その5

『ぴったん、ぴたんた、もじぴったん♪』

「ワウワウ、ゥワワウ、ウルルルル♪」

 テレビから流れる音楽にノリノリの獣人さんです。
 コントローラーを軽快に操り、みなさんご存知、あのゲームで日本語のお勉強中。

『ピロリン♪ たけ(丈)! せたけ(背丈)! かた(肩)! かたみ(肩身)! たみ(民)!』

 おぉ、5コンボ……。
 21世紀は便利なものだ。一昔前なら、ひらがなが書いてあるブロックとか使ったもんだろうが、今
じゃ『もじぴったん』だもの。かさばらないし、何より楽しい。
 ――だが、問題としては……

『ピロリン♪ ごみ! みみず!』

 2コンボか。しかもゲームにまで罵られてるような気がする。
「……フフン」
 くそ、鼻で笑われた。さっきからずっとこの調子だ。
 しかし頭が固いのかな、俺。すでに5連敗なんですが……。
 ネムの学習能力は凄まじいものがある。やれ獣人だの、やれケダモノだの言ってられない。俺が情操
教育及び日本語習得のために買ってきた絵本の類はとうの昔の全部読破され、今は小学校高学年向けの
児童文庫を読みあさってる状態だ。俺が近所の図書館から借りてきた『ズッコケ三人組』と『赤毛連盟』
が、なんともシュール。図書館の受付のお姉さんが笑いを堪えてたのが思い出される。

『ピロリン♪ きす(キス)! すずめ(雀)! むす(蒸す)! すか(スカ)! むすか(ムスカ)! 
すかんく(スカンク)!』

 げ、6コンボ……って、ちょっと待て、NAMC●! 今なんか変なのなかったか!?

『わ〜い、やったね♪』

 あ〜ぁ、結局6連敗かよ……
 縦半分に分割された画面はヤツの方だけキャラクターが踊って、規定の単語数に達したことを示
していた。
「ガウワゥ♪」
 ネムさんマジご機嫌。楽しくてたまらないらしい。
 数秒、満足そうに踊るキャラクターを見た後で、ネムは人差し指をチョイチョイと、横柄に動か
した。ヤクザの親分が、子分に『耳貸せ』と指図するときのようだ。
「カオ、ダセ」
「……はいよ」
 傍らのセロテープを五センチほど爪の先で切ると、そのままネムは俺の左頬の肉を摘んで引っ張
り上げ、固定する。
 いわゆる罰ゲームってヤツだ。俺の顔は6連敗の分も含め都合9ヶ所が固定されてるわけだから、
その惨状は推して知るべし。下唇がめくれてるから歯茎が乾いて仕方ないし、鼻もおかしな風に曲
がってるので呼吸が苦しい。
 ただ、俺もやられっぱなしというわけではないから、ネムの顔にも三箇所ほどテープが貼られて
いる。眉間のテープのせいで眉が『ハ』の字になった顔のまま、
「クシシシシ……」
と楽しそうに笑う顔を見てると、不思議とあまり腹も立たない。性別こそ女だけど、こっちも余り
気を使わずに済むのはありがたかった。罰ゲームも手加減なくできるしな。
「よっしゃ! もう一勝負いこうぜ!」
「ヨワイノニ、ヤリタガリ……」
「うるせ!」
 ニヤニヤしるネムに言って、床に置いたコントローラーを拾い上げた瞬間だった。

