その4

 そう、例えば。
 昼間はサラリーマンとして働き、夜になれば悪を討つヒーロー。
 そんな話は数あれど。
 サラリーマンでありながら、海賊の経験がある人間なんて、そんなに居ない。創造の世界でも、そんな妙ち
きりんな設定なんか作ってどうなるものでもなし。
 ところが。
 俺はまさしく、その設定そのままなのだ。
 ネムを日本へ『密輸』する際、一月ほど海賊の手伝いをしたことがある。といっても、荒事ができるわけで
はないから、せいぜい見張り番程度のものなのだが。
 それでも、俺が犯した罪は大きい。
 強盗幇助に密輸入。当然、税関だって通してないわけだから、関税法にも違反してる。
 捕まれば、人生終わるに十分すぎる罪だ。
 その覚悟を決めて、それでも俺はネムを傍に置いておくことを選んだ。
 それでも、やはりどこかナメていたところがあったんだと思う。
 遠い海の上でやった海賊行為なんか、バレるわけがないって。
 だから、これはきっとそんな俺に対する罰なんだと思う。
 
 神野さんが、こちらを見ている。
 日頃から涼しげな目元は、今はさらに険しく、俺はピンで留められた昆虫のように動くことが出来なかった。
 ちゃぶ台の向こう側が、地平線の向こうのように、現実感がない。
 アパートの俺の部屋。普段は食事をするちゃぶ台に、四人が座っている。
 俺の横にはネム。そして、ネムの真向かいにかなみさんが座り、俺の前には神野さん。胡坐をかいているの
はネムだけで、他は全員正座だった。台の上にはお茶すら出されておらず、蛍光灯の安い光をかすかに反射されている。
 神野さんがつけているいつもの香水の香りにネムが反応してしまうので、部屋の窓は開け放してあるが、風
が肌を撫でても、次から次へと冷や汗が噴出してきて、それほど心地よくはなかった。
「――そう、そんなことがありましたの……」
 神野さんは、俺の話を聞き終えるとポツリとそう言った。
「うん……なんて言っていいか、解らないけど……ごめんなさい」
 俺は頭を下げる。もはや、何を言っても誤魔化しの聞かない状況で、俺は完全に観念していた。
 ネムは不安げに視線をあちこちに移している。かなみさんは、そんなネムの様子に視線を注いでいた。
 そりゃそうだろう。俺だって、初めて会ったときは散々自分の目を疑ったものだ。 
 頭の上でピコピコとよく動く耳は、俺たちの会話を注意深く聞いているようだし、尻尾は元気なく床に垂れ
ている。のっぴきならない事態だということは察しているらしい。
「それで、盗んだものは?」
「それは……船長が持っていったから、俺はよく知らないんだ」
 これは本当だった。俺は現金の類は一切貰っていない。もっとも、盗品を売った金をネムの運搬費用に使っ
たりしたのかも知れないが。
「そう……ですか。その口ぶりだと、その船長の行方も、ご存じないんでしょうね?」
「はい……」
 これも事実だ。ネムの『輸送』の時に少し言葉を交わしただけで、今はもう連絡先も知らない。もうこの先
、一生会うこともないだろう。
「ふむ……なるほど、解りました」
 そう言うと、神野さんは、スイ、と立ち上がりいつもの姿勢のよさで部屋を出て行こうとする。
「あ、あの……!」
 慌てて俺はその背中に声をかけた。警察に通報されようが何されようが文句は言えないが、黙って去られて
は流石に不安に過ぎる。
 再びこちらに向き直ると、肩にかけたラベンダー色のショールと、緩やかにカールした髪の毛が、殆ど相似
形の優雅な動きを見せた。
「ご安心くださいな。別に警察に通報は致しませんし、その子のことも他言しません」
「え……?」
「だって、そうでしょう? 別府さん一人を逮捕させたところで、盗まれたものが帰ってくるでもなし、海賊
が捕まるわけでもないですもの。何の得もありませんわ」
「はぁ……」
 思いがけない言葉に、俺の口は半開きのままだった。
 俺が言うの何だが、普通犯罪者を見かけたら、速やかに通報するのが善良な市民というものだろう。
 お金持ちの考えはぶっ飛んでるというか、何と言うか。いや、むしろ自分の損得を厳密に計算できるからこ
そ、金持ちなのかもしれない。
「その子にしたって、同じですから。では、また明日。お休みなさい」
 この場にそぐわない、恐ろしく慇懃な挨拶を残して、神野さんは去っていった。香水の残り香が、窓から吹
き込んだ風に吹かれて、すぐに消えた。
 これで、問題の片方は消えた……のだろうか?
 とにかくこの場に関しては、神野さんの方は収まったとしよう。色々不安はあるが。
 もう片方の問題が、目の前に残っている。すなわち……
「あ……動いてる……」
 かなみさんだ。
 さっきから、時折こうした声を漏らす以外は、一切無言でネムを見つめている。普段からかなみさんに対し
ては警戒心剥き出しのネムだが、この場においては本当にいつになくおとなしい。
「……かなみさん?」
「……あ、耳……」
「……あの〜……」
「ぬこ……ぬこたん……」
 
