こここい、はち!

遠くに聞こえる蝉時雨。
ジリジリと、容赦無く照りつける灼熱の太陽。
海水浴客が上げる賑やかな喧騒の声。
―嗚呼。夏だなぁ。
なんて、心の中で意味も無く呟く。
7月も残り数日となり、此処叢雲の地も夏の盛りを迎えようとしていた。
無論。俺、荒巻 新は他の学生の例にもれず夏休みの最中なわけで。
二度と来ない17の夏を誰憚ることなく思う様謳歌したいと考えるのは当然の事と言えた。
それは学生としての俺が持ちうる権利であり1人の若者としての俺の義務なのだ。
夏休みとは、まるで宝石のようにキラキラと輝く青春の1ページを造りだしそして心に刻み込む為にあるものなのである。
―決して、そう決して。
このかけがえの無いこの一夏の日々は。
学校の教室で机に座りテキスト片手にプリントにペンを走らせる為に使っちゃあいけないと思うんだよ…。
「あれれー…?おっかしいなぁ…?」疑問の言葉が口にでてしまう。
声に元気が無いのは、暑さと慣れない勉強でバテているからである。
「それは私の台詞ですよぉ…」
やはり力無く俺の言葉に反応したのは、2―Aの担任である渡辺先生だった。
「なにが悲しくて夏休みに学校に来なきゃいけないんだ…」
「それは荒巻君の授業日数が足りないからですよ…」<私だって休みたいのになんで補習授業なんか…>『声』でぶちぶちと愚痴る。
申し訳ないとは思う。が、俺とてサボりたくてサボっていたわけではない。
なぜかと言えば、やはりというかなんと言うか。
俺が持っている特殊かつ難儀な力の為だった。
―人の心の『声』を聞くと言う、その力の。

以前も述べたとは思うが―
本来心の中で考えている事など誰かに聞かれない。それ故に内容や声量に遠慮は全く無い。
そんな耳を覆いたくなる様な『声』を上げる何十人もの人達と、人口密度の極めて高い一室に押し込められるのである。
なんとか我慢できなくはないが、辛いものは辛いわけで。自然、教室へと向かう足も重くなってしまう。
誰にも理解されない苦しみなのがまた辛い。授業中なので逃げることも出来ない。
だが学校側はそんな事情等知ったこっちゃ無い為―俺も他者に話すわけにも行かないのだが―この様に補修を受ける羽目になる。
まさか夏休みにまで補修を受けさせられる事になるとは思ってもみなかったが。
「というか、ここ空調利いてる筈じゃないんですか…?なんでこんなに暑いんだ…」
「電気代節約と温暖化対策だとかで、使われない教室は空調関係の電源供給がストップされるんです…」<うう…暑い…>
「俺達がいるじゃないですか…」
「いちいち補修に来る少数の人間の為に切り替えませんよ…。寧ろ補修を受ける様な生徒には良い罰だ、といった所でしょう…」
陰鬱な声音で、渡辺先生。心なしか涙声になっている気がする。まあいいとばっちりだからなぁ…ホント申し訳ないです、先生。
でも俺はサボりたくてサボってたわけじゃねーんですよ!…と、言えたらどんなにいいか…。
「シン、暑いのは暑さによるメリットが目に入らないからさ」
「逆に考えるんだよ、『暑くて汗かいてる所為でナベちゃんの服が透けてセクスィー』と考えるんだよ」
と、能天気な声で言ってきたのは。長い髪を三つ編みにした特徴的な髪型に、人懐っこい笑みを浮かべた顔。
俺のクラスメイトでありもう1人の補修の参加者、橘 銀弧だった。
「ジャージは透けないしセクシーからは程遠いと思うんだがな…それより何でお前までここにいる?」
「お?なんだ?シン、お前レンと言う彼女がいながらナベちゃんと2人っきりのイケナイ個人授業をお好みか?」
「イケナイ個人授業?渡辺先生と?…………………………ハッ」
「酷ー!!?い、今っ!鼻で笑いましたねっ!?」<ちょ、超ショック…やっぱり私も雨宮先生を見習ってもう少し色気を出した方が…>
良い歳した大人が超って…。あと色気云々は兎も角、あのダメ教師だけは参考にしないで下さい。人生踏み外しますよ。
「まあ聞いといてなんだが、どうせ中間期末の両方で赤点だったんだろ?」
「無視っ!?」
「まあな。それよりお前みたいに成績良いのに出席日数で補修って方が珍しいだろ」
「そんなもんか?」
「そりゃそうだろ。普通補修受ける程出席日数ヤバかったら授業についていけないっての」

