こここい、きゅうっ!

「―悪夢だ」俺、荒巻 新は頭を抱えていた。
『街中でフラフラになってた人を家まで送り届けたら、その人は彼女の父親でした』
…何だコレは。頭の中でこの状況に至った経緯を簡潔に纏め、呆れかえる。
出来過ぎだ。荒唐無稽だ。タチの悪い夢だ。そうとしか思えない。
というか、夢であってくれマジで。
あれから、刃さんは俺を客間に通した後『軽くシャワーを浴びて着替えて来るよ』と言い残し、その場を後にしてしまった。
そして客間には、俺と仏頂面の草薙 恋が残された。恋は俺と向かい合う様にしてソファにちょこん、と腰掛けている。
「何故貴方がここに居るの」<吃驚したわよ、もう>
コップに入った飲み物をちびちびとすすりつつ、渋面で俺に問いかける。突然の事で戸惑って居るのか。
だとすれば彼女が此処に居るとは知らなかったとは言え、此処に来たのは俺の意思だ。悪い事をしてしまっただろうか。
<もしかして…両親に挨拶とか?それってつまり、結婚を前提とかそういう…>
…勝手に勘違いして緊張しているだけだった。
返せ、俺の心配を返せ。
「そいつは俺が聞きたい」溜息をつき、手持ち無沙汰な俺は視線を巡らす。するとまず分かるのはこの部屋の広い事広い事。
俺の寝室(6畳)が3〜4部屋は余裕で収まりそうな広さだった。因みに俺の部屋は1DK(風呂・トイレ付)。
広さに反して室内装飾の類は殆ど無いが、家具は高そうな物で占められていた。とは言え、品質・性能=値段といった実用本位な物だが。
「何よ、その答え。ワケが分からない。まぁ―」
<新君が来てくれたのは嬉しいし、別にいいか>
そりゃあ結構な事で。俺は今現在生きた心地がしないがね。
「…まあ、何だよ?」
「別に。今話さなきゃならない様な、大した事じゃないから。気にしないで結構よ」
「そうか。…色々あったんだよ、色々」説明が面倒だったので、何も言わず肩を竦めた。
最近この仕草を何回もしている気がするが、癖になったのかもしれない。

「―そういえば」
「?」
「刃さんから聞いたぞ。もう見合いの話はご破算になったそうだな」
直後、恋が思い切りむせた。
「けほけほ。そ、そうね。確かに私達の思惑通りに事が運んだわ。喜ばしい事よね」<ば、バレた…。まずいわ>
恋の『声』に、再び溜息。
黙っていれば、いずれ本当の彼氏彼女の関係になれるか…位は思っていたんだろうな。
「勝手に『達』をつけるな。コレは元々お前だけの問題だろうが」
「冷たい人ね」
「当然の事を言っただけだ。それより、もう俺達が恋人同士のフリをする必要はなくなったな」
「お前には悪いが全部話すぞ。なぁに、きっと分かってくれるだろう。お前、大切に想われてるみたいだしな」
「駄目!」
<そんなの駄目…新君と『なんでもなくなる』なんて、そんなの…嫌!>
「何故だ?お見合いはもう無いんだろ?恋人ゴッコをする必要はもう無い筈だ」
「それは…そ、そう!今そんな事をしたら、またお見合いの話を持ち込まれるわ!それじゃ振り出しに戻るだけだわ。無意味よ」
「んなこと知ったこっちゃない。それに無意味じゃないぞ。そうでもしないとどんな事になるかわかったもんじゃない」
「お前…今俺がどれだけややこしい事態に陥ってるか理解してるか?」
「そ、それは貴方の都合じゃない。私には関係ないもの」
…頭の血管がブチブチと音を立てて切れそうだ。俺怒るぞ。本気と書いてマジで怒るぞ。
あれだけ自分の問題に文字通り付き合わせておいて、ソレは無いんじゃないのかお前さん。
「…あのな。幾ら俺が瀬戸内海のように広い心を持っているとはいえだな」
「微妙に狭いのね」
「煩い。そんな態度に出られると此方としても考えがあるぞ?俺はフェミニストじゃないんだ」
「な、何をする気よ」
身を僅かに引いて警戒する恋。
<わ、わわ…どうなるんだろ、どうなるんだろ…私。でも…無理矢理、強引にってのも結構…>
お前は一体何を想像してるのか。

