こここい、じゅう!

「…ふぁ」
口に手を当て、欠伸を噛み殺した。
此処は、夏休みだというのに人気もまばらな駅のホーム。
人の数は少ないのは早朝だからだろう。俺が欠伸をしているのも其処に起因する。
まだ日も上りきっていないというのに空気はジリジリと暑く、コレからそれが更に増すと思うとうんざりしてくる。
《暑いよ〜新〜。エアコンの利いた部屋で寝てたいよ〜》
俺の肩の上で、相棒である白猫の愚痴る『声』。
エミュと名乗っているこいつは、暑さで参っているのかだらしなくのびている。
今更だとは思うが、新と言うのは俺の名前だ。フルネームは、荒巻 新。
「俺だってそうしたいがな…。帰省しなきゃいけないんだ、仕方ない。嫌なら留守番だぞ」
そう、俺はコレから遠く離れた実家へと里帰りするのである。早朝なのは発車時刻の都合だ。
帰省ラッシュは御免だったから盆は避けた。人ゴミに揉まれるのはいただけない。
《酷い事言うなぁ。ボクは猫だよ?昼間の間だけならまだしも、何日もお留守番なんてできるわけないでしょ?》
「お前なら出来そうな気がするがな…。なら黙っててくれ」
「電車は冷房入ってるから、乗り込むまでの我慢だ。大人しくしてろよ?」
一応釘を刺す俺。前の様な事があったら堪らない。
《解ってるよ。動物料金払って無いから居るのばれたら追い出されちゃうもんね。それ位払えよな、ケチ》
口を尖らせるエミュ。相変わらず器用だ。猫の癖に。
「距離が距離だからな。動物料金だって馬鹿にならないんだよ」
《びんぼーしょー》
「やかましい。三味線の材料になりたくないなら黙れ」
《おお怖。ま、私もこう言う時だけ人間様と同じ扱いなのは納得出来ないけどね。法律で動物はモノ扱いだってのに》
「お前猫なのに何でそんな事知ってるかね…」
《インターネットでちょこちょこっと、ね。猫にも情報化社会の波が押し寄せてきてるのさ、新》
得意げな口調。人間だったら小鼻がひくひく動いてそうだ。
「…そうなのか?そんなもんなのか?」
妙に腑に落ちないと言うか、釈然としない俺だった。

《にしてもさ。いやに落ち着いてるね。一昨日あんな事があったってのに》
からかう様な口調のエミュ。
「恋にキスされた件か?…十分驚いたよ」
《そう言う風には見えないけどなー?》
「…キスは別に始めてってワケじゃあ無いしな。いちいちオタオタしてられるか」
「その時は柄にもなく暫く固まっちまってたが、な」
肩を竦め苦笑する。
《わお、ドライだねぇー。可愛げがないったら》
「可愛げがないだなんてお前にだけは言われたくない。それに」
本気で吃驚したし動揺もしている。
無論、嬉しく無いはずが無い。
出来るのなら、何処か高い所にでも行って『ヒャッホウ!』と雄叫びを上げたいくらいだ。だが―
「―ファーストキスも、不意打ちだったからな」
そう。実は昔、夢にも似たような事をされて居たのだったりする。
一度経験していると言うその事実は。
驚きの中にも微かな冷静さを。動揺の中にも僅かな落ち着きを、心の中に芽生えさせていた。
《うっ…そ、そんな事があったんだ…》
「話してなかったか?…夢にな、『だーれだ』って目を塞がれてな」
「慌てて振り向いたらキスされてた。その後の言葉が―」
―どう?吃驚した?
思いだす。鈴を鳴らすような、可愛らしい声。
悪戯をしている時の子供の様な、天真爛漫な笑顔。
それが、眩しすぎて。あの時。
俺は驚きも相まって、文句の1つも言えやしなかった。
「だぞ?そりゃねえよ…。忘れられるか、あんな事」
思わず、溜息。

