その3

 何かが変だ。
 最近、そう感じることが多い。
 具体的に何がと言うわけではないが、なんとなく誰かに見られてるような気がして落ち着かない。
 これが妙齢の女性が言う台詞ならば、『ストーカーですか?』と心配されようものだが、こちと
ら野郎である。『自意識過剰乙』ってとこが関の山だ。自分でも、どうにかして気のせいで片付け
ようとしているのだが。
 変と言えば、動物園での一件以来、かなみさんもなんとなく変だ。
 ネムに接する態度が、少しだけ変わったように思える。以前と比べて、どことなくよそよそしい。
 いつもなら満面の笑みで
『おはよう、ネムちゃん!』
と挨拶するところなのに、今朝は軽く
「あ……」
と声を漏らして会釈するだけに留まっていた。ネムも、特に何も言わずにさっさと部屋へ引っ込ん
でしまう。
 その代わりと言ってはなんだが、俺に対する罵詈雑言は三割増しだった。
「ネクタイ曲がってる」
「だらしないわね」
「ヘラヘラ笑うな」
とまぁ、こんな調子で駅に近づく。と、ふいにかなみさんは眉を寄せて、細いアゴに手を当てた。
「あんたさ……ネムちゃんに何かした?」
「な、何って、何ですか?」
「……例えば、セクハラ的なこととか」
 その言葉に俺は肩を落とす。
「そんなに信用ないですか、俺……」
「当たり前じゃない……って、そうじゃなくて、えーと……」
 彼女にしては珍しく歯切れが悪い。今度は俺が眉を寄せる番だった。
「どうかしたんですか?」
 俺の質問に彼女はハッと顔を上げてから、僅かに頬を赤く染めた。そのまま、
「……別に」
と一言だけ言い捨てると、さっさと俺から離れて自分の職場の方へと歩き出す。
 その様子は、それ以上の追求を避けたがってるように見えた。



 変なことはまだある。
 それは、神野さんだ。
 我が社の筆頭株主の一人娘であり、俗な言い方をすれば大金持ちのお嬢様。最近、俺の所属す
る部署に配属になり、一応は俺が指導を担当することになってしまった。
 このお嬢様も、最近妙だ。
 今日も埃っぽい資料室で書類を漁っていると、このお嬢様がこちらへ寄ってきた。整理棚に顔
を突っ込んでも、足音と香水の匂いでよく解る。
 爽やかなシトラス系の香りが俺の傍で止まると、
「こちらにはありませんでしたわ」
と報告が来た。うちの会社は古い資料の整理に余り力を入れてない。普段は必要になることが少
ないのだが、いざ探そうとするとどこにあるのか解らなくなってしまうのだ。ヘタすれば、倉庫
のダンボールに乱雑に突っ込まれたままということもあり得る。
 棚から顔を引き抜くと、俺は声の方を見た。
「そっか……じゃぁ、えぇと……入り口から五つ目の棚を見てくれるかな?」
「……」
「神野さん?」
 彼女は俺の顔を凝視して固まっていた。人形のような端正な顔立ちだ。この顔に見つめられて、
ドキドキしてしまうのは俺だけではないと思う。動悸を抑えると、俺はもう一度声を掛けた。
「神野さん?」
「あっ……な、なんでしょう?」
「いや、どうかしたの?」
「べっ、別にどうもしてませんわ! なんで別府さんの埃がついた汚い顔を見て、私がどうかし
なきゃなりませんの!?」
「あ、埃ついてた?」
 顔を思わず袖口で拭おうとすると、途端に彼女の表情が曇る。
「スーツの袖で拭かないで下さる? 子供じゃないのですから」
「あぁ、そうね」
 言われてからポケットを探るが、ハンカチは鞄の中であることを思い出した。そもそも、俺はあ
まりスーツのポケットにモノを入れない主義だ。そんな俺を見て、神野さんが軽くため息をつく。
「ハァ……どうぞ」
 仕立てのいいスーツのポケットから、レースのついたハンカチを取り出して、俺に手渡してくれ
た。端の方に『R・J』とイニシャルが刺繍してある。
 俺が使ってる三枚五百円のくたびれたハンカチとは根本的に異なる、滑らかな手触りだった。こ
れで顔を拭くのかと思うと、それだけでもったいないような気がする。
「あ、ありがとう。洗って返すよ」
「要りませんわ。差し上げます」
 礼を言うと即答された。そのまま、彼女はさっさと薄暗い資料室から出て行ってしまう。俺は、
微かに香水の匂いが残ったハンカチを握り締めて、その場に立ち尽くすしかなかった。
 
……って、あれ? 資料は?


