●第2話
タカシとしては永遠に止まっていてくれてもかまわなかったが、無情にも時は動き出した。考えられる限り最悪の形で。
「かなみさん、おはようございます。ほら、御主人様も挨拶しないと」
「あ、かなみだ。やっほー! う〜タカシー、早くご飯ご飯ご飯〜! もーホント役に立たない召使いだよねタカシって!」
「……首輪……御主人様……召使い……。そっか。なるほどねー。ふふ、タカシもなかなかやるわね……ふふ、ふふふふふ……」
「……かなみ。お前の考えてることはよーく分かる。俺だってお前の立場ならそう考えただろう。だが聞いてくれ、それは誤解だ」
腹の底から響くような重低音で笑い続けるかなみに、タカシは必死の形相で弁明を試みた。
「ふ〜ん、誤解なんだ〜。じゃあこのとても可愛らしくて、半裸で、何故かあんたの服を悩ましげに着崩しているお二人はどちら様?」
極上の笑顔で尋ねるかなみ。
「えーと、その、信じられないかもしれないが、というか俺も信じてるわけではないんだが……」
「私はポチです、かなみさん」
「ボクはタマだよー! 撫でる? 撫でる?」
「……つまりその、そういうことらしいんだけど……」
「なるほどー、ポチとタマかー。そりゃ気づかなかったわ。うふふ、あはははは!」
「はは、はははは……」
「そんなわけあるかーーー!!! 一人になった途端に何をマニアックな設定で女二人もはべらしてんのよ、このエロガッパーーー!!!」
かなみの右が、タカシのこめかみを正確に打ち抜いた。
「はぁ? 従妹ぉ?」
「そう。従妹。家の都合でしばらくうちで預かることになってさ。さっきのはちょっとした冗談だ」
「先ほどは失礼しました。かなみさんのことはタカシさんからよく電話で聞いていました」
「そーそー。がさつでらんぼーな女の子だっていっつもボクに文句を……むぐぐ……」
気絶から回復して5分。二人の経歴をでっち上げたタカシはポチに言い含め、タマを食事で買収して口裏を合わせ、お隣のかなみの家にやってきていた。日曜日の今日中に、なんとしてもかなみを納得させなければならない。
「随分急な話ね。だいたい、なんであんたのベッドの上であんたの服着てたのよ?」
「俺も昨日聞いた話なんだ。服はその、何か輸送トラブルとかで荷物が届かなくてさ、仕方なく俺のを貸したんだよ」
「……ベッドの上にいた理由は?」
「いや、客間で寝てもらったんだけど、寒いからっていつの間にか潜り込んできてたんだ。こいつら海外生活が長かったから、そういうとこ大らかなんだよ」
脂汗を流しながら、次から次へとでまかせを並べるタカシと、その左右に座ってうんうんとうなずき続けるポチとタマ。そんな三人を、かなみがじーっと睨みつける。耐え難い沈黙が続いた。
「……ふう。そういうことなら早く言いなさいよね。びっくりしたじゃないの」
「え、信じるの? マジで?」
「何よそれ。信じちゃいけないわけ?」
「いやいや、そんなことありませんですよ? あーそうだ、そんなことよりお前の服を何着か貸してくれないか? いずれ買いに行くとして、それまで俺のじゃ可哀想だしさ」
「随分お優しいこと。まあいいわ、確かにタカシのじゃぶかぶかだもんね。じゃあ二人ともついてきて!」
かなみは立ち上がり、二人を自室へと案内した。
「タカシはついてこなくていいのよ! 入ったらぶっとばすからね!」
タカシの目前で、かなみの部屋のドアが音高く閉まった。部屋の中から、服を選ぶ三人の黄色い声が聞こえる。タカシははらはらしながら廊下を右往左往した。
「そういえば、まだ名前聞いてなかったね。なんていうの?」
「!! な、名前だとーーー!!」
「わ、びっくりしたあ。なに聞き耳立ててんのよ、いやらしいわね!」
かなみの非難の声もタカシには届かない。ポチ、タマで会話が成り立っていたから、名前のことを失念していたのだ。
「(タマ……タマ……)そ、そっちの小さい方がたまこ、珠子っていうんだ。な、珠子!」
「ん〜? そうそう。珠子だよ〜」
色とりどりの服に興味津々の“珠子”は、上の空でそう答えた。
「別にタカシに聞いた訳じゃないんだけど。まあいいわ、それであなたは?」
(ポチ……ポチ……ポチっとな……グロッキー、ボヤッキー……駄目だ、思いつかん!)
