その9


「ネム!!」
 鍵を開けて部屋に飛び込んだ。幸い、チェーンはかかっていない。
 靴を脱ぎ捨て、一気に部屋まで行くと、ネムが身体を丸めているのが目に入った。
「ハァ……ハァ……グゥ、タカシ……」
と、腹を抱え、苦しげな呻き声を切れ切れにあげている。
「ネム……ネム!!」
 叫び声が、勝手に喉の奥から飛び出してきた。
 朝から様子がおかしいと思ってはいた。
 体調が悪かったのか? だったら、なんで素直に言わなかったんだ。
 二人っきりで生活してる仲間じゃないか。つまんない遠慮なんかするなよ。
 頭の中で回っている言葉は全て、
「ネム……しっかりしろ! ネム!!」
という切羽詰った叫びに変わる。
 急いで駆け寄って抱き起こした。
 同時に、腰の辺りに当てた手に、ヌルリとした感触が伝わる。
 
 フサフサの尻尾のすぐ下辺りの布地から、血が染み出していた。

「あ……うぁ……」
 血? なんで?
 怪我してるのか? どうして?
 強盗でも入ったのか? 何かの事故か? 一体何があった?
 死ぬのか? ネムは大丈夫なのか? 救急車は?
 パニックになりそうな俺を引き止めたのは、
「動かすな!!」
というかなみさんの一喝だった。
「ヘタに動かすな!! ちょっとどいて!!」
 これまで見たことのない厳しい顔つきで、かなみさんは俺と場所を代わる。ネムは僅かに身じろぎ
したが、すでに動く気力もないようだった。
「清潔なタオル! 急いで!!」
「は、はい!!」
 結局、下僕根性が染み付いてるのかも知れない。俺はその命令のお陰で、辛うじて自分を見失わず
に済んだ。
 タンスを引っ掻き回してタオルをあるだけ引っ張り出す。
 その間、かなみさんはネムの脈を取ったり、口の中を見たりと診察をしていた。
 だが、その動きがだんだん鈍くなっていく。
「どうぞ!」
 勢い込んで渡したタオルも、
「あ……あぁ……うん」
という気のない返事と共に受け取られる。だが、俺はそんなことお構いなしに、立て続けに質問した。
「どうなんですか!? ネムは? 血が出てますけど!? 出てますよね!?」
「だぁ〜!! もうっ、うっさいわね!!」
 かなみさんは受け取ったタオルで、血で汚れた自分の手を拭くと、俺に押し付け、新しいタオルで
ネムの下半身をちょうど風呂上りのようにくるんだ。
「とりあえず、私の部屋に連れてくからね!」
「え? だ、大丈夫なんですか? 救急車とか……」
「ば、馬鹿言ってんじゃないわよ! と、とにかく余計なことしないで、部屋の掃除でもして待って
なさい!」
 ネムに肩を貸すと、かなみさんはそれだけ言いつけて去っていった。
 俺は三分ほどタオルの山を抱えて立ち尽くしていたが、やがてそれを元通りしまうと雑巾を取った。
 それほど量は多くないが、ネムの倒れていたところに血がべったりと付いていたからだ。
 本当に、一体何があったんだろう。
 いや、そもそも朝から様子はおかしかった。話しかけてもうわの空だったし、出かけるときに珍し
くグズったり……
 床についた血を拭き取っていると、やけに雨の音がうるさく感じられた。

 ――雨。

 ネムの生まれ故郷である無人島によく降るものとは違う、シトシトといつまでも包み込むように降
り続ける雨。一気に降ってあっという間に去っていくスコールとは違う長雨は、まるで『あの日』の
ような感じなんだろうか。
 俺は、『その日』に直接居たわけではない。今は、引き出しの奥に眠っている古ぼけた手帳と、ネ
ムの記憶の中にあるだけだ。
 ネムがその生涯で初めて出会った人間は、俺ではない。
 俺があの島に流れ着く二年前に、一組の老夫婦がネムと遭遇している。
 旦那さんは医師を退職したところで、ネムには『パパ』と呼ばれていた。奥さんは『ママ』と呼ば
れた。
 夫婦でその島に流れ着いた二人は、ネムのことを『アズサ』と名づけて実の娘のように可愛がった。
ネムに基本的な日本語やコミュニケーションの手段を教えたのも実はこの二人だ。
 だが、二人とも、既にこの世には居ない。
 つかの間の親子生活を過ごしたあの島で、今は穏やかに眠っている。
 
