・お嬢様な妹がメイドに挑戦してみたら その2

「何だっ!! どうしたっ!!」
『どうなされましたっ!? お嬢様っ!!』
 兄が跳ね起きるのと同時に、瑛子が兄の寝室に飛び込んで来た。しかし私は、彼女には目もくれずに、兄の枕を手に取ると、それで力一杯に兄を叩き始めた。
「イテッ。イテエッ!! 何だ、このメイドはっ!!」
『お兄様のスケベッ!! 変態っ!! エロ魔人!! あああ、朝から一体、何て破廉恥な事を!!』
『お嬢様っ!! 落ち着いてください!! どうなすったんですか、一体』
 瑛子に後ろから羽交い絞めにされて、ようやく私は動きを止めた。ゼーハーと荒い息をしつつ、指で兄の下半身を指し示す。
『え、瑛子っ!! あああああ、あれを御覧なさいっ!!』
 私が布団を引き剥がした瞬間に見たもの。それは、兄の下半身……つまり、股間が、高々と屹立している姿だった。
『朝っぱらからあのような物をおっ立てて、不潔ですわっ!! 汚らわしいですわっ!! 元々ダメな兄とは思っていましたけど、まさかここまで堕ちているとは思いませんでしたわっ!!』
 再び暴れだそうとする私を、懸命に後ろから瑛子が抑えつける。
「ちょっと待て、理奈!! 話を聞け」
 ようやく状況を理解したのか、兄が鋭く私を制止するが、私はそれにも耳を貸さなかった。
『お兄様から聞く話などありません。この場で成敗して差し上げますわっ!!』
「いや、だからお前、絶対勘違いしてるって」
『何を勘違いしているとおっしゃるのですか? 男の人がそういう状態になっている時は、破廉恥な妄想をしている時だという事はわたくしだって知ってますわ。バカにしないで下さい!!』
「ほらみろ。どういう教わり方したのか知らないけどな!! 朝は違うの!! これは普通の生理現象なんだよ!!」
 兄の言葉に、私はピタリと動きを止めた。
『生理現象……?』
「そう。特にエッチなこととか考えなくても、男のモノってのは、朝は自然に立ってるものなの。別に毎日じゃないけど、とにかく俺だけじゃなくて男にとっては普通の事だから」
『ううう……嘘おっしゃい!! そんなごまかしをわたくしが信じるとでも――』
『本当ですよぉ。お嬢様』
 後ろからの間の抜けた声に、私は今度こそ凍りついた。

『お嬢様はそういう事の知識が薄いですから、ご存じないかも知れませんがぁ。私が起こしている時もよく立ってますもの』
『う……く……』
 私は体の芯から羞恥心で熱くなるのを感じた。男性にそんな生理現象があるなんて知りもしなかったのに、勝手に誤解をしてしまうなんて、不覚もいいところである。
 しかし、ここで引き下がる訳には行かなかった。私にも、プライドというものがある。
『コホン…… だ、男性一般は、その……そうかも知れませんけど、お兄様は違いますわっ!! 絶対にスケベな妄想をしていたか、夢を御覧になっていたに決まってます』
「証拠はあるのか、証拠はっ!!」
 兄が詰め寄ってきたが、私はツン、と顔を逸らした。
『証拠は……ありますわよ……』
 うっかりそう口走ってから、私は慌てて口実を探す。と、兄が寝惚けて瑛子の名前を言った事を思い出した。わたくしを瑛子と勘違いしたことは重々承知の上だが、ここは利用させてもらおう。
『お兄様……寝言で、瑛子の名前を口走ってましたわ。夢の中で彼女とエッチな事をしていたのではありませんの?』
「ち、違うって。あれはもう――」
『えええええっっっっっ!!!!! そそそ、そうなんですかあああっっっ!!!』
 兄の弁解は、私の背後で起こった叫び声にかき消された。
『そ、そんなあ。困りますよぉ。それは確かにその、私、もう26歳なのに、結婚どころかそのお相手すら見つからない状況ですし、その……貴志様はとてもカッコ良くていらして、私なんかではもったいないくらいですけどぉ、でもでも、私はその、あくまで別府家のメイドですし、そんな、貴志様はご長男でいらっしゃいますから、私はそんな申し出を受ける訳には……ああ、でもでも、もし貴志様がどうしても仰るのでしたら……私はその……いつでも部屋の鍵を開けて待ってますから……』
 何故か顔を真っ赤にして両手で頬を押さえながら、瑛子はブツブツと怪しげな事を呟いていた。と思うと、急に顔を上げて兄に詰め寄った。

