ツンデレと海(その6)
ツンデレに日焼け止めクリームを塗ってあげようかって言ったら

 あとに残されたのは、何となく気まずい空気の別府君と私の二人だけ。私は何となく、
フミちゃん達が帰って来ないかなーと思って辺りをキョロキョロと見回したが、二人の姿
らしきものはまだ見えなかった。
「あの……どうする?」
 しばしの沈黙は、別府君によって破られた。
「どうするって……な、何を?」
 もちろん、聞かれた事が何なのか、分からないほど私はバカではない。けれど、あえて
その事を自分から持ち出すのが、私にはひどく躊躇われた。
 別府君は、困ったように襟足を手で掻きながら、言いにくそうに私の問いに答える。
「いや。だから、その……日焼け止めの事だけど……」
 うつむき加減の顔を僅かに上げて私は、別府君の顔を窺い見た。ほんの一瞬、視線と視
線が合う。が、別府君の方がすぐに視線をずらしてしまう。驚いた事に、彼は、少し恥ず
かしがっているようにも見えた。
――一応、こんな私でも……異性として、意識して貰えてるんだ……
 そう思うと、嬉しさで胸がドキドキする。けれど、それだからこそ、臆病な私は、逆に
小さく首を振った。
「……いいよ……自分で塗るから……」
 そう断ると、別府君はパッと顔を明るくさせて軽く笑い声を上げた。
「ハハハハハ…… やっぱそうだよな、普通。いや、千佳が変な事言ってゴメン。アイツ、
何か変に絡んじゃってさあ……」
 その笑いの軽い響きに、何だか残念そうな、でもある意味ホッとしたような、複雑な感
情が入り混じっているように私は感じた。
――別府君自身は……どうだったんだろう……?
 フッ、と頭の中に湧いた疑問。友田さんの頼みは、彼にとっては迷惑だったのか、それ
とも、やってみたかったのか、そのどっちでもなく、どうでも良い事だったのか。
――知りたい……別府君の……本当の気持ちが……
 その想いが、フッと、自然に口をついて出てしまった。
「別府君は、ど、どうだったの? その……わ、私に……塗ってみたかったりとか……思った?」
 自分の言葉に、自分自身が一番驚いて、私はパッ、と口を押さえる。だけど、発してし
まった言葉は取り消しが聞かない。あうあうと口を動かしつつ、私は何とか上手い言い訳
を言おうとしたが、それすらも思い浮かばなかった。
 別府君も驚いたようで、しばし呆然とこっちを見ていた。そのまま二人の間に沈黙が流れる。
「……ごめんなさい。変な事聞いちゃって……忘れて――」
 小さな声で私は、答えを求めるのを拒否しようとした。しかし、その声に被さるように、
別府君は、たどたどしくもはっきりと、答えを返してきた。
「まあ、その……そうかな? うん。きっと、少しはそう思ったと思う……一応、俺も男だし……」
 ドキーン、と彼の言葉が胸を穿つ。
――ウソ? ウソ……? 触ってみたかったんだ…… 触って……みたかったんだ…… 
わわわ、私なんかでも……
 カアアアアッと私の中が熱を帯びる。嬉しさと恥ずかしさで心が弾けそうだったが、こ
んな事で喜んじゃうような女の子だと思われたくなくて、わたしは敢えて彼を睨みつける
と、厳しい言葉を言ってしまう。
「べ、別府君の……スケベ……」
 別府君の顔が一瞬凍りつく。それから彼は、私に対して不満そうな顔をして文句を言い始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。汚ねーだろ、それは。誘導尋問じゃねーかっ!!」
「だだ、だってその……変な事考えてないかどうか気になったから…… それに、文句言
える立場じゃないでしょ? 本当の事なんだし……」
「違うって。つか、ごまかしても良かったけど、それじゃあ逆に失礼かなって思ったから、
だからその……」
「い、言い訳はなし!! あと、傍に寄って来ないで。お願いだから」
 その一言が止めになったのか、別府君は口を開いたまま絶句した。それから、私からよ
ろよろと離れると、つまらなさそうにしゃがみ込んだ。
「んだよ……いくらなんでも、それだけでスケベってコトはなくね? 俺だって、それな
りに一応考えて言ったってのに……」
 いじけてしまった別府君に対し、私は心の中で謝罪した。けれども、落ち込んだ別府君
なんて余り見れないから、それはそれで、何か可愛いな、とかいけないことを考えてしまったり。
 私は、友田さんが置いて行ってくれたクリームを手に取ると、まずは試しに、とちょっ
と腕に塗ってみる。それから、本格的に体中へとペタペタ塗り始めた。
――こんな事くらいなら……一人で、十分よね……
 両腕、体の前半分と塗りつつ私は思った。が、どうやらそんなに甘くはないようで、お
