●最終話
 なぜもっと早くそのことに思い至らなかったのか。タカシがようやく問題に気づいたのは、早朝の電話に出たときだった。
「ふぁい、もしもし……なんだおふくろか。今何時だと思ってんだ、時差考えろよな。え? ちゃんとやってるよ、飯はかなみが作ってくれてるし。……うるせーな、俺だっていろいろやってるっての」
 寝起きの不機嫌さを隠そうともしないタカシだったが、不意にその声が強張った。
「え? あ、ああそうか、もうすぐ帰ってくるんだな……いや、別にそんなことはないけど……分かった、1週間後だな……」
 通話が途切れたあとも、タカシはしばらくベッドの上で携帯を握りしめていた。

「おはようございます、タカシさん。今朝は私が朝食を用意しました。と言っても、トーストを焼いただけですけど」
「ああ、おはよう……そういえば今日は用事で来られないって、昨日の夜言ってたっけな」
「タカシにしては起きるの早いじゃん。いっつも昼前まで寝ててかなみに怒られてるくせに」
「たまにはそういう日もあるさ……いただきます」
 むっつりとしてトーストを手に取り、黙々と食べ始めたタカシの様子に、二人は顔を見合わせた。
「どこかお体の具合でも悪いのですか? 顔色が悪いようですが」
「分かった! お腹が痛いんでしょ? 毛玉吐くと楽になるよ」
「俺は猫じゃねえっての……親父たちがもうすぐ帰ってくるんだ。お前たちのことを説明しなきゃならないが、どうにも思いつかん。かなみのときみたいに従姉妹でごまかすのは無理だしなあ……」
 はあ、と大きくため息をつくタカシ。対する二人の反応は、少し意外なものだった。
「ああ、そういうことでしたか。大丈夫、何も心配いりませんよ」
「心配いらないって……なんかいい方法でもあるのか?」
「というより、ご両親が戻られる頃には問題自体がなくなっているでしょう。全ては珠子次第ですから」
 そういう素子は晴れやかな笑顔を浮かべていたが、珠子はどこか居心地悪そうにそっぽを向いていた。
「ボクに振るなよ! 何かボクが一人だけ悪者みたいじゃん。別にわざと先延ばしにしてる訳じゃないんだから」
「では今日中に済ませてしまいましょう」
「今日!? ちょっと待ってよ、ほら、こういうのはタイミングが大切だから……」
「今日ほどふさわしい日はないと思いますが」
「う……そ、そうだけど……」
 二人の間では話が進んでいるようだが、タカシには何のことかさっぱり分からない。幾分苛立たしげに、タカシは問いただした。
「なあ、何の話だ? 俺に分かるように説明してくれよ」
 しかし珠子は黙りこくってしまい、素子も苦笑しながらはっきりとした返答を拒んだ。
「私の口からは言えません。ですが、今日中にタカシさんの心配事がなくなると言うことだけは確かですから。いいですね、珠子?」
「うう……分かったよ、今日中だね! そうと決まれば早く出かけようよ!」
 珠子は渋い表情をして、玄関の方へ走り去った。
「すぐ行きます。タカシさん、今日は珠子と買い物に出かけてきますね。夕方には戻りますので」
「え、二人でか? 何なら俺もついていくが」
「いえ、今日は二人で行ってきます。タカシさんはゆっくりなさって下さい。それでは行ってきます」
 珍しく素子はタカシの申し出を断り、居間をあとにした。一人残されたタカシは釈然としないものを感じながら、冷めたコーヒーを一気にあおった。

 お昼になってもかなみは現れず、タカシは一人で簡単な食事を済ませると、ソファーに寝そべってぼーっとテレビを眺めていた。
「……暇だな」
 機械的にリモコンを操ってチャンネルを変え続けたが、番組の内容は頭に入っていない。素子はああ言っていたが、はっきりした対策が分からない以上、不安も消えようがなかった。
『……そのとき、常識では考えられないことが起こったのです!……』
 タイミングよく入ったナレーターの声に、タカシの手が止まった。難病の患者が驚異的に回復したところのようだ。
「この時間帯にやってるってことは、残念な結果に終わっちゃったんだろうな。再現映像だし」
 タカシの感想は不謹慎なものだったが、予想通り病状が再度悪化し、帰らぬ人となったことが悲劇的な音楽と共に伝えられた。
「……ふん」
 亡くなった人には同情を禁じ得ないが、お涙ちょうだいの報道姿勢に嫌悪感を感じてテレビを消した瞬間、コメンテーターの言葉がタカシの胸に突き刺さった。
『残酷ですけど、奇跡は長続きしないってことなんでしょうね』
 リモコンが手から滑り落ちる。景色がグレーに、全ての音が雑音に変わる。頭の中で2つの言葉が何度も繰り返した。
『ご両親が戻られる頃には問題自体がなくなっているでしょう……』
『奇跡は長続きしない……』
 珠子が自分から出かけようと言うなんておかしい。素子が自分の誘いを断ることなんて今までなかった。今の状況を両親に納得させることは不可能だ――今の状況は。
「くそっ! あいつらまさか!」
 タカシは部屋着のままで外に飛び出した。

