楽しげに行き交う喧騒の合間を駆け抜ける。
避ける。ぶつかる。すこし謝る。
宛てなんか無く、ただ見飽きたド派手なツインテールが視界に映るまで、
ただ闇雲に滅茶苦茶に疾走する。
ちらりと覗いた時計は三時過ぎ。
未だ太陽は高く、遠慮無しにギラギラと大地を熱する。

「あちぃ……」

清々しいくらいに群青色の空が忌々しい。
吹き出る汗がうっとおしい。一々拭いていられないのに。

日が落ちるまでに見つけたかった。
夕闇に溶けてしまえば、きっと正直に言えなくなる。
だから、あの完璧な青色が失われるまでに、見つけて、叱って、謝って、殴られて。
そして、願わくばまた笑いたい。
―――休んでる暇は無い。

「走れ、俺っ」

情けないくらいにヘタレきった自分の声に辟易する。
こんなことで疲れてちゃ、姉妹に笑われる。
香波、知波―――どちらにも誇り高く、自慢できる男として向かい合え。
土壇場の努力だって構うもんか。やれるだけやってやる。
休んでる暇があるなら、向き合うその時まで一分一秒でも余る時間があるなら、
進め。一歩でも進め。

「何処に居るんだよ、大馬鹿ツンツン娘ぇ!」

憎らしく輝く太陽は、答えない。

走る。
走って走って走りまくる。
恐らく本日の来場者園内歩数ランキングではトップに躍り出ただろう。

「一生分……走りました」

知波ちゃんの口調を真似してみた。
ジェットコースターの時の疲弊しきった表情を思い出して、少し元気が出る。
まだ、走れる。

………
……


走る。
走って走って走りまくる。
万歩計付けてれば、三日はそれで笑えるくらいの数字を叩き出せるだろう。

「何よ、もうヘバッたの軟弱男。蹴り殺すわよツンツンツン」

香波の口調を真似してみる。
地獄に住まう鬼のようなその表情を思い出して、余計な冷や汗が噴き出す。
まだ、走れる。

………
……


走る。
走って走って走りまくる。

「ああああああ! ギブ!」

何周しただろうか。園内のアトラクションの位置は全部覚えた。
日本で一番走った男として取材が来てもいい頃合だ。
……走り尽くした。
もう身体が付いていかない。
五分だけ、いや、五分と三十秒だけベンチで休もう。
そしてまた、走ろう。

「でも、もう遊園地から出てたらアウトだな……」

さすがにそこまでの広範囲を又にかける度量はない。
……一度橘家に電話してみるか。

―――あの、香波さん。帰っていらっしゃいますか。
    ちょっと、その怒らせてしまったので、はい。ええと、その、浮気が原因で
    ああ切らないで切らないで義父さん! 反省しております! はい!

完全に間男だ。
つーか浮気ってなんだ。違うだろ。義父さんて。違うだろ。
……思考まで疲弊しきっている。

「何やってんだろうなぁ、俺」
「ホントよ」
「誰のためだか」
「知波でしょ」

幻覚だ。
幻聴だ。
幻想だ。ファンタジーだ。

「炎天下の耐久レース、お疲れ様」
「……見てた?」
「気付きなさいよ。ずっと座ってたんだから」
「声くらいかけろよ」
「面白かったから。あと泣かされたから仕返し」


最悪の性格だ。
いちいち癪に障る憎まれ口。
端正な顔をしてるくせに、とんでもなくお転婆で。
今は、綺麗な目を真っ赤に腫らして。

「何よ、もうヘバってるの。軟弱男」

まさしく―――橘 香波だった。





「さぁて……何から聞いて、何から話そうかしらね」
「どっちが先攻だ?」
「あんた」
「やっぱり俺か……」

幸運なことにも空の群青は未だ健在。
ベンチに座る俺と香波の間には、不自然な距離。
だが、それくらいが丁度良い。

「あ、ごめん。やっぱりあたしから先攻」

慌てたようにして訂正する香波。
それは先に言いたいことがある、という意思の表れに他ならなかった。
香波は躊躇いなく、そして一切の淀みなく、俺の戦闘準備なんてお構いなく。
―――言い放った。

「あたし、高志が好きだよ」

先攻、香波の一太刀目は即ち必殺の一撃。
それで俺の虚勢とか、余裕とか、そんなものの息の根を全て止められた。
胸がざわつく。

「大好きだよ」

返す刀でまたざっくり。
泣いたせいで赤く腫れ上がった瞳なんてお構い無しの、素敵な笑顔。

「知波にだって負けない。二人に何があったのか知らないけど。
 でも高志が大好きだってことには関係ないもんね」

笑顔で切りつける、容赦ない攻撃だ。
全て叩き切られる。途切れる。麻痺してしまう。
太陽のギラギラがもう届かない。遊園地の喧しい騒がしさが届かない。
感覚全てが香波に収束する。持っていかれてしまいそうだった。

