その6

 皆様、いかがお過ごしでしょか。
 私、別府タカシは今現在、なかなかピンチです。いや、ネムと暮らし始めてからこっち、結構ピンチ
は多いんだけど、今回はヤヴァい。普段なら別にどうってこともないことなんだが、これは獣人との生
活ならではのピンチというかなんというか。
 ちょっと、前回のラストを思い出して貰いたい。
 
 健康診断の帰り道、半袖のポロシャツで肌寒い明け方を、ネムをおぶって帰った。しかも雨が降って
きて、全力で走ったもんだから、汗もかいた。

 ――看病イベントのフラグが経つ音が聞こえたヤツ、挙手。

 ……
 …………
 ………………ノハーイ!

 自演乙ってなもんだが、こうでもしないとやってられない。
 体温は38度5分。頭痛、吐き気、鼻水、咳、食欲減衰。
 風邪の諸症状のオンパレードってなもんだ。しかし健康診断の帰りに風邪引くってなかなか皮肉だね。
「ガウ……タカシ……」
 ネムが流石に心配そうな顔でベッドの横に立っている。
 そうだ、こんなことで心配かけちゃいけないよな。だって、俺はお前を守るって決めたんだし――
「ハラ、ヘッタ」
「……カップ麺があるから、それ食べてて」
 ごめん、いろんな意味でちょっと泣きそう。
 尻尾を振りながら戸棚をあさるネムの後姿を見て、俺は途方に暮れた。
 大分ボキャブラリーも増えたとはいえ、まだまだ日本の風習やらには無知な娘だ。風邪を引いた人間
の看病の仕方なんて、解るものだろうか。というかそれ以前にうつさないようにしなければマズい。
「ネム、それ食い終わったら……」
「ガゥ?」
 カップ麺を啜りながら、ネムは顔を上げる。テーブルの上にスープが2,3滴飛んだ。
「かなみさんのトコ行ってくれるか?」
「フウウゥゥゥ!!!」
 その名前を出した瞬間、全身の毛を逆立てられる。ネムの心情を思えば、当然の反応ではある。
 多分こうなったら、テコでも動こうとはしないだろう。
 俺は速やかにネムの避難を諦める。
 そもそも、今日はかなみさんも仕事のはずじゃないか。熱のせいか、頭の働きが平常時の1割くらい
になってる。よく会社への連絡を忘れなかったもんだ。
 だるい身体を引きずるようにして起き上がると、タンスの引き出しからマスクを取り出す。
「ほら……これ、してろ」
「ガル?」
「マスクだよ……こうやって耳に――」
 ――耳に……
 
 ――耳……
 
 ………耳ねぇし!
 いや、あるけど場所違うし!
 そこにあったらマスクつけられないし! 
 メガネもサングラスも掛けらんないしいいぃぃぃっ! URYYYYYYYY!!!
 
 ダメだ、なんかもう基本的なトコがダメだ。頭いてぇ……
 仕方なく、マスクは俺がつけることにする。それから、窓を開けて換気をよくしておく。
 それだけのことをするのに、酷く体力を使った。背筋が凍えるように寒く、鳥肌が立っている。いか
んな、風邪なのに動くから……。
 ベッドに倒れこむように寝そべると、スプリングがギシギシと嫌な音を立てた。楽な体勢を探したが、
結局は仰向けが一番だった。
 カップ麺を食べ終えたネムが、俺の顔を覗き込む。
「ガウ……」
「コホッ……あんまり寄るな……うつるぞ」
「タカシ……」
 眉を寄せて、こちらを見るネムの顔に手を伸ばす。
「頼むよ……寝かせてくれ」
「グル……」
 ス、とネムが身体を引く。
「サンキュ……テレビ見ててもいいし、ゲームしててもいいから、な?」
「ガウ……」
 すぐに、ガチャガチャとゲームのセッティングをしだすネムを見て、俺は目を閉じた。
 酷く眠い。咳も出る。肌は日に当たりすぎたときみたいにヒリヒリと熱いのに、芯のほうはツララの
ようだ。朝から食パンを3口ほど かじっただけだというのに、もう何も食べたくなかった。
 ふいに、胸の上に何かが乗った。固くてデコボコしている。
 目を開けると、ゲームのコントローラーだった。
「ガウ」
「ネム……勘弁してくれよ」
「ガウ!」
 哀願すると、顔にコントローラーを押し付けられた。
 仕方なく受け取ると、寝たままでテレビの方を向く。寝返りをしただけで、胃が捩れそうになって、
口の中が胃液の酸っぱさで満ちた。

