・ 男が雨宿りをしたら、ちょうどそこがツンデレの家だった(前編)

「まいったなあ……」
 彼は空を見上げる。さっきまで雨雲は薄く広がっているだけで所々晴れ間も見えてい
たというのに、あっという間に真っ暗になったかと思うと大粒の雨が降り出して来た。
慌てて近くの商店の軒先を借りる。と、その瞬間、一気に雨は土砂降りへと変わった。
「ちきしょう。あと一時間は持つと思ったのに……傘持って出りゃあ良かった」
 ゴロゴロと遠くで雷が鳴る。その音を聞いて、彼は舌打ちした。
「まあ、もう少し待ってみるか。どうせ通り雨だろうし……小雨になったら全力で駆け
ていけば、そう大して濡れやしないだろう」
 諦め顔で、彼は空を見上げると、バッグをしっかりと胸に抱え、仕方なくその場に立
ち尽くすのだった。

 バラバラと叩きつけるような雨の音に、彼女は読みかけの本から顔を上げた。
『雨……降って来たんだ』
 天気予報では曇りのち雨ところにより雷雨の恐れもあり、となっていたのを思い出す。
『これじゃあ、今日はもうお客さんも来ないわよね』
 そう言って、ガランとした店内を見回す。ガラスケースの中には、各種お饅頭や餅菓
子が並べられ、棚にはお煎餅が並んでいる。
『でも……勝手に店を閉めたら、お母さんに怒られちゃうしな。全く、娘に店番を押し
付けておいて、自分はお友達と演劇鑑賞だなんて、いい身分よね』
 どうせアンタは一日出かけないんだからいいでしょ、と言い置いて機嫌良さそうに出
かけた母を思い出して彼女はため息をつく。
 と、正座していた彼女の膝に、一匹の黒い猫が擦り寄ってきた。彼女の飼い猫のポン
太だ。子猫で貰ってきた時、彼女はもっとオシャレな名前にしようとしたのに、母が勝
手に決めてしまった。しかも鯖缶で釣って。
 彼女は、ポン太の頭を軽く撫でてから言った。
『ゴメン。今はあっち行ってて』
 ポン太は不満そうにミャウ、と鳴いたが、彼女が立ち上がる仕草をすると、パッと離
れてどこかへ行ってしまった。

 立ち上がると、彼女は店内に入り、入り口から外を確認しようとした。雨音の大きさ
に、どれだけすごい雨か気になったからだ。
『うわ。凄い』
 思わず声を出してしまうほどの土砂降りだった。外の景色は水煙で霞んでしまうくら
い。ふと、外出している家族の事が気になったが、両親は共に帰りは遅いだろうし、病
院に行っている祖母は、この雨ならどこかでお友達とお茶でも飲んでいるだろう、と彼
女は思い直した。引っ込み思案で口数も少ない彼女と違って、祖母は誰とでも気さくに
話す。ただでさえ待合時間の長い病院の事。今日も長話に花を咲かせるのだろう。
 しばらく彼女は漫然と、アスファルトを叩く雨を眺めていた。何を想うでもなく、外
の景色を眺める事が、彼女にはよくあった。しかし、さすがにこのまま時間を過ごして
も仕方ないと思い、彼女が店の奥へと踵を返しかけたその時、視界の隅に引っ掛る物があった。
――人?
 彼女は首を捻る。こんな土砂降りに雨の中、お客さんだろうか? しかし、それなら
中に入って来てもいいはずなのに、いつまでも外に立っているのを見るとそうでもない
ようだ。まあ、急に天気が崩れたし、もしかしたら雨宿りをしているだけなのかも知れない。
 そう思い、奥に引っ込もうとしたが、どうしても外の人影が気になる。正直、店の軒
先はそれほど奥行きがある訳でもない。あんな所では雨も掛かるだろうし、後で風邪で
も引いてしまうかもしれない。傘を貸してあげようかな、と彼女は思った。傘を差した
とて濡れる事には違いないが、こんな所で雨宿りしているよりはマシだろう。別に傘は
持って行かれたままでも、ウチには何本も傘があるから構わないし。
 その時彼女は、どんな人が雨宿りをしているのか気になった。いや、どんな人だろう
と困っている人を助けるのは当然だが、先に確認しておけばそれなりに心構えが出来る
というものだ。
 しかし、店の入り口のガラス戸から外を見た彼女は、心臓が飛び上がるほどに驚いた。
『別府君!?』
 彼女は思わず目を疑った。屋内から外を窺ったので、見間違えたのではないかと思っ
たのだ。しかし、何度見直しても、彼女の確信は揺るがなかった。ちょうどガラス戸に
背を向けているので顔は確認できなかったが、正面から見る勇気のない彼女が、一番よ
く彼の姿を見るのは後姿だったから、ある意味、一番見慣れている姿だとも言えた。

『……間違いない。別府君だ……でも、何で、私の家に……』
 神様のお導きだろうかと彼女は考えた。自分の家の軒先で雨宿りしているのが彼女の
クラスメートで、しかも密かに恋焦がれている男の子だなんて、偶然にも程がある。
 いずれにしても、いつまでも愚図愚図している訳には行かなかった。このまま放って
おいて、彼が風邪でも引いてしまったら、それは自分の責任だと彼女は思った。見て見
ぬフリなんて出来ない。正直なところ、声を掛けるのには物凄い勇気が必要だった。今
まで、一度も彼女の方から声を掛けた事など無い。話した事自体、ほんの少ししかない。
いつも後ろから見たり遠くから眺めたりして憧れるだけ。そんな人に声を掛けるのだか
ら。けれど、心は決まっている。彼女は手の平にのの字を書いて飲み込んでから、緊張
に震える手でドアを開けた。

