こここい、さん!

事の始まりは女性の悲鳴だった。声質からして、年は恐らく中年程の。
「助けてー!ひったくりよー!」というヒステリックな叫び声が、黄昏時を迎えた叢雲のメインストリートを駆け抜ける。
数瞬遅れて、人影が俺の目の前を通り過ぎて行った。
一瞬の事である上にマスクとサングラスをしていたので、どんなヤツかは分からなかった。体格と身長からして、恐らく男だろうが。
その手には、ラメの入ったけばけばしい真っ赤なバッグを抱えていた。
間違いなくさっきのヤツがひったくり犯だろう。
俺はくれぐれも恋たちに気付かれないよう細心の注意を払い、けれど迅速に外を覗き込む。
すると件のひったくり犯が今まさに彼女達を追い越そうとしていた。
逃げるのに夢中で方向転換すら億劫だったんだろうか。
避ければ良いものを犯人は真っ直ぐ彼女達の方へ突っ込んで行き、そして。
『邪魔だッ!』犯人が、マスク越しだった為くぐもった怒鳴り声を上げ、ちょうど進路上に居た椎奈を突き飛ばした。
「…………………………!?」失語症で悲鳴すら出せない彼女はそのまま尻餅をついた。
「しぃ!大丈夫か!?」いつもの軽い調子は何処へやら。血相を変え椎奈へ駆け寄る銀弧。
「しぃ!この…っ!待ちなさい!」激昂した恋は声を張り上げるが。
待てと言われて素直に待つバカなど居るわけが無く。そのまま走り去っていく。
とは言うものの別に問題は無いだろう。ひったくられた御婦人には申し訳無いが、ここから先は警察の領分だ。
椎奈は災難だったが大怪我をしたわけじゃなし。
このまま3人もさっきの事で愚痴でもボヤキながら帰って行く事だろう。
と、思っていた俺が甘かった。
「ギコ!しぃを頼んだわよ!」<許さない…!>とだけ言うと。
「あ、おい恋!」という銀弧の制止の声も空しく恋は犯人を追いかけていってしまった。

彼女位の年の女の子にしてはかなり足が速い。これならそう時間をかけず犯人に追いつけるかも知れない。
だけど追いついてどうするんだ?女の子の細腕でどうにかなるのか?
返り討ちになって怪我でもしちまうんじゃないのか?追いかけて助けに…。
其処まで考え。はっ、と我に返り。
「馬鹿馬鹿しい…」肩を竦める俺。
俺には関係ない。怪我するとは限らないし、仮にしたって大事には至らないだろうさ。
寧ろ余計な事には首を突っ込むべきではない、ってのが分かって良い勉強になるというものだ。
それ以前に、俺は嫌われなくちゃいけない。なのに助けてどうする。感謝されちゃ駄目だろう。
厄介ごとに巻き込まれて俺の方がロクでもない目に遭うかもしれない。百害あって一理無しだ。
そんな事は分かってる。分かりきってる。だというのに、なんで。

走り出してるんだ、俺。

そっちは恋たちが走り去った方向だぞ。
なんで助けに行こうとしてるんだよ。止まれよ。
何息切らして全力で走ってんだ。アホか。
理性はそう呼びかけているが止まらない、止まれない。
恋が酷い目に遭うかもしれない。そう思うだけで心の中に熱い何かがこみ上げてきて。
尚も、俺の体を急き立てる。
「…くそ。全くもって面倒だ…ッ!」思わず、一人ごちると同時に椎奈を助け起こす銀弧とすれ違う。
「シン…?」<新君…?>呆然と俺を見送る銀弧と椎奈。
それらを無視し、俺は尚も走り続けた。

