「遅い」

日曜日。
時刻は九時半。
俺は駅前の噴水で六本目の缶コーヒーを空にしていた。
集合時間は十時。俺が着いたのは八時―――

「びびってるわけじゃないからな」

ちなみに鞄の中にはもしもの時のための水中ゴーグルとシュノーケル。
尚、『酸素ボンベ買ってよぅ!』と母親にねだった時のいざこざは割愛する。
……フライパンで殴らなくてもいいじゃないかよ。

「……びびってないぞ」

二度目の惨めな呟きと共に缶コーヒーを屑かごに投げ入れる。
カコン、という小気味の良い音が響き渡った。
そして続いて聞こえる、軽やかな呼び声。

「高志っ」

遠めにも判る、派手な色をしたツインテール―――橘 香波だった。
俺を視認すると息を切らしながら、小走りで駆け寄ってくる。
目の前で立ち止まった時に鼻腔をくすぐった甘い香り。
お、お、女の子?

「待った?」
「ま、まま待ってないぞ」

二時間ほどしか。

「まさか、高志がこんな早く来るとは思わなかったわ…」
「遅刻したら殺すって言ったのはお前だろう」
「あはは、そうだったわね。偉い偉い!」

そうして、ふざけ半分に頭を撫でられた。
さっきも感じた、甘い女の子の香り。
シャンプーの匂い、化粧の匂い、薄い香水の匂い。
……やばい、なんか俺、変だ。
取り繕うように、強引な話題転換を試みた。

「しかし、また随分気合の入った格好だな」
「そ、そう?」
「制服しか見ないから、割と新鮮だ」
「ふふ〜ん、思う存分見惚れなさいっ」

得意げに言って、その場でクルクル回る。
心なしかいつもよりサラサラした髪が、
春らしい鮮やかな色のロングスカートが、
上品に巻きつけた風色のスカーフが、
俺の目の前で、廻る。

「…………」

不覚にも、見惚れていた。
らしくもない、女の子っぽいその姿が―――可愛くて。

「あれ? どうかした?」
「ん、あ、ああ。な、何でもない。似合ってるぞ」
「え、そう? ……そうかな? えへへ、ありがと」

ああ、くそっ。
顔を赤らめて嬉しそうに笑うな。
こっちとの距離を詰めようとそわそわするな。
俺の爪先から頭まで眺めて満足そうに笑うな。
ペースが……狂う。

「よよよぉし、行くぞ! 今日は一日暇という暇を満喫してやろう!」
「日本語おかしいわよ」
「野暮なことをいうなっ! さぁいざ!」

「―――どちらへ?」

空気が凍りついた。

「ち、知波ちゃん……」

黒と白を基調としたゴシック系の服装。
艶々の黒髪がそれと相まって、一層に美しい。
小さな矮躯と大きな日傘。
蒼天に映えるその完成された影は、姉に負けないくらい可愛かった。

「……別府さん、嫌いです」

こちらを睨みつける鬼のような三白眼以外は。

「ホント、ごめんなさい」
「……いえ、置いていきそうになったことに関しては全く怒っていません」
「ホント、ごめんなさい」
「怒ってませんって。置いていきそうになったことは」
「ホント、ごめんなさい」

遊園地へ向けての移動中。俺は何十回目か判らない謝罪をした。
ここが電車の中でなければ、俺の額が削れて無くなる程の土下座を強いられていただろう。
知波ちゃんが怖くて、こっそり出発前のトイレで泣いたことは内緒だ。

「むー」

しかし。

「おい、香波。なんでそんな離れてるんだよ」
「ふーんだ!」

コイツまで殺気を放ちながら俺を睨みつけるのかが判らない。
さっきまであんなに笑顔を振りまいていたのに。
知波ちゃんが合流した途端コレだ。仲の良い姉妹だったはずなんだけどなぁ。

「あー、もう! こっち来いよ!
 折角三人で遊ぶ予定してたのにそんな離れたら意味無いだろ!?」

香波の眉が一層釣りあがった、と思った瞬間だった。

「ぐぉおおおお…っ!」

俺の鳩尾に鈍い痛み。
それとタイミングを同じくして、爪先に鋭い痛み

「大っ嫌い! ばかばか高志! 死んじゃえ」
「嫌いです。別府さん……死ねばいいんです。」

ハモる勢いの呪詛二つ。
ちなみに俺をダウンさせた痛みの正体はようやく距離の縮まった二人の仕業だ。
香波の膝蹴りは鳩尾へ。知波のヒールは爪先に。

「のおお……おおお」

電車の中にも関わらずのた打ち回る俺を、助けてくれる人は居なかった。

『あらあら痴話喧嘩かしら』『二股男か……うらやまし…いや、けしからん』
『なんか〜、痴情のもつれって感じ?』『でも男が超頼りないね』
『可愛い女の子二人も連れて……死ねばいいんだ』