「入るわよぉぼぶっ!!」

 背後で異音がした。
 かなみさんが、廊下に続くドアに身体を半分隠して顔を伏せていた。肩がプルプル震えている。
 ティッシュを箱ごと渡すと、それを引き抜きながら涙目で俺たちを見た。
「な、なにしてんのよ、あんたたちプフゥッ!」
 テープを剥がす過程の顔がまた面白かったらしく、再び吹き出される。
 この間の一件以来、かなみさんはしょっちゅう俺の部屋に上がりこんでくるようになった。いき
なり出てくるから、一度風呂上りに鉢合わせしたしたことがある。それでも殴られたのは俺だった。
俺んちなのに!……俺んちなのにっ!!
「いつも言ってますけど、チャイムくらい鳴らしてくださいよ……」
「なんで私があんたなんかの部屋に入るのに、そんなにかしこまらないといけないわけ? お隣な
んだし、カタいこと言わないの」
「じゃぁ、俺がかなみさんの部屋に勝手に入ったら?」
「即通報」
 理不尽にも程がある。
 だが、それをこの場で掘り下げても仕方がない。
「それで、どうしたんですか?」
「あ? あぁ、例の確認よ。今日は私夜勤だから」
「あぁ、はい」
「そうね……2時くらいに来てくれれば、まず大丈夫だと思うから」
 手首の内側にした腕時計をチラリと見ると、彼女はネムを横目で見た。
 セロテープを剥がそうとして悪戦苦闘している姿を見ると、途端にその目尻が下がる。
「あ、あんたのためじゃないけど、ネムちゃんの健康は誰かが管理しないといけないし、多分あん
たじゃダメだろうし……」
「はい、よろしくお願いします」
 そんな笑顔で強がられても困るだけので、殊勝に返事をしておく。孫を前にした年寄りみたいだ。
「あ、あと例の約束も、忘れないように!」
「解ってます」
「ぜ、絶対だからね!? とぼけたって、無駄なんだから!」
「大丈夫です」
 留守電の音声並みに事務的な返答だったが、かなみさんは満足そうに部屋を出て行った。
「タカシ……」
「大丈夫だ。すぐに終わるからな」
 俺はネムの頭を撫でると、軽くため息をついた。
 
 ――深夜の健康診断は、とても気が重い。



 
 病院というのは、どこも似たような匂いがする。
 消毒液の匂いに、清潔なシーツの匂い。あるいは、病室から漂う饐えたような臭いに、薬品の臭い。
 そのどれもが、どことなく無機質だ。シーツ一つにしても、よく干したときの太陽の匂いがするわ
けでもなく、クリーニングから帰ってきたばかりの、洗剤と漂白剤の匂いが強い。
 動物病院でもそれは殆ど変わらない。ただ、少しだけ獣の臭いが鼻を掠めた。
 かなみさんの勤める動物病院は、駅前のビルの一階に入っている。
 二階は英会話スクールで三階は居酒屋、といった風な節操のない(だがありふれた)雑居ビルに間
借りしているのだ。
 週末の駅前にありがちな喧騒も、この時刻になると大分落ち着いてきている。
「ん〜……特に問題はなさそうね」
 かなみさんの声に、俺はホッと息を漏らす。傍から見ればオーバー過ぎるリアクションだったかも
知れないが、とにかく一安心だ。
 何しろ、妙な病気とでも診断されたら、俺には手の打ちようがない。
 これでも心配してるんですヨ? ワタシ。
「レントゲンも、ほとんど人間と変わらないし、血液検査でも重大な病原菌は見つからなかったわ。
まぁ、血液はもうちょっと細かく調べてみるけど、その結果は一週間後ってとこね。まぁ、でも大丈
夫でしょ」
 かなみさんの座っている椅子が、キシ、と珍種の鳥みたいに鳴いた。
 そこはいわゆる『診察室』だったが、普通の病院のそれよりも、はるかに広い部屋だった。リノリ
ウムの床に、下半分にタイルが張られた壁。全体的に薄いピンクで統一されていたが、今はレントゲ
ンを見るため、明かりは最小限に落とされている。
 部屋の中央には、動物用の診察台が鎮座しており、妙な存在感を放っていた。
「それで……アレ、持って来た?」
 安堵から一瞬なんのことか解らなかったが、かなみさんの射るような視線に、俺は慌てて鞄から新
品のノートを取り出した。
 かなみさんはそれを受け取ると、表紙をめくった最初のページに今日の日付を書き込む。
 よくあるタイプ事務机の上に、テレビで見るような台にネムのレントゲンが写っていた。裏から光
を当てられ、肋骨の辺りが浮かび上がっている。実際にはそれに加えて両手両足頭蓋骨も含む全身の
骨、さらには薬を使って内臓もある程度撮影済みだった。それらの写真を含むカルテは、かなみさん
が家に持ち帰って保管しておくとのことだ。
 かなみさんの白衣はレントゲンの光を反射して、それ自体うっすらと発光しているように見える。
細身のパンツに包まれた脚を組んだ彼女の姿は、いつも俺に当り散らしているのとは違う『仕事人』
のそれだった。
 そのペンを持つ手には、絆創膏が張られていた。
「それ……」
 俺が指差すと、彼女は軽く右手を上げて苦笑してみせる。
「なつかない子が多くってね。引っかき傷なんか日常茶飯事よ」
 そう言うと、机の上の救急箱をアゴで示した。
 なるほど、さっきからなんで人間用の救急箱があるのか気になっていたが、そういうわけか。もっ
とも、なつかないのは正直な話、かなみさんの過剰なアクションが原因だと思うのだが。
 日付に続いて体温、血圧、脈拍等を書き連ねると、かなみさんは俺にノートを突っ返した。
「明日からはあんたが書きなさいね」
「はぁ……」
 要するに、ネムの体調管理ノートとというわけだ。
 事実、ネムが病気にでもかかったら、もはや頼れるのはこの人しか居ないのだし、確かに自分でもそ
の辺の管理は甘かったと思う。
 かなみさんが椅子に座ったままで壁のスイッチを入れると、部屋の蛍光灯がついた。肋骨のレントゲ
ンを封筒に入れて、封をすると自分の鞄に入れる。その間に、チラリと横目でネムの方を見た。
 ネムは俺の横の椅子に腰掛けていた。慣れないことの連続で疲れているかと思ったが、むしろ好奇心
が刺激されているらしく耳を動かし、鼻を引くつかせて、五感で病院という場所を探っているようだ。
 ガチャガチャと落ちつかない音を立てて、かなみさんは鞄の留め金を留める。
 それから、俺を見て目配せをした。
 俺は少しのためらいの後、それを受けてゆっくりと頷き、立ち上がる。スチールの事務椅子が耳障り
な音を立てた。
 ネムもそれに反応して、少し慌てた風に腰を浮かせる。
 だが、俺はその肩を押さえて、制した。
「じゃぁ、今日はお世話になりました」
「いえいえ、とんでもない、ホホホホ……それじゃぁ……」
「ガウ?」
 ネムはここで何か異変を察したらしい。
 俺に愛想がいいかなみさんに違和感を抱いたのか、それとも自分を立ち上がらせない俺の動きを不自
然に思ったのか。
 