 ――二人がこの世を去ったのは、いずれもこんな雨の日だった。

 俺は結局、あの手帳に書かれた手記であれこれ想像するしかない。
 だけど、一つだけ俺にも言える。
 ネムの胸にはいつまでも、この雨のように絡みつくような別れの余韻が降り続けているんだろう。
 気付いてたわけじゃない。
 今の今まで忘れていた。
 ……だけど、どうして気付いてやれなかったんだろう。
 『パパ』が遺した手帳は、誰か彼を知る人が現れたときのために今でも取っておいている。久し
ぶりに俺はその手帳を引っ張り出すと、ベッドに腰掛けて読んだ。
 そこにある最後の一文が、俺の目に焼き付くように入ってくる。

『どうか彼女を、アズサを、大切にしてあげて欲しい。』

 ごめんなさい。俺は無力です。
 頭を抱えると、そう呟いた。
 ちっぽけで、どこにでも居る、一山100円で売ってる男です。無茶をしてネムを連れてきたけ
れど、そんなことをする器なんて本当は持ち合わせてなかったんです。
 座っているベッドの、乱れた掛け布団が映った。出かけるときに、きちんと直したはずなのに。
 部屋の中央に目を転じれば、いつも食事の時に引く座布団の端に歯形がついている。
 もしも、あいつが痛みや苦しさに任せて暴れたなら損害はこんなもんじゃなかったろう。
 たった一人の部屋で、苦しいのを我慢して、必死に掛け布団にしがみつき、座布団を噛んで耐え
ているネムの姿を思うと、また胸が苦しくなる。
 ネムがかなみさんに連れて行かれてから、どれだけ時間が過ぎただろうか。
 どうか、無事で居て欲しい。
 床の木目を見ながら、何度目か知れない願いを思うと、また口から声が漏れた。
「ネム……」

「……ガウ?」

「っ!?」
 バネ仕掛けのように、背筋が伸びた。
 叫びかけて気付く。
 いつの間にかネムが戻ってきているのもそうだ、服装が、部屋を出たときと変わっていた。ゆった
りとしたハーフパンツを履いていたはずだったのだが、今はスカートになっている。尻尾が無理矢理
折りたたまれて、その部分の布地が盛り上がっていた。
「ネ、ネム!? お前、怪我はっ!?」
「ウルサイ」
「あでっ!」
 耳元で怒鳴ったせいか、ローキックを食らう。
 その場に崩れ落ちて脛を撫でていると、長い尾を引くようなため息が聞こえてきた。
「なにやってんだか……」
 ブツブツ言いながら、かなみさんは座布団に座り、それから黙ってちゃぶ台の向かいを指差した。
 座れということらしい。
 その通りにすると、いきなり彼女は質問してきた。
「アンタさ、お姉さんか妹さん、居たっけ?」
「……はぇ?」
 予想外すぎる発言に口が開く。だが、それを質問してる本人は至って大真面目を通り越して殺伐
とした空気すら纏っている。むしろ質問は既に拷問に変わってるのかもしれない。手の中に目玉と
か入れられてないよな? 両手をちゃぶ台の上で広げながら、俺は答えた。
「いや……一人っ子ですけど」
「そうよね……」
 それから彼女は腕組みをして考え込む。だが、それもほんの僅かのことで、本日何度目かのため
息をついてノロノロと彼女は重い口を開いた。
「まず言っとくけど……アンタみたいな変態魔人でも、一応はネムちゃんの保護者だから伝えとく
だけの話だからね?」
「え?……はぁ」
 まったく何のことか解らない。かなみさんに変態的な側面を見せたことはないと思うのだが。い
や、誰にもないけど。俺、変態じゃないし、多分。
 もごもごと口の中で飲み込めない固い肉でも噛んでるような口ぶりで、彼女は口を開く。
「じゃぁ、言うわね……あのね、今回のネムちゃんのことだけど……あれは、その……」
 酷く言いにくそうにモゾモゾしているかなみさん
 なんのことか見当も付かず、首を傾げる俺。