 何の見所もない小さな町だが、あてもなく人捜しするには絶望的に広い。へとへとになったタカシが捜索を諦め、家に戻ったときにはすでに日が暮れていた。
「夕方には戻るって言ってたのに……」
 玄関の扉はタカシが出てきたときのまま、鍵がかかっていなかった。家の明かりも消えている。
「おい、いないのか!? 素子! 珠子!」
 声を荒げ、自分の部屋や客間の戸を乱暴に開けて回る。最後に居間の戸を開けた瞬間、突然ついた灯りと炸裂音がタカシの目と耳を直撃した。
パァン! パパン!
「お誕生日おめでとうございます、タカシさん」
「あんた今までどこほっつき歩いてたのよ! 玄関開けっ放しだし、不用心でしょ!」
「遅いよタカシ〜! もうボクお腹ペコペコだよ! ほら早く座って! ロウソクに火つけるからすぐ消して! 歌は省略ね!」
 クラッカーのテープを頭にまとわりつかせたまま、タカシは呆然と立ちすくんだ。
「……あ、なに? 誕生日? ……そうか、今日俺の誕生日か。おふくろたちがいないから忘れてた……」
「そんなことじゃないかと思った。普通自分の誕生日忘れたりしないわよ。だからあんたは……ってちょっと、何してんのよ! 離れなさい!」
「むぎゅー、苦しい、離せ〜!」
「タカシさん、甘えてくれるのは嬉しいのですが、かなみさんが嫉妬しますのでほどほどに……」
「誰も嫉妬なんかしないわよ! 私はこの家の風紀の乱れを正そうとしてるだけで……」
 三人のかしましい声を聞きながら、タカシは素子と珠子を強く抱きしめた。

「じゃあ、今日は家に帰るから。たまにはお父さんの相手しないと機嫌悪いのよね」
 普段より少しだけ豪華な料理を堪能すると、かなみは席を立って玄関へと向かった。
「そうか。いや、それが普通なんだがな。もうこっちに泊まるのやめにしろよ、外聞も悪いし」
「あの二人がここにいる間は私も泊まるわよ。あんたを監視しなくちゃならないんだから。……あと、これ!」
 靴を履いたかなみは、俯いてタカシの胸にきれいな包みを押しつけた。
「一応誕生日なんだからプレゼントあげるわ! 私の誕生日に三倍返しだからね! それじゃおやすみ!」
「あ、おい! ……まったく、いっつもあいつは俺が礼を言う前に行っちまうんだからなあ」
 包みを抱え、タカシは居間に戻ってこたつに寝転がった。
「は〜。今日は疲れたぜ……」
「タカシさん、お疲れのところ申し訳ありませんが、お渡ししたいものがあります」
「お、何? 二人もプレゼントくれるのか。ありがとうな」
 身を起こしたタカシが受け取ったものは、しかし想像とは違ったものだった。
「……なんだよ、これ」
「私からは新しいリードです。今までのは首がちょっと痛いものですから、胴にもベルトをかけるタイプにしました」
「ボクからは蚤取り首輪と蚤取りシャンプー。これからは一人で外にも行ってみようと思うから、そういうのいるかなーと思って」
「だからなんでそんなものがいるんだよ! お前たちはもう人間だろうが!」
 タカシは受け取ったものを床にたたきつけた。素子は悲しげな笑みを浮かべ、珠子は不機嫌そうにそっぽを向く。
「タカシさん、何故私たちが人間になったと思いますか?」
「それは……あの夢が本当なら、お前たちと話がしたいって言う俺の願いを神様が叶えてくれたんだ」
 素子は首を横に振った。
「違います。人間はたいていのことを自力でこなすことができますから、神様はめったに願いを聞いてくれないんですよ」
「じゃあいったいどういうわけなんだよ」
「神様はタカシさんのではなく、私たちの願いを叶えて下さったんです」
「お前たちの、願い?」
「『タカシさんに言葉で気持ちを伝えたい』。それが私たちの願いです。ですから私の願いは人間になったその日に叶っていたのですが」
 素子はタカシに歩み寄り、そっと頭を胸に抱きかかえた。
「最後にもう一度伝えますね。愛しています、御主人様。拾っていただいたあの日からずっと、あなたと過ごした日々全てが私の宝物です。この命尽きるまで、私はあなたと共にあります」
「素子……ポチ……」
 素子はタカシから身を離すと、背後でもじもじしていた珠子と入れ替わり、その背中を押した。
「さあ、次は珠子の番ですよ」
「わ、分かってるよ! ……えっと、あのね? いっつも勉強の邪魔したり、柱で爪研いだり、悪戯ばっかりしてごめんなさい。それと……ボ、ボクもタカシのことが大好きだよ! 捨てられて、雨にうたれて兄弟がみんな死んじゃって、ボクも死ぬのかなってすごく怖かった。ボクが生きていられるのはタカシが助けてくれたから。ずっとありがとうって言いたかったんだ」
「珠子……タマ……」
 最初は涙でかすんでいるのかと思ったが、そうではなかった。二人の姿が光に包まれ、輪郭がぼやけている。光は刻一刻と強くなっていった。
「待て……待てよ、待ってくれ! 俺も、俺もお前たちのことが大好きだ! 何があってもお前たちがいてくれたから頑張れた! 助けられていたのは俺の方なんだ! ずっと、ずっとお前たちと話がしたいと思ってた、まだまだ話したいこといっぱいあるんだよ!」
 光は目も開けていられないほど強くなっており、タカシは手探りで必死に二人を捕まえようとした。
「そんなに慌てないで下さい。私たちはいなくなるわけではないんですから」
「そうそう。元に戻るだけじゃん。お話はできなくなるけど、タカシの気持ちはちゃんと伝わるから。またいろいろ聞かせてよね」
 伸ばした両腕に、二人の手が重なるのを感じた。それが最後だった。
「「さようなら……」」

