こここい、じゅういち!

車内アナウンスが、降りる駅が近い事を告げた。
列車が発車して早数時間。窓の外はもう日がとっぷりと暮れていた。
故郷が近いからと言って、感傷的になるつもりなど微塵も無かったのだが。
―それでも。気が付けばふぅ、と溜息をついていた。
「つまり、その程度には思い入れがあるって事、か」
呟き、隣に座る少女を一瞥。
同年代の女の子よりやや高めの身長、均整の取れた体つき。胸まで伸びた黒髪は濡れたように艶やかだ。
整い、大人びた顔には眼鏡がかけられていた。フレームレスの、デザイン性が重視されたものだ。
名前は、草薙 恋。実は、日本有数の工業系コングロマリットである『クサナギ』のお嬢様だったりする。
彼女のやや吊り目気味の眼は閉じられていた。俺こと荒巻 新の肩に寄りかかる様にして眠っていたから。
慣れない電車の旅や、予想外のアクシデントで疲れたのだろうか。
彼女は電車を乗り間違え、正反対の方向へ行く電車に乗ってしまったのである。詳しくは前話参照。
「…疲れてるのはこっちも一緒なんだがな」
今でこそすぅすぅと穏やかな寝息を立てている恋だが、あの後の彼女の狼狽っぷりといったらなかったのだ。
それを宥め、落ち着かせるのにどれだけ苦労したか。思いだし、苦笑い。
《我慢我慢。そこは男の甲斐性の見せどころだよ、新》
足元のバッグから顔を出し、俺をからかう白猫。相棒のエミュだ。
「何が甲斐性だ。お前に俺の苦労が分かってたまるか」
《苦労なんて良く言うよ。結構まんざらでも無いくせにぃ》
「う…」
確かに、寄りかかられて悪い気はしない。
密着する事で感じる、甘い香りと柔らかい肌の感触。キスされた時にも感じたそれは、何度味わっても良い。
「まあ…結構役得かもしれないと言う気はするぞ、うむ」
《すけべー》
「うるさいっ」
《はいはい。でもまあ、流石にそろそろ起こした方が良いんじゃ無い?》
「そうだな。…おい、起きろ」
俺は恋の肩を軽く掴み揺さぶった。

「…ん」
身じろぎする恋。意識が覚醒しだしたのか、『声』が聞こえてきた。
<あれ…?私…そうか、寝ちゃってたのか…って、え!?>
『声』からは驚きの感情が含まれていた。自分がどんな状態にあるか気付いたらしい。
<な、何やってるのよ私…こんな…>
この程度の事で自分を責めるなよ。悪いと思う事は良い事だが、な。
俺は対して気にしちゃいないさ。嫌味の1つくらいは言う事になるとは思うがな。
それとも、まがりなりにもお嬢様だからな。男に寄りかかるなんてはしたない、と考えたのかもしれん。
<こんな…ステキな状況で寝たままだったなんて…っ>
…恋。お前へのトキメキ度を5ほど下げてもいいか?
こんな事で心底悔しそうな『声』を出すな。全く。
と言うか良く考えれば、コイツは寄りかかるよりも余程はしたない事を俺にした事があるんだったな。
胸を押し付けるとか。いきなりキスしてくるとか。
完全に失念していた。不覚。
<…もうちょっとこのままでいよっと>
いい加減にしろ、と言う言葉が喉まで出かかる。それを堪え、更に強く揺さぶる。
「…起きろって言ってるだろ。もう到着するぞ!」
起きない。タヌキ寝入りだから当り前だが。
「んー、あと5分〜」
「ベタな寝言を言うな!」
仕方ない。こうなったら―
「…起きないと、キスするぞ?」
<き、キス!?>
―よし。コレなら慌てて起きる筈。
そう思った矢先、恋は目を閉じたまま唇を少し突き出した。
<ば、ばっちこーい!>
ばっちこーい、じゃねえよ!迎撃体勢取ってんじゃねえよ!

「それなら。―エミュ」
《ハイよー》
俺の言葉に返事をし、バッグからマジックを咥え取り出すエミュ。
「サンキュ」
小声で相棒に向かって呟き、受け取る。このマジックは引越しの時に使った物で、出すのが面倒で入れっぱなしだった物だ。
まさか、こんな形で役に立つ日が来るとは。
それは兎も角。きゅぽん、と小気味良い音を立ててキャップを抜き。
「…さて。『米』にするか『中』にすべきか…」
聞こえよがしに1人ごちると。
「何をするつもりよッ!!!!!」
激昂し、飛び起きた恋。
柳眉を逆立て、ただでさえツリ目がちな目を更に吊り上げている。
「旅行で先に寝やがった付き合いの悪い奴に行う悪戯の定番を」
「そんな定番、今直ぐドブに捨てなさい!…もう、折角期待してたのに」
後半はかなりの小声だった。無論、俺は聞こえないフリ。
「何か言ったか?」
「何でも無いわ。いちいち人の独り言に聞き耳立てるなんて、プライバシーの侵害よ」
「悪いのは俺だが、それは流石に言い過ぎじゃないのかね…」
大仰に肩を竦める。
まあ、俺はそんな事よりもっと酷いプライバシーの侵害を現在進行形で行っているワケだが。
「ふん。どうせ堪えてないくせに良く言うわ。…それより」
「ん?」
「…他に何かしようとはしてなかったの?」
さり気無さを装った問い。だが―
<キスとか、きすとか、KISSとかっ!>
興奮気味の『声』が彼女の期待っぷりを如実に表していた。
「…そうだな、ひげも書こうかと思ってたぞ」
「そうじゃなくて!…もっと、こう。寝ている間に不埒な事とか、しようとしなかったかってこと」

