第三話 - 気絶と浴衣

-1-

冷たい風が頬を掠めて、和歩は目を覚ました。
むくりと起き上がり、胡坐をかいて上を見る。
遥か高みに星々が瞬き、月が疾うに沈んでいるのに、空は明るい。
眼前には大きな川が、右から左――西から東へと流れている。
今日の仕事を早々に切り上げて、彼女を待つためにこの川辺に来た。
そして随分早く着いたために、寝転んでいたらそのまま寝てしまったことを思い出す。
不思議な夢を見た。
夢の中で和歩は知らない世界にいて、見たこともない服を着ていた。
その世界で和歩は同年代の子らと一緒に学んだり、遊んだりしていた。
牛舎の親方もいた。
親友もいた。
知人はみな総出演していた。
そして、忘れえぬ、彼女も――。
深呼吸をして、和歩は目の前に広がる光景に目を戻す。
川面は空をその身に映し自らを水鏡と成し。
今この時は、天の河と水面に浮かぶ星たちは遥か地平で繋がっている。
まるで天と地を結ぶ輪のようだ、と親方は言っていた。
邑から外れたこの場所では星の煌き以外に光はなく、ただ空と川だけが存在を確かにしている。
山は輪郭を大地に横たえ、木々も陰のみを針のように突き立てているだけだ。
和歩は立ち上がり、大きく伸びをした。
喉の奥からの呼気が声帯を揺らし、蛙が鳴くような変な声が出た。
もう一度辺りを見回すと、西の山辺りだけ星がないことに気づく。
厚い雲が立ち込めているのだ。
風はまさに東へ向いて絶えることなく吹き続けている。
このままならば、あの雲がこちらへやってくるのは直のことであろう。
和歩はそれを思って舌打ちする。
彼女が来るまでに、天気が持ちこたえてくれればいいのだが。
びゅうと唸り、風がさらに強さを増した。
空気は冷たく湿り気を帯び、雨が近づいていることを知らせている。
遠い都では、夏の大祭の準備の真っ最中だろう。
こんな時期のこんな時分に逢瀬をするなど、帝は本当に何を考えているのか。
まあ、自分にも責はある。
彼女との毎日はそう、彼女がいるだけで事足りてしまっていた。
以前は仕事がその役だったが、彼女はそれに取って代わった。
牛を追うことにまるで興味がなくなってしまっていたのだ。
出逢う以前は、楽しい仕事だったのに。
それこそ、彼女といるのと同じくらいに。
こうして引き離された今では、彼女とも逢えない、以前ほど楽しくなくなった牛追いの仕事が毎日あるなど、日々は決して充実してはいない。
ため息をひとつついてから、和歩はもう一度天を仰ぎ見た。
強くなった風に、星が揺らめいて見える。
彼女といた日々も、今は微かに揺らめいて感じられてしまう。
絶対に忘れない。
そう誓ったはずなのに。
けれど、彼女自身の事はいつでも鮮明に思い出せる。
大人しいけれど実はかなり気が強いこととか、人前だと何故か態度が急変することだとか。
或いは逆に二人きりのときは物凄い甘えたがりなところとか、悪態の殆どは照れ隠しの一種であるところとか。
彼女の子供、いやいや、自分たちの子供はどの様な子になるだろう、とそこまで考えて、和歩はまたため息をついた。
こんなことになるなら、早めに子を生しておくのだった。
今日から明日にかけては久しぶりに逢うのだから、そう、ひとつ盛大に褥に狂わせてみようか。
彼女がこちらに渡ってきて、それから雨が降れば、荒れる川から水が引くまでは彼女は向こうに戻れない。
雨よ、降るならば彼女と抱き合ってからにしてくれよ、と和歩は心中で祈った。
すると、呼応するように、対岸の遠くのほうに橙色の光点が見えた。
空の星のように僅かに揺らぐそれは、たまに見る松明の火だろう。
狐火は青いというし、状況下では人が掲げる炎と思うのが自然である。
ようやく、ようやく一年ぶりに彼女がやってきたのだ。
早くあの黒髪を撫ぜたい。
伏した瞼に接吻したい。
細い体を抱きつくしたい。
そして抱き合いながら――可愛らしい悪態を聞いてやりたい。
心の臓が早太鼓のように脈を打つ。
耳はごうごうと鳴り、風の唸りをかき消す。
もう目は遠く燃える炎を凝視して動かない。
堪らず和歩は口の両の側に手を当て、彼女の名前を大声で呼んだ。
その声は風に負けることなく、炎まで届いたらしい。
やや大きくなった橙が、ゆらゆらと左右に揺れるのが見て取れた。
松明を手にしているのは、昔からの彼女御付の侍女だろうか。
割と背が高くて、なぜかやたらと武術に秀でた妙な女を和歩は思い出す。
同時に、その横で仏頂面をしている彼女の赤い頬も。
今彼女は、この辺りの牛車では入れない厄介な道を歩いて、その頬を朱に染めているのだろうか。
それだけで和歩は嬉しくなる。
もう手の届くところに彼女がいるようにさえ思える。
早く、早く逢いたい。