なかまで塗り終わって、背中に手を回した途端、現実の厳しさが圧し掛かって来た。
――と……届かない……
 右腕でも、左腕でも、手の平は背中の真ん中辺りまでしか届かない。それでも無理矢理
塗ろうとしたら、脇から背中に伸びる筋がビキン、と張った。
「いたっ!!」
 痛めた脇の辺りを押さえて顔を顰める。と、その声を聞きつけて別府君がこっちを見た。
「委員長、どうかした?」
「え? う、ううん……その、な、何でもない!!」
 愛想笑いを浮かべつつ私はごまかした。とは言うものの、脇を押さえた私の格好はかな
り滑稽に見えること間違いなしだ。
 しかし、別府君はそれには一言も触れず、ふーん、といった感じで聞き流すと、気を取
り直したかのように明るい感じで聞いてきた。
「で、どう? 日焼け止めは塗れた?」
 しかし、今まさに悪戦苦闘中の私にとっては、その質問は結構痛い。
「え? えーと、その、あの……」
 大体は、と言おうと思ったのに、なぜかその言葉は口の中で消えた。というか、お世辞
にも上手に塗れたと言える状況ではない。一瞬ふと、別府君にお願いしたら、という思い
が浮かんでしまい、それが私からごまかしの言葉を消し去ってしまった。とはいえ、今更、
そんなお願いも出来るはずないのだけど。
「背中とか、結構難しいけどな。俺も前に自分で塗ろうとして失敗してそこだけ酷く赤く
なっちゃったし」
 難しいなんてものじゃなく、未だに塗れてません、と私は内心で一人ごちた。どうしよ
うか、という葛藤が再び私の中に湧き起こる。
――やっぱり、別府君にお願いして……でで、で、でもでも……別府君にそんな、私の背
中を撫で回させるなんて…… けど、このままじゃ別府君の言うとおり、背中だけ真っ赤
になっちゃうかも知れないし……
「どうしたんだよ、委員長」
 無言の私に、別府君がやさしい声で聞いてくる。さっき、酷い事を言っちゃったのに、
と申し訳ない思いで胸がちょっと痛い。
「な……何でも……」
 と、言いかけて言葉が消える。ん?と、不思議そうな別府君に、私はうつむきながら小
さな声で言った。
「あ……あの……」
――やっぱり……彼にその……頼るしか……
 その想いが徐々に恥ずかしさに勝ってくる。仕方ない、仕方ないものね、と自分に言い
聞かせつつ。
「どうしたんだよ。さっきから何か、おかしいぜ?」
 夏の暑さのせいなのか。それとも、こんな大胆な水着を着ているせいなのかは分からな
いけれども、いつの間にか私は、別府君にどうお願いしようか、ということしか考えられ
なかった。普段の私なら、こんな勇気なんて出せないのに。
「えっと、その……や、やっぱり、背中って……難しいよね……」
 う……ついに言ってしまった。しかし、何か訳の分からない感情に後押しされて、私は
言葉を続けた。
「私、その……か、体……硬いから……上手く塗れなくて……」
 しかし、お願い、と言うにはまだ、勇気が足りなさ過ぎた。
「へえ、意外だな。委員長って体、柔らかさそうなのに。プニプニしてて」
「ちちち、違うわよ!! そ、そっちの柔らかさじゃなくて……」
「ゴメン。冗談だって。分かってるよ」
 アハハハハ、と愉快そうに笑う別府君に、私はムーッとしかめっ面をする。
「酷いわよ。私はその……苦労してるのに……」
 文句を言うと別府君はいたずらっ子みたいな顔つきで、得意そうに言った。
「さっきスケベって言われたからな。その仕返し。うん。これでお互い酷い事言ったから、
 おあいこだよな」
「わ、私のは、その……ホントの事だもの……」
「俺のも本当の事ではあるよ。委員長って触ると柔らかそうだなって」
「う……ほ、ほら。やっぱり、スケベじゃない……」
 ちぇっ、と別府君は不満そうな顔をする。けれど、もう落ち込んだ様子はなかったので、
私はクスッと忍び笑いを漏らした。別府君も私に笑い返す。それから、コホン、と一つ咳
払いをすると、笑いを収めて私に聞いてきた。
「で、どうする? もし、委員長が、その……嫌じゃなかったら……背中だけでも、塗ろうか?」
 別府君から言ってくれたことで、何だかホッとしたような気持ちになった。今のやり取
りで大分気持ちがほぐれていたが、それでも私からいざ、お願いするとなるとなかなか言
葉が出なさそうだったから。
 私は、別府君の方を向くと、小さく頷いた。
「あ、あの……それじゃあ、お願い……」
 ヤバイ。顔から火が出るくらいに熱い。この夏の日差しなんて目じゃないくらいにカッ
カとしてる。
「オッケー」
 と、別府君が優しい笑顔を見せて言った。一応、私に気を使ってくれているのだろうか? 