「さっきは泣いちゃってごめん。悔しかったの。
 なんか置いていかれた気がしたんだ。自分でも思い返せば子供だったな、って思う」

そういう香波は、強い大人の表情をしている。
一人で泣き出し、逃げ出して、そして泣き腫らして、立ち直る。
……なんて、強い。

「楽しみにしてたんだよ。遊園地。電話でオーケー貰ったあと飛び跳ねちゃった。
 アンタと二人で来るの楽しみにしてた。一杯楽しもうって思ってた。眠れなかったわよ。
 朝も早起きした。三時間かけて準備した。おかげでちょっと遅れそうになったけど。
 予定も立ててたわ。ジェットコースター、ゴーカート、メリーゴーランドにお化け屋敷。
 パンフレットと睨めっこして、回るコース一生懸命考えてさ。あはは、子供ねぇ」

開戦前夜の絵空事。俺が見当違いの胸騒ぎを感じている間の、彼女の作戦会議。
緻密さなんか全くない、恋する女の、精一杯の戦略。
香波はそれを連々と、堂々と恥じることなく告白する。

「最後に観覧車で告白するつもりだったの」

そこで、ようやく俺の目を見る。
瞳には間抜け面をした男の姿だけが映っていた。

「作戦、台無しよね」

群青の空に映える眩しさで、香波はまた笑う。
強がりや照れ隠しを纏い、演技を続けてきた彼女。
その取り繕いが全て取り払われた時、
そこにはとんでもなく素直で、強くて、厄介な、恋する乙女が存在していた。

「好きだよ、高志」

俺の目をじっと見つめて、もう一度言う。
それが先攻である彼女の攻撃終了宣言だった。

「以上っ。橘 香波、一世一代の告白でしたっ!」
「お、おう……」
「あー、もう。口がカラカラよ。喋りつかれたわ」
「そりゃ、そんだけまくし立てればな」
「まだ言い足りないくらいだけど?」
「勘弁してくれ」

そして、後攻である俺に、もう戦闘意思はない。
完璧なまでの攻勢に、平伏していたから。
俺の、負けだ。

「……完敗だ。全くもって恐ろしい女に睨まれたもんだ」
「難儀な女でしょ」
「それはもう」
「知波と、どっちが好き?」
「……そこが、問題」
「決めてないんだ?」

沈黙が肯定の代わりになる。

「……へたれ」
「何とでも言え」

だって、ここからは二人の戦いだから。
姉妹がまず向き合い、開戦を告げてからこそ、俺もまたその選択に挑む。
はじまりはそこから。
知波ちゃんに負け、香波に負けて。
それでも俺が挑まなければならない戦いはそこから。

「このまま俺がどっちか選んだって、お前ら姉妹の解決にはならないだろ」
「……」
「そんなの嫌だからな。お前らがちゃんと仲直りしないと絶対後悔するから」
「そう……かもね」

二人が真剣なら、俺もまた真剣に。
長い時間をかけて、考えなきゃ。
選ぶ、なんてあまりにおこがましいけど。

「だから、よろしく」
「……しょうがないわね」
「ごめんな」
「謝らないでよ。どっちにも義理を通す、不器用で優しいあんたらしいじゃないの」
「……でも、ごめん」
「だったら」