「全く無いな」
「う、嘘よ」
「何を根拠に?」
「そ、それは…」
<キスするって、言ってたのに…。でも、言ったら寝てるフリしてたのバレちゃう…>
「それは?」
「特に、無いわ。…なんとなく、そう思っただけよ」
「…何だ、それは。悪戯描きをしようとしたのは謝る。だが、それ以外の事は断じてしてないし、しようともしていない」
やれやれ、とかぶりを振り。目だけを彼女に向け。
「頼むから、『なんとなく』なんて理由で言いがかりを言うのは止めてくれないか?」
「…悪かったわね。ならこの話はもう終りにするわ。何も無いなら、それに超した事は無いし…」
寂し気に彼女が言った丁度その時、僅かな振動と体が引っ張られるような間隔。
直後、アナウンスが流れる。どうやら列車が到着した様だ。
俺は席から立ち。車両出口に向かおうとして、振り返り。
「ならもう行くぞ。…ああ、それとも―」
意地悪げで、シニカルな笑みを浮かべ。
「キスで、起こした方が良かったか?眠れる森の美女みたいにな」
「…馬鹿じゃないの」
素っ気無い、呆れ声。俺に続くような形で立ち上がり、そのままスタスタと先に行ってしまう。
「待てよ。怒ってるのか?冗談に決まってるだろ」
「別になんとも思って無いわ。少し黙っててくれる?」
そう、冷たく言い捨てた時も。列車から降りて、改札を通るまでの間も。
ただの一度も、恋は俺の方を振り向かなかった。
―いや、違うな。
彼女は、振り向けなかったのである。
<うう〜っ。図星、突かれちゃった…。冗談とは言え、恥ずかしいなぁ…>
真後ろから見ても簡単に分かるくらい、耳まで顔が真っ赤に染まっていたから。

駅から出ると、生まれ育った懐かしい町並みが視界いっぱいに広がっていた。
郷愁の念もいや増して、なんとも言えない気分になる。
同時に。たかが半年振りで―年末年始にも帰省している―何を言ってるのかと、自分で自分に少々呆れてしまう。
<ここが、新君の故郷かぁ…>
周りを見渡し。のんびりとした『声』で呟く恋に、俺は問いかける。
「さて、着いたワケだが。お前はこれからどうするつもりなんだ?」
「新君は、どうするの?」
<出来れば、一緒に行動できないかな…>
「聞いているのは俺だ。質問に質問で返すなと学校で習わなかったのか?」
「貴方が答えたら私も答えるわ。さっさと答えなさい」
お前って奴は…まあ、いいか。『声』が聞こえる俺には分かる。
その上から物を言う恋の態度は、胸に巣くう心細さを紛らわせる為の物で。
また、他人にもそれを悟らせない為の物だ。
だから、そんな彼女の様子も何処か微笑ましく感じる。
「…何が可笑しいの?」
苛立たしげに眉を吊り上げ、俺を睨めつける。
「可笑しい?何が?」
「口元をニヤつかせておきながら、よくそんな白を切る事が出来るわね」
「何だと?」
口元に手をやると。成る程、確かに口の端が笑みの形に歪んでいる。
しまったな。顔に出ていたのか。
「不快だったのなら謝ろう。別にそんなつもりはなかった」
「久方ぶりに故郷に戻ってきたんだ。多少浮かれていても容赦してくれ」
両手を顔の所まで挙げ。どうどう、と制する仕草をする。
「あらそう。羨ましいですこと」
<こっちはそれ所じゃないのに、もう!>