そうだとしたら、ちょっと嬉しいかもしれない。
「じゃあ、ちょっとクリーム貸してくれる?」
 別府君が手を出してきたが、私は逆に手を引っ込めた。
「ちょ……ちょっと待ってくれる?」
「どうした? 何かまだ、まずい事でもある?」
 その質問には、私は首を横に振った。
「ううん。でも……その前に、その……まだ、塗ってないトコあるから、そっち先に塗るね」
 やっぱり、いざとなるとちょびっと怖くなってしまって、私はそう言った。実際、足と
かまだ全然塗ってなかった訳だけど。けれど、何となく逃げた気分になってしまったのは、
自分にそういう気持ちがあったからだと思う。
「あ……ゴメン。ちょっと焦りすぎだな、俺……」
 別府君が恥ずかしそうに謝ってきた。別に謝る事なんてないのに。私の勝手な都合で断
ったりお願いしたり、また後回しにしたりと、散々振り回しているんだから。けれど、怒
りもせずに付き合ってくれるのは優しいな、とも思ってしまう。時々からかってくるのが
玉にキズだけど。
 私は、手にクリームを乗せると、左足からクリームを付けて丹念に伸ばす。と、その様
子を別府君が見ているのに気づき、何だか急に恥ずかしくなった。
「あ……あの……」
「何?」
「あまり、その……ジロジロと、見ないでくれる……?」
 言ってしまってから、また私は後悔する。そんなに見つめられていた訳でもなくて、た
だ何となしに私のしている事を眺めていただけだと思う。
 けれども、普段見せない素足を太ももの付け根まで晒して見せているかと思うと、私の
方が恥ずかしさに耐えられなかったのだ。それを彼のせいにしてしまったのは、卑怯とし
か言い様が無いけれど、かと言って一度言った事を取り消すだけの勇気も全く持てなかった。
 案の定、別府君は恥ずかしそうに慌てて視線を私の脚から逸らす。
「ご、ごめん。そんなにジロジロと見ていたつもりはないんだけど……」
「嘘。み、見てたもん……」
 段々と引っ込みが付かなくなって、私はちょっと彼を睨みつけて見せた。別府君は
ちょっと難しい顔をしていたが、やがて顔を上げると、意外な事に私の方に微笑みかけてきた。
「委員長がそう言うなら、きっと無意識のうちにそうなっていたんだろうな。だって、委
 員長の素足、すごく綺麗だし」
「!!!!!」
 さらっと、とんでもない事を言われて、私は驚きのあまり絶句し、背筋をビクンと伸ばした。
――はわわわわわ……どうしようどうしよう…… ききき、綺麗だとか、そそそ、そんな、
   そんな……ウソウソウソッッッ!!!!
