隔が短くなっていく。
 『落ち着け』と言おうとして、口を開いた。
 だが、間に合わなかった。

「ワカラナイ……ワカラナイ!」

 唐突な爆発。
 ネムは頭を振ると、歯を食いしばって俺を睨みつけた。苦痛に耐えている表情だ。全身を震わせ、も
う一度、
「ワカラナイ!!」
と叫んだ。
 何もかもが信じられないようだった。
 俺は、どうすることも出来ずに、それを見ている。
 ふいに、呻き声がした。
「……クルシイ……」
「っ! ど、どうかしたのか!?」
 さっき転げ落ちたときにどこかぶつけたのか?
 慌てて一歩近寄る。だが、ネムは同じだけ後ろに下がって首を振った。
 それから、大きく深呼吸して、答える。

「タカシノコト……カンガエル……ムネガ、クルシ、イ……」

「……え?」
「ナンダ、コレ? ワカラナイ……イタイ、クルシイ、カナシイ、コワイ……ゼンブ、チガウ」
 ネムは胸の辺りに手を当てて、叫んでいる。知っている限りの言葉を使って、それを言い表そうとし
ていたが、上手くいかずに何度も首を振った。それでも、ネムはやめない。
「オカシイ、ツライ、タノシイセツナイ、ウレシイ……!!」
 手当たり次第に吐き出す言葉の、どれかが当たることを願っているように、叫び続ける。
「ワカラナイ……オ、オマエ、ノ、セイダ! オマエ、ネムヲ、ヘンニスル!!」
 とうとう、頭をかきむしり始める。
 その小さな体の中で、どうにもならない感情が暴れていた。
 俺は、その前に立つと、苦しそうに歯を食いしばるネムを見る。
 頭にある言葉がよぎる。
 もしかしたら、という推測だった。けれども、他の答えは、俺には出せなかった。
 痛くて、苦しくて、悲しくて、恐くて、可笑しくて、辛くて、楽しくて、切なくて、嬉しい感情。
 そんなのは、俺の乏しい人生経験では、一つしかない。
 その言葉を言うには、少しだけ勇気が要った。
 けれど、言わなければならなかった。そうでなければ、何も変わらなかった。不安を拭い去ってやれ
ない。
 ぬるい風が頬を撫でる。
 俺は、大きく息を吸うと、その言葉を口にした。

「好き……じゃ、ないか?」

「ス、キ……?」
「あぁ」
「スキ……スキ……」
 ネムはその言葉を口の中で転がすように、繰り返した。得体の知れぬ感情に、いきなり形を与えられた
戸惑っているようだった。
「ネム、トウフ、スキ」
「その好きとは違う。その……」
 また勇気の要る言葉だ。少しだけためらう。続ける。
「愛、ってヤツだ」
 まったく、アホみたいだ。
 こんなの『お前は俺が好きなんだろ?』って言ってるのと同じじゃないか。恥ずかしい。
 だが、ネムはまた大きく首を振った。
「アイ、ダメ……」
「ダメ?」
 『愛がダメ』ってなんだろう。よく意味が解らない。
 首を傾げる俺に、ネムは顔をクシャクシャにして、言った。
「タカシ、ニンゲン……」
「あ、あぁ」
「ネム、チガウ……!! ヒトジャ、ナイ……」
「……!」
「ダカラ、アイハ、ダメ……カゾクモ、チガウ……」
 その言葉は、とても虚ろな響きだった。ネムの目から、大粒の涙がこぼれた。それは次から次へと頬
を伝い、あっという間に川のようになった。
 そうだ。
 人でないものが、『家族』と呼ばれるのは『ペット』という形しかないのだ。盲導犬とかもあるかも
しれないけど、それでペット的な側面が完全に消えるわけではない。
 溢れる涙を止めようとしてるように、ネムは手で顔を覆う。指の隙間から、金色の瞳が見えていた。
 金色の瞳の奥で、不安が渦巻いている。その渦の中心から溢れ出す涙が、激流のようにネムの全てを
押し流してしまいそうだった。
 駄目だと思った。
 口先だけでは、拭えない。
 俺は、その手ごとネムを抱きしめる。小柄な身体は、すっぽりと腕の中に納まった。
 呻くように、俺は言った。
「違う……」
「グゥ……」
「ネムは変でもないし、ペットでもない」
「ナラ、ナンダ……?」
 俺は息を吸う。
 頭の中で、言葉を探した。自分にも、ネムにも嘘をつかない言葉を。
 すぐに見つかった。

