・ お嬢様な妹がメイドに挑戦してみたら その17
・ 買い物編 その4

「なっ……何だよ、お前。どこから出て来やがったんだコラ」
 男の一人が兄に突っ掛かる。が、兄は臆する様子も無く試着室をビシッと指差して言った。
「あそこだ」
 ストレートに返されて男達は一瞬鼻白んだようだった。が、すぐに気を取り直すと二人
揃って兄にくっ付かんばかりに近付くと、ニヤニヤ笑って威嚇するような目付きで見つめた。
「フン。スカしてんじゃねーよ。で、何だ? カッコ付けて登場しやがってヒーローでも
気取ってんのか? ああ?」
 そんな脅しにも、兄は動じる様子も臆する様子も見せなかった。かといって相手のペー
スに乗せられるでもなく、いかにも堂々とした調子で相手をする。
「いや。ただ、あいつは俺のモンだからな。誰かに取られるとなったら黙っちゃいられねーよ」
 俺のモン――その言葉に、私は心臓が跳ね上がる程驚いた。
――お兄様の物……わたくしはお兄様の物……
 胸の動悸は最初の驚きから一向に治まらず、身体も火が付いたように熱くなっている。
「は? 何言ってんだよお前。偉そうにしやがって、保護者ぶってんじゃ……」
 一人の男がさらに突っ掛かろうとするのを、もう一人の男が止めた。
「おい。止めろよ。やべぇって」
「んだよ。うっせえなあ。俺ぁこういう人を舐めた態度取る奴はムカつくんだよ」
「バカ。聞いてなかったのかよ。この女を“俺のモン”っつったんだぜ。てことはよ……」
 ゴソゴソと耳打ちすると、突っ掛かっていた方の男も、やっと事実を飲み込んだらしい。
「ちっ……い、行くぞ」
「ああ」
 小声でそう言い合うと、兄には視線も合わせようとせずにこそこそと去って行った。
 しかし、私はそうしたやり取りは一切聞いておらず、視界にも入っていなかった。兄に、
俺のモノだと言われたその事が、私の気持ちを昇天させてしまっていたのだ。
「おい、理奈」
『い、いやですわそんな……いくら、ご主人様のモノだからといって……わ、わたくしは
あくまで今日だけですのよ…… で、でも今日だけでしたら……み、身も心も……あうう
ううう……』
「理奈」

 強い口調で兄に呼び掛けられて、私はハッと我に返った。キョロキョロと周りを見て、
ここがカジュアルウェアのショップの店内である事に気付く。それから、私は兄がジッと
私を見つめている事に気付いた。
『なっ……何ですのご主人様』
「終わったぞ。というか、何を一人でブツブツと呟いているんだ?」
 兄の言葉に、また身内がカアッと火を噴く。
――まさか……言葉に出ていたの? わたくしの想いが……
 あれを兄に聞かれたらお終いだ。私はくじけそうな気持ちを奮い立たせて兄をキッと睨
み付けた。
『ご主人様!!』
「な、何だ? 理奈。怖い顔して……」
『ご主人様。よもやわたくしの独り言をこっそり盗み聞きなどしてはおりませんわよね。
そのようなはしたない事をなさるようでは、別府家の時期当主として失格ですわ』
 何とか強気な口調のまま、私は兄に問い質す事が出来た。後は兄の答えを待つだけ。顎
を上げ、キッと兄を睨み付けるが、その実、膝が小刻みに震えるのを止める事は出来なかった。
「別に盗み聞きなんてしてねーよ。お前が自分でブツブツと言ってただけだろ?」
 やっぱり……聞かれてた?
 そう思った瞬間、羞恥心が全身を支配し、自分を支えていた矜持が崩れるのを感じた。
――もうダメですわ…… わたくし……身も心もお兄様の物に……
「まあ、何言ってるのかまではさすがに聞き取れなかったけどな」
『え――!?』
 兄の言葉に、私はもう一度、違う意味で呆然とした。失われた矜持がみるみるうちに復
活する。と、同時に拍子抜けした気分から、反転して一気に怒りへと転じた。
『あ、あ、あ……当たり前ですわっ!! というか、常識を持つお方なら、敢えて聞こう
となさらないものです。独り言を聞いたというだけでも、充分に失礼ですわ』
 つい、思っている以上に強い口調で私は文句を言ってしまった。何だろう? 動揺を押
し隠すためだけではない。どことなく残念なような…… いや。そんな事、あるはずがな
い、と私は思い直した。
「意味が聞き取れた訳じゃねーんだからそう怒るなよな。それに、お前が勝手に独り言言っ
てんだから、聞くなっつったって限度があるだろうが」