「うんうん。なんであれだけ授業サボってるのに学年10位以内をキープ出来るんですかねー?」
<もしや…カンニング?って、そんな訳無いですよね>
「……………………………」まさにカンニングしてる俺の頬を伝った一筋の汗は暑さの所為ではあるまい。
常人には出来ないからバレるワケが無い、と思いなおし即座に冷静さを取り戻す。幸いにも俺の刹那の動揺に気付く奴はいなかった。
「そうだな…。強いて言うなら…………………………天才だから?」
「うわムカツク。ナベちゃんこいつぶっ飛ばしても良いと思う?」
「ケンカなら学校の敷地外でお願いですー…。此処で事を起こすと私の責任になっちゃいますから…」
暑さで相当参ってきたのか、教卓に半ば突っ伏しつつ手をひらひらと振る。
「…アンタって人は」この先生も大概イイ性格をしている。この学校の人間はこんなんばっかか。
「冗談だよ。ま、頭のデキが違うのは事実だろうけどな」<あーこいつの爪のアカでも煎じて飲めば頭とか良くならねえかな?>
無理だろうし俺は頭が良いわけではないしこの力を持つ事もオススメ出来ない。
そんなやり取りをしていると。突然教室のドアが開けられ、見覚えのある顔が2人教室に入ってきた。
1人は緩やかにウェーブのかかった髪を頭の両側で縛りいわゆるツインテールにしている。
愛玩用の小動物を連想させる愛らしい顔に微笑みを浮かべ、携帯電話を後生大事に握り締めていた。
携帯の液晶画面には【補修お疲れだよー^^差し入れもってきた、よーw】と表示されている。
銀弧の幼馴染である、萩原 椎奈だった。
携帯電話を持っていない左手には、コンビニの袋が。あれが『差し入れ』だろうか。
そして、もう1人は。均整の取れたスタイル抜群の体つき。
胸まで伸びている、黒く染めた絹の様な、艶のある黒髪。
顔にかけているのは、デザイン性が重視されたフレームレスのお洒落眼鏡。
それが、目の醒めるような美貌の丁度良いアクセントになっている。
―何度見ても、飽きない。何度見ても、魅せられる。
銀弧や椎奈同様クラスメイトで、かつ現在俺の恋人と言う事になっている草薙 恋だった。
残念ながら実際に交際しているわけではない。諸事情があって付き合っているフリをしているだけだ。