「いや、嬉しかったさ。でもな?もう少しムードというか何て言うのか…」
《そんな事気にしてたんだ…》
「悪かったな。贅沢言ってるのは承知してる」
《拗ねるなよ、新。…何か理由があったんじゃない?》
「理由?」
鸚鵡返しに尋ねる。
《その…照れ隠しとか、さ?》
「はっ、有り得ないな。照れる?よりにもよってアイツが?」
「お前は知らないだろうが、夢はそりゃもう―」
自分に素直で。
迷いってものが無くて、真っ直ぐで。
それは、愛情表現においても例外じゃあなかった。
そんな所が、好きだった。
いや、そんな所『も』か。
《…ふーん。…そりゃもう、何?》
「―開けっぴろげでな」
そのまま言うのがどうにも気恥ずかしくて、そう言って誤魔化す。
「アイツ程照れって言葉と縁遠い奴もいないぞ…って痛!爪を立てるな!」
《…新はさ、デリカシーとかそう言うものが著しく欠如してると思うんだよね》
《心の『声』が聞こえる癖してどうしてそんなに女性の心の機微に疎いんだよ、もう…!》
「ちょっと待て!どうしてお前が怒るんだ…ってイタタタタタタ!」
《うるさいんだよ、新。ちょっとは反省しろこのニブチン》
カプ。言うや否や素早く俺の頭に上り俺の頭皮に歯を立てるエミュ。
「ギャーッ!思いっきり噛み付く奴があるかー!」
俺は屋外かつ人前であるにも関わらず、激痛に恥も外聞も無くその場で転がり悶え苦しんだ。

《それにしても、電車遅いねぇ》
漸く俺に噛み付くのを止め、電車がやってくる方向を見つめるエミュ。
「痛ぅ…血、出て無いだろうな」
埃を払いつつ起き上がり、恨みがましげな視線を肩の猫に向ける。
《自業自得なんだよ、新》
しれっとした顔のエミュ。俺が何をした?
「なんなんだ、全く。…ん?」
視界の中に、見覚えのある顔がある事に気がつく。アイツは―
《恋ちゃんだ。噂をすればなんとやらだね、新》
そう、其処に居たのは。今現在、とある事情で俺の彼女と言う事になっている草薙 恋だった。
視線に気付いたのだろうか。此方を向いた彼女は、俺達を発見しこちらに向かって軽く手を挙げる。
おずおずと、はにかみながら。それは中々に可愛らしい仕草だったが―
俺は何食わぬ顔で目を逸らしスタスタとその場を後にした。
とはいえ、駅のホームの中なので移動する距離などたかが知れているが。
なにやら、恋が俺の背に向かって『待ちなさいよ』とか言っているが気にしない。
《ねえ…そこまであからさまな無視はどうかと思うよ、新》
「無視?何を言ってるんだお前は?あそこに何か居たのか?」
《いや…あのさ…居たじゃない、恋ちゃん》
「レン?何だそれは?キオスクの新しい商品か?美味いのか?」
《…そのとぼけ方は無いんじゃないかなぁ、新》
呆れ顔のエミュ。俺はそれをよそに歩きながらも背後に最大限の注意を払っていた。
近づいてくる足音の間隔が徐々に短くなっていく。それはやがて駆け足の音に変わり、数瞬の後。
タイミングを計り、頭を下げる。刹那―
「無視を…するなッ!!!!!」
俺の頭があった場所から風切音。あとコンマ1秒反応が遅れていたらテンプルに良い感じのハイキックが決まっていただろう。
「こんな所で遭うとは奇遇だな、恋」
振り向く俺。其処には荒い息をしながら僅かに乱れた髪と服を直す恋が居た。

「此の期に及んでよくもまあぬけぬけと…」
額に漫画のような青筋を浮かべる恋。
露骨過ぎたか。まあいい。
「何の事だ」
「あの時!思い切り!目が!合ってたでしょうがっ!」
「…………………………?」
「可愛らしく小首を傾げないで。殺意が湧くから」
<一瞬胸がきゅん、ってなったじゃないの>
なったのか。
「ハイキックをかました時、思い切り殺意が篭っていたような気がするが…」
「黙りなさい」
「よし黙ろう。ついでにお前の目の前から居なくなってやる。此処でお別れだなハイサヨウナラ」
くるりと回れ右。俺は逃げ出した!
「逃がさないわよ」
しかしまわりこまれてしまった!
「はぁ…。何か用か?」
「知人を見かけたら挨拶の1つもするでしょう?それとも―」
詰め寄る恋。当然顔が近くなり、嫌でも彼女の唇に目が行ってしまう。
ルージュを引いているわけでも無いのに、艶々とした朱色を誇示しているそれに。
自然、その感触までも思いだされ頬が熱くなる。
「用がなければ、声をかけちゃいけないのかしら?そうされても無視?随分と手前勝手なのね」
<私は…用が無くたって話していたいのに…。傍に、居たいのに…>
冷たい視線。切なげな『声』。
意中の人間に無視されると言うのは相当堪えたらしい。
良心の呵責に胸がチクリ、と痛んだ。