『ぴったん、ぴたんた、もじぴったん♪』

 聞き慣れた能天気で無邪気な音楽が、今は酷く耳に障る。
 ネムは歌を口ずさむこともせずに、真剣な顔で画面を見ている。ガチ勝負かよ、マジやめてよ。
 だがネム側の画面のカーソルが動くことはなかった。たまに動いても、めちゃくちゃにゆっくりだ。
「ネム……?」
 俺が声を掛けても、無視している。
 いつもなら、大抵は負かされてしまうのだが。
 熱で朦朧とする頭で、俺はどうにか規定の単語数を作り終えた。俺側の画面でキャラクターが踊る。
「ガルゥ……マグレ」
「はぁ……」
 まぐれも何もないと思うのだが。あそこまでやる気がないと、こっちも張り合いがない。
 ネムはセロテープを5センチ程切って、俺の手に貼った。
「……マケタ……ハレ」
 罰ゲームということだろうか。
 俺は手に貼られたテープを丸めると、そっと頭を撫でた。
「気ぃ使わせちまったな……」
「クウゥ……」
 目を細め、喉から声を漏らすネムの頬へ、手を移動させる。
 ネムなりに気遣って、俺を勝たせてくれたんだろう。だが、残念ながらゲームに勝っても風邪は治
らない。
「少し寝たら大丈夫だからさ……そっとしておいてくれ、な?」
「ガウ……」
 ネムはしぶしぶといった風に頷いた。
「いい子だ」
 アゴ先をくすぐってやると、ネムは軽く身を捩った。少しキザだったかな。



 ウトウトと眠っていると、ふいに玄関のチャイムが鳴った。
「ンガッ……だ、誰だ……?」
 ネムも耳をピクリと動かして、音の方を見る。
 時計を見ると、時刻は6時を回ろうとしていた。開け放した窓から、西日が差し始めている。
 油が切れたような身体を引きずってドアを開けて見れば、そこにはゴージャスにカールした髪と、
仕立てのいいスーツ、そしてシトラスの香りがあった。
「ごきげん……よろしくはないですわね」
「神野さん……」
「失礼しますわ」
 言うなり、彼女は俺を押しのけて上がりこんできた。だが俺は脚に力が入らず、壁にぶつかるとそ
の場に崩れ落ちてしまう。その様子を見て、神野さんは目を見張った。
「そんなに悪いんですの!?」
「でなきゃ、会社休みませんよ……」
 ぼやきつつ立ち上がろうとすると、ふいにがっしりとした手が俺の脇の下に入れられた。
「大丈夫ですかな?」
「あ、ども……」
 立派な口ひげを蓄えた、初老の紳士だった。白髪をオールバックに撫でつけ、ピカピカのスーツを
着ている。俺を支える手には、手提げの袋がぶら下がっていた。
「中村、ここでいいですわ」
「は、しかし……」
「後はわたくしがやります。車で待機なさい」
「はい、出すぎた真似を致しました」
 彼は折り目正しく一礼すると、手に持っていた紙袋を上がり口に置いて、キビキビとした動作でド
アを閉めた。
「……あの人は?」
 神野さんの手を借りながら尋ねると、彼女は無表情に答える。
「執事ですわ。余りお気になさらないで。空気のようなものです」
「はぁ」
 執事なんて実物初めて見たよ、俺。できれば、今度はもうちょっとコンディションのいいときにご
挨拶したいものですな。
「中に入られては困るのでしょう?」
「あ、あぁ、ありがと」
 ネムを見られないようにと気を使ってくれたのだ。それに気づくのにも数秒必要だったが。
「チェックを」
 ベッドに座った俺に、彼女は早速鞄から紙の束を取り出した。
 その真意が解らず、俺は目を白黒させる。
「え、いや、あの……」
「仮にもわたくしの教育係なのでしょう? いつでも責任を持つのが勤めではなくて?」
「はぁ……」
 正直、ここから玄関だけの往復だけで、頭が割れそうに痛い。しかし断ると後で何言われるか解らな
い。彼女にじゃなくて、課長にだ。あぁ、ヤな人思い出しちまった。風邪の時に、『学校休めて家族優
しくてラッキー』とか思ってた頃が懐かしいよ。
 つーか、なんでわざわざ家まで来るかな。この書類だって、決して急ぎのものじゃないのに。
「グル……」
 ネムは神野さんの方を不快そうに見て、部屋の隅にうずくまっている。
 その唸り声を聞くと、彼女の細い眉が上がった。俺は慌ててフォローする。
「あぁ、ごめん。香水の香りが苦手みたいで……」
「そう。それで?」
「あ、あぁ……これでいいんじゃないかな? 表のとこは会社のパソにデータがあるから、ここじゃど
うしようもないけど……」
「そうですか、解りました。用事のついでに寄っただけですので、これで……あ、そうそう」
 そこで彼女は手元の紙袋を、ベッドに置いた。
「つまらないものですが、お見舞いの品ですわ。それでは」
 『つまらないもの』に微塵の説得力も持たせず、彼女は去っていった。この紙袋自体がそこらの
デパートのものじゃない。表面にツヤツヤとした加工がされ、店のロゴらしいマークが金色で入ってる。
 中からは、ほのかに甘い臭いが漂ってきた。香水の臭いが消えたのか、ネムも鼻を引くつかせながら
寄ってくる。
 紙袋の中には木の箱が収まっていた。取り出して見ると、袋と同じロゴが焼印されている。
 箱の封を開けると、漂っていた香りがより一層濃くなった。
「こりゃ……桃だ」
 箱には緩衝用の詰め物がされて、桃が6個、白いネットに包まれて収まっていた、
 ピンク色の果肉は、手に乗せるとズシリと重い。表面を覆う産毛が手にも心地よかった。
「モモ……?」
「あぁ、お前には缶詰のヤツしか食べさせてないな……すまないね、甲斐性なしで……ゴホッ、ゲホッ!」
「ソレハ、イワナイ、ヤクソク」
「あぁ、ありがとう……」
 どこで覚えたか解らない小芝居はさておき、桃は大変うまかった。食欲がない状態でも、甘い果汁と
爽やかな後口を残して、ツルリと喉の奥に落ちていく。桃自体が高級品なのに加えて、どこぞの有名店
で買ったらしい包装を考えれば、『つまらない』というは只の謙遜でしかないのは明らかだ。
 風邪治ったらお礼しなくちゃな。この桃につり合うお礼が俺に出来るかどうかは謎だけど、そのこと