 ――許せ、ネム。これは仕方のないことなんだ。

 お礼を言うと、俺はそのままドアの方へ後ずさった。
「……タカシ?」
 ネムがここでようやく立ち上がる。とても不安そうな顔だった。
 だが、その肩をかなみさんが掴む。
「ネムたんは、ここでいいのよ♪」
 ――既に呼び方がおかしい。
 人間って、こんなに怖く笑えるものだろうか。
「ガ、ガウッ!」
 振り払おうとしたが、その動きはいきなり後ろから抱き締められることで妨害された。先日の『まさ
ちゅーせっつ』のせいか、ネムはかなみさんにある種の恐怖を抱いているようだ。普段の力が出ていな
い。
「す、すまん! ネム!」
 俺は診察室のドアを出ると、振り返らずにドアを閉めた。大きな音が、廊下にこだまする。
 動物病院には保険がきかない。
 ペットには保険証がないのだから当然だし、仮にペット用の保険証があったとしても、ネムの分が貰
えるはずもない。
 俺はその辺の相場が全く解らないのだが、かなみさんの話だと普通にレントゲン検査するのに約五千
円するらしい。全身撮影となれば馬鹿にならない金額となる。加えて血液検査、エコー検査、心電図に
尿検査となれば、そりゃぁもう途轍もなく痛い出費なわけで。
 そんなときに、あの白衣の悪魔は囁いたのだ。

『私にネムちゃんをちょっと貸してくれたら、特別にタダにしてあげてもいいんだけど〜? どうする?』

 俺の天秤は大いに揺れた。
 『貸してくれたら』が何を意味するのか、先日の『まさちゅーせっつ』を思い出せばおのずと答えは見
えてくる。もしかしたら、ネムの心に重大な傷を負わせることになるかも知れない。
 だが、タダというのが魅力的な提案なのも事実。そして、それ以上に断ったときの影響も計り知れない。
実際、ネムのかかりつけになり得るのは彼女しか居ないのだ。
「ごめん、ネム……ごめん……」
 俺はドアにもたれてその場に崩れ落ちると、がっくりとうなだれた。
 あぁ、俺はなんて無力なんだろう。なんて卑しいんだろう。
 自分にほとほと、愛想がつきるよ、うん。
 大丈夫、お前のことは忘れないよ、ネム。思い出をありがとう。
 そんなことを考えながら、俺はドアに耳を押し付けた。
 