「そう言うなよ。ちゃんと答えてやるから」
「ふんっ…」
鼻を鳴らし、不機嫌なのをこれでもかと言うほどアピールする恋。やれやれ。
「言ったろう?帰省するって。なら普通、実家に向かうだろうが」
「あ…そういえば、そう言ってたものね」
得心顔でぽん、と手を叩く恋。
「…で?もう一度聞くがお前はコレからどうするんだ?行く当てでもあるのか?」
「な、なんで貴方にそんな事言わなきゃならないの?」
<うっ…。なんにも考え付かなかったなんて、言えない…>
やっぱりな。そんなことだろうと思ったよ。
道程の大半を寝て過ごしたコイツが、ロクに何かを考えていたワケがない。
「お前は1レス前の自分の台詞を良く読み直してから俺に土下座して謝罪しつつさっさと質問に答えろこの阿呆お嬢様」
「…あのね?幾ら私でも貴方に対してそう何度も何度も寛容にはなれないわよ?」
額に青筋を立てつつ、恋。
「奇遇だな。俺もお前に対して常々同じ事を言ってやろうと思っていたぞ」
「くっ…ああ言えばこう言う…」
「お前が素直に答えればこんなやり取りをする必要自体が無いんだよ」
「むぅ。…ちゃんと考えてはいるわ。…適当なホテルにでも泊まって、明日一番の列車で帰るとか」
<そ、そうよ。良く考えたらそうすれば良いしそれしか無いわ。うん、それで行きましょう>
確かにそれが一番だろうが、言われてからやっと考え付いてるようじゃな…。
…心配だ。
「そうか。だが…疑わしいね、どうもな」
「どう言う意味?」
「またドジ踏んでトラブルに巻き込まれやしないかと思ってな」
「失礼ね。そんなわけ無いでしょう」
「今この状況において、その台詞に説得力があるとでも?」
「うるさいわね。放っておいて」

「ふぅん。それならまあ…それでいいか、うん」
「含みのある言い方ね…何か言いたい事があるなら言ったらどう?」
「いや、いいんだ。お前がちゃんと考えていて、何の心配もないっていうんならそれに超した事は無い」
「俺が気を回しすぎただけだ。気にしないでくれ」
「だから何よ?」
「何でも無い何でも無い。ただちょっと余計な世話を焼こうとしただけだ」
「何だって聞いてるの…!」
焦れてきたのか、口調を荒げる恋。…意地悪はこの辺にしておくか。多少は気も済んだことだ。
「なに、一つ提案しようと思っただけだ。もしなんだったら―」
勿体着けるように一拍おいて、俺は彼女に告げた。
「―俺と一緒に来るか?って」
「え!?…ちょ、ちょっと待って…………………………ええ!?」
突然の事に困惑しきりの恋。それに構わず、俺はさらに言葉を続ける。
「だーかーら。要はだ。行く当てが無いなら俺の実家に来るか?って―」
俺が言ったその瞬間。俺が言い終わるその瞬間。
ファンファーレが、鳴り響いた。
…いや、比喩でも暗喩でもなく。どこか別の場所から聞こえてきたワケでもなく。
ファンファーレの形をとった『声』が聞こえてきたのである。…目の前の少女から。
<そ、そんな…もう両親に恋人を紹介!?やだ…もう…なんの準備もしてないよ…>
盛大に勘違いをする恋。もう面倒なので訂正もしないが。
…あ。ウェディングマーチに変わった。
「だがそう言うことならその必要も無いな。コレでお別れって事で―」
「ぜひ!!!!行かせて!!!!!貰うわっ!!!!!!」
俺の裾をはっしと掴み、エクスクラメーションマークの大盤振る舞いをする恋。
…その顔には鬼気迫る表情が浮かんでいて。
瞳は爛々と異様な輝きを放っていた。惚れている俺すら一瞬ドン引きさせる程に。

「…ホ、ホテルに泊まるんじゃ無いのか?」
たじろぎながら俺は問う。ホント、ちょっと怖い。
「お金の無駄よっ!タダで泊まれるならそれに超した事はないわっ!色々手間取らないですむし!」
「日本有数のコングロマリットの代表取締役を親に持つお嬢様が何を」
「節約できる人間こそが財を築けるの!」
「…………………………ああそう」
俺はもうツッコむのを諦めた。ああ言えばこう言うのはどっちだ…。
「あと、貴方のご家族には一度、挨拶しておきたかったし…」
「何故に」
「不本意だけど、貴方には多少なり借りがあるもの。それくらいはね」
<それに、もしかしたら私の家族にもなるかもしれないし…>
「……………………………ふぅ。なら、行くぞ」
溜息をつき、手を差し出す。
「…ええ」
恋は嬉しさを隠しきれ無いと言った風情で俺の手を取った。
「ねえ、やっぱり何処か寄って菓子折りの1つでも買っていった方が良いかしら?」
「要らん」
「…な、ならせめて薬局に寄ってもいい?」
「何を買うつもりだ…!?」
「え?そ、それは…」<こ、コン―>
「言うなはしたない!」
「は、はしたないって…私が何て言うと思ってたの!?」
「煩い黙れ!」
やいのやいのとそんなやり取りを繰り広げながら。
俺は言わなきゃ良かった、と後悔し始めていた。
無論、後の祭りである事は言うまでもなかった。


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