暫く走ると「待ちなさい!」と鋭い声を上げながら路地裏へと入っていく恋の姿が見えた。
どうやら犯人はそっちへ逃げ込んだらしい。やれやれ、また路地裏かよ。辟易する俺。
入ると、何故か恋がそこに立ち尽くしていた。どうしたんだ?
<見失った…?でも、何処に…?>キョロキョロと周りを見渡しながら『声』で呟く恋。
「…もう!」憤りを抑えきれないのか、恋は壁を蹴った。
「〜〜〜〜〜〜っ!」<い、痛いよぅ…>そして、痛さに足を抱えしゃがみ込む。『声』からすると思いの他痛かったらしい。
そりゃそうだ。あんなローファー履いただけの足で、コンクリで出来たビルの壁なんか蹴れば痛いに決まってる。馬鹿じゃないのか。
「…何やってんだ、お前」見るに耐えなくなった俺は恋の背中に声をかける。
「…あ、新君なんでここにっ!?」聞かれた俺は返答に窮す事になった。
まさか『心配になって思わず追っかけてきちゃいまちたー』なんて、言えるわけも無く。
「…たまたま通りかかったらお前のヒステリックな声が聞こえてきたから、覗いて見ただけだ」
そんな、苦しい言い訳を言うしかなかった。憎まれ口を混ぜる事も忘れずに。
「癇に障る言い方ね。こっちの事情も知らないで…」<嫌な事ばっかり言うんだから…ギコは良い奴、何て言ってたけど、本当かしら?>
「ひったくりを追っかけてたんだろ?あんな騒ぎになってて分からないわけないだろう」
「う」<確かに…>
「大体追っかけてどうするつもりだったんだ?追いついたのは良いとしてどうやって捕まえる?」
「それは…」<考えてなかった…でもそんな事言えないし…>やっぱりか。
「貴方に話す必要なんて無いわ」またそれか。
「…どうせ何も考えて無かったんだろ?クールぶってるくせに以外と考えが足りないんだな、アンタ」
「うるさいわね…!私の事なんてどうだって良いでしょう?」
「そうだな。それにしても…気になって追っかけてみたら、こんな邪険に扱われるとはな。やれやれだ」
「それは貴方が…ってちょっと待って?『気になって追っかけた』?」
「新君、貴方さっき『たまたま通りかかった』って言ってなかった?」
「!」マズった。思わず本音が出ちまった。

「う…そ、それは…だな…」巧い言い訳が思いつかずしどろもどろになる俺。
今度は俺が追い詰められる形になった。形勢逆転か、なんてこった。
ニンマリ、というオノマトペが見えそうな勝ち誇った笑みを浮かべ、俺に詰め寄る恋。
「どうなの?どっちがホントなのかしら?そう言えば…」言って一歩下がり、俺の体を見渡す。
「良く見れば息が荒いし汗も少しかいてる。さあ、どうなの新君?」<やっぱり心配して追いかけてくれたんだ…>
<しかもその様子からして余程急いでくれたんだろうなぁ。確かにギコの言う通りだわ。素直じゃ、ないんだから♪>
その『声』を聞いた瞬間、どうしてだか頭に血が上った。まあ多分、照れくさかったんだろうな。今思えば。
「うるさい!俺の事なんてどうでも良いだろう!」先程の恋の言葉を鸚鵡返しに言ってしまう俺。
あの時俺は適当に流した。だが、恋は違った。
「どうでも良くなんて、ないわ」
「なんでだ?俺どんな意図でここに来たかなんてお前に関係ない筈だ」
「あるわ。もし私を心配して来てくれたんなら。礼を言わなきゃならないじゃない」
「だから通りがかっただけだって言ってる。別に心配したわけじゃない。な、どうでもいいだろ?だから…」
「…お前は、無事だったんだろ?なら、それだけ素直に喜んでろよ。それで、いいだろうが」
そこまで言って、妙に照れくさくなって目を逸らす俺。
「…ずるいわ」<そう、ずるいよ…>
「散々意地悪な事言ったくせに、こう言う時だけ真面目な顔して…その…」<格好良い事、いうんだから…>
そう言う事言うな!頬を紅く染めながら俯き加減にかつ僅かに目を逸らして言うな!チクショウ…超可愛い。
「真面目な顔して…何だよ」
「べ、別に。何でも無いわ。…大した事じゃないから」頬を紅くしたまま、恋。
「ふん…なんだってんだ」
「と、とにかく。その…心配してくれて、有難う。あと…あの…ね?」気まずげに顔を曇らせ、恋。
「休み時間のあの事、だけど…ちょっと、やりすぎたわ。御免なさい」そう言って、ぺこりと頭を下げる。
全く。いちいちそんな事気にするとはね。アレは意図的にお前を怒らせようとしたんだから。あの時の様な反応は当然だと言うのに。
「…何の事だよ?」悪いのは、俺。だからそう問い返した。
「…へ?」思わぬ答えにきょとん、とした顔の恋。