「何」<何だろ…。そんなに見られたら、恥ずかしいよ。…嫌じゃないけど>視線に気付き、ちろりと俺を睨む。彼女の手にも、袋が。
「いや、別に。…それより。なんだ、お前も来たのか」本当は嬉しいのを顔に出さないようにしつつ鬱陶しげに言う俺。
「随分な言い草だけど、別に貴方の為に来たわけじゃないわ。ギコに差し入れしたいってしぃが言うから、付き合っただけよ」
まあ一応理屈は通っている。椎奈は軽度の対人恐怖症の上失語症なので一人で外出するのが困難なのである。とはいえ。
<あーもう!私が行こうって提案したのに。なんでこんな事言っちゃうのよ。私の馬鹿>
<で、でも。差し入れ受け取って貰えれば取りあえずはそれでいいよね。…喜んでくれるかな>
そんないじらしい『声』を聞かされたら。理屈が通っていようといまいと無意味だった。
「うおっ…すっげぇ…!」袋の中を覗いた銀弧の感嘆の声もむべなるかな。
コンビニ袋の中身は大量のアイスだった。この暑い日にコレは確かに嬉しいだろう。
「ハム、ハフハフ、ハムッ!…いけませんねぇ。学校にこんなもの持ち込んじゃ」<ああ、美味しい…生き返るぅ>
「ごもっともですね。口一杯にアイスを頬張りながら言ってなければ、の話ですが」アンタはハムスターか。
「…まあ友達を思って差し入れするその友情に免じて大目に見てあげましょう」<いけないいけない。先生としての威厳が>
んなモン最初から無いと思いますが。そんな事を考えつつアイスを食べる面々をボーっと見ていると。
「貴方は食べないのかしら?」<折角買ってきたのに…>
「ああ、俺の分もあるのか。俺の為に来たんじゃないなんて、恋人甲斐の無い事言われたもんでな。てっきり無いと思ってた」
シニカルな嘲笑を浮かべ、肩を竦める。まあ、実際の所は―
普段は距離を置こうとあんな態度をとって不義理にして居るのに。
こんな時だけ好意に甘えて良いのだろうか、と。そんな事を考えてしまったから。
それは身勝手な事だと思われたし、なによりこのまま甘えてしまえばずるずると彼女達を突き放せなくなって―
いつか俺の力が起こすトラブルに巻き込んでしまうのではないかと。そう考えてしまって。手が止まってしまったのだった。
もう夢のように、恋や仲間たちを―失いたくなかった、から。だけど、恋は。
「貴方の分位あるわよ。全く、貴方の減らない口にはいつも苛立たされるわね。…ほら、さっさと取りなさい」
そう言って、袋を突き出す。そうなると断る言葉も理由も見当たらず、言われるまま唯々諾々と袋に手を突っ込みアイスを取り出す。
幾つかある中で俺がとったのはこぢんまりとしたカップアイスだった。
一緒に入っていた木のスプーンで掬い、一口。すると甘味と共に口の中に心地よい冷たさが広がる。
「…美味いな」思わずしみじみと言ってしまった。
「そう」<…よしっ!>別に誰に言うとでも無く呟いた俺の言葉に、素っ気無く返事をしつつ凱歌の『声』を上げる恋。
そんな彼女を見ていると。彼女の顔が然程綺麗で無くても。普通の家に生まれていても。多分、俺は彼女を好きになって居たんだろうな。

「何をニヤついてるのよ、気持ち悪い。…そんなにアイス美味しかった?」<だったら、来た甲斐も有ったけど>
ニヤついていたのか、俺は。思ったよりも感情が顔に出やすいタイプなのだろうか。自重せねば。
「ニヤついていたつもりは無いんだがな。…まあ、美味いが」
「ふぅん。…一口、貰ってもいいかしら?」<そう言われると、少し食べたくなるなぁ。他人が食べてるのって美味しそうに見えるし>
…天下に名だたるクサナギのお姫様は、案外俗っぽい思考の持ち主だったようである。
「俺は金を出してないしな。ここで断れるほど恩知らずじゃないさ。ホラよ」
アイスを一掬いして、恋に差し出す。
「有難う」おずおずとそれを受けとってパクリ、と口の中に入れた。
「うん、まあ…こんなものよね」<何よ、全然普通の味じゃない。…新君の好みって、良く分からないなぁ>
「そうかい。折角間接キスして食べたのに、それはご愁傷様だったな」言った、その刹那。
恋がのけぞり―そのまま引っくり返り後頭部を強打した。転がりながら悶え苦しんでいる。
「何、いきなり、変な、コト」恋がフラフラと起き上がる。
そんなにショッキングだったのだろうか。カタコトになりかけている。
<か、かかかか間接キス!?そ、そんなつもりじゃなかったのに…はしたない、とか思われちゃってないよね?よね!?>
そんな事ではした無いとか思うわけないだろ。やれやれ。
「間接キスがそんなに変か?直接口にキスしてたっておかしくないだろうに」
「ちょ、ちょちょちょ直接…!?ああ新君の…えっち!!」<直接だなんて…や、やじゃないけど。それはまだ…ちょっと早いよ、うん>
恋の顔からは今にもぷしゅー、と湯気が出そうになっていた。
「えっちって、お前…」俺としてはこの間の様に胸を押し付ける方が余程やらしいと思うのだが。
呆気に取られそれ以上言葉が出ないまま、黙々とアイスを口に運んでいると。
「そういえば、新君は夏休みに何か予定とか…あるの?」<誰かと遊んだりするのかな…ガールフレンドとか、居たりしないよね?>
暫くしてようやく落ち着いた恋が俺の方をチラリ、と見る。
「引く手数多で大忙し…と言いたい所だが生憎暇だ。補修は今日で最後だし、宿題も終わっている。まあ盆に帰省位はするけどな」
冒頭であんな事を言ったものの、現実は何時だって願望を裏切るものだ。
どれだけに夏休みを充実したモノにしたいと思っても、中々そうは行かない。
何かが起こるわけでもなく、ただ淡々と退屈なまま時間だけが過ぎて行くのだ。