 兄が反論したものだから、私は逆に、カッとなってムキになってしまった。
『物理的な問題ではありませんわ。紳士としての態度の問題です。ご主人様にはそこら辺
の資質が欠けているとしか思えませんわ』
 鋭い目線で兄を見つめ、舌鋒を振るう私を前にして、兄は小さくため息をついた。
「全く……せっかく助けてやったってのに、何でこんなに文句を言われるんだか」
『誰が誰に助けられたと仰いますの? くだらない事で誤魔化そうとなさらないで下さい』
「お前、もう忘れたのか? さっきチャラチャラした格好の男二人に絡まれてたじゃねー
か。俺が顔出さなかったらお前、そのまま連れてかれてたろ」
 呆れたような口調で兄に言われ、私ははたと考え、そして思い出した。そうだった。兄
に独り言を聞かれた方に心を奪われて、その直前の記憶がずっぽり抜け落ちていた事に今
更ながらに気付く。
『あ……あんな二人組。いざとなればわたくしの護身術で何とかなりましたわ。大体、助
けたと仰っても、別府家の威光を盾にしての事ではありませんの。褒められたものではあ
りませんわ』
「一番効率のいい方法を取っただけだ。文句言われる筋合いはねえ。大体、若い娘がすぐ
に暴力に訴えようとすんな」
『暴力ではありませんわ。護身術も立派な体術です。それにその……どういうおつもりで
あのような事を仰ったんですの?』
「あのような事?」
『あれですわ。あれ!! その……わっ、わたくしは、ごごご、ご主人様のモノになった
おつもりはございません!!』
 勢いに任せて兄を非難しているうちに、私はつい余計な事まで口走ってしまった。口に
出してからハッと気付いて真っ赤になる。しかしもう、言ってしまった以上は引っ込みが
付かず、私はただ、ウーッと潤んだ目線で兄を睨みつけるしかなかった。
「ああ。あれね。まあ確かにメイドをモノ扱いとは我ながら酷い言い草だとは思ったけど
さ。けどまあ、一番分かり易いし、その方が偉そうっぽいかなーって思ってな」
 兄の言いたい事は、私にも十分理解できた。確かに、あの時の兄はとても威厳があって
堂々としていて、見ていて惚れ惚れとしてしまうくらいだった。しかし、今はそれを認め
る訳にはいかなかった。その瞬間、私の心は折れ、兄に依存する弱い妹の姿を曝け出して
しまうだろう。だからここは、無理矢理にでもしっかり反論しておかなければ。