 これがもし、自分の部屋でいつものように妄想しているだけだったら、私はそれだけで
もベッドから転げ落ちて部屋中をゴロゴロ転がっていたかもしれない。しかし、ここは海
水浴場で、周りには人がいて、しかも、言ったのは別府君本人で……
 激しい動悸を押しとどめようと息を殺すが、呼吸が荒くなるのだけは抑えようもない。
――嘘だ。今のは、どうせまたきっと、別府君が私をからかっていってるだけ。うん、そ
   うだ。きっとそう。そうに決まってる……
 そうやって、心の中で自分に一生懸命にそう言い聞かせる事で、私は辛うじて自制しよ
うとした。それは少し効果があったらしく、胸の動悸が徐々に治まってくる。
「て……適当な褒め言葉で、その……ごまかそうとしないでよね。私の脚なんて、別に綺
麗でも何でもないもの。そんなの……じ、自分が一番良く知ってるから……」
 私は、さっきよりも鋭く別府君を睨みつけた。でも、別府君はそんなの意に介した様子
も無く、相変わらずニコニコと笑顔を見せている。
「委員長は何でも控えめだからな。まあ、確かにちょっと肉付きがいいのは否定しないけ
 ど、いわゆる太り気味とは全然違うし。綺麗……つーのかな? とにかく、何ていうか俺
 の好みなだけなのかもしれないけど、つい目を奪われがちになるんだよな」
「ほら……そんなにいろいろと言うなんて……やっぱり、じっと見てたんじゃない。エッチ……」
「確かに。まあ、ご存知の通り俺はスケベだし。つっても、健康的な高校生男子の域を超
えてはいないと思うけどな。やっぱり、水着の女の子がいれば、胸やお尻のどうしても目
が行くね。委員長みたいな可愛い子なら、なおさらだ」
 また可愛いって言った。騙されちゃダメ。私は更に自分にそう言い聞かせ、ともすれば
押し流されそうな自分に喝を入れる。
「ひ、開き直らないでよね。それに、私は全然可愛くなんてないから、そんな、心にも無
 い事言わないでよ……」
 言ってて、ちょっとだけ自分が悲しくなる。けれど、別府君は全く怯む様子は見せなか
った。
「そんな事無いって。委員長は控えめな性格だからな。絶対に自分をひけらかしたりはし
 ないけど。男の目から見たら十分にいけると思うぜ」
――うう……いっそ、別府君の言葉に押し流されて、甘える事が出来たら……
 甘美な誘惑が目の前をちらつく。しかし、私はその想いを何とか締め出して言った。
「……別府君は嘘つきだもの。すぐに私を騙すから、信用出来ない」
 私の言葉に、別府君は不満そうな顔つきをする。
「ちょっと待ってくれよ。俺がいつ嘘付いたって言うんだよ。俺が委員長を騙すなんて、
 そんな訳ないだろ?」
「これ」
 私はちょっとだけ自分の水着を引っ張って言った。さすがに別府君もしまった、という
顔をする。
「ちゃんと打ち合わせまでしたのに……結局、友田さんの言うなりだもの。肝心な所で裏
 切るなんて、信じられない」
「そ、それは…… まあ、確かにそうだけど……けどさ……」
 さすがに別府君もちょっと言いにくそうに口を濁らせた。あの時の事を思い出したせい
か、私はさらに面白く無さそうな顔で彼を睨みつける。
「けど、何? 何にしても、別府君が嘘つきだって事は変わりないと思うけど?」
 しかし、別府君は逆に、一度は逸らしかけた顔を真っ直ぐに私の方に向けて、自信満々に言った。
「俺が嘘つきなのは認めるよ。けどさ、あれは……委員長の、その水着姿が余りにも可愛
 かったからであって、今の俺の言った事は逆に証明されると思うんだけど?」
 うっ、と今度は私が言葉に詰まった。何か、初めて一本取ったと思ったのに、瞬時に取
り返されたような気がする。
「ううううう……」
 あの時のことをいくら思い返しても、もはや私にそれを否定すべき材料は見つからず、
私は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「だろ? 少なくとも、俺が委員長を可愛いって思ってることがホントだって事だけは認
 めてくれるよな」
「あ、あれは……最後の最後で、別府君が……ス、スケベ心出しただけでしょ?」
「スケベ心ってのは、可愛い女の子相手じゃなきゃ起きないんだぜ?」
「あ……あううううう…………」
 もはや言うべき言葉もなく、私は恥ずかしさの余り、顔を膝に埋めて隠す事くらいしか
出来なかった。
「で、もう全部塗り終わった?」
 別府君が聞いてくる。私は、パッと顔を上げると、おずおずと頷いた。
「え? あ、う、うん……」
「よし。けど、どうする? 俺って結構スケベな奴だって判明しちゃったけど、まだ任せ
 られるか?」
 別府君の顔色を窺う限り、真剣に聞いているようではなく、からかい混じりなのが良く
分かる。私は不満そうに顔をしかめた。
「し……仕方ないじゃない……背に腹は変えられないんだし……」
「エッチなことするかもよ?」
 ドキィ!!と、激しく胸が高鳴り、私は真っ赤に染まった顔で、驚きの余り目を丸くした。
「じょじょじょじょじょ……冗談……い、言わないでよ…… ももも、もし……そんなこ
 としたら……」
「わりぃ。今のはホントに冗談。だからさ、そんなに顔真っ赤にして怒らないでくれるか? 