彼女が群青の空を指差す。
違う。
彼女の指の先には、群青の中にふてぶてしくそびえる、極彩色の―――。

「乗ろ?」
「……観覧車?」
「それでチャラ、そこからスタートラインってこと」
「……成る程」

だったら、仕方ない。
俺もまた、スタートラインに並ぼう。

「オーケー。了解した」

立ち上がり、ベンチの香波に手を差し出す。
彼女は一瞬戸惑い、でもすぐに笑顔で、俺の手を取り、言った。

「離さないわよ」
「あたしこっちに座る。あんたそっちね?」
「はいはい」

ガコン、という音と共に、微妙に身体が浮き上がるような感覚。
安全装置をかけ終わった係員が、笑顔で見送る。

「これで密室」
「いきなりそういうことを言うな」

観覧車のゴンドラの中は、少しだけ蒸し暑い。
微かに流れる案内放送が、やけに安っぽかった。

「へへ……夢が叶っちゃったわ」
「それは良かった」

香波・オン・ザ・素直モードは、照れる。
遠慮なしに殺し文句を投げかけてくるから。

「この観覧車、一周するまでどれくらいかな」
「さぁ。二十分くらい?」
「短いわ。もっと三時間くらい乗れる観覧車造ってほしいものね」
「なんの拷問だ、それは」

そこまで壮大な観覧車は、NASAにでも頼んでほしい。

「三周くらいしようか?」
「勘弁してくれ」

うんざりしたように首を振ると、香波はふてくされたように頬を膨らませる。
完全に我侭娘だった。

「楽しいわね」
「外、観ないのか?」
「別にいい」

そう。香波は最初に一瞥しただけで、以降はまるで外の景色を観ようとしない。
対面から、俺だけを見つめていた。

「ねぇ」
「なんだ」

その先は、言わない。
香波が対面からこちらに身体を寄せてきた時にはもう遅かった。
唇が、触れる。

「か、かな―――」
「もう一回」

また、重なる。
片方に寄った重さが、ゴンドラを傾ける。

「ぷは……キスって、こんなんでいいのかな?」
「俺に聞くなよ」
「……知波としたくせに」

それを言われると物凄く痛かった。
というか、何故キスしたあとでそれを言うか。

「何回したの?」
「数えてない」
「数え切れないくらいしたんだ」
「そ、そそそそそんなことないぞ?」

思いっきりドモっていた。
間近に寄ったその顔に、疑惑の表情が宿る。
「少なく見積もっても、五十くらい?」
「だから、数えてないっ」

俺が慌てる様を、からかうようにして見つめる。
いぢめられてる? いぢめられまくってる? 俺?

「じゃ、今度は数えててね」
「な、何?」

その言葉の意図を、理解するより早く、香波の顔が迫っていた。
一度、二度、短く唇が触れる。
そして続く三度目は、深いキスだった。

「……これで、四回」
「レイプされてる、俺レイプされてるよ……」
「あと四十六回ね。急ぐわよ」

母さん、橘家の娘は怖いです。
俺の唇をなんか勘違いしています。
もうお嫁にいけません。

「あはは、楽しいねっ!」
「楽しくないぞ……」

そう。一方的に攻められるのは、楽しくない。
……だから、反撃する。

「残念ながら、あたしはすっごく楽し―――んんっ」

ねじ込むようにして、舌を絡ませる。
顔を両手でがっちり固定。唾液と舌が、口内でべとべとと絡み合う。

「んんっ……ふぁ……高志ぃ……」

香波の口から涎が落ちる。だらしなく開ききった口に、また口付ける。
半ばヤケクソで。何度も何度も。唇を、犯す。

「あと何回だ?」
「……数えてないわ」

とろんとした目でそう答える香波。
……なんか、征服感。

「橘 香波、観覧車でレイプされるの巻、ね」
「人聞きの悪いことを言うもんじゃありません」
「まだ足りないわよ?」
「そのようだ……」
「ちなみに、五十回達成したら、ちょっとした告白があります」
「何だ?」
「ひ・み・つ。きっと高志、驚くわよ?」
「期待しておこう」

淡い期待を胸に抱き、目標達成に燃える俺。
何度も何度も。
深く、浅く、優しく、激しく、唇を啄ばむ。
正直数なんか覚えていられなかった。

「……えへへ、幸せだぁ」
「そりゃよかった」
「知波も、こんな気分だったんだね」
「またその名を出す……」

浮気男の気分って、こんな感じなんだろうな。
……浮気男そのものという中傷は受け付けない。
泣くから。

「もう……五十回は超えたかな?」
「優に超えただろう」
「じゃ、約束の告白」

そう言って、身体を僅かに離す。……邪悪な笑みだ。
もの凄く、嫌な予感がする。
何だ。この悪寒は。

「あたし、泣いて走り去っちゃったけど、実はそんな遠くまで行ってないのよ。
 高志は何周もしてたから判らなかったんだろうけど。
 あんたがあたしを見つけた場所は、別れた場所のすぐ近くなの」

何だ、この予感は。
気付け、俺。
気付かないと―――やばい。

「いつから見てたのかな。それはちょっと判んないけど……。
 少なくとも、観覧車に乗って以降は確実よね」

どうしていきなり観覧車に乗ろうって言い出した?
座る位置を指定したのは何故?
香波はなんで外を見ようとしなかった?
どうして、『その名前』を何度も口にした?

「宣戦布告―――かな?」

にっこり笑ってそう告げる。
そして、指差す。
窓の向こう、群青に輝くその空の下を。

「…………てめぇ」

やられた。
完全に、ハメられた。

「降りたら、開戦ね」

窓の外、眼下のベンチに居た。
橘 知波が―――居た。

じっと座り、こちらを視ている。睨んでいる。
とんでもなく冷徹に激怒した黒い瞳。
彼女は怒りの表情を貼り付けたまま、不敵に微笑む。
その真っ赤な唇が動いた。

―――『高志さん、嫌いです』






いつの間にか、ゴンドラは下っていた。
向かう先は、戦場。

「今日は、楽しい一日だったわ」

ゴンドラは降下する。微細な揺れを伴って。

「明日もこんな日でありますように」

こんな日が、続くのだろう。
鋭い日差しの中、二人の姉妹と、情けない男の戦いの日々。
青い空と、太陽と。

「あたし、負けないわよ」

眩しく輝く、太陽を背に、少女は言う。迷いなく言う。
キラキラと煌く。
ゴンドラの中に、反射する。
清々しいまでに青い、空。
とんでもなく、嫌味な位に、恵まれた天気。

これ以上にない程最悪に、そして最高に―――

―――開戦日和だった。

(了)


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