・男が雨宿りをしたら、ちょうどそこがツンデレの家だった(後編)

 それはもう雷鳴というより破壊音だった。押し殺した悲鳴を上げ続けながら、彼女は
必死で何かにしがみ付きながら音が鳴り止むまで耐え続けた。そして、音が鳴り止んで
もまだ、彼女は恐怖の為にしがみ付いた何かを離す事が出来なかった。
 彼女にとっては無限とも言える恐怖の時間――実際にはほんの数分――の後、ようや
く彼女に思考回路が戻ってきた。
――あれ? 私……どうしているんだろう?
 まず、最初に考えたのはそれだった。それから、自分が何かに必死にしがみ付いてい
るのを自覚する。暖かくて、おっきくて、がっしりした何か。
 その何かを理解するのに、彼女は更に時間を要した。
――え? え? でも……こんな所でしがみ付ける所なんて……もしかしたら……
 その可能性に思い当たった瞬間、彼女の頭上から声がした。
「大丈夫? 音無さん」
『――ひっ……ぃ……いやああああああっっっっっ!!!!!』
 その瞬間、彼女は今までしがみ付いていた彼を、思いっきり突き飛ばしてしまった。
「おわっ!?」
 幸いにして彼女の力は大したことが無く、彼はバランスを崩して畳にへたり込んだだけだった。
『あ……』
 我に返った彼女は小さく声を上げる。突き飛ばされ、驚いた様子の彼を見て、彼女は
咄嗟に自分の行いを後悔した。
――私……謝らなきゃ……
 しかし、意識はしても口から謝罪の言葉は出ず、逆に彼女は必死で自分の行いを弁護
し始めた。
『ち、違うの。私、その……無我夢中だったから、だからその……ビックリしちゃって……』
「いや。いいんだ」
 動揺する彼女を安心させようと、彼は笑顔を見せた。彼女が恐怖のあまり、無我夢中
でしがみ付いていたのは彼も気付いていたから、我に返った時に彼女が驚くだろうとい
うのは、ある程度予測出来た事だった。もっとも、突き飛ばされるとまでは思ってなく
て、それで少しビックリしたけれども。

 それでも、と彼は思う。彼女には感謝しなければならない。何故なら、本来なら望む
べくも無い至福の時間を過ごしてしまったのだから。自分にしがみ付いてきた彼女の体
の柔らかさ。細さ。そして髪の匂いまでが、今でも鮮明に思い出せる。
『良くないわ。ていうかその、つまり……私がしがみ付きたくてしがみ付いた訳じゃな
くて、だからその、誤解しないで欲しいんだけど……』
 しゃべりながら、彼女は自分で何を言ってるのかすら分からなくなった。
――違う違う違う。私はこんな事言いたいんじゃない。ただ単に、別府君に謝りたいだ
けだったのに、何でこんな……
「大丈夫。分かってるよ。誤解なんてしてないから」
『本当に? それならいいけど……きゃっ!!』
 また、激しい光とバシャーンという轟きが、ほぼ同時に起こった。さっきよりはマシ
だが、大分近い。
 彼女は恐怖を堪えようと、正座したままうずくまり、両手で耳を押さえて震えていた。
その様子を見て、彼が声を掛ける。
「あの、さ…… もし、良かったら、雷が静まるまで、その……さっきみたいにしがみ
付いててくれても、いいんだぜ」
 彼女は驚いて顔を上げた。彼は、照れた顔でこっちを見つめている。信じられない、
と彼女は思った。あれだけの醜態を晒し、尚且つそれに、みっともなくも理不尽な言い
訳を付けてしまうような自分に、優しさを見せてくれるなんて。
 その申し出の誘惑に、彼女は寸での所で負けてしまう所だった。しかし、彼女はグッ
と我慢して、首を横に振った。
『いいの。その……大丈夫だから』
 その瞬間、また雷光が部屋を照らし、彼女はヒッ、と小さく声を上げて首を竦めた。
 彼女の心に、彼の申し出を断った事に対する後悔が湧き起こる。しかし同時に、そん
な事出来る訳ないとも思った。さっきは無意識のうちだったから思わずしがみ付いてし
まったけれど、自分からするなんてのは、恥ずかしすぎる。
 と、その時、彼女の肩に彼の手がポン、と優しく置かれた。彼女は驚いて顔を上げる
と、心配そうな彼の顔が目の前にあった。