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 何かが変だ。
 最近、彼女はそう思い始めていた。
 以前ならば、ヒマなときに頭をよぎるのは、アパートの隣に住んでいる男のことだった。
 ヘラヘラしてどうしようもなく頼りないヤツだが、実際には底抜けに優しくて、自分の口の悪さを
平然と受け流してくれる男。特に口の悪さは周囲との無意味な衝突を度々生んでいることから、軽い
コンプレックスでもあった。仕事中は出来るだけセーブしているのだが、ヤツの前だとついついケン
カ腰になってしまう。

 別府タカシという人間が、自分にとって特別な居場所だということに気がついてどれほどが経っただろう。
 
 素直さに欠ける自分では、その気持ちを直接伝えることはできそうにないけれど、とにかくヒマが
あれば彼女はタカシのことを考え続けていた。
 けれども、ここ数日は全く別のことを考えている。
 突然現れた、新しい隣人。
 タカシと共に住み始めた、ネムという女の子。
 いつも帽子を被っていて、シッポのオモチャをお尻にくっつけてる。交通事故のせいで色々と不幸
な境遇らしいけれども、それはこの際、あまり関係はなかった。
 なんとなく放っておけなくて、毎朝挨拶をしてみるけれども、いつも怯えたような表情ですぐに引
っ込んでしまう。人見知りをするのだろうと、余りそれについては深く考えたことはなかった。いず
れ怪我がよくなって、家族と暮らせるようになれば彼女は居なくなる。
 そう、考えていた。

 きっかけは動物園だ。
 偶然あの二人と出会って、いつもどおりのやり取りの後、アイスを奢らせたあの時。
 最初の内は、ネムに対するサービスだろうと高をくくっていた。
 だが、ネムはタカシに、アイスを食べさせるようにねだった。そのこと自体は、別にかなみも特に
問題にはしなかった。もちろん、大人気ないと知りつつも、僅かな嫉妬心は抱いたのだが。
 問題なのは、その後で彼女に見せたあの笑顔。
 あれが、いつまでもかなみの中にこびり付いたようにして離れなかった。
 正確には、『クシシシシ……』というあの特徴的な笑い方の裏に感じた、二つのものだった。
 一つは、優越感。
 そしてもう一つは、警戒心。
 自分はタカシにアイスを食べさせて貰う仲なのだと、かなみに見せ付けるような行為も含めて、あ
の笑顔に感じた優越感は未だにかなみの胸をざわつかせる。もちろん、それは只の思い過ごしで、大
人気ない邪推なのかもしれない。だが、かなみの仲の『女の直感』が、警鐘を鳴らしていた。
 そして、後者に関して言えば、今度はかなみの『獣医としての直感』刺激された形になる。獣医で
あるかなみにあの笑顔は、人間が歯を見せて笑うと言うよりも、イヌやネコが歯を剥いて相手を牽制
するような表情に思えたのだ。無論、バカバカしいと、自分でも思うだのが、あの笑顔は、
『これは自分のものだから、触れるな』
と、そう言っている様に、彼女には思えてならなかったのだ。
 今に至っては、タカシのことを考える度に、まるで自分が恋人のいる男に手を出そうとしているよう
な、理不尽な罪悪感すら感じてしまっている。
 
 ――ライバル……なのかな。

 彼女が今現在もっとも腹立たしいのは、ネムでも、ましてやあの鈍いタカシでもない。
 大人の女としての余裕を持てない自分自身なのだ。
 
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 何かが変だ。
 彼女もまた、最近そう思い始めていた。
 父親の言いつけで、くだらない会社のくだらない部署でくだらない仕事を始めて二週間。
 リナの父親は財閥のトップでありながら、末端の仕事の重要さを知っている男だった。だからこそ、
リナにもその仕事を経験させるべく、そのような言いつけをした。それは別にいい。
 だが、彼女の指導担当になった別府タカシという男が、変なのだ。
 一目見たときから、リナの頭にはある疑念が消えないままだ。
 前に、どこかで会った気がする。
 そもそも、リナは物覚えのよい方だし、名前と顔を一致させるのも得意だ。幼い頃から社交界で数々
のパーティーに出席してきた身として、相手の顔を覚えるというのは必要なスキルでもあった。お陰で
いまや彼女は数年振りにあった人間でも、簡単に名前を思い出せるし、前回どこで会ったかも即座に口
に出来た。
 ところが、タカシに関しては、それがない。
 『前に、どこかで会ったような気がするのだけど……』という程度の認識しか持てなかった。
 生来負けず嫌いで、白黒をはっきりつけないと気が済まない性分の彼女としては、この状態は非常に
居心地の悪いものだった。執事の中村に調査を依頼したのも、リナにとっては苦渋の決断と言っていい。
 だが、調査の結果を聞いても、彼女には納得できなかった。
 テレビや新聞を通して見たのではない。
 それは、日が経つにつれて確信へと変わっていった。
 