「何の事って…だから、HRが終わった直後の休み時間に私…新君を…」
「あー知らん知らん。そんな事全然覚えて無いな。お前の勘違いか?」
「どっ…どう勘違いするって言うの!?」
「知るか。なら思い違いとか白昼夢でも見たとかそんなじゃないのか?後幻覚とか」
「誰が『精神を病んだカワイソウな人』よ!」別に其処まで言って無いだろう。
「それは悪かったが。兎に角知らない物は知らない。だからそんな事は無かったんだろ、どうせ」
「無かった事を何で気にする?なんだ、お前は馬鹿の子なのか?」
「ああもう!どうして貴方はそう無遠慮に人の心を抉る台詞をポンポン言えるのかしら!」
「性分だ、仕方ない」
「ドブにでも捨てなさい!そんな性分!…もう良いわ。はぁ」<どうして素直に『もう俺は気にして無いから』って言えないのかしら…>
言いたくはあるが、俺は現在嫌われ者になる為のキャンペーン活動真っ最中なワケで。
そんな良い人丸出しな台詞、言えるわけ無いだろう。
「…見失ったものは仕方ないわ。コレから警察にでも連絡して―」恋がそう良い終える前に。彼女の背後で物音が。
「何!?」慌てて振り向く恋。すると物影から飛び出してくる人影。引ったくり犯だった。
いつまで立ってもその場を立ち去らない俺達に業を煮やしたのか。俺達に向かってくる犯人。
その手には、通販で買えそうな特殊警棒が。それを思い切り振りかぶったのを見た瞬間。
反射的に体が動き、恋を突き飛ばしていた。よろけて壁に背中をぶつけ、顔を顰める恋。
そして俺は、警棒の一撃をモロに喰らってしまった。脳震盪でも起こしたのか立っていられずしゃがみこむ俺。
殴られた場所に手をやるとぬるり、とした感触。どうやら今ので頭を切ってしまったらしい。
さっさと行っちまうかと思ったら興奮でもしてるのだろうか、尚も警棒を持つ手を振りかぶる犯人。
マジか。…ああ、俺死ぬかもな。ま、コイツ護って死ぬんだったら、別に良いか…。
そんな事を考え、覚悟を決めた瞬間だった。鼻息も荒く、犯人が警棒を振り下ろそうとしたその時。
「ウチの生徒に何してるのよぅ」聞き覚えの無い女性の声が聞こえた。犯人の手が止まる。
声のした方向を向けば、其処には1人の女性がいた。

年は大体、20代前半位だろうか?共に黒色のサマーセーターにスラックスの上下。その上に白衣を羽織っている。
肩まで伸びた紙を首の辺りで縛り、恋の様に眼鏡をかけていた。だが彼女とは違い、実用性重視の野暮ったい大きめの黒縁眼鏡だ。
口に火のついた煙草を咥え。軽蔑と怒りの混じった表情を浮かべる顔は何処か退廃的な色気を感じさせる。
だが。なんというか、それよりも…その。俺はどうしてもある一点に目が釘付けになってしまう。その凄まじく起伏のある胸部に。
平均より結構大きい恋のそれを遥かに超えるボリューム。かと言って形が崩れていると言うわけでもなく。ハリのある綺麗な形だと思う。
なんとも男と言う生物のリピドーをダイレクトに刺激するというか。メジャー級のダイナマイツなバストというか。
それは兎も角。犯人は狙いを変えその女性に警棒を再び振りかぶり襲い掛かる。
だが彼女は軽く身を捻ってかわすと男の手を巧みに捻り上げる。激痛に顔を歪めているのがマスクとグラサン越しでもはっきりと判る。
「なんだ…テメ…」苦しそうに途切れ途切れに誰何する犯人。
「私?私はこのコ達の通う学校の養護教諭よぅ」咥えた煙草をピコピコと揺らしながら言う。
「名前は雨宮 稲穂(あめみや いなほ)。3サイズは上から96−55−89。こんな所かな?」
いや、3サイズは余計ですって。にしても96…はっきり数字にすると生々しくてリアクションに困る。
俺の不埒な煩悶を余所に、犯人は雨宮先生の手から逃れようともがく。それを見た彼女は。
「さっさと…観念しなさい…よぅ!」手足を絡め関節を極める。猪木の代名詞的技、卍固めだ。英語で言うとオクトパス・ホールド。
「―!」ミシィ、と関節が軋む音。最早もがく事も出来ず、声になら無い悲鳴を上げ悶絶する犯人。その苦痛はどれ程のものか。
が、彼の背中に押し付けられ形を変える豊満な胸。それを見て羨ましいと思ってしまう俺は破廉恥な男なのかもしれん。
程なく犯人は気絶した。マスクとグラサンを取ったその顔が少し幸せそうに見えたのは気の所為だろうか。
「さて、と。大丈夫だった?2人とも。特にそこな少年。血はもう止まってるみたいだけど気持ち悪いとか吐き気とか、ある?」
「大丈夫だと思います。…それより、随分とタイミングの良い登場でしたね」気遣いは嬉しいですが、誤魔化されはしませんよ。
「ちょっと新君!折角助けてくれたのにその言い方は無いでしょう!?」<…ちょっとは気になったけど>気になってるのかよ。
「うん…あー…やっぱりそう思う?」<そりゃ誤魔化せないか…逃げるわけにも行かないし、正直に言っとくかぁ>気まずげに、先生。
「実は…ひったくりがあったー、何て言うから野次馬根性で見に来たのよぅ」
「そしたら路地裏で仲良さげに痴話喧嘩してるあんた達が居たから。微笑ましく見物…もとい見守ってたらいきなりアレだもの」
「流石に不味いかなーと思って助けに入ったというわけよぅ」そんな事だろうと思った。