「そう。…その、もし暇が出来たら…遊ぶのに付き合っても、いいわよ」<旅行とか、お祭りとか…行けたらなぁ>
「そんな無理をされても余計なお世話だ。ギコやしぃと遊んでればいいだろうが」
「無理してなんかないわ。暇を持て余しているクセに贅沢な事を言うのね、貴方って」<予想はしてたけど…そんな言い方って…>
「い、嫌とかそう言う事じゃあないんだがな。…確かに暇は暇だ。もしかしたら好意に甘えさせて貰う事もあるかも、な」
「あ、あら。そうなの?私はどちらでもよかったんだけど。遊ぶ相手なら他にも居るもの」
<やった。何処に行こうかな、何しようかな…楽しみ♪>
…本当は嬉しくて堪らないってのに、何でもっとこう素直になれないかね。もっとも、人の事は言えないが。
「あのー…2人とも、此処は勉強する場であっていちゃつく場所じゃないのですよ〜…」<いいなぁ…私も彼氏ほしいなぁ…>
本音はどうあれ。おずおずと申し訳なさげに、至極真っ当な指摘をする渡辺先生に。
「「いちゃついてなんかいません!!!!!」」
俺と恋は、反射的に口を揃える形でそう返事してしまい。
それに気付き。ハッと顔を見合わせ。
妙に、気恥ずかしくなり。即座にお互い顔をそらしたり、して。
目の端に移る恋の頬は、ほんのりと紅くて。
自分もそうなってるのかと思うと、恥ずかしさは弥増すばかりだった。
「息ピッタリでやんの。あー熱い熱い」
【やっぱり仲、良いよねー。ひゅー、ひゅー】
2人の生暖かい揶揄の言葉にも、流石に何の反論の言葉も浮かばなかった。
そして休憩は終わり。補修が再開され数時間後。
「―さて、コレで補修は終わりですね。荒巻君、橘君。ご苦労様でした」<そしてお疲れ様、私…>
俺達から受け取った、補修の課題であるプリントをトントン、と軽い音をたてて揃える渡辺先生。
窓の外からは夕日が差し込み、教室を赤く染め上げていた。
因みに、既に恋と椎奈は「補修の邪魔になるから」と先に帰っていた。
…恋は随分と名残惜しそうな『声』を上げていたが。
お疲れ様でした、と俺と銀弧が言葉を返すと。ぺこりと会釈をし、渡辺先生は教室を出て行った。

「…疲れた」首を鳴らすと、思ったより盛大にゴキゴキと音が鳴りビックリする。
溜息をつきつつ、帰宅の準備をする俺に。
「くぅ〜っ。やぁっと終わったな、シン」気持ちよさそうに伸びをしつつ、銀弧。
「ああ。コレで漸く人並みの夏休みが送れる」
「だなだな。どうよ、コレからゲーセンにでも行ってパーッと気晴らしでもしねぇ?」
「なんならレン達誘ってカラオケとかでもいいしな」
その提案は嬉しいのだが、流石に疲れた。まあ疲れて無くてもこいつらの誘いをおいそれと受けるわけにはいかんのだが。
「遠慮しておく。俺はお前と違って体力が有り余ってなんかいないんでな」
おざなりに、皮肉交じりに断る俺だったが。銀弧も俺の皮肉など簡単に通さない程には面の皮が厚くなっていたらしく。
「ばっか、俺だって疲れてるっつーの。―だが!だからこそ遊ぶんだよ!遊んで疲れなんか忘れるんだよ、シン!」
力強く拳を握り締め力説する銀弧。
「何だその理屈は。まあ…恋にも言ったが、どうしても暇で暇で堪らなかったら、その時は付き合ってやってもいい」
半ば社交辞令のつもりで口にした後半の台詞に、
「マジでか!?よっしゃ言ったな。明日から隙さえあれば遊びに誘ってやるからな。覚悟しとけよ?」
<こいつのこんな台詞が聞けるようになっただけ、大した進歩だよな。恋のお陰か?>
目を輝かせ、ストレートに喜びの意を表す銀弧。
「勝手にしろ」その余りの分かりやすさに、俺は苦笑し再び溜息をついた。
帰る途中で銀弧と別れ、夕食でも買って帰ろうと繁華街をぶらついていると。
―何か。良くないモノを、見たような気がした。
昏い雰囲気を全身に纏った『ソレ』は、まるでゾンビか何かの様にフラフラとおぼつかない足取りでこちらに向かって歩いて来る。
黒のジャケットを着込んだその体に、漫画であればカケアミの1つでもかかっていたかもしれない。
すれ違う周りの人達は『ソレ』と距離を置き、目を合わせない様にして足早にその場を通り過ぎて行く。
俺もそれに倣おうとしたのだが、すれ違うその時。

