●第3話
「ねータカシ、これもう飽きちゃった。格ゲーで一緒に遊ぼうよ」
 土曜日の昼下がり。ゲームのディスクを持って足下にすり寄る珠子に何の反応もせず、机に向かったタカシは黙々とシャーペンを動かしていた。
「む〜、無視するなバカタカシ! つまんない〜、退屈〜。遊べ遊べ遊べ〜〜!!」
「あーもーうるせー!! 俺はあさって最後の試験なんだよ! 春休みの予定がかかってるんだ、勉強の邪魔すんなら出てけ!」
 背後からのしかかり、首根っこにしがみついてきた珠子を、タカシは邪険に振り払った。前日の夜からほとんど寝ずに机に向かっているタカシにとって、珠子の一挙手一投足が癇に障る。
「な、なんだよう……珍しく家にいるからボクが遊び相手になってやろうと思ったのに……」
 いつもより強い調子で拒絶され、珠子は少しひるみつつも憎まれ口を返した。
「誰も頼んでないだろ。全く、お前は猫の時も、人が勉強してるとノートの上に乗っかって邪魔しに来たよな。少しは素子を見習って、外に出掛けるなり居間でおとなしくするなりしろ!」
「ふん、なんだよ、二言目には素子素子って。そんなにいうこときく子が好きなら猫なんか飼わなきゃよかっただろ! もういいよテレビ見てるから。あとで謝っても遊んであげないからね、べーっだ!!」
 部屋の戸を後ろ手に勢いよく閉め、珠子は足音高く階下に降りていった。
「猫なら忍び足で歩けよ。まあ試験が終わったら遊んでやるか。さて、勉強勉強……」
 タカシは机に向き直り、珠子のことを頭から追い払って問題集に集中した。

「もーなんだよ、“試験”って! かなみもおうちに帰っちゃうし、素子は一人で散歩に行っちゃうし……。難しい顔してるから笑ってもらおうと思っただけなのに、タカシのバカーー!!」
 こたつに潜り、珠子は腕をばたばたさせて頭上のタカシに悪態をついた。“試験”が近づくと、タカシはいつも珠子と遊んでくれなくなってしまう。彼女にとって――もちろんタカシにとっても――“試験”は憎むべき敵のような存在だった。
「あ、そーだ!! “試験”のときにいつもママさんが作ってたあれ、あれがあればタカシも喜ぶかも……」
 珠子は喜々として台所に向かった。

 ガシャーン!! 突然下から響いてきた甲高い音にタカシは驚いて部屋から飛び出し、階段を駆け下りた。
「なんだ、どーした! ……これは……」
 タカシの目に飛び込んできたのは、混沌の海と化した台所だった。卵、小麦粉、パン粉、調味料もろもろがところ構わず散乱し、その真ん中で珠子が半泣きになってしゃがみ込んでいた。
「……やってくれたな。どけ。片づけるから」
「あの、タカシ……ごめんなさい、ボク……」
「黙ってろ」
 吐き捨てられたタカシの低い声に、珠子はビクリとすくみ上がった。
「悪戯三昧もここまで来るとご立派なもんだ。そんなに俺を困らせるのが楽しいのか?」
「違うよ、悪戯じゃないよ! ボクはタカシに……」
「うるさい! 掃除の邪魔だ、出てけ! 俺がいいと言うまで入ってくるな!」
「……分かったよ、出てくよ、出てけばいいんだろ! タカシなんか……タカシなんか大ッ嫌いだ!」
 珠子が走り去り、玄関の扉が大きな音を立てるのを無視して、タカシは黙々と掃除を続けた。