タカシが知恵熱で倒れそうになったそのとき、ポチが当然のように返事をした。
「申し遅れました。私はもとこ、素直の素に子供の子で素子です」
「へ? あ〜うん、素子だ素子。素子だった!」
「……あんたさっきから変よ? 何か隠してるんじゃないでしょうね?」
しまった、と思ったがもう遅い。かなみの足音が近づいてくる。今問いつめられたらもう騙し通せる自信はなかった。
「かなみ〜、これ胸のとこがすごくきついんだけど。もーちょっと大きいやつない?」
「かなみさん、私は上はぴったりなのですが、腰回りが随分余るみたいですね」
そんなタカシの窮地を救ったのは二人の声だった。いや、さらなる窮地に誘われたのかもしれないが。ドアの向こうのかなみから漏れる殺気がタカシにまで伝わってきた。
「も、もう入ってもいいか? いいよな? 開けるぞ、開けたぞ!」
中に入ると、サイズの合わない服と格闘する二人と、拳を握りしめて小刻みに震えているかなみがいた。
「あの、かなみ? あんまり気にすんなよ、お前は日本人としては実に平均的……より若干下だが、まあそんな見られないもんでもないし。こいつら欧米型のナイスバディと比べる方が間違ってるんだからさ」
タカシは懸命に慰めの言葉を紡いだが、その気持ちは残念ながらかなみには届かなかったようだ。
「……あ〜ん〜た〜ら〜!! 全員出てけーーー!!!」
何着か服をひっつかみ、三人は転げるようにしてかなみの部屋から飛び出した。
「ふ〜。こんなうまくいくとは思わなかったが、どうやらごまかせたみたいだな……」
自宅へ戻り、タカシはこたつで足を伸ばしてくつろいだ。その正面に素子が行儀よく、珠子がだらしなく座っている。
「しかし、君は素子って名前だったんだな。そっちの“珠子”は、ホントはなんて名前なの?」
「素子というのは、前の御主人様の名前です。捨て犬の私に添えられていた手紙に書いてあった名前を覚えていませんか?」
タカシの息が詰まる。その手紙のことは両親さえ知らないはずだった。
「もちろん、今はあなたが私の御主人様ですよ。私を飼ってもいいと認めてもらえるまで部屋に立てこもって下さったご恩は決して忘れません」
素子は微笑みながらタカシの隣に座り直し、そっと寄り添った。珠子も負けじと反対側に座り、タカシにしがみつく。
「む〜。ボクだってタカシに拾われたときのことくらい覚えてるよ! 動かないボクを、わんわん泣きながらタオルで一生懸命温めてくれたよね! まあそんなことしてもらわなくても大丈夫だったけど、ちょっとは感謝してるよ」
もう間違いなかった。常識を忘れ、直感のままにそれが真実だと受け入れるしかないようだ。
「お前たち……本当に……ポチとタマなんだな……」
タカシは二人をぎゅっと抱きしめた。
「……なあ、かなみ。晩飯おすそ分けしてくれたのはありがたいんだが、もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
何故か別府家の食卓で夕食を共にし、居間でゆったりとくつろぐかなみにタカシは声をかけた。いつ嘘がばれるか気が気ではないので、早く帰って欲しいというのが正直な気持ちだった。
「ああ、言ってなかったっけ? おばさんたちが帰ってくるまで、私この家で寝泊まりするから」
「な、なんだとーーー!!!」
「いくら従妹とはいえ、あんたの理性はまるっきりあてになんないから、私が監視してあげる。ちゃんと母さんたちの許可は取ってきたから安心して」
「なんて放任主義な御家庭だ……。いやそんなことより、俺の意志は無視かよ!」
「わーい、じゃあボクかなみと一緒に寝る〜!」
「かなみさんがいてくれると安心ですね。私たちは家事が一切できませんので。どうか御主……タカシさんの健康に気を遣ってあげて下さい」
「べ、別に私はそんなつもりじゃ……。まあそういうことなら任されてあげるけど、勘違いしないでよ! あくまでおばさんに頼まれたから仕方なくだからね!」
「俺の話を聞けーーー!!!」
タカシの疑似一人暮らしは、一日で終わりを告げた。
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