「何を、何をだと?そうだな―」
「…………………………」緊張で押し黙り、生唾を飲み込む恋。
「―胸を揉む」
「変態」
軽蔑の眼差し。なんて目で見やがる。というか似たり寄ったりな想像をしていたお前には言われたく無いぞ。
「別に良いだろう。減るもんじゃあるまいし」
「そんな問題じゃ無いわ」
「そうか。…………………………揉まれると増えるんだぞ?」
「そんなのは迷信だしそもそもこれ以上増えて欲しいとも思って無いわよ!」
「そうか。俺は胸を揉みたい」
「もうなんの捻りも無い!?それ以前に文脈まるで無視!?」
「仕方ないだろう!?お前の胸は今そこで揺れているんだ!」
「意味の分からない逆ギレは止めて!それに揺れて無いわよ!」
「…まあ、冗談だが」
「とてもじゃないけどそうは聞こえなかったわ…」
「ならそれが冗談だ」
「もうワケが分からない…。それは兎も角。駄目なものは駄目。勝手な事はしないで」
「…ふん。そうかい」
顔を顰めいかにも不承不承、といった面持ちで答えホッと溜息。…待て。ホッとしては駄目だろう、俺。
「納得がいかないって顔ね。…ねぇ。そんなに…………………………嫌?」
「嫌って、何がだ」
「…私と付き合う事よ」
他に何があるって言うの、と言わんばかりにちろりと俺を睨む。
「もし、お前と本当に彼氏彼女の関係になれたら。うん…悪い気はしないな」
「お前見てくれだけは良いからな。…ただ、それだけだがな」
妙に、照れ臭い。この程度の台詞に気恥ずかしさを覚える程、彼女への気持ちが強くなっているのだろうか。
「俺の答えはそんな所だ。…これで気は済んだか?」

「馬鹿ね。最初からそう言いなさい」
…本気で胸揉みしだいてやろうか。一瞬本気でそう考えるも、
<ふふ、なぁんだ。新君もまんざらでもないんじゃない>
はしゃぐ子供のような、そんな『声』を聞いてしまえばそんな気持ちも萎えるだけだった。
「ふん。…真面目に答えなかったのは悪いが、変な質問をするお前もお前だ。そんな事を聞いてどうする?」
「聞いてはいけないとでも?」
「そうは言ってない。ただ、俺達が実際に付き会う事なんて無いんだぞ」
「付き合うのが嫌とかそうじゃないとか。そんな在り得ない事について論じたって不毛なだけだろう」
「…それは、そう、だけど」
<在り得ないって言い方は無いじゃない。少なくとも、私は…ありえなく無いもん>
「だけど、なんだ?」
「もし…不毛じゃなかったら。在り得なくなかったらどうするの?貴方は」
「変な事を聞くんだな、お前は。普通そんな事言われたら、アホな男は勘違いするぞ?」
「…勘違いしたって私はどうもしないもの。…勝手にしたら」
<勘違いして、いいのに…>
なんともいじましい恋の『声』。
くっ…堪えろ、俺。
ニヤけるな、COOLになれ荒巻 新!
「はっ、何を言ってるんだお前は。そんな事言われて出来る奴が何処に居る」
「そんな事言う位なら、俺はお前が招いたわけじゃないとは言え客人なんだぞ?だったら」
「―歓迎」
「そう、歓迎の意を示す言葉の1つや2つ…ってうぉ!?」
いきなり背後から聞こえた声に驚いた俺は台詞を中断し振り向く。
其処に居たのは俺より大分年上に見える女性だった。