ただバランスを崩しただけなのか、自分の足に躓いたのかは分からない。
だが『ソレ』の体はぐらり、と前に傾ぎそのまま倒れて行く。
「な―」俺は慌てた。
何故わざわざこのタイミングで、転んだりなんかするんだよ。
畜生。それじゃあ―助けないわけには、いかないだろうが。
「くそ、面倒にも程がある…ッ!」
ボヤきながら、俺は『ソレ』の体を受け止めていた。
それから1テンポ置いて、漸く俺の存在に気付いたように『ソレ』が俺の方を向き、自然と見つめあう格好になる。
『ソレ』の正体は、俺より大分年かさの男性だった。30〜40代程度だろうか。
日本人離れした、彫りの深い顔立ち。
日に焼けたのか元々そう言う色なのか、薄い赤銅色の肌。やや引き締まった、中肉中背の体。
なんとなく、ジョン・ステイモスに似ていると思った。
「…ああ、君が助けてくれたのかい。有難う」
『ソレ』…いや、彼は俺の手を離れよろよろと起き上がった。
「別に。転びそうだったから咄嗟に手が出ただけです」
「それでも有難いさ。そうだ、何か礼をしないと。私はこれでも―」
「要りませんよ。大した事をしたわけでもない。それじゃあ、俺はこの辺で」
彼の言葉を遮る様にして一方的に言うと、俺はその場を立ち去ろうとした。だが。
「ああ、待ってくれ―おっと」慌てて追いかけようとする彼。だがまた転びそうになり、再び俺は彼の体を受け止めた。
「たびたび、済まないねえ。少々、飲みすぎたみたいだ」言われて見れば、仄かに酒臭い。
「はあ…。家は何処です?」
「此処から西に、暫く歩いた所に在るが…それを聞いてどうするんだね?」
「家まで肩を貸します。ここで見捨てたりなんかしたら、寝覚めが悪い」
「…良いのかい?」
「良いも何も、そんな体で一人で帰れると?スティーブン・セガールに『まんじゅうこわい』を演じさせる方が余程簡単そうですがね」
「意外と難易度低い様な気がするが…」
「さあ行きますよ」俺は半ば強引に彼の肩に手を回した。

「しかし、なんでこんな時間にそんなマトモに歩けなくなるほど酔っ払っていたんですか?まだ夕方なのに」
「それなんだがね。いや、恥ずかしながら…自棄酒、と言う奴でね」ばつが悪そうに、空いたほうの手で頬を軽く掻く彼。
言葉使いははきはきとしているし、行動にもおかしな所は無い。思ったより酔いは深くないのかもしれない。
「娘にね…彼氏が出来たらしいんだ」
「はあ」成る程。そう言う事、か。彼の気持ちを推し量る事はでき無いが、それでも納得は出来る。
父親にとって娘が自分達の手を離れて行くと言うのは、例えようも無い寂寥感が伴うものなのだろう。
「私には娘が2人いるんだ。そして、姉の方が早い内に家を出てしまってね」
「そうなっては、精々仕送り位しかして上げられる事は無くてね。その事が嬉しくもあり、寂しくもあった」
「だから…と言うわけでは無いが。せめて、もう1人の…下の娘の方には出来る限りの事をしようと決めたんだ」
「愛してるんですね。娘さんの事」
「勿論だとも」娘の為なら何でも出来るよ、と胸をポンと叩く。
「そんな大切な存在だからこそ、何処の馬の骨ともつかぬ奴に渡したくは無かった」
「私が『これだ』と思う娘に相応しい男でないといかん、と。そう思った」
「私は娘に相応しい相手を探すため、あちこちを駆けずり回った。その時、取引先から見合いの話が舞い込んだ」
「家柄も申し分なく、学力もありスポーツ万能。社交性もあり仕事の成績も優秀で、重要なポストをまかされていたんだよ」
「これなら、と思って私は彼を娘に薦めたんだ」
「それはちょっと…」やりすぎではないか。その見合い相手がどんな奴かは知らないが、そんな一方的に話を進めて良いものなのか。
俺が娘の立場だったら、あまり素直に喜べない。というか、困るしかない。
「確かに娘も困惑していたよ。だが、絶対に娘の為になると思った。いつか、娘も分かってくれると」
徐々に、言葉に熱が篭っていく。…やはり少しヤバイ人だったのだろうか。
「そんな時だった。娘から、彼氏が出来たと聞かされたのは」
随分とタイミングの良い話だ。もしかしたらそれ以前から交際は始まっていたのかもしれないな。
…というか、何処かで聞いた事のあるような。
「当然見合いの話は無かった事になったんだが…問題はその後だ」
「それ以来…娘の話の内容は、彼氏の内容ばかりになってね。思わず殺意を抱いたものだよ」
本気の目だった。その彼氏とやらには同情を禁じえない。