ちゃんと真面目に塗るから」
「うう……バ……バカァッ……」
 あっさりと受け流す別府君に、文句の一言も言いたかったが、言うべき言葉が何も見つ
からず、私は別府君に聞こえないくらいの小さな声で罵る事くらいしか出来なかった。
「よし。じゃあ、うつぶせに寝そべってくれる?」
「え? このまま、背中向けるだけじゃ……ダメなの?」
 別府君の指示を疑問に思って私は聞き返した。けれど、彼は頭を振って、それを否定する。
「確かに出来なくはないけど、寝そべってもらった方が塗りやすいし。後は……まあ、気
 分の問題かな?」
「何それ……? よく分かんない……」
「いいからいいから。さ、早く」
 不審そうな私に、別府君が軽く笑いかける。正直、何の気分なのかはさっぱりだったが、
とにかく、言う事に従わなければ日焼け止めは塗って貰えないのだ。
 結局、私は言われるがままに、ビニールシートの上にうつぶせに寝そべった。
――こ……このポーズ…… 何か、恥ずかしいよぉ……
 真っ直ぐに体を伸ばすと、背中からお尻、太ももから踝までのラインを全て晒す事にな
ってしまう。自分のスタイルにまるで自信がない私としては、別府君の視線に触れるのが
嫌で仕方なかった。
 両腕に顔を埋めて、私は恥ずかしさを堪える。そして、彼の手が背中に触れるのをドキ
ドキしながら待った。
――ううう……き、緊張するよぉ…… たかが、背中にクリームを塗ってもらうだけなのに……
 たかが、といえどされどである。ましてや相手は、私が内心密かに思い続けてきた人。
緊張するのは当然といえば当然である。もっとも、10代の性の乱れが問題視される中では、
私の方が希少価値なのかも知れないが。
 と、そこでふと、私は思った。
――で、でも……背中を触られるだけでこれじゃあ……万が一、万が一……あり得ないけ
   ど、もし……別府君と私が……その……する、直前とかなんて……心臓が……破裂するか
   も……って、う、うわあああああああ……ないないないっ!!!! ある訳無いじゃな
   い!! ななな、何を私は考えようと……や、やっぱり今日は、私、どこかおかしいよ……
 ジリジリしながら、私は別府君が始めてくれるのを待った。1秒1秒がやたら長く感じる。
「べ、別府君……あの……まだ……?」
 振り向かずに、声だけで私は別府君に確認を取る。
「わりっ!! すぐに始めるから」
 すぐ傍で別府君の声がする。しかし、それを確認しても、私は安心するどころか、ます
ます緊張を強めてしまう。
「は、早くしてくれる……? さっさと終わらせたいから……」
 ああ、もう、胸がドキドキし過ぎて息苦しい。このまま放置されっぱなしだと、呼吸困
難で死んでしまうかもしれない。
「ごめんごめん。じゃあ始めっか」
 別府君の言葉に私は、いよいよだ、と思う。同時に胸がドクン、と一際大きく鳴る。
――く、来る…………!!
 自分の体の上に何か、気配を感じて私はギュッと、唇を噛んだ。
 そして、次の瞬間、背中にピタッ、と何かが触れた。
「ひゃうっ!?」
 思わず、変な声を上げて私は背中を仰け反らせてしまった。
「ちょっ、どうしたんだよ?」
 慌てて手を引っ込めて、別府君が聞いてきた。
「ううん。何でもない何でもない!! いいから、その……続けて……」
 あれだけ心の準備をしておきながら、いざ触れられただけで奇声を上げてしまうなんて、
我ながら情けなくてしょうがないと思う。
「ったく……じゃあ、やるぞ」
「……うん……」
 私の返事を待ってから、再び別府君の手が私の背に触れて来た。指の先に付けたクリー
ムを背中に刷り込むように、少しずつ伸ばしていく。
――わ、私の背中を、別府君の手が……な、撫で回して……
 羞恥の余り、昏倒しそうである。今の私の体は多分、下の砂地よりも熱いと思う。
 肩の辺りから肩甲骨へ、そして脇の方へと手が動いていく。
――ま、待って……そのまま進んだら……やっ……
 脇の下にまで手が伸びるのでは無いかと思って私は身を硬くした。しかし、そこまでは
別府君の手は伸びず、ギリギリの所で手が離れると、今度はまた、背骨の辺りへと戻って
行った。
――はぅ……ドキドキするよぉ…… ど、どこまで触られるのかと思うと……
「こんな感じでいいか?」
 別府君の問いに、私は腕に埋めた顔を僅かに動かして、頷いてみせる。口の部分は腕で
覆い、声が漏れないようにしていた。
 別府君の手が徐々に下へと下がって行くのが分かる。今の私は全神経が背中に集中して
いる感じがする。手の平で撫で回されていると、それだけで全身がゾクゾクしてしまい、
口を塞いでいないと、思わず吐息を漏らしてしまいそうだった。