「……大切な、人だ」

 何か言いたそうなネムを手で遮って、続ける。
「……違ったって、別にいいんだぞ?」
「……グゥ?」
 一個ずつ、単語を吟味して並べる。
「その……確かに、ネムは人間じゃない」
「……」
「だけど、居なくなられたら悲しいし、そんなこと考えたくもない」
「クゥ……」
「その……だから、えぇと……」
 あぁ、こんな台詞、こんなとこで言うことになるなんて。
 大きく深呼吸をすると、俺は覚悟を決めた。

「……傍に、居てくれないか? 出来る限り、ずっと」

 ネムは、満月のような金色の目を大きく見開いて、驚きの表情を浮かべた。
「タカシ……」
 ネムは迷っているようだった。足元を見て、俺を見、それから空を仰いだ。ネムの瞳とそっくりな、
金色の満月が浮かんでいた。
 しばらくして、月に雲がおぼろにかかった頃、ネムは喉を鳴らして、大きく、息を吸った。
 それから、目を俺の顔に戻し、一言一言をはっきりと区切り、言い聞かせるようにして、告げた。

「……ネム、タカシヲ、スキニナッテ……アイシテ、イイ?」

『……あの子、アンタが思ってるほど子供じゃないわよ』

 頭の中にかなみさんの声が反響する。
 俺は、さっきのネムと全く同じようにした。
 地面を見て、月明かりでも赤くなっているのが解るネムの顔を見、それから月を見上げる。
 言葉を選んでいるのではない。ただ、また、言うのに覚悟と勇気が要るだけだった。
 それは、深呼吸一回で調達できた。
 俺は、ネムに『答え』を与える。

「あぁ、いいよ」

 なんか、間の抜けた言葉だ、と思った。変に上から目線だし、気取ってるようで俺らしくない。
 でも、自惚れでもなんでもなく、これは俺にしか言えない台詞だと思う。
 世の中の誰が許さなくても、俺だけは、それを許そうと思う。

「ガウ……ウゥ……アアアアアアアアアアアァァァァァァ!!!!」
 
 俺の言葉が耳に届くと同時に、ネムは大声を上げて泣き始めた。
 澱のような不安が、涙と一緒に流れ出していくのを感じた。
 獣の咆哮に似ていた。だけど、それは似ているだけで、紛れもなく人間の泣き声だ。
 ネムを抱きしめながら、俺はなぜかほとんど関係のないことを考えていた。
 きっと、これで泣き止めば連れて帰れるだろうという楽観から、少し余裕を取り戻したせいだろう。
 最初に捕まえたとき、ネムの力なら、きっと本気で抗えばいくらでも逃げられたはずだ。天井に張
り付き、大の男をぶっ飛ばす力なのだから、俺を叩きのめして逃げることだって出来たはずだ。
 それをしなかったのは何故か。
 思い返せば、そもそも最近、ネムはあからさまな暴力をを振るうことが減っていた。以前は蹴る殴
るは当たり前だったのに、今は軽く小突き回す程度になっている。

『それが、『人間のルール』だからでしょ』

 かなみさんの、小馬鹿にしたような声。
 人は理性の動物とか誰かが言ったが、何か解決しようとした場合に、暴力が出てくる確立は圧倒的
に少ない。
 ネムは、それを学んでたんじゃないだろうか。
 少しでも、人に近づこうとして。
 背筋が震える。
 耳鳴りがしたかと思うと、いきなり閃光のような、記憶と当て推量のパレードが頭を駆け巡った。

 『人』と『獣人』の違いを学ぶ――

 ――健康診断。病院を嫌がったのは、それが『動物用』のものだったからだ。

 ――俺が風邪引いたとき。泣いてた。『人間』の病気の治し方がわからない自分。
 
 ――エロ本の真似。俺が見て喜ぶと思ったから。
 
 ――両親の突然の訪問。その後。『結婚』は出来ない。悔し紛れの表現。『イッショウ、コキツカ
ッテヤル』。


 ――『イッショウ、コキツカッテヤル』
 ――『……傍に、居てくれないか? 出来る限り、ずっと』
 本質として同じ言葉。離れたくないという意思の表れ。事実、離れられない二人。
 