『たたっ……貴志様っ!!』
「な、何? 瑛子さん……」
『貴志様はその……どんなのがお好みですか? 私……そのぉ……貴志様付きになってもう3年になるというのに、せっ……性的な意味での貴志様のお好みと言うのをまるで存じ上げてなくて……それで、その……貴志様のご期待に添えられるよう、精一杯努力しますから……ですから、あの……』
『えいっ!!』
 呆然とする兄の目の前で暴走する瑛子を私は両手で思いっきり突き飛ばした。不意を疲れて瑛子はそのままバランスを崩して、本棚におでこをゴチッとぶつける。
『いっっったあああああ〜〜〜〜〜〜〜〜…… ななな、何するんですかっ!! 頭割れたらどうするおつもりなんですかあっ!!』
 泣きそうな顔で額を押さえ、もう抗議する瑛子を私はキッと睨み付けた。
『バカな妄想をいつまでも延々と続けているからです!! 常識で考えなさい!! お兄様が貴女のような下賎な女の事など、考えもするはずありませんわっ!!』
『貴志様が私とのエッチな夢見てるって仰られたのはお嬢様じゃありませんかぁ…… 話が矛盾しておられますよぉ……』
 私はウッと言葉に詰まった。怒りに任せてうっかり余計な事を口走ってしまったようである。しかし、ここで反論すると更にボロが出そうなので、そのことについては完全無視を決め込もうと私は決めた。
『お兄様がスケベなのとお前が分不相応な妄想に耽るのは何の関係もありません。それよりお兄様!!』
「……何だ?」
 これだけ大騒ぎをして、まだ寝惚けているのだろうか? 半ば呆然としながら兄が答えた。
『と……とりあえず、お起きになられたのでしたら、さっさと身支度を整えてください。今のままの格好……髪はボサボサですし、格好もだらしないですし、とても見ておれませんわ』
「……その前に、一つ聞いていいか?」
『何ですの? わたくしは今日は忙しいのですから、手短にお願い致しますわ』
 すると兄は、私の事を頭の先からつま先までを眺め回してから、釈然としない面持ちで聞いてきた。
「何でお前……メイドの格好してんの?」

 私はスッと背筋を伸ばして兄の前に立った。この質問は予期していたもの……いや。元々は兄を起こしてビックリさせようと思っていたのだから予定通りである。ただ、ここに至るまでの過程が随分変わってしまったが。だから私は、落ち着いた心で静かに微笑を浮かべて答えた。
『わたくし……今日一日、メイドとしてお兄様のお世話をさせていただきます。宜しくお願い致しますわ』
 そして、呆然とする兄に対して、優雅に私はお辞儀をした。
「なん……っだ、そりゃ!? どういう風の吹き回しだ、おい。訳わかんねーぞ?」
 混乱する兄に、私はズイッと詰め寄った。
『お兄様……今日が何の日だかお忘れですの?』
「何の日って……今日は俺の誕生日だろ」
『よく覚えてらっしゃいますわね。そうですわ。一年で一番記念すべき……ではなく、歓迎出来ない日ですわ』
 危うく本音を漏らしそうになってしまい、私は慌てて言葉を言い換えた。うっかり聞かれやしなかっただろうかと心配になって兄の様子を窺うが、どうやらそんな些細な事は気付かなかったようで、私はホッと胸を撫で下ろした。
「で、それと俺の誕生日と何の関係が……ってもしかして、あれか? その……誕生日プレゼントに一日メイドとか……そういうヤツか?」
 一発で言い当てられて、私は見る間に顔を赤くした。普段は鈍感なくせに、どうしてこういう時だけは鋭いのだろう。
「いやー、そうかそうか。理奈にもそんな健気なところがあったとはな。何つーか、ちょっと感動したぜ」
『かっ……勘違いなさらないでください!! これは、その……お兄様ごときの誕生日プレゼントに、一銭たりとも、お金など掛けたくありませんでしたし、それに、その……どのみちお母様からは、家政を取り仕切るためにはメイドの仕事も覚えなければなりませんと言われておりますので、い、言わばその……ついでみたいなものですわ』
『イタタ……その、ついで、とやらの準備に一週間も付き合わされた私たちの身にもなって下さいよぉ…… それに、そのメイド服……自腹ですよね? お金掛けたくないとか言って……確かどこかのブランドにオーダーしたとかで、結構高かったはず……』