「…そうは言って無いだろ。というか、よく気軽に声なんぞかけられるもんだな」
「どういう意味?」
「平然と普段通りの行動を取れるその神経が凄いって言ってるんだよ。この間あんな事をしでかしておいて」
「あんな事……………………………〜っ!」
たちまち恋の顔が朱に染まる。額に汗が浮かび、目が盛大に泳ぎだす。
どうせキスをした時の光景が脳裏に蘇っているのだろうが。『声』を聞かずとも解る。
「ちち違うのよ!アレは…そう、貴方があんな事言うから仕方なくしただけよ」
<本当はそうじゃ無いけど…そう言えたら苦労しないわよ、もう>
「ふん。仕方ない…か」
「そ、そうよ。別に貴方の事が好きとかじゃないってこと。かか勘違いしないで」
<そうじゃないのに、そうじゃないのに!…言えないよぉ、もどかしいよぉ>
「そうか」
「そうなの。だから私もその事についてはなんとも思って居ないから」
「何時も通りなのは、当然でしょう?」
なんとも思って居ない、ね。
そんな台詞、『声』が聞こえる俺にとっては滑稽以外の何者でも無いな。
「そうだな。アレはやむを得ず行った行為。そうしなきゃならなかったからやっただけ。そう言う事だろう?」
「え、ええ。そうよ」
<だから違うのに…>
「うん、確かに気にする必要なんてないな。唇と唇が触れ合ったと言っても…あれだ、人工呼吸の様なものか」
「え?…そ、そうなるの…かしらね」
「良かったな、それならノーカウントだ」
「?ノーカウント?」
「ファースト・キスに数えなくて良いって事さ」
「お前だって、俺みたいな『好きとかじゃない』男となんて、嫌だろう?」

「な、なんでアレが初めてだって解るの!?そうじゃないかもしれないじゃない」
何と言うか、今更と言うか往生際が悪いというか。
恋の台詞に、俺は肩を竦め答える。
「この前『直接口にキスしてたっておかしくない』って言った俺に『えっち!』ってのたまった女が経験者とは思えんがね」
「ううっ…」
「いいんだよ、それで。お前だって初めてのキスは好きな男としたいだろうが。それが、普通だ」
「安心した。結果的に、お前のファーストキスをドブに捨てるような真似を強いたんじゃないかと後悔してたからな」
「だから、ノーカウントだ。初めては好きな人が出来た時まで、取っておけ」
そう言って微笑んでやる。
…酷い事を言っているのかもな、俺は。
《なんだろうね…キスの話をしているだけなのにどこかやらしい内容に聞こえるのは》
お前は黙ってろ、馬鹿猫。軽く睨み付ける。
「悪かったな、変な話題を振って。詫びにジュースでも―」
奢ってやろうか?と言う前に恋が口を開き、俺の言葉を遮った。
「勝手に決め付けて、話を終らせないで」
「ん?」
「幾ら仕方がなかったからって…本当に嫌だったら…しないわ」
「待て、お前は何を」
「キスの相手くらい選ぶって、事」
「さっきも言ったけど好きってわけじゃないわよ?だけど…その」
「キスしても…いい、って思えるくらいには…………………………嫌いじゃない…から」
ついに顔を合わせる事が出来なくなるくらい気恥ずかしくなったか、恋は目を逸らした。
「だから…だからね?ノーカウントにしなくても…私は、構わない、わ」
お前…自分が何て事言ってるか分かってるのかね?キスそのものよりダメージがでかいわ。
「あー…それなら、まあ。別にいいんだが…」
決まりが悪くなり、頭をポリポリと掻く俺。彼女を直視出来なくなり、天を仰ぐ。
気まずい沈黙がその場を支配する。電車が到着するまでその状態は続いた。
「…こうしてても何だし、乗るか」
「え、ええ…」
なんとも妙な雰囲気を漂わせつつ、俺達は電車に乗り込むのだった。

