その8


 仕事に関しては特に言うこともなく、今日も定時に帰宅。
 いやぁ、しかし高級外車に乗ったり本職の執事さんと話したり、貴重な一日だった。
 なにより、普段は高飛車なお嬢様の珍しい表情が見れて、眼福だった。もっとも、『リナちゃん』が通ったのは
朝のあの一回だけだった。それ以降呼ぼうとすると、睨まれてしまう。
 ただ、それは何というか……小さい子供が拗ねてるときのような、可愛げすら感じるものだった。いや、本人が
嫌がってる以上は、俺も無理に波風立てるつもりはないんだけどさ。ついつい、からかっちゃうんだよね。
 でも、アレはなんだったんだろう。何度目か『リナちゃん』って呼びそうになったときだ。
『……あまり人前で呼ばないで下さい』
と、早口で呟かれた。それから何事もなかったかのように仕事の話を続けたのだが、その言い方だと『二人っきり
のときにしてください』って取れないこともないような……。
 多分気のせいか、さもなくば言い間違いだろう。言葉尻を取って妄想に浸るのはやめておこう。
 雨は結局一日中降り続けていた。灰色の空は夜へ向けてその明度を更に下げている。雲の薄い部分が僅かに橙が
かっていて、雲の上の夕焼けを思わせた。
 改札を出て傘をを広げる。雨音を聞きながら一歩を踏み出そうとしたときだ。