 絶対、確実に、どこかで直接会っている。

 あとは、その『どこか』が解ればいいのだ。
 それさえ思い出せれば、芋づる式に全てがクリアになりそうな気がする。
 一般家庭の基準からすれば、かなり豪勢な調度が揃えられた部屋で、リナはソファに深く座ると唇を僅
かに尖らせた。
 窓の外はとうの昔に日も暮れて、真っ黒に塗りつぶされている。昼間ならば、そこから植え込みに囲ま
れたテラスが見えるはずだった。
 真っ黒……
 黒……
 思考の矛先を変えなければならない。
 『どこか』を探していては、袋小路に入るだけだ。
 落ち着いて考えなければならない。
 自分と、あの男の共通点を探してみるのだ。
 小学、中学でのクラスメイトかも知れない……違う。それについては中村の調査で立証されている。
 どこかのパーティーで、バイトか何かでボーイをしていたのかもしれない……それも違う。いくらなんで
も、パーティ会場のバイトまで覚えていられるわけがない。余程奇妙なことをしてれば話は別だが。
 違う。そんなことじゃない
 自分は普通ではない。財閥の一人娘として生まれ、英才教育を施されてきた。
 そんな自分と、庶民代表みたいなあの男の間に、何か共通点があるのだろうか。
 
 ――マカオ

 そうだ。
 あの男は、マカオへ旅行へ行ったと言っていた。商店街のクジ引き。そして、遭難。四十日余りを、無人
島で生活。平凡な男の平凡な人生に存在する、非凡な経歴。
 マカオで顔を合わせたのか? いや、リナもマカオへ行ったことはあるが、その時期ではない。最後に言
ったのは、もう三年ほど前だ。 その時期に、自分は何をしていた? 
 豪華客船に乗って、世界を回っていたのだ。日本へ戻る船内で、優雅な船旅を満喫していた。
 思い出したくもない経験。
 銃声。悲鳴。
 そのとき、リナの脳裏に光が走った。
 
 タカシが日本に居ない時期に、自分もまた日本に居なかった。

 漠然としすぎている共通点かもしれない。だが、一つをようやく見つけたのだ。
 あと少しだ。何かが足りない。何かが。
 
 ……黒。
 ……真っ黒な、タールを流したような海。
 思い出したくもない経験。
 余程奇妙なことをしていれば話は別だ。 
 夜。
 銃声。悲鳴。
 奇妙なこととは何だ?

 ――そうだ。

 出入り口を一つだけ残して封鎖されたホール。反撃を避けるため、男はホールの奥の方へ、女子供は入
り口へ近い場所へ座らされていた。
 あの海賊たちの手並みは鮮やかの一言だった。速やかにブリッジを制圧し、金目の物だけを奪い去って、
誰一人傷つけずに、進入して僅か30分ほどで台風のように去ったのだ。
 