「…と言う事は。もっと先生が早く此方へ来てくれたら。俺は要らん怪我を負わずに済んだのでは」
「アハハ…お、男が細かい事気にしちゃ駄目よぅ?」<…あちゃあ…やっぱ言わなきゃ良かった…>
「…こっちは死にかけたんですけどね。恋もそう思うだろ…って、恋?」俺と同じ危険に遭遇した彼女の同意を得る為振り向くと。
「ち…痴話…喧嘩…あ…あう…」<そ…そんな風に見えちゃってるの…?お似合いのカップルとか…そういう…えへへ…参ったなぁ>
再び彼女の頬が朱に染まる。お前は赤面症のケでもあるのか。と言うかそんな事を『声』で言われたらこっちが赤面してしまうわ。
「…助けてもらったのは事実ですし、もう良いですけどね。後痴話喧嘩とかじゃ無いですから。彼女は『タダ』のクラスメイトです」
「えっ…そ、そうね。その通りです、先生」<タダのクラスメイトかぁ…あぅ>そこまで凹まれると胸が痛むが肯定も出来ないからな。
「…ふーん」<素直になれない2人…いいねぇ、甘酸っぱくて。実家の友達を思い出しちゃう>含みのある笑顔。
『声』でこんな事を言っている以上、もうどれだけ否定しても逆効果だな。
「ま、怪我させちゃったお詫びにきっちり治療してあげるわよぅ。学校に来て貰える?一応貴方も」恋の方を向き、雨宮先生。
「それは養護教諭として当然の行為であってお詫びにはならないのでは」
「もう5時過ぎてるでしょ?私基本的に時間外労働はしない主義なのよぅ。こんな時間に私の治療を受けられるなんてレアよ、レ・ア」
「「…………………………」」<ダメだこの人…>呆れた俺と恋はもう何も言わず先生の後に続いた。
その前に事情聴取がイヤだったので匿名ではあるが、警察に連絡しておいたがね。
学校に戻り。意外に丁寧な治療―消毒され、ガーゼを頭の傷口に貼られただけだが―を受け。それを終えた俺達は通学路を並んで歩く。
「…大丈夫?」前を向きながら、恋。
「別に。少しコブになってはいるが、明日になればガーゼも要らんらしい」
「…そう」<…良かったぁ>短い返事からは安堵の響き。『声』を聞かずとも心配してくれた事が分かっただろう。
「それより大丈夫、なんてこっちの台詞だ。あんな近くにいるのに犯人に気付かないんじゃ、危なくて外も歩けないな」
「余計なお世話よ。それに貴方だって気付かなかったでしょう?」
「俺は来たばっかりだったからな。条件が違う」
「そんなの屁理屈だわ。…ふふ。まあ心配してくれて言ってるのだから、ここは私が折れとくわ」
「心配なんかしてないんだがな…まあ勝手にしろ」
「そうなの?じゃあコレも勝手に言わせて貰うわ」
「?」
「助けてくれて、有難う」