は考えないでおこう。書類の件にしたって、これを渡すための口実に違いないのだから。
「ガウゥ……」
 ネムは桃の汁で口の周りと指をベタベタにしていた。
「行儀悪いぞ」
 俺が注意すると、ネムは顔を上げて俺を睨んだ。
「ガルル……!!」
「桃はまだあるんだ、がっつくなよ。それよか、顔と指を拭け」
「グル……」
 ティッシュを差し出すと、ネムはそれを一旦受け取った。だが、ペーパーを引き出さずに傍らに置く。
「クシシ……」
 また顔が嫌な具合にニヤけてますよ……カンベンしてよ、桃食ってるけど、頭いてぇんだよ。
「ガウゥ!」
「おわ、おま、やめっ!」
 案の定、床から一気に跳躍して襲い掛かってきた。
 そのまま俺にしがみつき、ベタベタの顔は俺の顔に擦り付け、ベタベタの指を俺のパジャマで拭き始める。
「おま、俺で拭くな! やめろって!」
「ガウワゥ♪」
 いくら制止してもヤツは止まらない。
 こっちは頭が痛いのと、暴れて体が火照ってきたのと、体が水の中みたいに言うことを聞かないので、
ろくに抵抗もできなかった。ネムはあくまでも無邪気に俺にじゃれてくる。
「もが……頼む、ネム、やめ……ゲホッ!」
「ガウゥ!」
「ネム、ゴホッ、やめろ……やめろっ!!!」
「!!」
 思わず出た大声に、ネムは飛び上がって動きを止めた。
 だが、こっちはそれどころじゃなくなっている。
 動悸が激しく、心臓が耳の奥に移動したようだ。頭の中で鼓動がワンワンと鳴り響いている。
   ――あぁ、ダメだ。怒鳴ったのにフォロー入れなくちゃ……
 頭が痛い。脳の血管が二倍くらいに膨れたんじゃないか。鼻の奥が詰まっている。全身に力が入らない。
   ――マスクを上げなきゃ。ネムにうつる。
 口が開かない。声が出ない。胃の中の桃が逆流してきてる。
   ――あれ? 俺ヤバいんじゃないか?
 目を閉じてないのに、何でこんなに部屋が暗いんだ?
 