『だっ……だからと言ってその……確かにわたくしは、今日一日、お兄様の為に働くとは
言いましたけど……おっ……お兄様のモノになったつもりはありません!!』
 そう叫ぶと、兄にジロリ、と見つめられた。私は何かまずい事を言ったのだろうか? 今
の言葉を反芻してみて、それからハッと気が付いた。そうだった。うっかりお兄様、と口
走ってしまった。ご主人様と呼ぶようしっかりと指示されていたと言うのに。
 怒られる? そう思った瞬間、兄は私の頭にポン、と手を置いて言った。
「わかったわかった。謝っておくから機嫌直せ。な?」
『あっ……頭撫でながらそんな事言われても説得力ありませんわ!!』
 思わず、兄の頭を手で払って拒絶してしまった。滅多に見せてくれない兄の優しさはす
ごく嬉しいのだが、頭を撫でられるというのは何だか子供扱いされたような気分にさせら
れる。そうではなく、もっとこう……肩を抱くとか、いっそ腰に手を回して抱き締めても
らうとか、その方がずっとずっと良かった。
 しかし、私の気持ちなどつゆ知らず、兄は鼻でため息をついただけだった。
「やれやれ……ホント、お前って何言っても怒るよな」
『お……ご、ご主人様が怒るような事ばかりなさるからです。もう少し、わたくしの事も
考えて下さい』
 兄はジッと私を見つめたまま、一言も返事をしなかった。そんな兄の様子に私は不安を
覚える。
 怒ったのだろうか? 呆れたのだろうか? 
 いずれにしろ、気分を害してしまった事は間違いないのだろう。それに、本当なら助け
て貰ったのは私の方だ。なのに礼の一つも言わず、兄の謝罪にも偉そうな態度で突っ撥ね
てしまった。いくら兄妹とはいえ、嫌われても何の不思議もない。しかも、今更ここで謝
る事は私の矜持の問題で出来るはずもなかった。
「で、理奈」
 そのままの視線で声を掛けられたものだから、私はビクッと体を震わせた。
 来るのか? ついにお叱りの言葉が。思えば、炊事といい掃除といい兄には叱られてば
かりだった。ここでいい所を見せなくてはいけないのに、また怒られるのか。
 けれど、黙って頭を下げるのはやっぱり私には出来ない相談だった。キッと顔を上げ、
私は兄の顔を見返した。
『何ですの? ご主人様』

「この格好、どうだ?」
『は?』
 不意を突かれて私はポカン、と口を開け、間の抜けた声を出した。すると兄は更に眉を
顰めた。
「は?じゃねえだろ? この服、お前がコーディネートしたんじゃねーか。だからわざわ
ざ試着してこうして聞いてるんだから、答える義務があんだろーが。別にお世辞で言う必
要はねーから、はっきり言ってくれていいぞ」
 しばし兄の言葉を頭の中で反芻する。そういえば、そうだった。あまりにもいろんな事
があって(レス数も大分進んだし)すっかり頭から抜け落ちていたが、兄の今の格好は私
が選んだ服装だった。
 私はしげしげと兄を見つめ直した。兄はどんな格好でもよく似合うし、正直全裸……い
や、何でもない。とにかく、兄に似合わない服装などないとは思っているが、やはり自分
で選んだ服は格別に格好良かった。
「……正直、黙ってられるとわかんねーんだけど。つか、特に感想ないんならもう着替えるぞ」
『ちょ、ちょっとお待ち下さいませ!!』
 私は慌てて制止した。もっとずっと、私の選んだ服を兄に着ていて欲しかったのにさっ
さと脱がれてしまっては困る。
『ご主人様はせっかち過ぎますわ。そんなパッと見で感想など言えませんわ』
「早くしろよな。無駄なことに時間使っちまったし、この後もいろいろ回るんだからよ」
 ため息交じりの兄の言葉にもお構い無しに、私は兄の服装を……というか、兄そのもの
をもう一度、じっくりと見つめた。こんな風に兄を見つめられる時間など滅多に無い。む
しろ初めてと言ってもいいだろう。この機会は存分に堪能しなければ。
「おい。理奈」
『な、何ですの? ご主人様』
 夢中になって兄を眺めていたら、いきなり声が掛かり私は驚いてしまった。
『きゅ……急に声を掛けないで下さいませ。女性に対して失礼ですわ』
 心臓をドキドキさせながら、私は兄を睨みつけた。と、その顔が随分と近い事に気が付
く。
『なっ……何でこんなに近くまで寄ってるんですの!? ご主人様の変態!!』