 更なる深読み――
 
 ――動物園。親子連れ。見てたのは風船よりも、『夫婦』の姿。

 ――『女の子になった』。俺に子供が産めることや、『ママ』になれることを、しつこく質問。
 
 ――夜の海。膝枕。テレビか何かで見たカップルの真似事だったのかも知れない。

 全てのものが一気に、俺を頭から貫いた。
 その中には、好奇心もかなりの割合を占めているかもしれない。本人も自覚さえしてないかもしれ
ない。あるいは、ただの妄想かもしれない。そうとも取れるというだけの、勝手な決めつけかも知れ
ない。
 だが、少なくとも、ネムはネムなりに色んなことを、その全身で感じて学んでいたのは確かだ。
 ネムの泣き声がやんでいく。
 俺は呆然としていた。
 潤んだ瞳が、俺を見上げた。透き通った、きれいな瞳だった。涙と一緒に、全てを流しつくしたよ
うだ。
 俺はかける言葉が見つからなかった。
 一言だけ、ポツン、と呟いた。
「……ごめん」
 ゴマ粒みたいな、ちっぽけな言葉だった。
 謝らなくちゃと、焦って口からこぼれただけの言葉だった。
 自分が情けなくて仕方がなかった。

 一緒に住んでるくせに、何一つ気付けなかった。
 守ると決めたのに、何も見えてなかった。
 
 ネムは少しだけ首を傾げる。わけが解らないような顔だった。
 泣き出しそうだった。何か言おうにも、喉が震えて上手くいかなかった。
 視界がだんだん霞んでいく。
 また、不安にさせてしまう。そう思ったが、止められなかった。
 ネムの顔が、ぼやけた視界の中で近づいてくる。
 泣きやまなきゃ。泣くのだけは。折角落ち着いたのに、また不安にさせてしま――
 
 暖かくて、湿った感触がした。 

 頬を、ネムがペロッっと一舐めしていた。いつか、俺の怪我を舐めたのと同じだった。
 それだけで、ピタリと涙が止まる。
 胸の奥の、とても痛いところを、直接舐められたような感じがした。
 それから、口を尖らせて、拗ねるような顔で言った。
「ネムモ……ゴメン」
 俺は大きく息を吸って、呼吸を整えてから、首を振り、その頭を優しくなでた。
「もういい、これでおあいこだ」
「クゥン……」
 目を細めて、ネムはなすがままにされていた。
 滑らかな髪を撫でていると、なんだか手に持ってた消しゴムを延々と探してたような気分になる。
 ヒントはどこにでもあるのだ。
 今までの中にも。これからの中にも。
 なら、せめてこれからの分を大事にしてやりたい。
 例え、再び迷って、揺らいで、つまずいたとしても、それを繰り返すことが怖くなくなっていた。
 
 何度でも、追いかけて捕まえてやればいいじゃないか。
 
 やがて、俺はゆっくりとネムの頭から手を離すと、言った。
「……帰ろうか」
「……ン」
 ネムも、俺の横に並ぶ。
「タカシ……」
「ん?」
 顔を上げて、ネムは尋ねる。
「タカシハ、ネム、アイシテ、ル?」
「あぁ、愛してる」
 なぜか、照れとかは全くなかった。ごく自然に、けれどもおざなりというわけでもなく、俺はその
言葉を口にする。とても満足そうに、ネムは
「クシシシ……」
と笑った。少し悪戯心が湧いて、逆に質問してみる。
「ネムは? 俺のこと、愛してるか?」
 相手は、少し考えた後、にやりと意味ありげな笑みを見せた。
「……サァ?」
「こ、こら!」
 その瞬間、さっき言った『愛してる』が激烈に恥ずかしくなってきた。コノヤロウ、空気嫁よ!
 熱帯夜だというのに、耳まで火照りだした俺を見て、ネムはまた笑う。
 川の方から吹いてくる風は、どこまでもぬるかった。
 
 今夜、俺が言った言葉が、この先どんな影響を与えるか解らない。
 でも、きっと悪い方向ではないと思う。
 ――あの無人島からネムを連れ出したとき、それは願いだった。
 ――――だが、今ははっきりと確信できる。

「ネム……」
 顔の火照りが収まってから、俺はその名前を呼んだ。
「ガル……?」
 真っ直ぐに、その顔を見た。目に焼き付けるように。
 Tシャツにピンと立った耳。褐色の髪。ざっくりとしたショートカットは、俺が切ってやっている。
太目の眉。金色の瞳。好奇心にまかせてよく動く鼻。口元から覗く、八重歯のような犬歯。細く伸びて
引き締まった手足。起伏の少ない胴体。そして、フサフサの尻尾。
 それが、俺の同居人だ。
 言いたいことは、一杯あった。だけど、今は全部言わなくていいような気もしていた。
 でも、一つだけ。