――そして、後ろから飛んでくる声。

「タカシ、『セーリ』ッテナンダ?」

「は? 整理ってお前、物を片付けたり、次に使いやすいようにしまっておk――」
 そこで俺の言葉は凍結した。
 かなみさんも青い顔でネムを見ている。
「ネ、ネムちゃん! それはさっき説明したでしょ!?」
「……ムズカシイ」
 あっけらかんと言い放つネムをよそに、俺の頭はいよいよパニックになっていた。
 朝から調子悪い。腹を抱えていた。尻尾の下あたりから滲み出ていた血。
 全部の点が、中学校時代の保健体育という線で繋がった。
 それが正しいのかを確認すべく、おずおずと尋ねてみる。
「か、かなみさん……せ、『せいり』って……『なま』の『ことわり』と書くアレですか?」
 かなみさんは、唇をへの字に歪めて、うんざりといった感じで頷いた。
「……うん」
 
 ――マジ?

 あれですか。月に一回やってきて、カップルの女が『来ないの』って言うと破局の危険さえが
あるというあの……?
 で、でもでも……!
「でも、俺こいつと暮らして一月と半くらいですけど、そんな素振り全然……っ!」
「さっき話を聞いたんだけど、今回が初めてみたいね」
 すっかり医者モードになったのか、かなみさんはサラッ言ってのける。だがその表情はまだ渋
い。そりゃ確かに言いにくくもあるだろうさ。俺もなんて言っていいか解らない。
「えぇっと……」
「とりあえず私の持ってる薬を飲ませて休ませたら、痛みは引いたみたい。あと、これ返すわね」
 ビニール袋に入っていたのは、さっきまでネムが履いていたズボンだ。血の染みが出来ている。
多分、これはもう捨てるより他ないだろう。血って落ちにくいし。
「今は、私の服貸してるから。それと……これ。使い方はさっき教えたから……」
 目を伏せて、かなみさんは茶色の紙袋をテーブルの上に置いて、俺の前に押し出した。
「これは?」
「その……アレよ……解るでしょ?」
「……あぁ」
 テレビで『夜でも安心』とか『羽根付き』とか宣伝してるヤツか。理解するのに、結構時間が
かかった。紙袋を取ると、中身を覗きながら、何気なく尋ねる。
「これ、かなみさんが使ってるヤツですか?」
 こんなもの一生買うことはないだろうと思ってただけに、全く知識がない。かなみさんが使って
る製品なら、とりあえず問題はないだろうと思っただけの質問だった。
 だが、なぜか背筋に 冷や汗が一筋垂れる。

 ――あれ? なんかヤバいこと言ったっけ?

 本能的な危機察知能力がフル回転しているのが解った。
「そうね……」
 かなみさんは、いつの間にか音もなく立ち上がっていた。凄まじい笑顔を俺に向けると、一気に言う。
「例えばその昔、アンタが幼き頃捨てられて凍えている子犬を助けたことがあったとしようか……」
「え……っと……かなみs」
 言葉の真意は解らなかったが、何かを取り繕おうとして口を開く。取り繕うべきものが何か解らない
が、今のままじゃ非常にマズいことだけは理解できる。
 しかし、既に手遅れだった。

「……でも死ね」

 座ってる俺の延髄を華麗な回し蹴りが捕らえた。
 ――意識が回復したのは、時計を見る限り15分後だった。
 かなみさんは当然ながら、もう立ち去っていた。頭を振って身体を起こす俺に、ネムが尋ねる。
「デリカシー……ナンダ?」
「かなみさんが、言ってたのか?」
「タカシニ、ナイッテ」
 あぁ……そういうことか。確かに無神経だったかもしれない。
 実際、今回の件に関してはかなみさんが居なければ、立ち往生していたところなのだから、感謝し
てもしきれない。今度、謝って飯でも奢るべきだろうな……。 
 そんなことを考えながらタンスの中にさっき貰った紙袋をしまう。
「ネム、この中に入ってるからな……その……」
「ナプキン」
「……そう、それ」
 全くの照れもなく、むしろ新しく覚えた知識を得意気に疲労するようにネムは言った。気楽なもん
だぜ、獣人は。
「自分で使えるな?」
「アタリマエ……タカシ、ツカエナイカ?」
「あぁ、使ったことないな」
「……フフン」
 優越感に満ちた笑みを浮かべるネム。
 なんか勘違いしてるぞ、コイツ。俺は基本的に一生使わなくていいんだよ?
 だが、今はその勘違いを正す気にもならない。
 ぐったりと疲れた上に、腹も空いた。
 ふと見れば、ネムも腹に手を当てている。そこから、

