こここい、なな!

―養護教諭。
学校内で養護を司る教員であり、保健室の先生・保険医などと通称される。
健康診断・健康観察等を通して、在学生の心身の健康を管理するのが主な役目だ。
また、保健室で学校内における在学生の怪我・疾病等の応急処置を行う。
その際、症状によっては早退させ医療機関受診の必要の有無の判断を下す。その筈なのに―
「ウチの『養護教諭』とやらはなんで机で居眠りなんぞしてるんだろうな…?」と俺、荒巻 新は雨宮 稲穂を見下ろしつつ呟いた。
まあいい、と俺はその件について考える事を止め、彼女をどうやって起こそうか思案する事にした。
「さて、どうやって起こすか…?」1人ごちつつ、何とはなしに周囲に視線を巡らせると、2ドア式の冷蔵庫が目に入った。
そうだ、『アレ』を使おう。此処には『アレ』があるはずだ。俺はある事を思いつき、冷蔵庫の下の扉を空ける。
冷蔵室は案の定様々な酒がぎっしりと納められていた。あんなに入れたら返って冷えにくくなると思うのだが。
…それは今気にする事じゃないか。ここはついでに覘いただけなのだから。俺は扉を閉め今度は上の氷温室の扉を空ける。
思った通り目的のブツが在った。恐らく氷嚢の代用として使われる保冷材が。通称アイス○ン。
「くらえ」俺は雨宮先生の白衣と下に来ていたタートルネックの首筋部分を引っ張り、出来た隙間にそれを放り込んだ。
「qあwせdrftgyふじこlp!!!!!」昼下がりの保険室に盛大な奇声が響き渡った。
「何だ荒巻か。何するのよぅ?」ジト目で俺を睨む。
「黙れこの叢雲高校の埃」変換ミスでは無いからな。
「先生に対して『黙れ』は無いでしょ。先生に対して敬意を持ちなさいよぅ」オマケに何時の間にかタメ口だし、と口を尖らせる先生に。
「敬意を持って欲しけりゃ保健室で酒を呑むなと言いたい」簡素なビジネスデスクの上に転がる無数のビンや缶を見ながら、俺。
「何よぅ!保健室で酒盛りする事の何が悪いっていうの!?」
「逆ギレ!?悪いに決まってるだろうが!」
「いちいち細かい事気にするのねぇ。そんなだからハゲるのよぅ?」
「ハゲてねえよ!いい加減なことぬかすな!」念の為言うが俺はハゲて無い。
「いやいや、つむじのあたりが結構危なく…」
「何!?」反射的に頭を抑える。すると。
「うっそぴょーん」
「殴って良いか?なあ殴って良いか?」その時、俺は割と本気だった事を付け加えておこう。

「あっはっは、騙されてやんのー」<こいつ意外とチョロイわねぇ>
騙された事より、チョロイと思われた事の方が屈辱だった。
「話を戻そうか。さてハゲ巻」
「だからハゲてねえ!いい加減その話題から離れろ!そんなに俺をハゲキャラにしたいのか!?」
「そんな事無いわよぅ?あらあら君」
「名前を縮めるな!寧ろあらあらなのはオマエの方だよ!」
「さっきからツッコんでばっかで忙しないわねぇ。もうちょっと落ち着きなさいよぅ」
「誰の所為だ!?」
「いやー…アンタが此処に転校して来てくれて良かったぁ…っ」
「何しみじみと手ごたえ感じてんだ!いちいちツッコまれないとマトモに会話も出来ないのか!?」
「そりゃあ女だし?突っ込むよりは突っ込まれる方が―」
「下ネタに走るな!聖職者としての自覚が微塵でもあるなら!」ツッコミに疲れぜえぜえと肩で息をする俺。
「で、どうした荒巻?もし私に会いたいなんてキモイ事言ったら叩き出すわよぅ?」
何事も無かったかの様に俺の方に向き直る雨宮先生。
「…それだけは在り得ないから安心しろ」溜息をつきつつ、俺は言葉を返した。
確かにルックスは良い。恋には及ばないものの『美人』のカテゴリに入るだろう。
その上スタイルも抜群ときている。その豊満なバストについては今更語るまでもあるまい。
だとしても…だとしても、だ。
全身からヤニと酒の匂いと漂わせ。だらしない顔で惰眠を貪っていた人間にどうトキメケというのだ?
白衣なんて煙草のヤニでクリーム色に変色している。
偶然にもその色は彼女が吸っているピースの箱の色に酷似していた。