口々にストーリーを練り上げていく乗客を余所に、
ブラックアウトしていく意識の中、俺はようやく気付き始めていた。

―――これって、二人にとっては暇潰しじゃなくて……立派な

そこまで考えたところで意識は途絶えた。





ひんやりと。
額に当たる、程よい体温が、目覚めて初めての感覚。

「……ようやく起きましたか」
「あれ、知波ちゃん……」

眼前には、日本人形のような黒い少女の顔。
その後ろには眩く光り輝く太陽。
俺の額には彼女の手の平。
背中に当たる感触はベンチ。
頭を固定している柔らかいものは―――

「のあああっ!」

飛び起きる。
俺の危惧していた通り、後頭部の柔らかい感触は、知波ちゃんの膝枕。
……いやぁ恐ろしく柔らかかった、って違う!

「な、なんで? オレ、ヒザマクラ? オン・ザ・チナミ?」
「とんでもなく崩壊した日本語はやめてください」

困ったように毒づく知波ちゃん。
さっきまでの怒りはどうやら治まったらしい。良かった。

「……ひょっとして、俺、電車の中で」
「はい。気絶されたので、そのまま運んできました」

辺りを見回す。
目出度そうな音楽と、喧騒が絶えない。引っ切り無しに出入りする人の波。
ああ、見事なまでにテーマパークの様相だ。

「既に到着です。別府さんが気絶してたのでまだ入場はしてません。
 姉さんが気付けのジュースを買いにに行っています」
「なるほど…。で、何故俺はオン・ザ・チナミだったのか」
「直訳すると『何故俺は知波の上に乗っていたのか』ですが」
「なんで膝枕してたの?」

物凄く淫猥な直訳に慌てて表現を変える。
尚、知波ちゃんのヒールが臨戦態勢を取っていたことも補足しておく。

「……これで、チャラと言う事です」

質問の答えになっていなかった。
でも、知波ちゃんはそれを告げるだけで精一杯というような
困った顔をして、笑った。

「ん……そうか」

苦笑いに近い曖昧な笑顔。
俺はそんな彼女に、野暮な質問を飲み込んでいた。
髪をかき上げる細い指。
そのまま指先を柔らかな動作で俺の鼻先にそっと突きつける。
知波ちゃんが、また微笑む。

「……寝顔、不細工でしたよ」
「はは、そうかもな」

細められた黒い瞳が、優しい光を帯びている。
ああ―――知波ちゃん、こんな表情も出来るんだ。
その瞳に間抜けな笑顔の俺が映る。
滑稽な風景。
緩やかな時間。
不器用な笑顔。

「はーい! はいはいはい! ジュース三人前お待ちどう!」
「うおっ!?」
「お帰りなさい、姉さん」

タイミングを狙ったかのように割り込む、軽やかな香波の声。
どうやらこっちの機嫌も直ったらしい。

「お前は大阪のオバちゃんかっ!」
「失礼ねっ。オバちゃんはないでしょうにっ!」
「……別府さんは余計な一言が多すぎます」
「そうよ。だからモテないのよっ」
「それは言ってはいけない! いけないんだよ香波!」
「事実です」
「知波ちゃんまで!?」

俺のピュアを抉るいわれのない罵声。
機嫌が直ったら直ったで結局なじられるこの理不尽さ。
しかし、どこか心地よくもあるやりとり。
……いや、だからマゾじゃないと何度言えば。

「さ、さっさと入場しちゃいましょ。
 どっかの馬鹿のせいで随分と手間取っちゃった」
「そうですね。ちょっと蚊に刺された位で気絶する誰かさんのせいで
 手間取ってしまいました」

随分と強烈な足技を放つ蚊もいたものだ。

「さ、行きますよ」
「置いてくわよ、高志!」

俺の内なる批判など何処吹く風で、入場ゲートへと向かう姉妹。
二人の距離は、近い。

「ま、待てよ、二人とも」
「待ちません」
「待たないわ」

言いながらも、振り返り微笑む二人。
花のように、軽やかに笑う香波。
曖昧な、柔らかい知波ちゃんの笑み。

俺たちは、喧騒に飲み込まれていく。

「さぁ―――楽しむか」

その言葉を聞いた二人の姉妹は、目を合わせてまた笑った。
俺はその意図すら全く判らずに、ひんやりと冷たい風を感じていた。


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