 そして、あの男はそのホールの入り口に、見張りとしてライフルを持って立っていた。
 
 ――日焼けと機械油で汚れた顔は、資料室で埃のついた顔に似ていた。

 彼女は素早く立ち上がり、電話の受話器を持ち上げた。内線は直通で、執事のところへ通じるようにな
っている。
「中村、車を回しなさい。今すぐに」
「かしこまりました。お嬢様」
 それから、リナは景気よく寝巻きを脱ぎ捨て、身支度を整えた。胸の奥で、沸き立つような興奮が踊っ
ていた。
 あの男の住所は、とっくに割れている。今からでも、30分もあれば到着できるだろう。
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「待て! 落ち着けってば!!」
「ガウゥゥ!!」
 思わず後ずさりをしたが、床に投げてあった雑誌を踏んづけてしまう。
「のわっ!!」
表紙が床で滑って、そのまま俺は派手に尻餅をついた。ジンジンと痛む尻を気にする間もなく、今度はネ
ムが俺の腹の上に乗っかってきた。
「グルゥ……」
 目を吊り上げ、歯を剥き出しにした怒りの表情で、鼻先数センチのところまで迫る。
「な、何なんだよ! なんで怒ってんだ!?」
 まったく心当たりがないので、俺も声を荒げて反論した。
 何しろ久々の残業で、疲れて帰ってきた途端にこの調子である。帰りが遅くなるのは電話で伝えてある。
ネムと生活してからも、こういったことは何度かあるのだ。今更そのせいで怒るとは思えない。
 ちなみに残業の原因は、資料室を一人で這いずり回った挙句、自分の仕事が全く進まなかったせいだ。あ
のお嬢様には一度ガツンと言ってやらねばならない気がする。
 俺の質問に、ネムは無言で手を伸ばして鞄を取った。留め金を外すと、中身を盛大にぶちまける。
 ファイルやら筆記具、財布に携帯に続いて、床に柔らかく落ちたのはレースのついたハンカチだった。
 拭った埃で少し汚れたそれを乱暴に引っつかむと、ネムは部屋の隅に放り投げた。
「な、なんだよ。あれがどうかしたのか!?」
「……クサイ!」
 顔をしかめハンカチの方から顔を逸らすネムを見て、俺は首を傾げる。
「臭いってなんだよ……ちょっと香水の香りが……あ」
「ガウ……」
 そう言えば。
 以前、こいつの生活用品を買い足しに、デパートへ連れて行ったことがあった。そのとき、化粧品売り場
の前を通りかかった途端に、まるで花粉症のようにクシャミを連発し、鼻水ダラダラで結局何も買わずに帰
ったことがある。ハンカチについてる匂いにしても、俺の鼻では殆ど気にならない程度だが、こいつにして
見れば苦痛なのかもしれない。
「あぁ、悪かった。すぐ洗うから、勘弁してくれ」
 そう言って、俺はネムが降りてくれるのを待った。
 もう正直、クタクタに疲れて早く寝てしまいたいのだ。
 だが、ネムは降りてくれなかった。
 いたずらっぽく、ニヤ〜っと笑う。頭の上の耳がピクピクと動いて、尻尾もゆっくりと揺れている。
 とてつもなく、嫌な予感がする。
「えっと、ネムさん? ちょっと落ち着いて頂けるとありがたいのですが……」
「グルゥ〜♪」
 とてもゆったりと首を振ると、ネムは両手をワキワキさせる。
「ちょ、え、待て、待てって、もう夜も遅いから……アッーーーーー!!!」
 いきなり、わきの下に手が突っ込まれる。となると、当然やることは一つ。
「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!」
 絶妙なタッチでくすぐられて、俺は悶絶した。
 転がった拍子に、壁を蹴ってしまう。かなみさんに文句を言われそうで、少し慌てたが今はそれどころ
ではない。
「アッ! ハハハハ、ややめっ!……ネムってば! カンベぬふぁははははははっ!」
 逃れようと身を捩っても、巧みに身体を移動させてそれを許してくれない。総合格闘技かなんかしたら
、寝技でトップを取れるんじゃないか。ネムはマウントを維持したままで、俺のわき腹をくすぐり続ける
「ハァ……ネム……も、もう……!」
「ガウ……タカシ……」
「はぁ、はぁ、……だ、だめだって……! そ、そこはっ……! こ、このぉ!」
「グニャッ!」
 溜まらず、力任せにネムを抱えてひっくり返す。力は強いが、体重は意外と軽い。
 派手な音を立てて、俺とネムの位置が入れ替わる。
「はぁ……はぁ……こいつめ……只で済むと思うなよ」
「ガウ……」
 首を竦ませるネムを見て、俺は嗜虐心たっぷりの笑みを浮かべた。多分、今の俺は越後屋くらいあくど
い顔をしてる。だが、これはお仕置きだ。当然のしつけだ。フフフフ……。
 自分の行動を正当化させつつ、お返しとばかりに両手をワキワキさせる。
 いざ、今こそ復讐を……!!

「なっ……なに……? これ……」

 背後で声がした。 
 咄嗟に振り向くと、かなみさんが呆然とした顔で立ち尽くしていた。
 ……マズい。
 これは非常にマズいですよ。
 『ドアに鍵かけてなかったけ?』とか、『なんで勝手に入って来てんの?』とか、疑問は色々ありますが。
 いたいけな少女にまたがる変質者として見られるよりも、
「ご、ごめん。入るつもりなかったんだけど……っていうか……あれ……? ネムちゃん……耳……?」
 かなみさんの目が、ネムの獣耳に釘付けになっている方が、百万倍はマズい。
 珍しく、かなみさんもうろたえていた。そうでもなきゃ、俺に軽々しく『ごめん』なんて言うはずがない。
 とにかく、今にも叫びそうな彼女を落ち着けて、事情を説明――

「……これは一体、何の騒ぎですの? ドアも開けっ放しで……」
 
 かなみさんの背後から、神野さんが顔を出した。
 瞬間、俺の頭はある結論を出す。
 これは夢だ。
 でなければ、かなみさんはともかく、神野さんが俺の家に来るわけがない。
 そうだ、きっとこれは夢……。

「……なっ……何ですの? その子は……っ!」

  
 …………\(^o^)/


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