 色んな思考が泡のように浮かんでは消えて、そして俺は意識を失った。




「タカシ……オキロ……」
 壁の向こう側からネムの声がする。とても小さい。
 その壁が自分の瞼だということに気がついて、俺はゆっくりと目を開けた。
「タカシ……!」
 金色の瞳が見開かれて、そこにうっすらと涙が浮かんだ。
「あ、あぁ……」
 何とか声を出すが、それもすぐに途切れる。手足の感覚が1キロ先にあるみたいに遠い。
 ふいに、喉の奥から咳が込み上げてきた。
 慌てて口を塞ぎ、唾がネムにかからないようにする。
「ゴホッ! ゲホ、ケホッ!!」
「タカシ!? タカシッ!?」
 ネムがこの世の終わりみたいな顔を浮かべている。
 いや、別に死にゃしないから、大丈夫。そう声を掛けてやりたかったが、上手く声に出来なかった。
「タカシ、シヌナ!」
 いや、死なねーって……そう思って、ふっと気がつく。
 ネムの『パパ』の存在だ。
 『パパ』ってのは実の父親というわけではなくて、かといって怪しげな『パパ』でもない。ネムが一人で
住んでた無人島に、俺より前に流れ着いた人だ。夫婦で流れ着いたのだが、当然ネムとも深い交流があった。
 だが、傷口から雑菌が入ったことによる破傷風で亡くなっている。彼が遺した手記が、今もタンスの引き
出しの奥に眠ってるはずだ。
 ネムはその最後を看取った。だから、きっと……
 『パパ』は、ネムが見た最初で最後の病人ではないか。
 破傷風の症状は解らないが、きっと発熱もするだろうし、もしかしたら今の俺と見た目だけはよく似た状
態なのかもしれない。もちろんその深刻さは比べ物にならないだろうが。
 だから、きっとネムは『シヌナ』と言ったのだ。
 ネムが今まで見た、たった一人の病人は死んでしまったのだから。
「だい、じょぶだ……ネム」
 俺は手を伸ばす。
 頬を伝う水滴が、指先から伝って降りてきた。
「しな、ないから……な?」
「ガウゥ……」
 それでも、ネムは心細げな声を上げて、俺の手をすがるように掴む。実際すがりたいのはこっちなんだけ
どな。まったく、世話の焼けるヤツだ。
 意識が完全に覚醒するに連れて、身体を襲う熱がはっきりとしてきた。
 体中から油汗が噴出して、じっとりと肌着を濡らす。
「ハァ、ハァ……」
 呼吸が荒くなる。息が苦しい。布団を剥ぎ取りたかったが、それでは意味がないので我慢した。
「タカシ……アツイ?」
「うん……ちょっと、な」
「……マッテロ」
 ネムは繋いでた手を離すと、台所へパタパタと消えた。
 冷蔵庫を開ける音がする。氷嚢でも作ってくるんだろうか。でもうちにそんなのあったかな?
 とそう思った次の瞬間、ビチャッと水を撒く音が耳に入った。
 一体何してんだ? 氷がまだ出来てなかったんだろうか?
 やがて、ネムはゆらりと姿を現した。
 手には剥き出しのこんにゃくが握られている。なぜだか、中央には切れ目が入っていた。
 
 ――切れ目?

 待て待て待て。
 一体なんのつもりだ?
 もしかしてあれか? エロゲ的『汗かいたら治る』作戦か? だが、こんにゃくで汗かくって、どんだけ
悲しいエロゲだよ。
 と、そこでさっきの水を撒いた音が、頭の中で繋がる。
 そうか。
 きっと、あれはこんにゃくの袋に入ってる水の音だ。ビニールを破るのに包丁かなんか使ったんだろう。
しかし上手くいかずに、水は飛び散り、こんにゃくには意味ありげな切れ目が……。
 うん、きっとそうに違いない。
 だが、なぜこんにゃく?
 そうこうしてる内に、ネムは再び俺の傍まで来た。
 まだ水の滴るそれをゆっくりと持ち上げる。枕にポタリと水が垂れた。
 そのまま、俺の額の上にこんにゃくが乗る。
 なるほど、冷たくて気持ちいい。
 気持ちいいけど、生臭い。石灰の臭いがする。
 ネムは、心底心配そうな顔でこちらを見ていた。悪意があってやってることではないのは明白だ。必死で
冷やすものを探したのだろう。
 水が額からこめかみに垂れてきた。目にも入ってきそうだ。
 純粋すぎるけど、間違った善意って困るよね。
「ええと……ネム?」
「ガウ?」
「気持ちはありがたいんだが……できれば、別のがいいな。水に濡らしたタオルとか」
「……ウゥ」
「その……悪い」
「……」
 ネムは黙って首を振ると、こんにゃくを取ってくれる。それからティッシュで濡れた顔を拭いてくれた。
いつもこのくらいの優しさが欲しい。
 と、そのときだ。