電車に乗り込んだ俺は、空いた席の手前で立ち止まった。
ちなみに、エミュは先んじて俺の手荷物の中に隠れている。
「…どうしたの?」
訝しげな顔で、恋。
「座るなら、窓際の方が良いだろ?」
俺は車窓を親指で指す。
「…ありがとう」
<何だかんだ言って、優しいのよね…。いつもこうならもっと素直になれそうなのにな…>
「そうか。それじゃ、快適な旅を」
恋が座るのを確認。恋に背を向け、そこから離れようとするが。
「ちょっと待って」
呼び止められ、振り向く。
「何だ?」
「…何処に行くの?と、トイレかしら?」
「いや?別の席に座るだけだが?」
「隣に座らないのかしら?」
彼女の顔が不機嫌一色に染まって行く。
「俺はそんな事は一言も言って無いぞ?」
「この流れなら普通そう判断するでしょうが…!」
「知るか。こんな所でまで2人で行動しなくても良いだろう?」
「というかな、たまには1人にさせてくれ。只でさえお前の相手は疲れるんだ」
「疲れるって…そこまで言う?」
「言うね。それにお前だって俺が隣に座っても良い事なんて無いだろう?口喧嘩になるのが眼に見えてる」
今みたいにな、と俺は肩を竦めた。

「…それでも、居ないよりはマシだわ。枯れ木も山の賑わい、って言うでしょう?」
「なんとも、酷い言い草だな」
肩を竦め、大袈裟に溜息をついてみせる。
「貴方がそれを言うの?…少なくとも、退屈さは紛れる。到着するまで一人で時間を持て余す事は無いわ」
「それならキオスクで漫画でも買えよ、全く…」
「漫画を読む趣味は無いの」
俺の反論をピシャリと切り捨て、尚も恋は言葉を紡ぐ。
「いいじゃない。貴方が人の役に立てるなんて滅多に無いわよ?」
「こんな時位善行をつまなきゃ地獄に落ちるわよ」
「…それなら要らん心配だ。俺はもうとうに地獄行きが確定してる」
そう。俺の所為でアイツを、夢を死なせたあの日から。
「…新、君?」
「気にするな、忘れろ。…まあいいさ、退屈しそうなのは俺も一緒だ」
恋の隣に座る。彼女の喜びの『声』が聞こえ、ニヤけそうになるのを懸命に堪える。
「目的地までは付き合ってやる。…何処の駅で降りるんだ?」
「神楽駅よ。神楽市内にある小鳥遊っていう小さな街に用があるの」
「差支えが無いなら聞きたいんだが、何の用事で?」
「姉さんに会いに行くのよ。仕事が忙しいらしくて、ロクに家に顔を出さないの」
出しづらいし、出すつもりもないのだろうけど、と苦笑する恋。
「全く、○○県の地方都市なんて田舎もいい所よね。そんな所に足を運ぶ身にもなって欲しいわ」
やれやれと言いたげに、かぶりを振る恋。
だが俺はそんな彼女の様子を見る所ではなかった。
コイツがしでかしたとんでもないミスに気付いたからだ。
俺はまるで頭痛を堪える様に―事実今にも頭が痛くなりそうだった―こめかみを指で抑え。
その事を告げる為、口を開いた。

「恋。お前○○県に行きたいって言ったな?」
「そうだけど?変な事を聞くわね。貴方の降りる駅も其処にあるのでしょう?」
「無い。何故なら―」
「俺の降りる駅とお前の降りる駅はな?叢雲駅を挟んで丁度真逆の方向にあるんだよ」
「ちょ、ちょっと待って…。ど、どう言う事?」
声が震えている。問いつつも、事態を朧気に理解し始めているらしい。
「要はな?逆方向の電車に乗ったんだよ。お前はアホか!」
俺の言葉に恋の顔色がさーっと青くなる。赤くなったり青くなったり忙しい奴だ。
「ドジな所があるとは知っていたが、まさか此処までとは思わなかったよ、全く…」
ケビン・マカリスターみたいな奴だ。
最も。アレは大人数かつ急いでいた故に陥ったパニックが原因だが。
それを考えると、コイツはそれ以下と言える。
「つ、次の駅で引き返せば良いわ。うん、それで問題無いでしょう」
<そうよ。それで大丈夫よ、全く驚かせてくれるわ>
「もう一度言う、お前はアホか?この電車は特急だ。俺の降りる駅までは停車しないぞ」
「そ、そこから引き返すしかないって事?と、到着は…何時頃?」
<時間次第なら、戻れるかも…しれないわ>
「予定通りに到着したとしても、間違いなく日が暮れてるだろうな」
「その後、叢雲に戻る電車は…ある?」
「無い。なにぶん、そこも叢雲に比べれば十分田舎だからな」
「つまり、それって―」
「打つ手無し・ゲームオーバー・お仕舞い。どう言って欲しい?せめて好きな言葉で言ってやる」
「あ、あはははははは…どうしろって言うのよ…」
途方に暮れ、乾いた笑い声をあげる恋。
そんな彼女の事などお構いなしに、列車はカタゴトと目的地に向かってただただ走り続けるのだった。


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