結い上げアップにした黒髪。少し垂れ目がちの目と口元のホクロ。
付くべき所にだけ程よく肉の付いた、艶かしい肢体に纏うは黒いキャミソールドレス。
薄手で体のラインがモロに出ているため直視するのを躊躇わせる。
匂い立つような色気を放つ彼女だが、不思議と淫猥なイメージは湧かない。寧ろ清楚という言葉が頭に浮かぶ。
色っぽいのにいやらしくない。自分で言ってて日本語がおかしいと思うが、そうとしか言い様が無いから困る。
「…ええと、お姉さんですか?」
おずおずと、尋ねる。彼女に姉が居る事は聞いていた。年が大分離れている事も。すると。
「―世辞が、上手」
まるで呟くような小声で言い。微かにぽっ、頬を赤らめる。
<恋が好きになるわけだわ。こう言う事をちゃんと言える子は私的にはポイント高めね>
<まあ調子が良すぎると言うのも考えものだけど、恋の話を聞く分だとそれもなさそうだし。うん、男の趣味は悪くないようね>
必要最低限の事しか喋らないその独特な口調とは裏腹に『声』の方は割かし饒舌だ。
とりあえず、内容からして俺達の話は殆ど聞いていないらしい事が分かり安堵。この部屋に来たのはつい先程、と言った所か。
「姉さんじゃないわ。母さんよ」
俺の様な反応には慣れて居るのか、やれやれと言った面持ちで溜息をつく恋。
「…そうなのか?本当に?」
正直、信じられない。もしソレが本当ならどう若く見積もっても40前後ではないか。とてもそうは見えない。
「―本当。今年で、39」
「信じられん…」
この家の人間はつくづく俺が培った常識の斜め上を行ってくれる。
「喋り方、気になるだろうけど気にしないで。極度の口ベタで一度に5文字以上喋れないの」
ソレは口ベタと言うより言語障害って言った方がいいんじゃないのか。
「―藍(らん)。娘が、世話に」
またも小声で呟く。それが名前らしかった。

「そんな事ありません。此方こそいろいろ―してもらってますから」
そう。世話になっているだなんて、それは此方の台詞なのだ。
俺は変わったのだと思う。
銀弧に。『時間が空いたら付き合ってもいい』と言ってしまった。
距離を置かなきゃならないのに。嫌われなきゃいけないのに。
無意識のうちに、この状態を受け入れるようになってしまっている。
エミュが。俺の笑顔を最近良く見ると、前より沢山笑う様になったと言った。
夢が死んでから、ただ死へと緩慢な足取りで向かっているだけの俺が。
少しは毎日を楽しめるように、楽しもうとする様になっていた。
俺が変わったのは―恋に会ってからで。
それは間違い無く、俺の変化は彼女の所為で―お陰で。
だから、彼女に優しく出来ないのが。
『ありがとう』って言えないのが。
時折、とても悲しくて。
とても、切なくて―
「『してもらっている』ゥ!?それは可愛い我が娘を疵物にしたと言う事かね新君!!!!!」
けたたましい音を立てドアが開き、客間に入るのは刃さん。
「してねえよ!人が折角センチメンタルなモノローグを展開している時になんて無粋な邪推を!」
「何たる事だ…私を助けてくれた事時は、少しは見所のある男だと思って居たのに…!見損なったぞ新君!」
「人の話を聞け!つうか聞いてください頼むから!」
「しかもしてもらっていると言う事は恋にあんな事やこんな事をご奉仕させていると言うのか…この破廉恥漢め!」
「変な想像は止めてよお父さん!どっちが破廉恥なのよ!?」
「―困惑」<困ったわ…どうしたらいいのかしらね…>
ならさしずめ俺は困憊って所か…。

「…ふぅ。取り乱して済まないね。早とちりしてあんな見苦しい真似を…いやはや恥ずかしいものだね」
「…………………………いや…気にして無いですから。ええ、それはもう」
こっそり、今日何度目になるか分からない溜息を突く。恋の暴走は親譲りらしかった。
「さて新君。もう大分遅いが、家に連絡を入れなくても大丈夫かい?出来ればもう少しゆっくりしてもらいたいのだが…」
「え!?あ、いや俺は1人暮らしですんで…」
此処で一体俺に何をするつもりなんだろう。戦々恐々としつつ答える。厳密にはそれ+1匹だが。
「はは。そんなに硬くならないでくれ。別に取って食おうとなんか思っちゃあいない」
「恩人であり娘の想い人である君をもてなしたいだけだよ。先程も言ったろう?家内の料理は絶品なんだ」
「そりゃあ―」
コップの中にある琥珀色の液体―水割りのウィスキーあたりだろうか―を一息で飲み干す。
「君が娘の彼氏だと知って、多少は穏やかならざる気分になったのは本当さ」
「…そうですよね」…胃が痛い。
「正直嫉妬やら何やらでどうしてやろうかと思った。だが…君は娘の彼氏だからね。君に何かあったら娘が悲しむ」
<だから、流石に●すわけには行かないものなぁ>俺、結構九死に一生を得てるな…。
「それに…昔、上の娘の事で色々あってね。一方的に愛情を注ぐだけでは幸せに出来ない…そう、思い知らされてるんだ」
「とはいえ…恋に見合いの話を持ちかけたのは、やはり同じ過ちを繰り返す所だった様だがね」
そう言う意味では、君に感謝しなくてはいけないのかもしれない、と苦笑いする刃さん。
「私は君を信じたい。娘の大切な人だから。娘が信じる君を信じたいんだ」
「疑っているわけではないんだ。だが…判断するには私は君の事を知らな過ぎる」
「だから。私は君の話を聞きたい。ご相伴に預かってもらいたいのは、そう言う理由もあるんだよ。新君」
「刃さん…」
「ご馳走させて、もらえるかな?」
「―そう言う事なら、喜んで」
俺は刃さんの申し出を受けながら、ある決意を固めていた。