 ――何か変だぞ。
 
 今まで黙ってたのは、単に現実離れした話と場の緊迫感によるものだと思っていた。ネムの存在に驚いてい
たという理由も考えられる。
 だが、今のかなみさんの目は、何かが変だ。
 というか、今までに、何回か見たことのある目だぞ。あれは。

 トんでる。
 
 心は遥か恍惚の彼方、桃源郷へ旅立っている目だ。かなみさんの桃源郷は、きっと猫しか居ない世界だ。俺
の勝手な想像だが、無数の猫の真ん中に、かなみさんが一人座って、ハーレムの主のごとく次から次へと猫と
戯れているのだ。
 とにかく、現実へ呼び戻さなくては、話が出来ない。
「かなみさん!!」
「……ひゅあっ!!」
 止むを得ず怒鳴りつけると、ビクッと全身を震わせて驚いた。それから俺の顔に焦点が合うと、自分のそれ
までの有様を思い出したのか急に顔が真っ赤になる。
「なっ! なによ! 脅かさないでくれるっ!?」
 負けじと怒鳴り返されたが、こちらもそれどころではない。
 なにしろ、人生かかってる。しかも俺と、ネムの両方だ。
 
 俺は一も二もなく、床に手をついた。

「なっ……何してんのよ!」
「お願いです! こいつのこと、黙っててください!!」
 もう、なりふりなんて構ってられない。
 俺はこいつを守ると決めたのだ。俺のために故郷を捨ててくれたネムの気持ちに、精一杯応えると決めたの
だ。
 そのためなら、土下座くらい、なんでもない。
 かなみさんが思わず腰を浮かした。
「ちょっ……顔上げなさいよ! いいから!」
「お願いです! お願いですから!!」
「あぁ〜っ! もうっ! うっとうしい!!」
 瞬間、目の前が真っ暗になった。
 土下座の体勢から、身体が床にひっくり返る。
 頭がグラグラしてから、蹴っ飛ばされたことに気が付いた。
「私はまだ、何も言ってないでしょうが! 勝手に先走ってんじゃないわよ!」
 上から声が叩きつけられた。
「タカシ!」
 ネムがここで、初めて動き、俺に取り縋る。それから、キッとかなみさんを睨みつけた。髪の毛が逆立ち、
背中をたわめて今にも飛び掛らんばかりの姿だ。
「ま、待て! ネム!」
 俺はその肩を掴んで、どうにか引き止める。いくら何でも、本気で暴れられたら困る。ネムの見せた野性
の片鱗に、かなみさんも戸惑っているようだった。
「大丈夫です……大丈夫ですから、こいつのことは……」
 地面が傾いているような不安定さを堪えて、俺は身体を起こしてそれだけを言った。
 彼女は俺とネムを交互に見て、それからすっ、と緊張を解いた。
「はぁ……解ったわよ。他言無用ね」
 深々とため息をついてから、かなみさんはそう言ってくれた。
「あ、ありがとうございます!」
 思わず安堵の息を漏らす俺を、ネムが状況を把握しきれていないような顔で見た。
 その顔がなんだか無性におかしくて、俺はその身体を抱き締めた。
「ネム! まだ一緒に居られるぞ!」
「ガウッ! ハ、ハナセ! アツイゾ!」
「ネムうぅぅ!!」
 暴れるネムにも構わず腕に力を込める。抗う動きも、心なしかパワフルさに欠ける。
 そうやってじゃれあう俺らに、かなみさんは一つ、咳払いをしてから、釘を刺した。
「……でも、一通り検査は受けてもらうわよ」
「え? 検査……ですか?」
「法律だって、何の理由もなくあるわけじゃないの。万が一、疫病でも持ってたら大変でしょ? まして
、その……新種の生き物なんだから、扱いは慎重でないと」
 途端に胸がざわつく。一晩に起きた様々出来事で情緒不安定になった俺は、多分いい年して泣きそうな
顔をしていたと思う。
 それをみて、彼女は苦笑いをして見せた。
「大丈夫。検査といっても、解剖するわけじゃないし。人間の健康診断と対して変わらないわ。私が当直
のときなら、誰にもバレずに出来るはずよ」
「はぁ……」
「夜が空いてる日を教えてくれれば、それでいいから」
 淡々と、事務的な口調でかなみさんは続ける。話しながら、横目でネムのことをチラチラと見ていた。
 明らかに、さっきから落ち着きがない。手がウズウズと自分の太股のあたりでうごめき、唾を頻繁に飲
み込んでいる。まるで、大好物を目の前にして我慢している子供のようだ。
 そこで、ようやく俺は彼女が何をしたいかを理解した。
 理解はしたが、これは少し賭けかもしれない。ネム次第だし。
 だが、俺は思い切って尋ねてみた。
「あの……撫でますか?」
「ふぇ!? わ、私が!?」
「いや、撫でたそうだったから……」
「そ、そんなわけないじゃない! べ、別にそんなわけないけど……ま、まぁ、ほら、獣医としてやっぱ
り興味あるっていうか? ど、どうしてもって言うなら、仕方ないって言うか?」
 しどろもどろ具合がいい感じだ。それに、強がっていながらも、手は既にこちらへ伸びてきている。っ
ていうか、なんで疑問形なんだ?
「ガゥ……」
 ネムが身体を引いて、その手を避けようとする。俺はその耳元で、
「我慢しろ」
と呟き、安心させるように腕に力を込めて抱き寄せた。
「ウゥ……クゥ……」
 ネムも、これが何か重要なことだと気づいたらしく、身体の動きを止める。
 柔らかな毛の中に、かなみさんの細い指が埋まっていった。
「うわ、うわ、うわぁ……」
 小さい悲鳴を断続的に漏らしながら、その手を動かす。毛が滑らかに指の動きに合わせてなびくと、や
がてネムも目を細めた。俺とは違う、とても柔らかなタッチだった。
「ワウゥ……クゥン……」
 ついにネムの喉からそんな声が漏れた瞬間。
「かっ、かわいい……っ! もう我慢できないっ!」
 唐突に、かなみさんがネムに抱きついた
「ギャゥッ!」
 いきなりの暴走に対応できるはずもなく。
 何が起こったかよく解らないまま、ネムはかなみさんに全力で頬擦りされていた。
「かわい〜〜〜〜っ! ヤだ、なにこの子! あり得ない! かっぅわうぃ〜〜〜〜〜っ!!!」
 かなみさん、日本語が不自由になってますよ。
「フギャッ! ギュワアァァァァッ!!」
 ネムも初めて合うタイプの人間に、リアクションを決めかねているようだ。悲鳴を上げながら、なすが
ままに頬っぺたを蹂躙されている。
 これがあれか、『まさちゅーせっつ』ってヤツか。マジで接触してるところから煙が出そうな勢いだ。
 そうやってまじまじと観察していると、ふとかなみさんの動きが止まった。
 俺と目が合ったからだ。
 かなみさんは、俺の腕の中に居たネムに向かって飛び掛った。
 ということはつまり、間接的に俺も押し倒してるというわけで……。
 三つの顔は、今とても近かった。それぞれが、鼻先10センチの距離にある。かなみさんの長い睫も、
通った鼻筋や肉感的な唇も、ここからとてもよく見えた。
「はは……いやぁ、やっぱ、美人っすね。かなみさん」
 何を言っていいか解らず、思わず見えたものをそのまま言ってしまった瞬間、かなみさんの顔が見る見
る内に、朱に染まった。
「なっ……ふなっ…びっ、ぐっ……ち、近いのよおぉぉ!!」
「うぐべぁっ! な、なんで俺が……」
 別の意味で煙が出そうなパンチを右頬に貰って、俺の意識は遠のいていった。
「と、とにかくっ! 検査受けに一回連れて来なさい! 解ったわね!」
という、かなみさんの台詞と、ドタドタと部屋を出て行く足音と共に……。