「お〜い! 見舞いに来てやったわよ〜!」

 ネムの顔が見れるのが嬉しいのか、超ハイテンションなかなみさんが、例によってノックもせずに入って
きた。
 そのまま、見舞いの品らしいバナナを掲げたままで、固まる
 ネムの右手には、俺の顔を拭いてくれたティッシュ。左手には、切れ目の入ったこんにゃく。
「ガゥ?」
 心配そうな顔は、泣きそうに見えないこともないこともないことも……見えないでいて下さい。

「あ……あんた、ネムたんにナニさせてんのよおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」

「おごぶろあぁっ!!」
 願いも空しく、必殺の一撃は俺の意識を確実に根こそぎ刈り取っていった。




「ハ、ハハハハハ、そうね。氷嚢代わりね。アハ、アハハハハハ」
 乾いた笑い声をあげつかなみさんに、お粥を啜りながら俺はため息をついた。
「カンベンしてくださいよ、ホント」
「だ、だからそれは謝ってるじゃない! お粥まで作ってあげたんだから、グチグチ言わないの! 女々しい
わね!」
 一言言っただけなのに、三倍くらい言葉が返ってくる。普段はそれを楽しむ余裕もあるが、今はお腹いっぱ
いだ。
 かなみさんに殴られてから一時間ほどして、俺はようやく目覚めた。
 すぐに、お粥が出てきて、風邪薬の瓶まで添えてあった。
 どうにか食欲は戻ってきてるようだ。
 長い一日だったが、身体は回復に向かってるらしい。熱も下がっている。
「無人島でサバイバルしてんだから、丈夫なのは折り紙つきでしょ?」
 空になった食器を下げながら、かなみさんが言う。
「ま、取り得なんてそれだけだろうけどさ」
 余計な一言も忘れない。俺はそれに曖昧に笑って返した。
 食器を洗い終えると、彼女は自分で勝手にお茶を淹れだす。完全に居座る構えだ。
「あの、それ、俺の湯のみ……」
「え? だ、大丈夫よ、ちゃんと使う前に煮沸したから。そ、それよか、ネムちゃんはどうすんの?」
 ん? なんか無理に話題を変えようとしてないか? 考えすぎかな。顔がほんのり赤いのは、熱いお茶のせ
いだと思うんだけど、いつもは俺の目を真っ直ぐ見て罵詈雑言を叩きつける人が、今は湯飲みで顔を半分ほど
隠している。
 ネムの方を見るかなみさんは、自身の不自然さを振り払うようにそのまま続けた。
「風邪うつしたら大変でしょ? な、なんだったら、うちで預かるけど?」
「あ〜……お願いしたいのは山々なんですが……」
 『預かるけど?』と言ったときに、かなみさんの目の奥に宿った危険な光を、俺は見た。もう、こないだの
健康診断で懲り懲りだ。
 ――だが、それ以上に俺を躊躇させるのは、
「クゥ……クゥ……」
というネムの寝息だった。その右手は、俺の右手をガッチリ握っている。
 こいつにとっても、長い一日だったんだろうな。
 そう思うと、自然に笑みがこぼれた。
「大変だったわよ?」
「え?」
「その子」
 湯のみでお茶を一口啜ると、かなみさんは続けた。
「お粥作ってる間、ずっと離れないの。『これは病人に食べさせるものだ』っていくら言ってもずっと見てた
のよ? お腹空いてたんじゃない?」
「はぁ……」
「ま、そういうとこも可愛かったんだけどさ。お陰で作るのに倍の時間がかかっちゃった」
 最後の一言を嬉しそうに言うと、彼女はもう一度お茶に口をつける。
 でもかなみさん、それは違う。
 きっと、ネムはお粥の作り方を覚えようとしてたのだ。
 『病人』に、次からは自分だけで食べさせられるように。
「クゥ……ムニャ……」
 その褐色の髪を撫でると、満足そうにネムは喉を鳴らした。
 


 それから数日。
 風邪も全快した俺の前にあるのは、お粥だった。
「リョーリ! オボエタ!」
 OK、朝ならまだ許そう。
 だが、これは夕食だ。一日の締めくくり、仕事に疲れて返ってきて出てきたのがお粥だったときの絶望った
らね。しかも、帰る時間にきっちり合わせて作りやがるもんだから、メニューの変更もきかない。
 それよりなにより、
「クエ! アリガタク、ノコサズ、クエ!!」
と初めての料理にはしゃぐ姿を見てると、残すのにも忍びないわけで。
 ――どうせなら、今度は料理の本でも買ってこようかね。
 そう思いつつ、俺は今日も獣人に急かされながら、お粥を啜るのであった。


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