「……シチュー、今度食わせてくれよな」

 ネムは少し目を見開いた後、
「……キガムケバ」
とだけ答えた。

 その尻尾が嬉しげに揺れていた。
 

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「ったく、ざけんじゃないわよ〜〜〜!!」
 かなみは叫ぶと、新しい梅酒のパックを開けて、中身を乱暴にグラスに注いだ。中身がテーブルに
こぼれるのも構わず、ストレートで一口飲む。その一口で、半分ほどがなくなった。
 誰が見ても、完全なヤケ酒だった。
 ランクトップにショートパンツというジョギングに行くような格好で、片膝を立てて座っている。
背中は特大の猫の縫いぐるみに預けていた。
「えぇ、まったく同感ですわ!!」
 リナが憤慨すると、手に持った缶ビールを飲み干した。こちらは正座を崩した、いわゆる『女の子
座り』でクッションの上に鎮座している。上着を脱いでおり、キャミソールから酔いで赤くなった胸
元までが見えていた。
 リナからの電話は
『……フられましたわ』
の一言で始まった。
 そこから、かなみの
『今から出られる?』
に続き、コンビニで酒とつまみを買い込んで今に至る。二人とも相手の想いは知っていたし、ライバ
ルとして牽制し合う関係だから、お互いの身に起きたことは素早く察していた。
「らいたいねぇ、基本がロリコンなのよ、あいつはぁ!」
「そうです!」
 かなみの発言に、リナが我が意を得たりとばかりに食いつく。
「わたくしの裸を見て、あの反応はあり得ませんわ! なんらかの形で病んでいるに決まってます!」
「そーだ! そー……は、裸!?」
「えぇ、一気に落とそうと思いまして」
 涼しい顔で言うリナ。普段なら絶対に言わないような、俗な表現だった。 
 かなみは少しの間、きょとんとした。
 その後で、ヘラヘラと顔を崩しながら
「へぇ〜、やるじゃ〜ん!!」
と身を乗り出して、リナの肩を叩く。
「いや、あらしもね、一緒にしゅっちょーってなったときは、『やられた!』って思ったわけよ! 
でも、そこまでいっちゃうなんて思わなかったわ! エラい! しかも裸なんてエロい! エロくて、
エラい!!」
 会心のギャグなのか、グッっと親指を立てて見せる。
 しかし、リナは浮かない顔でグラスに先ほどかなみが開けた梅酒を注いだ。当然のごとく、ギャグ
は無視している。缶は話している内に、八つ当たりの対象となっていた。
 潰れた缶には頓着せず、梅酒に口をつける。
「しかも『お慕いしてます』まで言ったんですのよ? そうまでして、どうして胸の一つも揉めない
んですの!!」
 話しながら、リナもヒートアップしていた。手に持ったグラスを、音を立ててテーブルに置く。
 かなみがそれを無責任に煽った。
「大胆だねー! 伊達に大きなおっぱいしてない――」
「お黙りなさい」
 とうとう手まで叩き始めたかなみだったが、ふいに切れ長の目に睨まれて、言葉を詰まらせた。
 どぎまぎしているかなみに、リナは言った。
「そういう、かなみさんはどうなんですの? こんなところで呑んだくれてるということは、何かあ
ったんでしょう?」
「あ、あらしは、いいよぉ」
 かなみの、それまでの勢いがなくなった。
「よくありませんわ! 早く白状してしまいなさい!」
 畳み掛けるように詰問されると、彼女を口を尖らせた。それからグラスの口に軽く歯を当て、ぶち
ぶちと語り始める。
「らってさ、リナはいいわよ?……告白してフられたんだからさ」
「え?」
「あらしなんか、告白もしてないのにさ、フられたも同然でさ。
 あの二人にはどうしたって割り込めないってさ。
 毎日毎日、見せつけらえてさ。
 それはフられたのと、どう違うわけよ! ねぇ!? どー違うのよぉ〜!!
 あぁ〜〜〜、腹立つ!!」
 呟いているうちに、溜まっていたものが爆発したように、かなみは手元の縫いぐるみを力任せに殴
った。三毛猫は、その顔を主の拳の形にへこませる。普段『シンタロー』と呼ばれ、寵愛を受けてい
るその魅力も、酒の前には無力だった。
 それを聞いて、突然、リナが立ち上がった。
「かなみさん、このままで済ませるわけにはいきませんわ!!」
「そーだ! そーだ! このまま引き下がるものか!」
 かなみも張り合うように立ち上がった。
 具体的にどうするのか、まるで解っていなかったが、そんなことは二人とも、月の裏側にでも置い
てきていた。結局、結論は同じだ。
「わたくしは、絶対に諦めませんわよ!!」
「あ、あらしらって、諦めないんだからね!!」
「……でもタカシさんの好みって、結局はネムちゃんなんでしょうか……?」
「らから、何回も言ってるじゃん! アイツは土台がロリコンの変態なんだって! きょーせいして
やんなきゃ!」
「そ、そうですわね! えぇ、そうですとも!!」
 かくして、酔っ払いたちの会話は見事なまでのループを見せる。
 そして、ループのたびに、タカシには『ロリコン』『変態』『オタク』『甲斐性なし』といった不
名誉な肩書きが増えていくのだった。