「あ、ちょ……ちょっと待って!!」
 別府君の手が腰の下の方へと進んだ時、私は慌てて作業を中断させた。
「どうした?」
 と、別府君が聞き返す。
「あ、あの……下の方は、さっき自分で塗ったから……」
 本当はまだ塗っていないのだけど、腰骨より下の位置はお尻に近いからあまり触られた
くは無かった。
「ああ、そうか。じゃあ、この辺くらいまででいいか」
 位置を確かめるように別府君の手が、ちょうど腰骨の上辺りを撫でる。
「う……うん……」
 頷きつつ、私は気持ちを落ち着かせる為にフゥ、と気づかれないように小さく息を吐いた。
「オッケー。あと少しで終わるから、もうちょっとだけ我慢しててくれよ」
 私は再び、腕に顔を埋めた。
――もう、終わっちゃうのか……
 そう思うと、今度は逆に、この時間が終わる事が惜しくてたまらなくなってきた。さっ
きまでは恥ずかしくてたまらなくて、早く終わって欲しいと思っていたのに、今はいつま
でも別府君に触っていて欲しい。その優しい手で背中だけでなく全身を撫で回して欲しい、
などと考えてしまう。
 別府君の手が、全体をならすように、背中全体を大きく撫でた。
――あ……お、終わっちゃう……
 その手つきで私は察した。この、短い至福の時の終焉を。
「よし、終了っ!!」
 さっ、と最後に上から下まで両手で包み込むように背中を撫でたその手が、合図をする
かのように軽くポン、とお尻を叩いた。
「ひゃああああああああっ!!!!!!!」
 反射的に思わず変な声を上げてしまった。
――へ……? い……今……叩かれた……よね? お尻……お尻……お尻を…………お、
   お尻ぃぃぃいいいいいっっっっ!!!!!!!
 一瞬真っ白になった頭。そしてその空っぽになった頭に、一気に感情の波が押し寄せて
来た。羞恥心、動揺、怒り、悲しみ、やるせなさ。いろんな感情が複雑に絡み合って、私
の全身を支配する。
 ガバアッ!!と、普段の私からは想像も付かないような瞬発力で私は体を起こすと、驚
いたようになぜか横を見ている別府君に、掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。それ
に気づいた別府君が私の方を向くと、その勢いに押されるが如く、彼がぺたんと尻餅を付く。
「ちょ、ちょっと待て、委員長、今のは……」
「今のはって? 何?」
 常にない激しさで問い掛ける私に、別府君が言葉に詰まる。その瞬間、プツン、と何か
が切れた。私は、鋭く彼を睨みつけると、怒涛の如く私は別府君を糾弾し始めた。
「な……ななななな……何するのよ!! い、いきなり人のお尻を叩くなんて信じられな
い!! いくら別府君だからって、その……断りも無くそんな事をするなんて!! バカッ!!
エッチ!! 卑怯者っ!!」
「ち、ちが……ちょ、ちょっと待ってくれ……」
 焦って弁解しようとする彼の言葉を遮り、私はさらに非難を続けた。
「何が違うって言うの? こんなひどい事して今更言い訳なんて、私、別府君をみそこなっ――」
 と、その時、突然横からトントン、と私は肩を叩かれた。
「えっ!?」
 私は驚いて、叩かれた方を向く。ここには私と別府君しかいないはずなのに。そんな疑
念は、振り向いた瞬間目の前に現れた顔に吹き飛ばされた。
「ばあっ!!」
「とっ……友田さん!?」
 私はびっくりして、立ち上がった。
「あっはははははは……い、委員長、面白すぎ……すっご……委員長でも……あんな風に
 怒るんだ……ははははは……あーっははは……おまけに今の顔……鳩が豆鉄砲食らったみ
 たい……写真に撮っとけば良かったあ……」
 げらげら笑う友田さんを私は睨みつけた。別府君以上に、今は彼女が憎らしく思える。
人がセクハラ紛いの事をされたのが、そんなに面白いのだろうか?
「わ、笑い事じゃないわよ…… 人がこんなに酷い目に遭わされたって言うのに。大体、
 友田さんだって……」
 真剣に怒って彼女に文句を言う。と、その時、私と彼女の間に別府君が割って入ると、
彼は友田さんに詰め寄った。
「笑い事じゃねーだろ!! 何とかしろよ!!お前のせいで俺が怒られてるんじゃねーか!!」
 どういうこと、と頭の中が真っ白になる。と、その時、友田さんが、両手を合わせて拝
むような仕草で私に謝ってきた。
「ゴメン、委員長!!」
「……え? な、何が……?」
「今の、その……あたしなんだ」
 そのまま両手を胸の辺りで組むと、悪戯っぽい、可愛らしい微笑を浮かべた。
 今の言葉の意味が理解できず、私は聞き返した。
「今のって、その……な、何が……」
「だから、委員長のお尻を叩いたの、あたし」
――――――!!!!!!!
