後悔。
どうして、彼女の異変に気付かなかったのか。
「くそっ……」
あと五分でも早く、せめてあの隊列が崩れた時点で気付けていれば。
「くそぉ……っ」
薬品の匂いが忌々しい。
耳障りな喧騒もない静けさが。壁の嫌味なくらいの白さが。
俺の後悔をより肥大させる。
「知波ちゃん……っ」
冷たく鋭利な突込みが痛かった。
突き刺す三白眼の視線が怖かった。
長いヒールの踵で踏まれると泣きそうになった。
「大嫌いです」の言葉が本気で辛かった。
「嘘だろ……?」
『一生分叫びました』―――なんて皮肉。
そんな言葉が最後だなんてあんまりだ。
叫ばなくてもいい。せめて、呟いてくれればいい。
いつもの様に、淡々と、馬鹿にしてくれ。
「もう聞けないなんて……」
「―――勝手に殺さないで下さい」
「あ、起きてた?」
「とりあえず、罵倒、三白眼、ヒール、嫌い宣言―――どれからがお好みでしょうか」
「ごめんなさい」
「そんなに聞きたいなら、存分に馬鹿にします」
「やめてくれ」
こっちが死んでしまう。
「なら、要反省です」
「はい……」
真っ白な天井。
真っ白なカーテンに真っ白なシーツ。
白亜の城、というには余りにも薬品臭い。
「夢で一杯の遊園地にこんな一角があるってのも、
まぁ当然のこととはいえ、野暮だよな」
ここは医務室。
園内の喧騒はここまで届かない。耳に入るのは何かの小さな機械音だけ。
そして白い部屋の中心に据えられたベッドには、黒い影。
俺はその横のパイプ椅子に腰掛け、看病―――というには拙い付き添いを続けていた。
「もう大丈夫か?」
「……それなりに」
突然倒れた知波ちゃん。
すっかり動転した俺は、彼女を抱えながら走り回り、
スタッフだろうがきぐるみだろうが、あたり構わず助けを求めた。
意外にも彼らの対応は早く、こうして医務室へと案内されたというわけだ。
「しかし、そりゃ大変だったぞ。背中の女の子は気を失ってるし、
俺はひどい形相で汗だくだし。なんかのアトラクションかと思われてた節もある」
「重くて悪かったですね……」
「もう、可愛くないなぁ。本気で心配したんだぞ?」
「……怒ってます?」
「いや、まぁ……別に。安心したって方が大きいかな」
当園専属医師なる人の診察によると、極度の緊張と、寝不足疲労諸々が重なった貧血。
安静にしてれば全くもって問題は無いとのことだ。
「ジェットコースター嫌いなのに無理して乗ったから、ってのもあるだろ?」
「……」
返事はない。
しかし、彼女にとってそれが何より雄弁な肯定の証だった。
「…………大嫌いです。ジェットコースター」
「ちなみに、俺とどっちが嫌い?」
「別府さん」
即答だった。
「……」
「……嘘ですよ」
視線を合わさず、ぼそりとそう呟く。
……下手な沈黙が心臓に悪かったぞ。
「姉さんは」
「ああ、香波なんだが……。
アイツがジュースを買いに行ってる間にお前が倒れたから……はぐれちまった」
あとで探してやらないと。
絶対に怒ってるだろうなぁ。
「足の一本や二本は覚悟しないとな……」
「……」
「はぁ、『キイイイ、殺す殺すむしろぶっ殺す! ツンツンツン!』とか言ってるんだろうなぁ」
「…………」
「また埋め合わせに奢らされるかなぁ。今度はファーストフードじゃすまないだろうなぁ」
怒り狂う悪鬼の顔を想像しながら顔を上げる。
知波ちゃんの、黒い瞳と、視線が交差した。
「……知波ちゃん?」
「姉さんのこと―――好きなんですか?」
いつもの淡々とした口調で。
なんでもないような素振りで、聞いた。
「なっ……?」
「好きなんですか?」
問い詰められる。
少ない言葉で、鋭利に。彼女がいつもそうするように。
黒い視線。射抜くような、瞳。
「困ったような、でも楽しいそうな顔。姉さんの話をする時はいつもそうです。
別府さんは姉さんをきっと理解している。だからそんな優しい顔ができるんです」
「そ、そんなことは……」
「ありませんか? 本当に?」
穿つ。
一言一言が、俺を責めるように、痛い。
「あ……」
気がつけば、俺たちの距離は縮まっていた。
呆れるくらい黒い髪、白い肌。赤い唇。
息がかかる距離―――嘘が、つけない距離。
「答えてください、別府高志さん」
赤い唇が、まるで断罪するかのように言葉を紡ぐ。
絡め取られるようにして、俺の思考は追い詰められていく。
「あなたは、橘 香波のことが―――」
動けない。心も身体も、完全に縛られる。眩暈がするほどの閉塞。
「俺は―――」
「言わせない」
ぼすん、と。
静かな部屋に、やけに大きく響く一つの音。
閉塞の次には、異常なほどに脳を焦がす混乱が訪れた。
ベッドに押し倒された、という事実すら、すぐに認識できない。
「知波ちゃ―――」
「渡しませんから」
押し付けるようにして、唇が重なる。
鋭利? 冷静? 誰が?
熱い吐息が、柔らかい唇が、しっかりと首に回された腕が。
俺の全てをがっちりと拘束する。脳が溶けそうなくらいに熱い衝動が唇から流れ込んでくる。
「……んっ、ふあ……」
冷たい言動のくせに、やけに熱い体温。
後先考えない、自分の行動の矛盾も全く省みない少女。
―――橘 知波。
「好きです、別府さん」
そう言う彼女の、息がかかる。
視界に映る唯一の存在が迫る。
そしてようやく、気付く。
「小悪魔だな、知波ちゃん」
「……驚きました?」
「とりあえず、この状況にどうしようもなく驚いてる」
「逃がしませんよ?」
「どう考えたって逃げられない」
「逃がさないと言っています」
俺が香波を好きか―――そんな事彼女にはどうでも良かったんじゃないか。
俺の気持ちがどうであれ、彼女はこうやって俺を拘束し、魂ごと奪っていく。
とんでもなく強引で、とんでもなく衝動的な行動だ。
「こんな知波ちゃん……初めてみた」
「誰のせいだと思います?」
「お、俺?」
「……言わせる気ですか」
そしてまた降る、キスの雨。豪雨だった。
「ずっと、大好きでした。自分でも不思議なくらい、突然で大きな気持ち。
誰にも渡したくない。そんな火傷しそうな衝動。
別府さんを見るのが好きでした。優しく笑うあなたが大好きでした。
素直じゃないくせに、衝動的。余計なことまでお喋りで、鈍感。
包容力なんてないくせに、優しい。とんでもなく馬鹿」
やけにお喋りな知波ちゃん。
黒い瞳も、髪も。紅潮こそしているがやっぱり白い肌も。
全てが知波ちゃんのものなのに。
「知ってました? 意外とお喋りなんですよ、私」
「知らなかったな」
「知ってました? 意外と嫉妬深いんです、私」
「……それも知らなかった」
「じゃあ―――教えてあげます」
そして、また口付け。
数なんてとっくに覚えてない。
とっくに焼き切れた脳が、完全に思考を放棄していた。
煙を上げる脳味噌。
開戦の、狼煙のようだった。
前へ
/ トップへ
/ 次へ