「助けたって、別にアレは―」
「助けたつもりは無い、何て言うつもり?咄嗟に私を突き飛ばして庇っておきながら?子供だってもっと巧い言い訳するわ」
「く…」
「だから、お礼くらい言わせなさい。貴方が助けてくれなかったら、それこそ私は死んでたかもしれないもの」
「お礼を言うにしては随分とまあ偉そうな物言いだな」
「貴方に言われたくは無いわね。…貴方がなんと言おうと。貴方のお陰私は無事に此処にいる。その事実は変わらない」
「だから、有難う」<これだけは。絶対に譲らないし否定しないんだから>その、余りにも真っ直ぐな言葉と『声』に。
「…もう、目の前で誰かを死なせてしまうなんて、イヤだっただけだ」少しだけ、本音を漏らしてしまった。
「―え?」<どう言う事…?>
「少し喋りすぎたな。…此処でお別れだ。俺の家はこっちなんでな」丁度よくさしかかった分かれ道。俺はその片方を指差して、言った。
「お前は銀弧達のいるそっちの方にに行くんだろ?…またな」
「うん。…また明日ね、新君」<今日は…さよならじゃなくて、またな、かぁ…>
うるさいその程度で嬉しそうにするな胸がキュンとするだろうが。
もしかしたら俺の方が赤面しているかも知れず。それを見られない為振り返らず早足で俺はその場を後にした。そして―
「…ってな事があってな」
《へぇ。それはなかなかイベント盛り沢山な一日だったみたいだね、新》
夜は更け。自宅に戻った俺は買ってきた弁当を食べながら今日の出来事をエミュに話していた。
「楽しそうに言うなよ。俺はコレからどうしようか悩んでるって言うのに」
「はあ…銀弧と椎奈の奴はあんなだし。恋の好感度を無駄に上げちまうし。嫌われるのって…難しいもんだなぁ」
《良いじゃない。このまま人気者にでもなっちゃえば?新は基本良い奴なんだから嫌われるなんてムリムリ》
「そう言うわけにも行かないだろうが。…この力がバレない為には、コレが一番なんだ」
《その事だけどさ…もうそろそろ止めにしない?もしかしたらここに君の力を受け入れてくれる人がいるかもしれない》
「そんな風に楽観的に考えられないな。『あいつ』やお前みたいな危篤な奴がゴロゴロしてるとも思えない」
《まだ夢ちゃんって子のこと、気にしてるのかい?》だから、アイツの名前を言うなというのに。
「当り前だ。俺にこんな力が無かったら、『あいつ』は―」俺がその続きを言う前に。

《そんな事忘れなよ、新》と、エミュ。
「忘れろ…だと?」震える声で聞き返す。今俺は多分とても怖い顔をしているんだろうな。
《そう、もう忘れた方が良いよ。新は何も悪くない。君が話してくれたあの事件は、悲しい事故だよ。ボクはそう思う》
《あの子』はもう居ないんだ。あの事件も、もう居ない人間の事も皆忘れて、幸せになりなよ。君にはその権利がある、だから》
「忘れられるわけが無いだろう!」エミュの言葉を遮り、俺。思わず怒鳴り声になってしまう。
「…すまん、また怒鳴ったりして」
「でも、忘れられるわけないだろう…俺は『あいつ』を…『あいつ』が…」
《新…》
「…すっかり辛気臭くなっちまったな。…ご馳走様、もう風呂入って寝るわ」いって、立ち上がる。
《そっか。ならボクも》
「一緒に風呂に入るのか?」
《んなワケ無いだろ!寝るんだよ!乙女の裸を見ようだなんてこのスケベが!》
「お前元から裸だろ…」ついでに言っておくとコイツは何時も俺のベッドで寝ます。
《人の…じゃない。猫の上げ足を取るなよ。それじゃ、一足先にボクはもう寝るよ》
「おう、オヤスミ」言って、脱衣所に向かう俺の背に。エミュが声をかける。
《さっきは、ゴメンよ》
「もう気にしてない。悪気は無い事は分かってたしな」
《アリガト。…でもこれだけは言わせて》
《ボクは、何時だって君の味方だよ。君が幸せならボクも嬉しいんだ。それだけは忘れないで―》
《―アラタ》それを聞いた俺は驚いて振り向く。何故なら。『あいつ』が俺を呼ぶ時の、独特のイントネーション。
《どうしたの?新》だが、其処に居たのは何時もと変わらぬ調子の、俺の相棒の白猫だった。
「何でもないさ」俺はかぶりを振る。そうさ、そんな訳無いだろ、馬鹿馬鹿しい。偶々発音がおかしくなっただけさ。
なんで振り返ったら『あいつ』が居そうな、そんな気がしたんだろうな。そんな訳ないのに。
あの事件が合った日。『あいつ』は、如月 夢(きさらぎ ゆめ)は―
俺の目の前で、死んだのだから。


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