 ドアの開く音に、反射的に彼がこっちを向いた。彼が完全に彼女の事を認識する前に、
彼女は声を掛けた。
『別府君』
 彼は一瞬、呆然として彼女を眺めた。それから彼女が誰であるかに気付き、驚いた顔
つきになる。
「あれ……音無……さん?」
 彼女は無言でコクン、と頷いた。別府君に自分の苗字を呼んでもらえるなんて、今ま
でほとんど記憶に無い。それくらい彼と接点が無かっただけに、ほんのそれだけの事で
彼女は嬉しかった。
「何で……こんな所に?」
『何でって、ここが私の家だもの』
 声のトーンを抑えたので、何だか酷くぶっきらぼうな答えになってしまったな、と彼
女は反省した。しかし彼は全く気にせず、顔を綻ばせた。
「へえ。そうなんだ。ここが音無さんちだなんて、全然知らなかった。すっげー、偶然だなあ」
 それから彼は、あらためて店を眺め回して言った。
「音無さんの家って……和菓子屋さんだったんだ。意外だなあ」
 彼女はコクリと頷いた。
『曾おじいちゃんの頃から、代々ね。ところで、意外ってどういうこと?』
 最後の一言が気になって彼女は聞いた。すると彼は、彼女をしげしげと見つめて言った。

「いや。勝手な想像だけどさ。音無さんって、絶対良いところのお嬢さんだって思って
たから、もうちょっと立派な洋風の家に住んでるのかなー、なんて」
『……ごめんなさい。イメージと違って』
 別に謝る必要も無いのだが、彼女は素直に謝った。もしかしたら、別府君が自分に抱
いていたイメージを壊してしまったのかもしれないと思ったからだ。しかし彼は、彼女
の言葉を嫌味と受け取ったのか、すぐに謝ってきた。
「ご、ごめん。別に変な意味じゃないんだけどさ。てか、俺が勝手に思い描いてただけ
だから、気にする事なんて全然無いし」
『ううん。別に、気にしてなんていないから』
 彼女は、努めて感情を表に出さないように言った。自分が彼からそのように見られて
いた事は驚きだった。いや。自分の事を見て貰えていた事すら驚きだったと言えよう。
教室の中でも彼女は全く目立っていなくて、自分を気に掛ける男子などいないと思って
いたのだから。
「そっか。それなら良かった。気を悪くしたんじゃないかって思ってさ。でも、和菓子
屋さんってのも、なんかいい感じだよな。古びた感じがこう……風情をそそるっていう
かさ……ハハ……」
 彼は何となく気まずくなった雰囲気を挽回しようと、褒め言葉を探して言った。だが、
彼女の心の中は実はそれどころではなかった。
――どうしよう。やっぱり……家に、上がって貰った方がいいわよね。見ず知らずの人
ならともかく、クラスメートなんだし…… でも、いきなり男の人を……それも、大好
きな人を家に上げるなんて、何か、誘ってるみたいで恥ずかしいな…… けど、このま
まにしておく訳にはいかないものね。でないと、何の為に声を掛けたのか分からなくなるもの。
 葛藤する心を抑え、彼女は勇気を出して言った。
『あの…… 良かったら、うちで雨宿りしていかない?』
 彼女の申し出に、心底彼は驚いた顔をした。やはり、私からそんな事を言われるなん
て思いもしてなかったんだな、と彼女は思う。慌てて彼女は言葉を付け足した。
『だ、だってその……仕方ないじゃない。そんな濡れた格好で外に立っていられて風邪
でも引かれたら、責任感じちゃうし、それにそんな所でずっと立たれていたら、お客さ
んも入り辛くなるだろうし……』

 そう言いながら彼女は、我ながらおかしな言い訳だな、と思わざるを得なかった。風
邪の件はともかく、こんな大雨にやってくるような物好きなお客さんなどいるはずもな
いだろうに。
 彼女の申し出に、しかし彼は一瞬顔を綻ばせた。しかし、すぐに申し訳ないような顔になる。
「いや。でもそれは……迷惑じゃないか? 親御さんとかいらっしゃるだろうし……」
 彼の言葉に、彼女は首を振った。
『気にしないで。今は、私一人だから遠慮しないでいいわよ』
 そう答えてから彼女は内心でドキリとした。自分が一人でいる事を言いつつ男の人を
招き入れるなんて、誘っていると勘違いされても仕方がない。しかし、慌てふためいて
言い訳などしようものなら、却って墓穴を掘ってしまいそうで、彼女は黙って彼の出方
を窺っていた。しかし、彼が逡巡しているようなので、彼女は仕方なく心を決めた。も
う、ここは自分がリードするしかないと。
『とにかく、来て。お茶くらいしか……用意出来ないけど』
 そう言って店へと戻ろうとする。すると彼が慌てて声を掛けた。
「あの……本当に、お邪魔してもいいのか?」
 彼女はコクン、と頷く。良かった、と心の中で呟く。いつまでもグズグズしていても
仕方がないので、彼女はクルリと身を翻すと、店の中へと戻っていった。

 彼は信じられなかった。彼女は気付いていないが、清楚で口数少なく、物腰も優雅で
成績も良い彼女の存在は、クラスの男子にもかなり高い人気だった。そんな彼女に家に
誘って貰えるような幸運に恵まれるなんて、自分はなんて幸運なんだろう。そんな風に
すら思える。
 とにかく、ここで立っていては彼女にとっても迷惑だと言う事は分かった。彼は急い
で雫を払うと、彼女の後を追いかけて店の中へと入ったのだった。


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