「あほうっ!! お前が自分で近くまで寄ってきたんだろーが!!」
 兄に罵り返されて、私ははたと言葉を失った。どう考えてみても、兄の観察に夢中になっ
た私が、無作法にも近寄ったとしか思えない。
「全く……こんな近くまで寄って、何を見ているのか問い質そうとしたら俺の方が変態扱
いかよ。大体、気付かないほど夢中になってる方が異常だろうが」
 私は、恥ずかしさをごまかそうと兄を睨みつけた。しかし、言い換えそうにも頭が混乱
して上手い言葉が思いつかない。やっとの事で私は、ごまかしの言葉を発した。
『ふ……服装の細かいところをチェックしていただけですわ。遠目からだと良く確認でき
ないので、つい傍に寄ってしまっただけです。べ、別にわたくしだって、ご主人様に近寄
りたくて近寄ったわけではありませんわ』
 自分で言いつつも、何か無理矢理なこじつけにしか聞こえなかった。だが、おかしいと
思われようと、自分が兄に見とれてフラフラと近寄ってしまった事がバレなければそれでいい。
 兄は、睨みつける私を見て、呆れたようにため息をついた。
「で、どうなんだ? これだけじっくり眺めればもう十分だろ」
 兄に催促され、いよいよ私は覚悟を決めざるを得なかった。心の中で、そっと予行演習をする。
――とても良くお似合いですわ。ご主人様……
 何度かその言葉を繰り返し、心臓の部分を押さえてそっと深呼吸をする。兄が苛立って
いるのは分かるが、私だって勇気が必要なのだ。
 意を決して、私は口を開いた。
『と……取り敢えず、その……ご主人様にしては、まあその……似合っていると言ってお
きますわ。でっ、でもそれは、その……けけけ、決してその、ご主人様がカッコいいから
という訳ではなくて、ですね。わたくしがご主人様に合う服を選んだからであって……でっ、
ですから……大したことのない素材でも、服装次第ではいくらでもカッコ良く見えるというか……』
「要するに、馬子にも衣装って事か?」
『そういう事ですわっ!! って……えっと……何か違うような……?』

 私は首を捻った。私だって馬子にも衣装の意味くらいは知っている。兄を褒めて喜んで
もらい、もしかしたらいい雰囲気に、という期待すらしていたはずだったのに、何故貶す
ような事になってしまったのだろう。
――マズイですわ。このままではお兄様が不機嫌になってしまわれますわ。何とかして褒
めて差し上げないと。
 だが、あれこれ考えても、想いが口をついては出て来なかった。
「まあいい。何にしても、自分が選んだ服の方が他よりは似合ってるって事でいいんだよな?」
 私があたふたとしている間に、兄の方がこの場を纏めてしまった。私はコクンと、頷く
と、落ち込んでいる事を悟られまいと顔を上げた。
『……当たり前ですわ。わ、わたくしが選んだ服ですもの。似合わないはずはありません。
少なくとも、普段よりはその……ずっとずっとかっ……カッコいい……ですわ……』
 咄嗟に出た一言に、私自身がビックリした。
――お兄様に……カッコいいって、言ってしまいましたわ……
 その事に、言ってから気付き、私は恥ずかしさのあまり狼狽した。何の事はない。あれ
これ悩むからこそ、恥ずかしさが増すのであって、こうやって自然に言えば問題はなかったのだ。
――お兄様は……どんな風に思われたのだろう……? 少しは喜んで頂けたのかしら?
 だが、兄の様子から喜んだ様子は微塵も感じられなかった。そうか、とだけ一言残して
兄は更衣室へと消えてしまった。
『何ですのあの態度は……わたくしがせっかく、渾身の思いで褒めて差し上げたと言うのに……』
 そこでふと、私は自分に置き換えて考えてみる事に気が付いた。自分が兄に容姿を褒め
られたらどんな態度を取るだろうかと。
――そうですわ。きっとお兄様も照れていらっしゃるのです。実の妹に褒められるのが気
恥ずかしいのですわ。ええ。きっとそうですもの。
 そう考えて私は人目もはばからず、頬が緩んでしまうのだった。


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