「ああ、それはダメ」<そうしてやりたいのはやまやまなんだけどねぇ>
「…さっき背中にアイ○ノン入れられた腹いせか?大人気ないな」
「別に腹いせじゃないわよぅ」<こんな程度で腹いせになるわけないじゃないのよぅ>憮然とした顔の先生。ツッコみ所がずれてないか?
「いい?私は保険医とか言われる事もあるけど。あくまで『養護教諭』であって『医者』なの」
「保険医は生徒に薬を処方しちゃいけないのよぅ。許可されてないの。わかる?そう言う決まりなのよぅ」
「そ、そう言うもんなのか」急に顔を覗かせた雨宮 稲穂の『先生』としての一面に鼻白む俺。
「まあね。普段好き勝手やってる分、自分の仕事に間してはキッチリしないと」好き勝手やってる自覚はあったのか。
「でも、診察位はしとくか。症状によっては最悪早退して病院に直行、って事もあるし」
酒の缶や吸殻が山積みになった灰皿をかき分けプリントのような物を取り出す。診断表か?それをやはり取り出したバインダーに挟む。
「で?調子が悪くなったのはいつ?それと心当たりとかはある?なにか悪い物でも食べたとか」
「それは昼からだ。原因も分かってる。…コレだ」俺は持っていた弁当箱を渡した。
「これ?別におかしな風には見えないけど。…変な物でも入ってた?」弁当箱の蓋を開け、先生。
「いいや、そうじゃない。…それは恋が作ったやつでな。食べれば分かる」
「ふぅん?どれどれ…うわマズッ。何これ?新手の食品サンプル?」一口食べ、まさに吐き捨てるように言った。
「正真正銘恋の手作り弁当だ。こんなモノを腹一杯食べれば誰だって腹の具合が悪くなる」
食品サンプルとは良い得て妙だな、と感心しつつ俺は答えた。見てくれはマトモなのに兎に角味が酷い。食べ物とは思えない程に。
「もう無いがエビフライなんて凄かったんだぞ?衣が甘かったんだ。小麦粉とホットケーキミックスを間違えたみたいだ」
ほんのり甘い、半生のエビフライ(バニラ風味)。分かりやすく言うと、死にたくなるような味だ。
「成る程。でもなんでこんなモン腹一杯食べんのよぅ?」<何?こいつM?>酷い言われ様だ。気持ちは分かるが。
「…1人暮らしが結構長い所為か、根が貧乏性になってな。どうしても食べ物を粗末に出来ないんだ。勿体無かったんだよ」
「へぇ、それだけ?」<言い訳臭いったら。どうせ草薙を気遣ったんだろうけどね―>雨宮先生の勘繰りは的を得ていた。
折角自分の為に作ってくれたんだ。無下には出来ないだろう?
それに、食べてる最中ずっと恋に見られてたんだ。期待の篭ったキラキラとした眼で。
なのにどうして不味い等と言えようか。だが流石に全て食べる事は出来ず、さりとて他の奴に食べさせるワケにも行かず。
仕方ないので「残りは家で食べる」と半ば強引に弁当をテイクアウトし、現在に至るのだった。