 身体の節々が痛くて、目が覚めた。
 既に部屋は明るく、完全に夜が明けている。目覚ましを見ると、設定してる時間の15分前だった。床に
ひっくり返ったままで、朝まで寝てたらしい。
 身体を起こそうとすると、毛布が床に落ちる。多分、ネムが掛けてくれたんだろう。そのくらいなら、ベ
ッドまで運んでくれればいいと思うのだが。
 ふと顔に違和感を感じて手をやると、ベタベタした液体に塗れていた。
 唾液か? これ。
 昨夜かなみさんに殴られた部分を中心に、殆ど顔中がドロドロヌルヌルしていた。
 ふと、傍らに目をやるとネムが既に起きていて、ブスッとした顔で、一言、
「ハラヘッタ」
と言い、あくびをしながらTシャツの中へ手を突っ込んで、腹の辺りをオヤジみたく豪快にボリボリ掻いた。
 きっと一晩中、殴られたところを舐めてくれたのだろう。そうでなければ、唾液はとっくに乾いてカピカ
ピになってるはずだ。
 かすかに出来ているクマを隠すように目をこするネムの頭を
「ありがとうな」
と撫でてから、洗面所へ向かう。
 毛布を掛けてくれたのも、顔を舐めてくれたのも、ネムの持つ優しさかの行動だろう。朝そっけなく、
『ハラヘッタ』だけ言ったのも、ヤツ特有の照れ隠しだ。それは解ってる。
 解っている上で、それでも俺は、近いうちにネムに救急箱の使い方を教えておこうと決意するのだった。


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