娘自慢をされたり。俺と恋の学校での様子を話したりなどする内に瞬く間に時は過ぎ。
夕食と言う名の宴は終り。
藍さんの、巧く話せないなりの懸命な引き止めをやんわりと断り。
刃さんがタクシーを呼ぼうか、と言ってくれたがそれも遠慮して。
帰途に着くため明かりの灯る草薙家の庭を歩いていると、後ろから声が。
「待ちなさい。この家の人間として、見送り位はするわ。…他意は、無いわよ」
「解ってる」
「…返事は聞いてないわ」<わかってないわよ…>解ってるんだよ。
「行くか」恋は黙って頷き。俺達は門へ向かって歩きだす。
手に、暖かい感触。どちらから言い出すでもなく、俺達は手を繋いでいた。
<門に着かなければ良いのに…>
恋の切なげな『声』。
全くもって、同感だったが、何にでも終りは来るのは当然の事で。
数分の後、俺達は門に辿り着いていた。
「…着いたわね。じゃあまた、ね」
「…恋」
「何?」
「さっきみたいに刃さんに話すなんて事は考えて無いしこの関係を続けるのにも異論は無いが…」
「だから、なに?歯切れの悪い言い方は止めて欲しいのだけど」
「いつかは終らせなきゃならない関係なんだってことは…解ってるよな?」
「今更、何を言うんだか…。そんな事、百も承知よ…解ってる…解ってるに…決まってるわ…」
「ならいい。俺達はやむなく恋人ゴッコを続けているだけなんだからな。」
「…そうね」
<出来れば…このままでいたいよ…本当に付き合えたら、話は別なのに…>
「まあ、なんだ。取り返しのつく内に、取り繕う事が出来てるうちに…決着は着けてくれよ」

「…どう言う事?」
「…こんな紛い物の関係…何れは無理が出るって事さ。嘘は最後までつき通した上で、終らせよう」
「それが、嘘をついた人間の義務だ。嘘が嘘だとバレて、誰かを不幸にしないうちに、な」
「言ってる事は分かるわ。だけど…そんな急に、そんな簡単にバレはしないと思うわ」
「そうか?疑う奴に、例えば―」
「…!!!!!」<顔、近い…。新君…何を…>混乱する恋。彼女の顔に優しく両手を沿え、顔に近づけたのだ。
「これ以上はしないが、こんな風にキスの1つでもしろ、だなんて言われて出来るのか?出来ないだろう?」
顔を真っ赤にして口をパクパクとさせる恋。
「…悪い。ちとやりすぎた。…じゃあな」俺は踵を返す。直後、再び背後から声が。
「―新君」
「何だ―」振り向き、その刹那。
「ん…」
唇に、軟らかい感触。歯と歯が当って、少し痛かった。
何…だ?恋が俺と…キスを?
女の子特有の、甘い香り。
拙い…何も、考えられない。クラクラ、する。
数時間にも感じられる―実際は数秒に満たなかったのだろうが―時間が経った後、漸く唇が離れる。
「ど…どう?私はキス、くらい、出来る、もの」<貴方に…なら>
「この程度の、こと、出来ないとでも思ってたの、かしら?馬鹿…ね」
「お、お前…」
「だ、だから。ああ貴方はそんな心配はしなくて良いの。―それじゃ」
今度は恋が踵を返し、走り去って行った。
俺は放心していて、そんな彼女に一言も声をかけられず。
そのまま暫くの間、俺は。
案山子のように、バカみたいに突っ立っている事しか出来なかった。


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