 ――クー

と可愛らしい音が鳴った。 
「グル……ハラヘッタ」
「へいへい」
 俺はすぐに夕食の準備に取り掛かった。
 
 ――赤飯は作ったことないからやめにする。




 色々あったが、今日もとりあえずは無事に一日を終えることが出来た。
「タカシ、ネルゾ」
 寝巻き代わりのTシャツとジャージに着替えたネムが、ベッドにあぐらを掻いて呼んだ。
 無人島からの習慣で、眠るときはコイツの抱き枕にされるのが常だった。
 しかし、今日は少しばかり事情が違う。
 予備の布団を引っ張り出しながら、俺は
「悪い、今日はこっちで寝るよ」
と答えた。
 ベッドはこの際明け渡そう。だが一緒に寝るのはとてもマズい。
 だって……なぁ? 
 もう立派に『女の子』になったわけだから、もうちょっと慎みを持ってもらわなくては困るというか。
 それより、俺自身にそういった生々しい話の免疫がないため、変に意識してしまいそうだ。
 かなみさんにどんな説明を受けたか解らないが、ネムは頬を膨らませて不満そうな顔を作る。
「ム……ナマイキ……ダ! タカシノクセニ!」
「骨川さんちの息子さんみたいなこと言わないの。ほら、抱き枕なら、この布団使え」
 掛け布団の予備を渡してやると、俺は何か言われる前にタオルケットを被ってさっさと寝転んだ。明日
も早い。今日はただですら色々あって疲れてるんだから、さっさと寝ないt――
「ガウ!」
 と思ったら、その上から思い切り踏みつけられる。
「ぎょぶっ!」
 すげぇ変な声が出た。
 みぞおちを押さえて悶えていると、その隙に素早く俺の隣にネムが滑り込む。
「だ、だからネム……」
「クゥ……」
 振り向くと、上目遣いに見上げられた。右手は下腹部に当てられている。
 そして、俺は悟った。

 ……俺は本当に何やってんだ?

 体の変化に一番戸惑ってるのは、ネム自身じゃないか。
 しっかり支えてやんなきゃいけないはずなのに、変な意地張って、まるっきりガキみたいだ。
 一日に二回も間違いを犯すところだった。
「……ベッドに戻ろう」
「グル……サイショカラ、ソウシロ……」
「あぁ、ごめんな」
 軽く頭を撫でると、布団を畳んでベッドに移る。
 ネムは俺のシャツを掴んで、自分の腹と俺の顔を交互に見ていた。
「大丈夫だ。別に病気じゃないんだからな」
「ガル……ネム、『オンナノコ』ニナッタ?」
「あー……かなみさんがそう言ったのか?」
 そう言うと、頷かれる。
 またなんというか古典的な言い方だ。もう少し他に言いようは……ないか。
「アカチャンガ、ウメル……」
「……そうだな」
「『ママ』ニ、ナレル?」
「……そうだ」
 『ママ』という言葉の意味を汲みかねたが、俺は肯定した。
 きっとこれもかなみさんの言葉を真似しただけだろうが、わけも解らず『ママ』を使っていた頃と違
い、今は言葉の本来の意味も知っているはずだ。
 けれど、思い出させるには十分すぎる。
 外はまだ雨が降り続いている。
 あの無人島の土で眠る『パパ』と『ママ』を思い出したのか、ネムは俺の寝巻きを掴む手に力を込めた。
 安心させるようにその頭を抱き寄せると、ピンと立った耳がピクリと動く。それから、ゆるゆると、次
第に手の力が抜けていった。
 ネムの小さな身体に込められた緊張が完全に解けるのを確認してから、俺は言う。
「……大丈夫だからな」
「……グゥ……」
「おやすみ」
「……オヤスミ」 
 他に言葉はなかった。
 だが、今はそれで十分だった。


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