 後ろでバカメイドがごちゃごちゃと呟いているのをジロリ、とひと睨みすると彼女はビクッと肩を震わせて黙りこんだ。
『とっ……とにかく、そんな訳ですから、言わばお兄様は実験台みたいなものですわ。決してその……お兄様に一日でもお仕えしてお世話をして、お兄様に喜んで貰いたいとか、あわよくばいい雰囲気になりたいですとか、そんな事は微塵も考えておりませんわっ!!』
 ムキになって私は、思いつく限りの理由を並べ立てて本心を悟られないようにした。が、何故か兄はクスリと小さく笑った。
「まあ、何にしろサンキューな、理奈。いろいろ理由付けてるけど、毎年ちゃんとプレゼントを考えてくれて感謝してるよ」
 真正面からお礼を言われて、私は恥ずかしさで全身がカアッと熱くなった。その事を兄に悟られまいとして、私は精一杯強がって見せる。
『か……感謝するのは当然ですわっ!! 大体、その……私がお兄様ごときに本来、プレゼントを差し上げる事など有り得ませんけど、お兄様がキチンと理奈のお誕生日にプレゼントを下さるから、まあ、その、わたくしに届けられるプレゼントの数々からしてみれば、ほんの屑のようなものですけれど、それでも頂いたからには、上流階級の娘としては一応お返しをするのが礼儀ですから、あくまで社交辞令としてですわ。まさかそれでわたくしがお兄様に好意を持っているなどと、勘違いなさらないでくださいな』
『去年の誕生日に貴志様から頂いたはちみつくまさんのぬいぐるみをお部屋では肌身離さず抱いているのを知ってますよぉ。それに確か、お嬢様付きメイドの美衣ちゃんがお部屋のお掃除の時にちょっと触っただけで烈火の如くお怒りになられたそうじゃないです――きゃうっ!!』
 耳元でまた、性懲りもなく瑛子が余計な事を囁いたので、私は無言で彼女の足を思いっきり踏んづけた。
『いっ〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっったぁぁぁぁぁぁ!!!!!』
「どうかしたか? 瑛子」
 さすがに不審に思って兄が彼女に問い質した。私は何も言うなとばかりに踏んだ足に力を込める。
『!!!!! いっ……いえ、その……何でもありませんよぉ……気になさらないでください……グスッ……』

「そうか? 平気そうには見えないんだが。どこか体に不調があるなら休んでいてもいいぞ?」
『いっ……いえぞの……大丈夫ですし……私にはお嬢様の監視と言う役目が……イダッ……ありますから……』
 さすがはお兄様。メイドへの気遣いも忘れないとはお優しいですわ、と私は感心する思いで兄を見つめた。しかし同時に、兄に優しくされた瑛子は癪に障るので、最後にもう一押し、強く踏んでおく。
「ところで理奈。一つ聞いていいか?」
 どこか躊躇いがちに兄が聞いてきた。
『……何ですの、お兄様』
「その、俺の為に一日メイドをやろうというお前の心意気は大変嬉しいんだがな。お前……家事なんてやった事……あったか?」
 どこか不安そうな兄を、私はジロリと睨み付けた。
『一通り習ったことはありますわ。まあ、まだその……実際にやるのは今日が初めてですけれど……』
「初めてかよ、おい!! 大丈夫なのか?」
『ですからお兄様には実験台になっていただくと申し上げましたでしょう? まあ、ご心配はなさらないで結構よ。わたくしに掛かれば、家事の一つや二つ、ちょろいもんですわ』
「やべえ……急に不安になって来た……」
『わたくしのことが信用出来ないとおっしゃるの?』
「う…… いやその……瑛子、頼むな?」
『うう…… 正直逃げたいですけどぉ……貴志様のお願いじゃあ断れませんもの……頑張ります……』
『と言う訳でお兄様。本日はよろしくお願いいたしますね』
 エプロンの裾を摘まんで優雅にお辞儀をしてみせる。何となく兄のため息が聞こえたような気がした。
――お兄様……わたくしを全然信用してらっしゃらないのね。まあいいですわ。今日の夕方には、わたくしに感謝と信頼を勝ち取らせてみせますから。

 こうして、波乱万丈の一日が始まる。


前へ  / トップへ  / 次へ
inserted by FC2 system