その7

 昨日の夕方辺りから雲が出始め、やがてそれは朝になると地上へ雨を落とし始めた。
 梅雨の日本は、実に面倒だ。まぁ、この時期の降水量によって米の出来が決まるそうだし、日本全国
のダムの貯水量もかかってる。だが、こっちはそんな大局的に物を見る余裕なんてないサラリーマンな
ので、乾かない洗濯物を見てため息をつくだけだ。
「コインランドリーにでも行くかなぁ……」
 いつもどおり、ネムの味噌汁を吹きながら俺は呟く。ネムはと言えばいつもどおり、俺の手元で味噌
汁が冷めるのを見ていた。
「こう雨ばっかだとなぁ、スーツも濡れるし」
 ぼやきつつも、温度が猫舌のお気に入りになったところで、お椀を手渡す。
 両手でそれを受け取り一口飲んで、ネムは
「マァマァ……モスコシ、アツメ」
と姑みたいなことを言った。俺が仕事に行ってる間、昼ドラでも見てるんだろうか?
「へーい」
と適当な返事を返して、俺は自分の食事を続ける。
 朝は時間が少ない。食べて片付けて、身支度をしたらあっという間だ。
「ネム、醤油取ってくれ」
「……」
「ネム?」
 顔を上げると、ネムは豆腐に箸の先を突っ込んだまま、窓の外を見ていた。
 窓枠に切り取られた空は、雨の線が映りの悪いテレビのノイズのようだった。アパートの二階からは、
灰色の雲に煤けたような住宅街の屋根が見える。
「おぉーい!」
「ウワゥ!」
 少し大声で呼ぶと小柄な体が跳ねた。
「醤油、頼むよ」
「グルゥ……」
 脅かされた仕返しなのか、ダン!と音を立てて醤油差しを置かれる。その拍子に褐色の液体が飛び出し、
Yシャツに染みを作った。
「あ、おい! ネム!」
「フン!」
 鼻を鳴らしてこちらを一瞥すると、ネムは頬杖をついて箸も進めずに、また窓の外を見た。
 どうも、梅雨入りしてからネムの様子がおかしい。
 気が付けば雨の景色を見ていて、元気もない。食欲はあるようだが、
「ハァ……」
てな具合にため息をつくことも多い。こいつのため息なんて、聞いたことなかったのに。
 なんか悩みでもあるんだろうか。とにかく今は時間がないから、帰ったら話を聞いてみることにしよう。
 朝食の片付けを終え、シミの付いたシャツを着替えてから玄関に立つ。ネムは玄関の戸締りをするべく、
後ろからついて来ていた。
「んじゃ、行ってくるよ。ネム」
「ウゥ……」
 靴を履いてドアを開けると、スーツの裾を引っ張られた。ドアを半端に開いた状態で俺は振り返る。
「? どした?」
「ワゥ……ワスレモノ、ナイカ?」
「いや、ないけど……」
「カゼ、ヒイテナイカ?」
「おかげ様で」
 ネムにしては妙な気遣いだ。風邪引いてるかなんて、起きて見れば解ることだろうに。
 まさかとは思いつつ、俺は尋ねてみる。
「まさか……寂しいのか?」
「ッ! ガルッ!」
「おわぁ!」
 即座に飛んできた蹴りで、俺はあっけなく外に叩き出された。
 