「もし、娘の彼氏が娘に相応しくない酷い男だったら私は…私は…ッ!」
「まあまあ、そんなに大切な娘さんが選んだ男なんです。少しは信用してあげれば良いと俺は思いますが」
「君の言う通りだ。だが、もしそいつが私の娘を不幸にする様な事があったら。娘が、心理的・物理的に苦痛を味わう様な事があったら」
「私は、そいつを許さないだろう」
「どんな手を使っても追い詰め、真綿で首を絞める様にじわじわと娘に手を出した事を心の底から後悔させ―殺してやる。必ずだ」
搾り出すような声だった。目は血走り瞳の奥では怒りの炎がメラメラと燃え盛っていた。
係わり合いにならない方が良かったのかもしれない、と後悔し始めるも後の祭り。
それに、本当に心の底から後悔するのはコレからだった。だが、俺はまだそんな事を知る由も無かった。
「済まない、少し興奮し過ぎたようだ。だが、酒でも呑まないとやってられない私の気持ち、少しは分かってくれるだろうか?」
「ええ、そりゃもう」怖い位に。
「分かってくれて何よりだよ。…っと、此処が私の家だ。どうも助かったよ」と、門の前で立ち止まる彼。
門の中は、広大な庭が広がっていた。学校のグラウンド位はあるのではないだろうか。
その向こう側に小さく見える近代的な邸宅が、恐らくは彼の家なのだろう。かなりの大金持ちらしい。
「此処まで来たら、家の前までは御一緒しますよ。…結構な距離があるようですし」
今思えば、コレが最後のチャンスだったのだと思う。もし過去に戻れるのなら、この時の俺を何としてでも今直ぐ家に連れ戻しただろう。
「さて、着きましたよ。と言うわけで、俺はもう帰らせて貰います」
「そんな、此処までしてもらって何のお礼もしないワケにも行かない」
「せめて夕食を一緒にどうだね。家内の料理の腕は一級品なんだ。―私だ。今帰ってきたよ。ただいま」インターホンを押す彼。
「有難い話ですが、家に俺を待っている奴が居るので―」彼に、俺が断りの言葉を言い終える前に。
ドアが、開かれた。そして、ドアの向こう側に居たのは見覚えのあり過ぎる顔だった。
「お帰りなさい、父さん…って、新君!?」<なんで新君が此処に!?>何故か、恋が其処に居て。俺を見て、驚愕の声をもらしていた。
「…ほう。君が件の『新君』か。…これは、何としても今帰ってもらうわけには行かなくなったなぁ。ぜひ上がってくれ」
<彼が恋を…。さて、どうしたものか…いや、どうしてくれようか…>底冷えのするその『声』に、冷や汗が止まらない。
「は、はい…ワカリ、マシタ…」ギクシャクとした動きで、俺は恋の家の敷居を跨いだ。
「そうだ、そう言えばまだ名乗って居なかったね。私の名前は―」
「―刃。草薙 刃。クサナギの代表取締役であり…この家の、主だ」
俺…………………………死ぬかもしれん。


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