 私の目が、驚きの余りこれでもかと言わんばかりに見開かれる。
「え? え…………?」
 何だか頭の中でいろんな事が絡まりすぎて言葉にならず、半ば呆然として私は口をパク
パクさせた。
「金魚?」
「ち……違うわよっ!!」
 友田さんのボケに思いっきり突っ込んで、ようやく私は声が出せるようになった。
「な……ななななな……なん……で、そそそそ……そんな……ていうか、いいいいい……
 いつから……」
 しかし、まだ驚きから覚めやらない私の頭はマトモな質問を吐き出せず、変な言葉の羅
列になってしまう。
「んーと、良く分かんないから日本語でしゃべってくれる?」
「うぐ……」
 事の元凶に言われて悔しさの余り私は呻いた。深呼吸を二、三度繰り返して頭の中をま
とめつつ、私は努めて冷静にもう一度彼女を問い詰めた。
「なな、な……何でこんな事したの? ていうかそもそも、何でこんな所にいるの? い
 つからここにいたの? 別府君のお兄さんを探しに行ったんじゃなかったの?」
「あー、はいはい。分かったからそう興奮しない」
 たしなめるように両手の平を私に向けて、彼女は言った。
「こ、興奮なんてしてない! 変な事言わないでよ!」
 やっとこさ、マトモに言葉が出せるようになったとはいえ、まだ興奮気味に私は文句を
言った。そんな私を見て、友田さんはニヤニヤと面白がっているような視線を向ける。
「してるわよ。もう発情したおサルさんみたく」
「失礼な事言わないで! そ、そんなことより、早くその……質問に答えてよ!」
 うーっ、と真っ赤な顔で睨みつけるが、彼女は一向に意に介した様子もなく、はぐらか
すように視線を逸らしたりしてみせる。
 と、そこに別府君が助け舟を入れてくれた。
「つーか、千佳。答えろよ。俺だってお前の被害者なんだからさ。さっさと釈明してくれ
 ないと、俺が困る」
「散々良い思いしたくせに」
「何が良い思いなんだよ?」
「えー。だって、委員長の背中、いっぱい触ってたじゃん。そんなの、日本中の男の子で
 もタカシだけだよ?」
「か、かんけーねーだろっ!! そもそも……お前が振ったんじゃねーかよ。 つか、い
 ーからさっさと答えろって」
 私と別府君、二人から詰め寄られて仕方無さそうに、友田さんはため息をつく。
「じゃ、まあいつからって言うとね、まあタカシは知ってるけど、委員長が寝そべった時
 から、っつった方がいいかな。それまではちょっと遠めから様子を窺ってたから」
 私は別府君を睨み付けた。
「やっぱり……グルだったんだ……」
「違うって。いきなり背後から口押さえられて、耳元で『あたしがいる事を言わないでよ。
 言ったら後でどうなるか分かるわよね?』って脅されたんだって」
「あら? あたしはお願いしただけで脅したつもりはないんだけどなー」
 涼しい顔で言ってるけど、どう考えても脅迫だと思う。
 フッ、とそこで私はある事に気づいた。
――と、言う事は、私が日焼け止めを別府君に塗って貰っている一部始終を友田さんに見
   られていた訳で…… ひゃ……ひゃああああああ!!!!!