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 なんだか、隣が騒がしい。
 ネムは意識を壁の向こうから引き剥がして、隣へ向けた。
 タカシは疲れたのか、あれから簡単に食事と風呂を済ませると、そのまま眠ってしまった。今も、
目を閉じて口を半開きにし、だらしない寝顔を晒している。隣の騒動も、睡魔には勝てなかったよ
うだ。
 いつも通りに、その横へ寝そべると、かすかな日なたの土の匂いがした。
 とても懐かしい匂いだった。
 
 ――合鍵を捨てるのに、一時間かかった。
 
 手を振りかぶったまま、ネムは川原で彫像のように立ち尽くしていた。手の中のちっぽけな物を投
げるのに、それだけの時間を悩み続けた。
 だが、今ではそれが無駄ということを知っている。
 なんの根拠もない直感だが、きっとタカシから離れれば離れるほど、ネムは合鍵を捨てるのに更な
る時間が必要になると思っていた。
 そして、その間にタカシはネムを見つけて捕まえてしまうのだ。
 それから、あっさり部屋のドアを開けてしまう。
 どれだけ悩んで鍵を捨てても、結局はタカシが何事もなかったかのように開けて、『おかえり』と
言うのだ。
 無駄といって、これほど無駄なことはない。
 でも、合鍵を捨てたことに関しては、明日にでも謝ろうと思った。
「クゥ……」
 喉を鳴らすと、狭いベッドの上で、身体をすり寄せる。
 日なたの土の匂いが、さらに濃くなった。
 自分が合鍵を投げるのに迷ったのは、きっとこの匂いのせいなんだろうな、とネムは思った。
 タカシは、ネムに『愛してる』と言った。
 だが、ネムはタカシに『愛してる』とは言ってない。
 『愛していいか?』『自分を愛してるか?』と尋ねただけだ。
 それが卑怯なことなのは、解っていた。
 だが、はっきりとそれをタカシに向けて言うには、納得できていないことが多すぎた。
 学ばなければならないことが、沢山ある。
 でも、胸の奥の、苦しくて、痛くて、詰まっているような感じは消え去っていた。
 代わりに、正反対のようで、とても似ていて、それらが滑らかに交じり合った、不思議な感じが
している。
 
 暖かくて、優しくて、柔らかな感覚。それが胸一杯になっている。
 
 だから。
 それを、少しだけ、タカシに分けてやれる気がしたから。分けてやりたかったから。
 そっと、相手を起こさないように上体を起こすと、耳元に口を近づける。

「タカシ……アイシテル」

 そう囁いてから、頬に唇を軽く触れさせた。
 タカシが仕事に行っている間に、テレビで見た古い映画の真似だった。目の前の恋人役は、何の反
応も示さない。それが悲しくもあり、ありがたくもあった。
 この行為の、本当の意味が理解できるとき。
 真似ではなく、心から自然にできるとき。
 そのときは、きっと面と向かって、堂々と言えるはずだ。それまで、タカシは待っていてくれるだ
ろう。
 元の位置に戻ると、タカシの鼓動を聞きながら、ネムは目を閉じる。
 
 やがて、とても安らかな寝息がタカシのものと混ざり、部屋を穏やかに満たした。 


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