だが、そんな事馬鹿正直に言えるわけもなく。
「…それだけだ」とぶっきらぼうに答えるしかなかった。
「ま、別に私はどうでもいいんだけどね。そう言う事なら適当に此処で休んどけ。後で今書いてる紙担任に渡すのよぅ?」
「了解。ベッド借りさせて貰う」言いつつ周りのカーテンを開け、ベッドに潜り込んだ。
「静かにしてなさいよぅ?」それは俺の台詞だ、と言おうとしたその刹那。遠慮がちなノックの音が。
「すいません。入っても宜しいですか?」恋の声だった。慌ててカーテンを閉める俺。
「頼む!俺が此処に居る事は黙っててくれ!」小声で懇願する。
「はいはい。…良いわよーぅ!」小声で扉に向かって声を張り上げる。
「失礼します」声と共に足音。どうやら中に入ってきた様だ。
「全く、今日は千客万来ねぇ。落ち着いて酒も煙草も楽しめないじゃないのよぅ」
「…先生、いい加減保健室での喫煙や飲酒は控えた方が良いと思いますよ?」
「あのね草薙。マグロが泳ぎを止めると呼吸出来なくて死ぬわよね?」
「それと同じなの。私が飲酒と喫煙を止めたら死ぬのよぅ」死なねえよ。何だそのトンデモ理論。
「先生?寝言は寝てから言った方がいいですよ?」
「草薙意外とセメントねぇ…。で、アンタは何の用?」
「アンタ『は』?…他に誰か来たんですか?」
「ついさっきね。具合が悪いとか言ってたから今ベッドで休ませてんの」ちゃんと黙っていてくれるのか。有難い。
「そうなんですか。…で、先生。新君来ませんでした?午後の授業に出てないんです」<どこ行っちゃったんだろう…?>
「荒巻?ああ、さっき来たわよぅ。でも何で此処に荒巻が来たと?」
「サボりなら荒巻の事だし、屋上に行くんじゃない?アイツの行動パターンを完全把握して居るわけじゃないから断言は出来ないけど」
問う先生。全てを知って居るのにそんな様子を微塵も感じさせない。
彼女の演技力が特別優れているのか、それとも曲がりなりにも俺よりも幾年か年を重ねた事による経験の差か。
「屋上は真っ先に行きました。でも姿が見えなくて。かと言って此処を出た様子も無いので…」
「仮病でも使って昼寝ぶっこいてるんじゃないか、と」<信用無いわねぇ、荒巻の奴。まあ当然か>
「別に仮病と決め付けるわけじゃないですけど…」

「まあ仮病の線は無いわよぅ?ホントに具合が悪そうだったし」
「そ、そうなんですかっ!?」<ど、どうしちゃったんだろう新君!?…心配だなぁ>…いや、お前の所為なんだけどな?
「ふふん、心配?」<相変わらずわかりやすい子ねぇ>
「べ、別に彼の事なんか心配じゃありませんし、してるわけ無いじゃないですか」
「ただ…その。そう、いちクラスメイトとしてほんのすこーしだけ、気になるだけですから」
「そう?まあでも割と元気そうだったわよぅ。私の胸にチラチラ目が行ってた位には、ね」
濡れ衣だ!間に受けるな恋!俺は雨宮先生の胸なんか…全く…少しも…これっぽっちも見ていないんだからな!
上半身を動かすときに僅かに揺れた時とか。
ただでさえタイトな服に、伸びとかして押し付けられハッキリと形が浮き上がった時とか。
見なくなったりするわけ無いだろうが…っ!
…………………………本当だぞ?
「…最低ですね。いやらしい」<…新君、そんなに胸の大きい人が良いの…?でも、私だってDはあるもん…>
Dなのか。D も あ る の か。
俺は久方ぶりに『この能力を持っていて良かった』と心の底から思った。
「まあまあ。男ならある程度は仕方ないわよぅ。それより、草薙が荒巻の事心配するのは当然じゃん?『彼氏』なんでしょ」
「…はあ。別に本当に付き合ってるわけじゃないです」<もしそうだったらどんなにいいか…>
「それは先生が一番分かってるんじゃないですか?」
「なんでよぅ?確かに事情は当人から聞いたけど」
「いや、だって先生が私に協力するよう新君に働きかけたんじゃないんですか?」
「『友達の頼みくらい聞いてやれ』って言われたって」
「断ったら腕の骨が折られそうな勢いだったから仕方なく協力するって」
「…ほぉう?荒巻の奴がそう言ってたと…」<あんのクソガキ、この私をダシに使いやがったわね?いーい度胸だ>
聞いた耳に―耳で聞いてるかどうか判然としないのだが―霜柱が立ちそうな冷たい『声』。…本気で腕の一本でも折られそうだ。
だが、彼女の行った報復行為はそれより尚タチの悪いものだったわけで。