 以下、ヌコズキカナミンが獣人を捕食する様子を、音声のみではありますがお楽しみ下さい。

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 荒い吐息。

「ハァ、ハァ……そんなに逃げないでいいのよぉ? ほら、オモチャもあるし!」

 チリンチリンという、鈴の音。

「グルルル……タカシ、ウラギッタナ……」
「フフ、これは取引なの……悪く思わないでね……あぁ、ホント、耳とか可愛い……」
「ガルゥ……ヨルナ!」
「ピコピコ、すごい……ねぇ? ネムちゃん、お姉さんのところに来ない?」
「グルゥ……」
「……フフ」

 再びの鈴の音。同時に、オモチャが床をバウンドすると思われる、タンタン、と言う音。

「グゥ?」
「隙ありぃ!!」
「グニャッ!」
 
 揉みあう音、倒れる音、転がる音。

「ギャウゥ!」
「あ、痛かった!? 大丈夫、次は優しくしてあげるから……」
「ハ、ハナセ!」
「だいじょぉぶよぉ……ほらぁ、こことかどぉ?」
「グ、グルゥ……ヤ、ヤメ……」
「唇とかも、プニプニなんかしちゃってぇ……」
「ムガッ! ガ、ガウゥ……クゥ……」
「耳も、撫でたげるからねぇ……」
「クゥ……クウゥゥン……!!」
「あら、ここが感じるんだ? もっとしたげる……」
「チ、チガウ! ……ワウゥン……ッ!!」
「フフ……いい子ね。あぁ、この尻尾のもふもふ感がもう……っ! た、たまんない!」
「グルッ! フニャアァァァ……」
「もうね、採血するときの注射に怯える顔とか、レントゲンで『目ぇ閉じて〜』って言ったらギュゥって
つぶってるのとか見てて、もう臨界点突破しそうだったんだから! ハァハァ……」
「ガウゥッ……! ウガワウウウゥゥゥゥ………」
 ――
 ―――
 ―――――
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 深夜に開始した健康診断は、既に明け方を迎え始めていた。
 あいにく太陽は見えないが、町並みの向こうに見える雲が黄金色に染まり始めている。休日の朝特有の
気だるい雰囲気が漂うなか、俺はネムをおんぶして家路を辿っていた。
「ガウ……タカシノ、アホ」
「だから、ごめんって!」
 あの後、ドアの向こうのあまりの惨状に耐え切れず、俺は途中から廊下のソファで耳を塞いでガクブル
して待つよりなかった。
 何があったのかは、あえて詮索はするまい。
 ただ、俺らを当直だからと見送ったかなみさんの肌は、異様にツヤツヤしていたことだけ述べておく。
 無人島の生態系の(多分)頂点だったネムにとって、獲物になった気分は大変なストレスだっただろう。
しかも、命を奪われて食べられるというのではなく、なんというか……色んな意味で擦り減らすような捕
食のされ方など、完全に理解の外のはずだ。
 つーか、あの人本当に獣医かよ……そりゃ、猫にも引っかかれるっちゅうねん。
「ニドト……スルナ。ワカッタナ!?」
 背中のネムが、俺の頭をポコポコ殴ってくる。その手に普段の力はない。かなり疲労しているいるよう
だ。外ではあまり動かさないようにと言いつけてる尻尾も、今は感情のままにバタバタと振られ、ネムを
支えている手を叩いた。
「解った、解ったから、殴るなっt――ふぇ……ぶぇっくしょ!」
「!!」
 俺のクシャミに驚いて、ネムが背中で跳ねた。
「あぁ、悪い……グス……半袖はまだ早かったかな」
 一度立ち止まって鼻をすすり上げると、ネムを背負いなおす。明け方の空気は予想以上に冷たかった。
 と、首に回された腕に、少し力が入る。背中の体温が、急に密着度を増した。
「うん……あったかいな」
「フン」
 鼻を鳴らすと、ネムは頭を俺の肩に預けて寝たふりを決め込む。大き目の帽子の毛羽立った生地が首筋
に当たって、少しくすぐったい。
「明日は休みだし、帰ったら寝るか」
「……」
「起きたら、豆腐サラダ作ってやるからな」
「……」
 返事はなかったが、肩口に乗っている頭が、少し頷いた気がした。
 と、いきなり顔に水滴が落ちてくる。
「やべぇ……降ってきやがった!」
「ガウ……イソゲ!」
「いでっ! 馬じゃねぇんだから、叩くな!」
「クシシシ、ハシレ、ハシレ〜!」
「ちょ、やめ! くそぅ! あとで覚えてろ!」
 梅雨の始まりを告げる霧雨の中、俺は全速力で走り出した。


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