「あのさ。えっと、その……怖いんだったら、その、無理しないでいいから。俺はその、
別に構わないし。あ、もし……俺にしがみ付くのが嫌だったらさ。服の裾掴むだけでも……
そ、それでちょっとはマシになるんだったらさ」
 彼の言葉に、彼女の胸がドキン、と高鳴った。優しい人だな、と思う。ここまで気を
遣ってくれるなんて。
 彼女は無言で、恐る恐る彼の服の裾を掴んだ。そして、彼の身体に、頭だけ預ける。
また雷が鳴り、彼女はビクンと体を跳ねさせた。
「大丈夫だよ。さっきよりは遠くなったみたいだし、じきに治まるって」
 彼の言葉は――何を言ったかではなく、声そのものが彼女を安心させる。そして、微
かに漂う彼の匂いも。
――このままずっと……ずっと、こんな時間が続くのなら、それもいいかも知れないな……
 心の中でそっと、彼女は呟くのだった。
 それからどのくらい経ったのだろうか。もう、彼女には時間の感覚は全く無かった。
雷すらもう意識することなく、ただ、彼の傍にいる事だけが彼女の全てだった時間。
しかし、その時は、彼の一言によって不意に終わりを告げた。
「音無さん」
『な……何?』
 顔も上げず、擦れる声で返事をすると、彼が小さく告げた。
「雷……もう、治まったみたい」
『え……?』
 彼女は顔を上げた。外が暗いのは変わらなかったが、随分と静かになっている。しば
らく体を硬直させたまま様子を窺ったが、もう雷鳴が轟く事は無かった。
 彼女はホッとため息をつく。その途端、自分が必死で彼の服を掴んでいる事にあらた
めて気付いた。
『あ…………』
 小さく声を上げると、彼女は掴んでいた手を離し、慌てて彼から体を遠ざけた。自分
のしていた行為を思うと酷く恥ずかしい。
――言わなきゃ……別府君に、キチンと……お礼を……
 しかし、声を出そうにも緊張して、舌が上手く動かなかった。と、その時、彼は立ち
上がって外を見た。

「雨も……上がったみたいだな」
 彼女もその言葉に首を外に向ける。外が暗いせいか、座った位置からはしかとは確認
出来なかったが、雨音が全くしない事から、恐らく止んでいるのだろう。
――でも、外はまだ結構暗いのに。
 そう思ってから、彼女はハッと気付いて時計を見る。時間はもう18時を過ぎていた。
――私……随分長い事、しがみ付いてたんだ……
 本当に、自分が情けなくて恥ずかしい。同時に、その間、何も言わずにジッと見守り
続けてくれた彼に対する感謝の念も湧き起こる。にもかかわらず、彼女は何も言えずに
ただ、彼を見つめることしか出来なかった。
「それじゃあさ。俺……そろそろ帰るわ。長居しても申し訳ないし」
『あ……』
 彼女は慌てて立ち上がった。出来ればもう少し、彼にはいて欲しかった。何故なら、
お茶の話を少ししただけで、ほとんど会話らしい会話もしていない。せっかく彼が家に
来ているというのに。そして、こんな機会はもう恐らくないと思われるのに。
「え? 何? どうかした?」
 しかし、彼にそう問われると、彼女の勇気は一瞬にして萎んだ。
『え、えっと……その、傘、持って行く? また降るかも知れないし、お父さんの予備
の傘があるから』
 違うのに。本当は、こんな事言いたいんじゃ無かったのに。自分の気の弱さに彼女は
嘆息した。
 彼女の言葉に、彼は小さく息を吐くと、笑顔で首を振った。
「いや、いいよ。ここから俺んち、そんなに遠くないから、ちょっとくらいの雨なら走
れば何とかなるし」
『そう。ならいいけど』
 彼女はあっさりと引き下がった。もっとも、元々こんな事を言いたかったわけでは無
かったから、こだわる必要もなかったのだが。
 しかし彼は、親切心から言ってくれたのかと思い、お礼を言った。
「悪いな。何か……そこまで、気を遣って貰って」
 彼女は咄嗟に言い訳を言った。

