「さて、そろそろ行こうか」
「私、立てません……」

断っておくが、いかがわしい事はしていない。

「いやぁ、爽やかな昼下がりだなぁ!」
「昼間からこんな事してますが」

重ねて言うが、俺は綺麗な身体のままである。
いや……言ってて悲しいが。

「誤解を招くような発言は止して頂きたい」
「汚されました……」
「俺は何もしてない何も!」

ちっ、とばかりに舌打ちする知波ちゃん。
……完全に小悪魔だった。

「しても……よかったです」
「いや、そういうわけにも……」

二人とも忘れかけていたが、一応ここは園内の医務室である。
えっちな蛮業に及ぶのは、余りにもチャレンジャー過ぎた。

「唇がべとべと……リップ、とれちゃいました」
「それは否定しない」

十じゃ二十じゃ足りないくらいのキス。
そして『いかに俺のことを好きか』という、知波ちゃんの吐露。
耳元で、正面で、胸元で。呟きながら、唇を貪る彼女。
小一時間後にはすっかり涎やら唾やらで、
とても人前に出せない顔の二人が出来上がっていた。
……ある意味、えっちな事よりもタチが悪い。

「……なぁ、知波ちゃん」
「なんですか」
「俺、まだ知波ちゃんの彼氏とか……そういう事、保留にしたい」

この期に及んで、という言葉が頭を過ぎる。

でも、このままズルズルと済し崩しにはしたくない。
俺は知波ちゃんが好きだ、と思う。
友達としても、女の子としても、向かいの家の娘さんとしても。
……香波の、妹としてだって。
きっと、好きだ。
でもだからこそ、こんな突然に訪れた『チャンス』なんかに甘んじたくない。
真面目にお互いの立ち位置とか、関係とか、気持ちとか、
そんなことを考えながら、急ごしらえじゃなく、しっかりとしたものを紡ぎたい。

「……駄目かな?」
「駄目です」

即答だった。

「……というのは、嘘ですが」
「嘘かよ!」

駄目だ、本質は変わってない。
冷静で淡白で、鋭利で残酷な、そしてちょっと、いやかなり嫉妬深い、橘 知波だ。

「良いと思いますよ、別府さんのそういうところ」
 
だから、そんな優しい一言が、嬉しかった。

「でも、私はこの気持ちを譲るつもりはありませんので、ご理解の程」
「……まぁ、知波ちゃんならそう言うだろうと思った」

それは譲歩。
あれだけキスして、抱き合いまくった手前、
『この夜のことは犬にでも噛まれたと思って忘れてくれ』(煙草をふかしながら)
なんてこと言う度胸はないし、言うつもりもない。
……ていうか、言ったら確実に殺されそうだ

「まぁ、さっきのことは犬にでも噛まれたと思って―――」
「殺しますよ」

ものすごく怖かった。

「まったく……馬鹿なことを言ってないで、そろそろ行きましょうか」

そう言って、知波ちゃんはようやくベッドから立ち上がった。
ぱんぱん、と服の埃を払い、服のしわを取る。
乱れたスカートとか(不可抗力だ)、
はだけた胸元とか(わざとじゃないんだ)、
べとべとの肌とか(仕方なかったんだ)、
そういったものを、手早く直していく。

「これで大丈夫ですか?」

くるりと回って、俺に確認を促す。
さっきまで散々嗅いでた筈の、知波ちゃんの匂いが鼻腔をくすぐった。
柑橘系の香水の匂い、そしてちょっとだけ医務室の薬の匂い。

「ああ、大丈夫。可愛いぞ」
「……もう一回」
「ああ、大丈夫」
「違います」
「……」
「どうぞ」
「……可愛いよ」
「…………嬉しいです」

敵わない、と思った。
はにかむ控えめな笑顔も、白い肌に映える頬の紅潮も。
彼女がさっきしたことに比べれば、プラトニックも甚だしい俺のたった一言で、照れる仕草も。
可愛すぎる。

「さあ、行きましょう」
「お、おう」

知波ちゃんは、そう言って俺に並ぶ。
俺の肩に届くかどうかくらいの小さな身体。
見上げるその視線は、澄み切った黒。

「最後にもう一つ、いいですか」
「何だ?」

俺の返事を聞くが早いか、彼女は俺の右手を取った。
細い指が俺の手を包む。

「私、橘 知波は、誓います。
 あなたに、心も身体も隷属することを。
 あなたを、誰にも譲らないことを。
 負けないことを。闘うことを―――」

そして、俺の手の甲にそっと口付けた。
王子が姫にする約束のキスのような。
照れくさい、キス。

「な、なに? 何の呪文」
「呪いです」
「十日以内に死ぬとか?」
「ロマンのかけらもありませんね」

しょうがない、とばかりに苦笑する知波ちゃん。
……どっちが年上だか判りゃしない。

「次に唇にキスするのは、勝ったときにします」
「だ、誰に……」
「秘密です」

悪戯っぽい笑み。
さっきからくるくると変わる表情。
そのどれもが、俺が知らなかった新鮮なものだった。

「―――誓います」

短く言葉を切り、もう一度だけ手の甲にキスをする。
それは呪い。
彼女自身への。そして俺への。
言い訳のような、誓いのような、曖昧な、だけど確かな。

「あなたが、私にめろめろになりますように」

『ね、高志さん』――と。
彼女ははっきりそう俺を呼んで、また笑った。




ピンポンパンポーン

『迷子のお知らせを致します。
 ドジで愚図で鈍間で糞ったれど畜生の、別府高志様。
 原文のままお伝えしておりますのでお聞き苦しいことをお許しください。
 ドジで愚図で鈍間で糞ったれど畜生の、別府高志様。
 居られましたら、中央サービスセンターまでお越しくださいませ。
 繰り返しお呼び出しを申し上げます。
 ドジで愚図で鈍間で糞ったれど畜生の、別府高志様―――』

こんなに恐ろしい迷子放送を聞いた事がない。
繰り返される呪詛の呼び出しを聞きながら、
俺は汗が吹き出るのを感じていた。

「怒ってますね、姉さん」
「正直このまま逃げ去りたい」
「地の果てまで追いかけてくると思います」
「違いない」
「駆け落ち、します?」
「しない」

電車で逃げようが、飛行機で逃げようが、例え宇宙船であろうと、
きっとヤツは追いかけてくる。

―――『キイイイ、殴る千切る捻る折るぶち殺す! ツンツンツン!』

なんて、恐ろしい。

「早いとこ行って謝ろう」
「そして、結婚の許しを貰うわけですね」
「貰わないからな」
「……意地悪」

そして香波ちゃんのキャラの変わりっぷりがまた恐ろしい。
例えるなら激辛唐辛子をかじってみたらケーキの味がしたような。
……なんか違うか。

「とりあえず、香波の前では普通にすること」
「もはや、私にとってこれがデフォルトですが」
「認めない」
「……嫌いです」

こんな状態を見せたら、香波はきっと大噴火だ。
間違いなく、俺はこの世からさようなら。
墨屑すらも残らず消し飛んでしまう……ような気がする。

「とにかく、急ごう。一秒でも早く謝りたい」
「……二人っきりがいいです」
「よくない」
「デート、しません?」
「しないから」

―――俺の命は風前の灯火なのかもしれない。


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