 目が覚めると、タカシはこたつで寝ていた。ゆっくりと身を起こす。
「わんわん!」
「にゃ〜」
 すでに起きていたポチがタカシの横に行儀よく座り、ぱさぱさと尻尾を振っている。腹の上にいたタマはまだ寝ていたのか、不機嫌そうな鳴き声を上げた。
「ポチ、タマ……。お帰り、って言うのも変かな。ははは……」
 二匹を抱き寄せ、最後にもうひとしずくだけ、タカシは涙をこぼした。

「え? 帰っちゃったの? いきなり?」
「ああ、夕べ遅くにおばさんから連絡があって、朝一で帰ったよ。かなみにお別れ言えないのを残念がってたよ」
「そっか……急に寂しくなっちゃったね」
 また不審がられるかとも思ったが、意外とあっさりかなみは二人の不在を受け入れた。きっとこれも神様のアフターサービスなんだろうと、タカシはぼんやりと考えた。
「だから飯は俺の分と、あと今日からはこいつらの分を頼むよ」
「こいつらって……ああ、ポチとタマね。そんなの今までだって……あれ? どっかに預けてたんだっけ?」
 かなみは料理をする手を休め、二匹をじっと見つめた。
「くう〜ん」
「にゃあ〜ん」
「変ね……なんかずっといたような気もするんだけど……まあいいわ、了解。タカシのより豪華なの作ってあげるからね〜」
 上機嫌で料理を続けるかなみを、タカシはじっと見つめた。その視線を感じたのか、不意にかなみが振り返る。
「ちょっと何見てんのよ? 気味悪いわね」
 いつものように憎まれ口を叩くかなみに、タカシはいつものようには反論しなかった。
「……あの二人から教えられたことがあるんだ。それは、言葉で気持ちを伝えられることがどれだけ大切で、どれだけ難しいかってことなんだけど」
「? あんた突然何言い出すのよ?」
「ずっと一緒にいるからって、相手が自分のこと分かってくれるって期待してばっかじゃだめなんだ。だからちゃんと言おうと思って。かなみ、昨日は俺の誕生日を祝ってくれてありがとう。プレゼントも嬉しかった」
 タカシが掲げた左手首には、真新しい腕時計が光っていた。かなみは真っ赤になってフライパンの中身をかき回した。
「い、いきなり真顔で何を言うかと思えば! それはあくまで私の誕生日の先行投資よ!」
「それでも嬉しかったよ、ありがとう。……それと、これが一番大事なことなんだけど。俺はかなみのこと、ずっと前から――」
 その日二人の距離は大幅に縮まり、朝食は黒こげになった。


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