「ただいま帰りました。一人での散歩は存外退屈なものですね。やはり私はタカシさんと……タカシさん、これはどうしたことですか?」
 日が暮れかけ、素子が散歩から戻ってきたとき、タカシはまだ床を拭いていた。
「どうもこうもない。珠子が悪戯して散らかしたんだ。全く、試験前で一分一秒が惜しいって時に最悪だよ」
「悪戯、ですか……」
 素子は居間のこたつの上に広げられていた本を手に取った。
「ふむ。タカシさん、おそらく珠子はトンカツを作ろうとしていたのでは? お母様が『試験に勝つ!』と言って、よく作っていらしたでしょう」
 ハッとして顔を上げたタカシに、素子はトンカツのレシピが紹介されている本を広げて見せた。
「じゃあ、なにか? あいつは俺のために料理をしようとして……いや、だからといって結果的に迷惑かけられちゃたまったもんじゃない!」
「それはそうですが。それで珠子は今どこに?」
「……ちょっときつく言ったら外に出ていった。まあ、腹が減ったら帰ってくるだろ。ほっとけばいいさ」
 素子は黙ってタカシを見つめた。いたたまれなくなって視線を外し、タカシは雑巾がけを再開した。
「珠子は家猫で、猫の時はおろか人間になってからでさえ、一人で外に出るのは今日が初めてです。しかしタカシさんがそうおっしゃるなら大丈夫なのでしょう」
「……」
「『猫の死因第一位は交通事故』『なわばり争いで迷子になる猫も多い』。最近の新聞には実に興味深いことが書いてありますね」
「……お前最近性格悪くなってきたよな」
「かなみさんとタカシさんの会話を参考にしてみました。お出かけですか? お供します」 
「あいつとの付き合い考え直さないとなあ……」
 子供の交友関係を心配する親のような複雑な気持ちを抱え、タカシは素子を連れて家を飛び出した。

「ここにいたのか。もう日も暮れたし、帰るぞ」
 珠子は近所の公園のベンチに膝を抱えて座り込んでいた。心配するように集まっていた野良猫たちが、タカシに気づいてぱっと逃げ去った。
「……帰らない。タカシなんか嫌いだもん」
「そんな拗ねるなよ。……その、悪かったよ……珠子が俺のために料理してくれるなんて思わなかったから。な、明日は一日珠子と遊ぶから許してくれよ」
「ホント!? あ……そ、そんなことで簡単に許したりしないからね!」
 一瞬顔を輝かせた珠子だったが、慌ててまた膝に顔を埋め直した。
「じゃあどうすれば許してくれるんだよ」
「……うちまでおんぶして帰ってよ。疲れちゃったから。そしたら許してあげるよ」
「はあ? お前何言って……あーもうしょうがねえなあ。ほら、おぶされ!」
 珠子の上目遣いと素子の無言の圧力に敗北し、タカシは珠子を背中に乗せて歩き出した。
「へへ、あったかい……タカシ、ボクもごめんね、台所散らかしちゃって……」
「もういいよ。帰ったら素子と三人で掃除だぞ」
「うん!」
 半歩後ろを歩いていた素子は、やれやれと苦笑して大きくため息をついた。

「ふ、ふふふ……人が試験期間中だけ家に戻ったら早速この始末……いい度胸ねバカタカシ……」
 夕食を作りに訪れたかなみが見たものは、雑巾を握りしめ、粉まみれになってこたつで眠る三人の姿だった。珠子と素子がタカシの胸に頭を載せ、タカシはうなされていた。三人とも疲労困憊といった様子だ。
「全然起きる様子がないわね……何してたらこんな熟睡できるのよ。もう、こたつで寝たら風邪引いちゃうでしょ! しょうがないなあ」
 かなみはタカシの部屋から毛布を運び出し、三人にかけてやった。しばらくその寝顔を眺め、それから誰もいるはずのない部屋をきょろきょろと見回して、かなみはわざとらしくあくびを一つした。
「ふぁああああ。わ、私も徹夜続きで寝不足なのよね……。もう限界みたい。ちょっと寝かせてもらうわね……ほら、どきなさい!」
 何度引きはがしてもタカシにすがりつく二人の間に強引に割り込み、かなみも遅い昼寝に加わった。


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