「オホン」


 背後で咳払いが聞こえた。
 聞こえないフリでもしようかと思ったが、気づいて足を止めてしまった以上、無視するわけにもいくまい。
「えっと……ども、かなみさん」
 振り返ると案の定、ご機嫌斜めの塊のような人が、壁にもたれて立っていた。すぐ横のドアに貼られた『関係者
以外立ち入り禁止』の文字がなんとも意味深だ。俺も立ち入らずに帰りたい。
「今帰りですか?」
「そうね」
「えぇと……よく降りますね」
「見れば解るわよ」
 ……あれ? デジャヴ?
 今朝もこんな感じの会話をした気がする。
 と、そのときに気付いた。いや、見たときから何か変だとは思ってたんだが。
「かなみさん……」
「何よ」
「傘は、どうしたんです?」
「……夜勤だったから、忘れた」
 なるほど。
 昨夜の時点で、まだ雨は降っていなかった。そのせいでうっかりしたんだろう。
 だが、一体どうしたものか。
 『さっさと帰れ』と言わんばかりのものすごい顔で睨みつけてくるんですが。
 とはいえ、このまま放っておくのも男としてダメな気がする。
 出来るだけ目立たないようにため息をつくと、俺は言った。
「あの、良かったら家まで入って行きます?」
 この人の性格上、絶対に自分から『タカシ君の(傘に)入れて?』とかいうタイプじゃない。他人に物を頼む
のがとてもヘタな人なんだと、俺は勝手に思ってる。
 だからこそ、俺は自分の傘を軽く掲げて見せた。恩着せがましくならぬよう、できるだけ自然な親切を目指し
たつもりだ。
 だが、相手はため息をついてビニール傘を見上げる。
「はぁ、んなチャチな傘に一緒に入ったら、二人してズブ濡れじゃない」
「いやぁ、でもここからタクシーで帰るのも勿体無いですし、雨は明日までやまないって天気予報で言ってまし
たよ?」
 一旦断られたが、食い下がってみる。つーか、なんで食い下がってまで親切せねばならんのか。
 若干の疑問はありつつも、かなみさんは再び、わざととしか思えない特大のため息をついて、頷いた。
「ま、しょうがないわね。人の親切を無にするのもアレだしねぇ」
 その台詞自体が、十分に人の親切を無にしてると思う。
 何はともあれ、俺たちは駅の軒先を出て、家路を辿り始めた。
 俺らと同じような家へ帰る人の群れもばらけだして、住宅地の狭い道へ入る。
 暗くなるにつれて街灯がポツポツと点りだし、雨の中で煙った光を放っていた。
「あの街灯って……」
「ん?」
 かなみさんは俺の右側に並んで歩いている。俺の唐突な言葉に、軽く首を傾げて見せた。
 その仕草に、なざかドキッとしてしまう。傘に入っていても少しだけ湿気を吸った肩までの髪が、まるで風呂上
りのように艶やかだ。いつだったか、『動物がじゃれ付くからあまり長く出来ない』とボヤいていたのを思い出す。
「何よ、街灯がどうかしたの?」
「あ、いや……」
 ドキマギしてしまったのを押し隠すして、俺は続けた。
「子供の頃の話なんですけどね、『あの街灯ってなんで暗くなったら勝手につくんだろう』って思っちゃって」
「あぁ、よくある話ね」
「まぁ、そうですけどね。俺、『電柱に一番近い家にスイッチがあって、そこの家の人が時間になったらつけてる』
って考えたんですよ」
「はぁ……」
「それでまぁ、実家の近くにも街灯がついてる電柱がありましてね。『こいつは俺の家にスイッチがあるはずだ!』
と、家中探し回ったことがあって。散々探した挙句、高くてどうしても子供じゃ押せないスイッチを見つけたんです。
そうなると、意地でも押してやりたくて椅子の上にダンボール積んでよじ登って、そのスイッチ押したんですよ」
「無駄にアクティブねぇ。アンタらしいっちゃ、アンタらしいけど」
「ハハ、そうですかね」
「でなきゃ、無人島でサバイバルなんかしないでしょ」
「う〜ん、サバイバルってほど、キツいもんでもなかったですけどね。ネムも居ましたし」
 そこでかなみさんは複雑な表情を浮かべた。そのせいで、会話に妙な間が空く。
 だが、それもほんの僅かのこと。すぐに先を促された。
「……あっそ、そんで?」
「ん? あぁ、そうそう。それで結局、押したのがブレーカーのスイッチでして」
「……」
「押した瞬間、家中真っ暗。パニくって椅子から転げ落ちて……4針縫いました」
 そこまで聞いて、かなみさんは完全に呆れた顔で俺を見た。
「アンタ、そのころからアホなのねぇ」
「よく言われます」
 涼しい顔で流すと、信号を渡る。
 ふと、そのときかなみさんが、俺の右側から左へ移動した。
 傘を左手に持ち替えながら、何気なく尋ねる。
「どうかしました?」
 それを聞いた相手は眉をしかめて、むくれる。
「アンタね。女の子に車道側を歩かせるつもり?」
「……失礼しました」
「そんなだから、彼女の一人もできないのよ。気の利かないわね」
 人の傘に入れて貰ってて、ここまでデカい顔ができるのも凄いもんだ。怒りとか通り越して感心するね。
「そ、その……か、会社とかで、誰か可愛い子とか居ないわけ?」
「へ?」
「か、勘違いしないでよ! 別に気になるんじゃなくて、こんな気の利かないことしてたら一生恋人もできない寂
しい人生になりそうで、可哀想に思っただけなんだから!」
 それはすなわち『気にしてる』んじゃないだろうか。
 いつものように口には出さないものの、俺は少しだけ首を傾げ、
「まぁ、可愛いなって子は居ますけど……」
っと、頭の中に拗ねた顔のお嬢様を思い浮かべつつ、答える。
 あの顔は確かに可愛かった。『萌え』と言っても過言ではないかもしれない。この俺が三次元に萌える日がくる
とは……やられた!って感じだ。
 だが、かなみさんの顔は浮かない。
「そ、そう……居るんだ……」
 自分から振った話題なのに、彼女はそれきり黙りこんでしまう。
 俺も自分から掘り下げるつもりはないので、会話がそこで切れてしまった。
 時々、隣から
「……ょね……もう、なりふり構ってられないか……」
などと呟きが聞こえる。
 その意味を考える間もなく、彼女は唐突に立ち止まった。
 まさか先に行くわけにもいかず、俺も足を止める。どうしたのか理由を尋ねる間もなく、かなみさんが口を開いた。
「あ、あのね……その……も、もしも、もしもの話だけどね?」
「はぁ……」
「あ、アンタが好きって女の子が、今ここでアンタに告白したとして……」
 そこで彼女は言葉を切る。いつもズバズバものを言う人にしては珍しい、歯にものの挟まったような口調だった。
 それを意識しだすと急に周囲の音が大きくなったような気がした。雨音に混じって、近くの通りを走る車のエンジ
ン音が低く聞こえる。
 かなみさんの頬が、鮮やかな朱に染まっていた。夕日のせいにするには、雲が厚すぎた。 
「そ、その、本当に只の例え話だから、余計な詮索はしないでね!」
「はぁ……」
「で、まぁ……告白したとしたら、その……会社の女の子のこと……忘れられる……?」
「え?」
 なんだか話が予想外のところに飛んでいる。
 確かに神野さんは可愛いと思うが別にそういう意味ではなく、単に子猫を可愛いという程度のつもりだったのだが。
 そもそも、発言の真意も俺には汲み取れない。
 しかし、それ以上に気がかりなことが一つ。
「えっと、あのですね。ちょtt――」
「そ、そのね!?」
 俺の声は空しくも遮られる。
 長い睫に縁取られた瞳が、上目遣いに俺を見ていた。
 俺の顔を直視できないけれど、それでも俺の反応を見たい。
 恐がりがホラー映画を見るときのような、そんな心細い視線。
 かなみさんのそんな表情を見るのは初めてだから、俺もどうしていいか解らない。
 いや、今はそんな場合じゃなくて……
「えっと、ひ、一人、そうい物好きが居てね……私の知ってる人というか……そ、その!」
 そこで、彼女は大きく息を吸った。 
 小さい貝のような耳は、今や真っ赤だった。少し厚めの唇が、心細げに震えている。 
 やがて、意を決したようにかなみさんは、言葉を発した。 


「ぶ、ぶっちゃけ! そ、それって私のこt――」


 ふいに、台詞が途切れた。
 傘がどけられ、雨がかなみさんの顔を叩いたからだ。
「ふぇ?」
 間の抜けた声が聞こえたが、無視した。
 俺は傘を素早く車道の方へ向ける。
 次の瞬間。


 ――バッシャアアアァァァァッ!!