 駅構内のコンビニで買ったビニール傘を広げ、会社の最寄り駅を出る。
 パタパタと雨粒が傘を叩く。水滴でおかしな風に歪んだ空を見上げる。全く憂鬱だ。
 ネムの機嫌が悪いのもそうだが、梅雨というのは只でさえ気が塞ぐ。分厚い雲が、上から圧し掛かって
くるようだ。いっそのこと、傘を投げ捨ててズブ濡れで走り回って見たくなる。
 そんなことを考えつつ信号待ちをしていると、目の前に黒塗りの外車が止まった。
 何だ何だと思う間もなく、スルスルと後部座席のスモークウインドウが開く。
 すっかり嗅ぎ慣れた香水の香りが漂ってきた。
「おはようございます」
 神野さんは、ニコリともせずに挨拶をした。
「あ、おはよう」
 外車が放つ威圧感に圧倒されながらも、どうにか返事を返した。
「よろしかったら、乗ってきませんこと?」
「え? あ、あぁ……じゃぁ、お言葉に甘えて……」
 会社までは歩いて10分ほどの距離なのだが、特に断る理由もない。そもそも、こんな高級車、こんな
機会でもなければ乗ることもないだろう。
 車内は向かい合わせに座席が着いていて、いかにも『お金持ちの車』といった感じだ。明るい車内に、
革張りのシート。ビニール傘が恐ろしく場違いだ。
 俺は進行方向と逆を向いて、神野さんと向かい合う形になる。ドアを閉めると重厚な音がした。
 風邪引いたときに会った執事さんの運転で、緩やかに発進する。
「えっと……よく降るね」
「そうですわね」
「……今日は、企画部の人と打ち合わせあるから」
「解ってますわ」
「……」
 なんとなく予想はできたけど、会話が続きません。
 全く興味のなさそうな顔で、神野さんは窓の外を見ている。
 あれだろうな、俺を乗せたのもうっかり声かけちゃったから仕方なくみたいな感じだろうな。
 そう考えた瞬間だった。
 背後でゆったりとした声がした。
「別府様。どうぞ、お気を悪くなさらないで下さい。お嬢様はいつもそのような具合ですので」
「え?」
 ロマンスグレーというのだろうか。絵に描いたような紳士は、ミラーにその優しげに垂れた目の辺りだ
けを映していた。
「中村」
 神野さんが牽制するように声を発した。その声が少しだけ上ずっているのに気づき、俺は驚く。何をそ
んなに慌ててるんだろうか。
 中村さんは彼女の声には応じず、続けた。
「機嫌の良いときには、わざとそういうしかめっ面をしてみせるのです。逆にやたらとニコニコしてらっ
しゃるときはご注意下さい」
「は、はぁ……」
「先ほどにしても、別府様の傍に止めるようにとお嬢様の方からおっしゃいまして……」
「中村、その辺になさい!」
 さっきよりも明らかに動揺した声で、神野さんは中村さんを止めた。窓の外を見るのをやめて、切れ長
の目でミラー越しに中村さんを睨みつけている。彼女がこんなに慌てるのも珍しい。
「別府様、よろしければ、お嬢様のことを下のお名前でお呼び下さい。きっとお喜びになりますよ」
「中村!!いい加減に……っ!!」
 とうとう神野さんが腰を浮かせ、身を乗り出す。俺はと言えば、修羅場じみてきた車内の空気にいたた
まれなくなって縮こまっているよりなかった。神野さんは美人だが、その分怒ると半端じゃなく怖い。よ
くもまぁ、こんな人相手に海賊なんかやったもんだよ、俺。
 と、そのときだ。
 唐突にブレーキが踏み込まれた。
 さっきまでの安全運転とは打って変わった乱暴な挙動に、神野さんが倒れこむ。
 ――俺の上に。
「あぁっ!?」
「うわっ!!」
 完全に停車した後に出来上がっていたのは、スモークがなければ確実に『金持ちが朝っぱらからイチャ
つきやがって』って視線を浴びそうな姿勢だった。
 布越しに感じる体温に、俺はどうしていいか解らず硬直する。
 左の太ももに跨っている、ストッキングに包まれた体温。
 反射的に回してしまった腕に感じる、細い肩甲骨の感触。
 そして、胸板に押し付けられてる柔らかい鼓動。
「これは失礼致しました。話に夢中で目的地を通り過ぎるところでございました。私としたことが」
 涼しい声で中村さんが告げる。
 確かに窓の外を見れば会社の正面玄関だったが、それどころではない。
「ご、ごめんっ!」
 倒れ込んできたのは向こうなのだが、俺はなぜか謝って身体を離した。
 神野さんは顔を真っ赤にして、向かいの座席に座り込んだ。
 肩で息をして手を胸に当てる姿は、いつもの毅然とした彼女とは全く違う、弱々しい女の子だった。
「あ、その……大丈夫? 怪我とか……」
「……」
 神野さんは大きく息をしながら、うつむいていた。その表情はこちらからは見えない。助けを求めよう
と運転席を見たが、ミラーに映る目は変わらず微笑んでいた。
 もしかしてこの二人は仲が悪いんじゃなかろうか、と余計な心配をしてもう一度神野さんへ向き直る。
「あの……神野さん? 大丈夫?」
「……はい……だいぶ、落ち着きましたわ……見苦しいところをお見せしました」
「あ、いや……どっちかっつーと、貴重なところっつーか……」
 言いかけた台詞は、剃刀のような視線を受けて無理矢理に引っ込めた。
 背後でかみ殺した笑い声が聞こえる。やっぱりこの人面白がってるし。
「参りましょう。遅刻しますわ」
「あ、うん……」
「そのみすぼらしい傘、忘れないでくださいね」
 すっかりいつもの様子に戻り、俺のビニール傘をアゴで示す神野さん。
 その様子に安心すると同時に、名残惜しさも感じる。だってあんなに慌ててて取り乱す彼女なんて、殆
ど初めてだったんだもん。
 このとき、俺の心に湧き上がった大人気ない悪戯心を、誰が責めることができようか。
 俺はプラスチックの柄を取り上げると、引き攣る口元を無理矢理抑えて、言ってみた。
 そもそも、悪戯というものは後先考えないからやる価値があるものなのだ。
 筆頭株主の娘? 知ったことか、今は俺の後輩だ。


「あぁ、大丈夫だよ……リナちゃん」


「……っ!!」
 相手が息を呑むのと、背後で中村さんがとうとう吹き出したのが同時に解った。
 笑い声の方を睨みつけると、彼女は
「中村が余計なことを言うから、別府さんが調子に乗って……!!」
と声を絞り出す。その肩がワナワナと震えていた。
 いかん、後先考えなさ過ぎたか?
 少し後悔したが、宙に出てしまった言葉が取り消せるわけもない。
 固唾を飲んで次の反応を待っていると、彼女は俺を真っ直ぐに見てドアの方を示した。
「開けてくださるかしら?」
「え?」
「ドアを開けなさい。私に開けさせるおつもり?」
 まるでよく解らないまま、俺は言う通りにした。普段は執事の人に開けさせてるんだろうが、俺は一応
客じゃないのか?
 そのまま、彼女は車を降りて不機嫌を絵に描いたような顔で一瞥を投げかけ、
「行きますわよ」
と一言だけ言って去っていった。

 
 ……あれ? 結局、『リナちゃん』と呼んだことに関してはお咎めなし?

 
 中村さんの笑いをかみ殺した、しかしどこか得意気な渋い声がした。
「ほら、不機嫌そうな顔でございましょう?」
 ――それはそうだけど、とりあえずお前は空気嫁。
 その台詞の代わりに、
「どうも、ありがとうございました」
とお礼を言って、俺は……うん、『リナちゃん』の後を追った。


前へ  / トップへ  / 次へ
inserted by FC2 system