『ち……違うわ。成り行き上とはいえ、別府君を雨宿りさせたのに、帰り道に雨に降ら
れたりしたら意味ないじゃない。だから……その、心配した訳じゃないから』
 自分の口から出てくる言葉を、彼女は自分自身で嫌悪した。彼から優しい言葉を掛け
られる度に、優しい態度で接してもらえる度に、素直になれない自分に。
「それでも、気を遣ってくれた事に変わりは無いわけだし。だからお礼は言わせて貰うよ」
『か……勝手にすればいいじゃない』
 素直にお礼を述べる彼に、彼女はそう反発すると顔を背けた。無表情で淡々とそんな
事を言うなんて、自分はさぞ嫌な女に見えていることだろう。自己嫌悪から、彼に見せ
る顔などなかった。
 そのまま、会話もなく二人は店先へと向かう。靴を履き終え、彼は彼女を見て言った。
「それじゃあ……また、月曜日に学校で」
『ええ』
 彼女は、そう答えるだけで精一杯だった。
――何か言うなら、今のうちだ……
 彼が身を翻す姿が、スローモーションのように映る。しかし、結局、彼女は何も言え
ぬまま、彼が静かにお店のドアを閉めるのを見つめ続けただけだった。
 彼が去ってから、ほんの数瞬の間、彼女は呆然と立ちすくんでいた。それからハッと
気が付き、店から外へと出る。しかし、彼の姿はもう随分と遠くにあった。
『……ごめんなさい、別府君。そして……ありがとう……』
 遥か遠くの影に向かって、彼女は深々とお辞儀をして呟いたのだった。

「ハァ…… 上手く行かないもんだな……」
 彼はため息をついて、足元の石を蹴っ飛ばした。
「せっかく、音無さんと近付けるチャンスだったのに」
 もしかしたら、見送っていてはくれるかも……
 そう思って振り向いてみたが、店先に彼女の姿は無かった。諦めて彼は帰路につく。
「もうちょっとこう……上手にしゃべれれば……」
 そうしたら、彼女は愛想良くしてくれたのだろうか? いや。教室で女子と話をして
る時でさえ、彼女の笑顔はほとんど見た事がない。遠目に見て微笑んでいるかな、とい
うのが分かるくらいだ。
「褒められるのとか、あまり好きじゃないのかな」
 可愛い、と言った時の挑みかかるような顔。もっともあの時は、彼女も動揺していた
のだろうから、表情だけで読み取るのは早計か。
「でも……まあ、いいか」
 同情とはいえ、家に誘ってもらえたし、それに……彼女があんな風に怖がる姿を見る
事が出来て。不謹慎だが、その姿に彼はドキドキしてしまった。感情的な彼女を見るの
は初めてだったし、その姿はとても可愛らしかったのだから。そんな姿を見る事が出来
ただけでも自分は得したと言える。それに、半歩でも近づけたのだから、月曜からまた
話しかければ、また近づけるのかもしれない。
「まずは……それだな。でも下手すると嫌われるかもしれないから……迷惑掛けないよ
うに、少しずつ、話していこう。うん」
 気を取り直すと、彼はもう一度彼女が自分にしがみ付いてきた姿を思い出し、心を浮
き立たせながら家路を急ぐのだった。


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