 傘が凄まじい音を立てた。
 思いっきり水を巻き上げた宅配便のトラックは、当然止まりもせずに大通りへ向けて走り去っていく。この道は排
水溝の設置ミスなのか妙に水はけが悪い上に、大通りが近いこともあって大きい車も割と頻繁に通る。泥水の餌食に
なったこと数回。その成果が、いまビニールの表面を伝う茶色い水に表れていた。
 フフフ、甘いわ。この程度で俺を仕留めようとは……。
 一仕事を終えた爽やかさでかなみさんの方へ向き直る。
 その肩が、震えていた。
 いかん、雨に打たれて体が冷えたのだろうか。傘を頭上から外して20秒も経っていないはずだが……。
「ぅょ……ぃっもぃっも……」
「あの……かなみさん?」
「……アンタって……そういうやつだったわよね!」
「え?」
「っ!……貸せ!」
 俺の手から傘をひったくると、彼女はズンズンと早歩きで進み始めた。
「ちょ、え? 返してくださいよ!」
「黙れ!」
 俺の声には応じずに、かなみさんは角を曲がって一直線にアパートへ向かっていく。
 『貸せ』とは言ったが、これはどう考えても戻ってこないルートだ。そもそも、泥水を頭から被るという痛ましい
事故を防いだのに、なぜこのような仕打ちを受けなければならないのか。
 不可解すぎるぜ、女心……。
 そんなことを言ってる間に、背広に雨が染み込んでくる。
 絡み付くような雨は、実に鬱陶しい。髪の毛もあっという間に濡れて、重くなった。
「かなみさ〜ん!!」
「……」
 傘泥棒は全くの無反応で歩くペースを上げた。いい加減追いかけるこっちもしんどい。
 また風邪引くぞ、これじゃ……。
 幸い、アパートはもうすぐそこに見えている。
 こうなったら、一気に追い抜いて部屋まで走り、シャワーでも浴びた方がマシだ。
 しとしとと降る雨は枯れたような色彩を町に与え、そこに植え込みの紫陽花が鮮やかな青を放っている。そのギザ
ギザの葉っぱの上をカタツムリが這っていて、その跡がヌラヌラと雨を弾いていた。
 俳句の一つくらい詠めそうな風流この上ない光景の中を、俺は突っ切ってスピードを上げる。
 かなみさんが、後ろから迫る俺に驚いたのか、振り返って目を丸くした。
「お先に失礼します!」
 意味不明な挨拶を怒鳴るように言うと、俺は彼女をさっさと追い抜いた。
 ふとアパートの二階を見上げると、ネムが退屈そうに窓際で外を眺めている。外から見られてもいいように、いつ
もの帽子を被ってはいたが、その表情は浮かない。
 朝から様子がおかしいとは思っていたが、本当にどうしたんだろう。
 なぜだか、かなみさんが後ろから小走りで追いついてきた。そこでようやく、俺は自分が足を止めていることに気
が付く。
「はぁ、はぁ……ったく、走らせんじゃないわよ……」
 ボヤいて俺の頭上に傘を掲げてから、彼女は俺の目線を追って二階の窓を見た。
 ネムはまだこちらに気付いていない。
 雨に霞む町を、金色の瞳でぼんやりと見ている。
 その姿が一瞬消えてしまいそうで、俺は頭を振った。
 雨が目に入っだけだ。そうに決まってる。あんなパワフルなヤツが、そう簡単に消えるものか。
 だが、胸の奥の不安は解けない。カタツムリの歩いた跡のように、消えるのを拒んで安心を弾き続けている。
「あ、ネムちゃんだ。ネムちゃ〜ん!!」
 嫌われてる自覚がない嫌われ者って、一番タチが悪い。
 かなみさんは俺の心境もよそに、能天気な声を上げて窓へ手を振った。
 騒がなきゃいいんだけどな。そう思って見てると、ネムと目が合った。
 寂しげで、とても悲しそうな目だった。

 
 ――その金色の瞳が、ズル、と傾ぐ。

 
 まず首が横に折れ、次に肩のラインが水平を崩した。
 そのまま、背骨がゼリーになったように、スローモーションで窓の下に消えた。
 トサ、と力なく倒れる音が雨越しに小さく聞こえる。
「ネム!!」
 かなみさんの笑顔が凍りついたの背後に感じるとほぼ同時に、俺は再び駆け出した。


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