「草薙。さっきの話の続きだけどね?荒巻が具合が悪いって言ったけど、実は…腹壊してたみたいなのよぅ」
「え…」
「何か悪いものでも食べたのかって問い詰めても要領を得ないの」
「しつこく聞いたらやっと根負けしたわよ。誰かからお弁当作って貰ったみたいなのよね〜」
「そんな…」<それって…もしかしなくても…私の…>ショックを受けた様子の恋。
「それがもう凄い不味かったらしくて。それでも作ってくれた人の為に可能な限り食べたらしいわよ?」
「食べ着れない分も持ち帰ったみたいで弁当箱を小脇にかかえてさ。いやーあそこまでされると作った側としては嬉しいだろうねぇ」
「だから…無理したから…おなかを壊したって事ですか?」
「ま、要はそう言うことよぅ。でも最後の最後まで作った奴の名前言わなかったのよねぇ」
「―で、草薙。その弁当作ったの、誰なのかしらね?」コノヤロウ、そう来たか。
其処まで言われたら黙って此処に来た意味も無い。くそ…えげつない事を。
だが、そんな白々しい雨宮先生の問いかけは。
<新君、私の事考えて、我慢して食べてたんだ…。なによ、嬉しいじゃないのよ…>
<いつもヤな事ばっかり言ってくるくせに、ここぞって時に優しいんだから…>
感激の余り陶然とした『声』をあげる恋には全く届いていなかった。
「おーぅい、草薙ー?」呆れの入った声で呼びかける先生。
手を恋の顔の前でひらひらと振ってるのだろうな、多分。
「…あ。…えっと、コホン。なんですか先生?」
ようやく我に返り、気恥ずかしさとばつの悪さを誤魔化す為に咳払い。
「いや、その弁当を作ったのは誰かって聞いたんだけど…」
「…実は私です。それがなにか?」クールに答えるが今更感が拭えないのは俺だけではあるまい。
「へぇ、そうだったの!でもお弁当作ってきてあげるなんて、荒巻の事好きだったりするわけ?」
「だ、誰があんな人!…一応協力してもらって居るんで。そのお礼ですから、他意はないです」
朝俺に言った事を繰り返す恋だったが、説得力が欠片も無かった。

「そうなの。でも向こうはそうじゃないんじゃないかなぁ?」
「…え?」<それってどういうことかな…もしかして…いやまさか…でも…あうう>
「美味しくなかった…いやハッキリ言えばマズかったのにそこまでするなんて、普通のクラスメイトには出来ないわよぅ」
「えええ?」<…そうなの…かな>
「そうよぅ?この間だって私はアイツに彼氏役を引き受けるのを強制なんてしてないもの」
「多分、協力したいけど素直になれなかったんじゃない?きっと理由が欲しかったから、私を引き合いにだしたのね」
「な、成る程…。でももしそうだったらちゃんと言えば良いんです。紛らわしいったらないわ」
「いいじゃんすげぇじゃん?カレにそんなに気遣ってもらってるんだから。こ〜の幸せ者」
「だ、だからっ…。私と新君は本当に付き合ってないって言ってるじゃないですか。私も…好き、とかそんなことは…」
「そんな事はぁ?」嫌いと言い切れない恋に、問う雨宮先生。からかう様に。鸚鵡返しに。
「ですから…うー…………………………もう、知りません!」直後、間隔の早い足音。早足で出て行ってしまったようだった。
「…余計な事を」カーテンを開けつつ、非難の声を浴びせる。
「別に良いじゃないよぅ。ホントの事しか言ってないもの」
「何処が本当だ。出任せも良い所だろうが」
「草薙の奴も素直じゃないけど。そこまで来ると意固地ね意固地。…アンタは何でそんなに頑ななのよぅ?」
「頑なとか言われても意味が分からないな。仮にそうだとしても先生に話す必要がない」
「生徒の相談にのってあげるのも一応私達の仕事よぅ?そんな時くらい、真面目に話を聞くわよぅ」
「…話しても、どうにもならないって事も有るだろう」話しても、この力が無くならない。アイツも…生き返りは、しない。
「どうにもならなくても。云うだけで楽にはなるわよぅ」
「言ってしまえば、全てお終いって事もあるんだ」
「そう、なら無理には聞かないわよぅ。…ああそうだ」
口調は何気なく。されど表情はこの上も無く真摯に。雨宮 稲穂は言い放った。
「私は教師で、つまりは生徒の味方よぅ。教師ってのはそういうモノだし、そうでなきゃならないの」
「だから。私は何時でも全力でお前らの力になる覚悟がある。それを忘れないでよ、荒巻」