 恥ずかしくて顔が熱を帯びる。同時にまた、覗き見をしていた友田さんにムラムラとし
た怒りが湧いた。
「嘘つけ。前に逆らった時の事、忘れてねーぞ」
「えー? あたしはよく覚えてないなあ」
 不満そうに睨みつける別府君を、友田さんは軽く流す。前の事を詳しく聞きたいとも
思ったけど、話がはぐらかされたら困るので、私は我慢する事にした。
「で、兄貴はどうしたんだよ? 探しに行ったんだろ?」
 別府君の問いに、友田さんはニッコリと笑って答える。
「よくよく考えたら、こっちの方が面白いかなーって思って。まあ、明兄は放っておいてもいいし」
「面白いって、そんな…… わ、私はその……見世物じゃないもの……」
「いやいや。委員長ほど見てて面白い女の子はそうはいないわよ。何たってこんな純情な
 子、今時なかなかいないもんねー」
「か……からかわないでよっ!!」
 カッとして私が怒っても、友田さんは一向に反省する様子も無い。何だか、もう問い詰
めるだけ無駄な気がするが、私はそれでも、最後の質問をした。
「じゃ……じゃあ……私のお尻を叩いたのは……?」
「あのタイミングなら、絶対タカシがやったと勘違いすると思って。いや、もう。ほんっ
 と、予想以上のリアクションだったわ、委員長。さいっこう!!」
 グイッと親指を突き立てて見せる友田さんに、私はさすがにカアッと頭に血が上った。
「ひどいっ!! バカ!! 最低!! 鬼っ!! 悪魔っ!!」
 もう、ありったけの暴言を思い浮かべて連呼するくらいしか私にはできなかった。その
勢いにちょっとだけ飲まれたのか、友田さんが片足を一歩だけ後ろに下げる。
「だよな。いくら何でもありゃ、やり過ぎだろ。俺だっていい迷惑だよ。痴漢扱いされるし」
 横からさりげなく被害者ぶって別府君が言った。私はキッと彼を睨みつけると、今度は
別府君に向かって喚きたてる。
「別府君だって同罪じゃない。知ってて言わなかったんだもの。それに、止めようと思え
 ば出来たはずでしょ?」
「いや。さすがにそこまでは想像が付かなかったし、出来りゃ止めてたよ。けど、まあ千
 佳がいることを言わなかったのは確かだな。ゴメン」
 別府君の方は意外と素直に頭を下げた。しかし、まだ収まりきらない私は、もう一度友
田さんの方を向く。
「と……とにかく、友田さんも、謝ってよ……」
 それで気が済む訳でもないが、とにかく決着を付けたくて、私は彼女に謝罪を要求した。
彼女が頭を下げて悪いという事を認めさせれば、少しは溜飲が下がるというものだ。
 しかし、友田さんは頷きつつも、一つだけ条件を突きつけてきた。
「分かった分かった。けど、その前に、一つだけ聞いていいかな?」
「何? 早く言って。答えるかどうかは別だけど、聞くだけならいいから」
 何だかずっと友田さんを睨み続けていたので、何だか涙目になってきた。私の答えに、
友田さんは、得たりとばかりにニコリ、と微笑んだ。
「さっきさー。タカシを問い詰めてる時『いくら別府君だからって、その……断りも無く
 そんな事をするなんて!!』って言ってたよね? それってどういう意味かなー?」
 その質問に、私は驚いて彼女から離れた。スッと怒りが引き、焦りと驚きが取って代わる。
「嘘……私……そんなコト言って……」
 ちらり、と別府君の方を見る。彼も釈然としていないようで、半ばポカンとしたまま、
友田さんの方を向いていた。
「あれ? 委員長、そんなこと……言ってたか?」
「言ってたわよ。千佳ちゃんイヤーは地獄耳なんだから、腹抱えて笑っていても、聞くこ
 とだけは逃さないんだからね?」
 私は、懸命に思い返してみた。別府君にお尻を触られたと思って、恥ずかしさと怒りが
ない交ぜになって文句を言ってた時……
 ――あ…………
 確かに、そんな事を口走ったかもしれない。その言葉って、冷静に聞くとどう考えても、
別府君だけを贔屓するような発言だ。
 みるみるうちに全身の血が沸騰した。そこに、友田さんがさらに追い打ちを掛けてきた。
「ねえ、ねえ。どういう意味? いくら別府君でも、ってコトはー、やっぱタカシは他の
 男の子とはちょっと違うってコト?」
 鋭く突っ込まれて、私の心臓がバクバクと音を立てて鳴り始めた。膝がガクガクと震えてくる。
「断りも無く、ってコトはさー」
 友田さんが、今度は逆に私を追い詰めるように近寄ってきて、囁くように言った。
「雰囲気次第では、触ってもいい、ってことよねー……」
 その言葉に、全身がゾクッと震えた。私は必死で、目をギュッと瞑ると、ブンブンと首
を横に振る。
「違う違う違う…… そんなんじゃ……そんなんじゃ……ないもの……」
 掠れたように小さな声で否定する私に、友田さんが更に問い詰めてきた。
「だったらさ……どういう意味なの? 教えてくれない?」
「知らない…… 私、知らないものっ!!」
 もう、限界だった。
 私はパッと身を翻すと、そのまま二人を置いて一目散に砂浜を海へと向かって駆け出し
た。そのままザブザブと水の中に入っていき、ザブン、と頭まで浸かる。
――私……いくら興奮してたとは言っても何てコトを…… ううううう……やっぱり、別
   府君も聞いて……やああああっっっっっ!!!!!
   恥ずかしい……恥ずかしいよぉぉぉおおおっっっっっ!!!!!!

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