「何を急に大層な事を。…今日はもう早退していいか?顔をあわせ辛い奴もいることだしな」
「おう、出てけ出てけ。さっさと帰れ〜。さぁって酒が呑める酒が呑める酒が呑めるぞ〜っと♪」
<あぁヤバ。今更になって照れ臭くなってきたわよぅ>心中の照れ臭さを誤魔化す様に、口ずさみつつワンカップ○関の蓋を開ける先生。
「はは。教師としてそのリアクションはダメだろう」苦笑する俺。全く、アンタって人は。
「でも。先生のさっきの言葉、溺れる者が掴む藁程度には当てにさせて貰うさ。―感謝するよ。雨宮先生」
「か、感謝!?…大丈夫?熱でもある?」
<まさか、脳にキてる?その内喉を掻き毟って死んだりしないわよね?>心から心配そうな顔で聞いてきた。
「ぶち殺すぞ」俺は保健室を後にした。
早退届を渡辺先生に付きつけた後、鼻歌交じりで悠々と校舎から外に出たその時。校門前に立っていた人が居た。恋だった。
「来ると思ってたわ。…1人だけこんな時間に帰宅だなんて、良いご身分ね」
「悪い物でも食っちまったかな、どうにも腹が痛くてな。それより校門前で待ち伏せなんて、お前俺の事好きだったのか?」
「馬鹿じゃないの?」<まあ、そうなんだけど>
「随分な言い草だな。…で?何の用だ?」
「雨宮先生から聞いたわ。私の作った弁当の所為で体調を崩したんですって?…悪いわね」<慣れないことはするものじゃないなぁ>
「別に。確かに不味かったが、事実食費は浮いた。だから文句を言おうとは思わないね。そんな事をしたって時間とカロリーの無駄だ」
「フォローのつもり?毎度毎度いちいち勘に触る…。まあいいわ。もうこんな事はしないから」<またこんな事になったら悪いもの>
「そりゃ困る。俺の昼食はどうなる?」
「確かに私から言い出した事だけど、女に食事をたかるその姿勢は男としてどうなのかしら…。それなら。学食位奢るけれど」
「それこそ体裁が悪い。一度言い出したんだ、今後も弁当を作るってのが筋だろう」
「それともなんだ?一度や二度の失敗くらいで泣きを入れるような奴だったのか?お前は」
「そ、そんな事!…分かったわよ。其処まで言うのなら、また作ってきてあげる。…今日よりは、マシなものを作って見せるわ」
「ふん。精々頑張って俺の食生活を豊かにするんだな。…話は終わりか?なら行かせて貰うぞ。俺はもう帰るんだ」
「待ちなさい。何を勝手に帰ろうとしているの?」
「勝手にって…渡辺先生には早退する事は伝えたしその上で許可は取ったぞ」
「そうじゃないわ。私も帰るの」
「はぁ!?」意味が分からん。

「具合の悪い人間を1人で帰らせられないもの。だから私が送ってあげるわ、感謝しなさい」
<私を置いて一人で帰るなんて、そんな事させないんだから>
「そう言うのを大きなお世話と言うんだがな…。それ以前に、お前こそ勝手にそんな事していいのか?」
「私も渡辺先生に許可は取ったわ」しれっとした顔で、いけしゃあしゃあと彼女はそう言った。
「そんな無茶な理屈を通したのか。呆れて物も言えん」ああ、眼に浮かぶようだ。
恋に詰め寄られ勢いに押されるまま、無理矢理早退を許可させられている渡辺先生の姿が。
…押しに弱そうだからなぁ、あの人。
「別に良いでしょう?許可は許可よ。…確かに、涙目になられたときは、流石に少し強引だったとは思ったけど」
半泣きで『あ、あれれー!?』とか言いつつ困り果ててたんだろうな。…不憫な。
「決めたからには、もう何を言っても無駄なんだろうな。…好きにしろ」
「言われるまでも無いわ」クールに言い放ち、歩き始めようとする恋。
「待てよ」そんな彼女の上着の裾を俺は掴んで引きとめた。
「ひゃん!?」可愛らしい悲鳴をあげつんのめる恋。さまあみろ、朝の仕返しだ。
「な、何を…っ。危ないじゃない」
「何をだと?お前は朝自分で言った事も覚えてないのか?俺達は、恋人同士だって」
「そ、そうよ。だから何だと言うの?」
「手を繋ぐんだろ?こう言う時は、さ」
「あ…」<新…君>
「やっと思い出したか?学年トップクラスの脳味噌も、案外大した事ないんだな」からかう様に笑い、手を差し出す。
―たとえ、この関係が偽者でも。
この力がある限り、俺が彼女の行為を受け入れられなくても。
今。この時、この瞬間だけは。
彼女の手の温もりを、噛み締めても…いいだろう?
彼女と繋がっていても、構わないだろう?
「黙りなさい。でも、少しは分かってきたようね」<だから、私は。貴方が…>
満足そうに微笑み、恋はその手を取った。


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