 ぽつり

熱く火照った頬に、冷たい感触が点を指した。
思わず空を見れば、いつの間にか厚い雲が星を隠していた。
雨だ。
祈りが通じることなく、雨は降り始めてしまった。
既に西の彼方では盛大に降っているのだろうか。
水嵩が増してきている。
乗じて、流れも急になっていた。
早く、早く。
炎は忙しなく揺れながら、その大きさを増しつつある。
彼女も走っているのだ。
間に合え――。
強く思った瞬間、また頬に雨粒が当たる。
そして直後にもう一粒。
本降りになってきたと知り、急いで彼女を見やる。
もうはっきりと区別できるほどまで近づいてきた彼女とその侍女は、慌てた様子で手を振っている。
空から舞い落ちる水の粒が、さらに和歩を濡らす。
葦の茂る川辺に降り始めた雨は葉に当たってばしばしと音を立てて弾け、激しさを増す。
川は一段と水嵩を増し、濁流となって吼えていた。
もう船は間に合わない――。
和歩は水に飲まれそうなぎりぎりまで駆け下りて、大声で叫んだ。
彼女の名前を呼ぶ。
彼女も何かを叫んでいるが、雨音と川の咆哮にかき消されて聞こえない。
目尻から、雨とは違う水が流れる。
視界が利かない。
彼岸の彼女は、雨中にあって既にぼんやりと陰が見えるだけだ。
和歩は泣き叫ぶ。
声を上げ、喉を枯らし、届かぬと知り、それでも尚、愛する人の名を呼び続ける。
ずしんと地が揺れたような気がした。
微かな重い響きがへたり込んだ足から伝わってくる。
危ない――と本能が警告する前に、上流の方で轟音がした。
反射でそちらを見た瞬間――。
和歩は竜の如き激流に呑まれた。



「――うわぁっ!!!!」
声を上げて、和歩は飛び起きた。
慌てて周囲を見回す。
壁、机、棚、蛍光灯、箪笥、窓、陽光――ナツメ。
「おはようございマス。ご主人サマ」
ベッドの横にナツメがいた。
挨拶して、じっとこちらを見ている。
ずっとそばにいたのだろうか。
いつもの自分の部屋。
おかしなところは何もない。
身震いして抱きしめたわが身は、汗でびっしょりと濡れていた。
小さいころ、服を着たまま川で行水したときのようだと思う。
川――。
そう、たしか夢を見ていた。
夢の中で和歩は川辺で誰かを待っていて、突然の鉄砲水に呑まれて――。
その後はどうだったか。
続きがあったような気もするが、そこから先はもう思い出せない。
「随分うなされていましたネ」
「う…ん…」
「…失礼します」
「え?」
言うより早く、ナツメがシャツに手をかける。
汗で湿ったそれが勢いよくはだけられ、肌があらわになった。
「ナツメ!?」
彼女は何も言わない。
ただ黙って、胸の辺りにそっとふれた。
細い指が、和歩の肌をなぞる。
それは機械で出来ているのに、暖かい。
「――ふ…は…っ―」
吐息と共に上下する胸を、微妙な圧力でもって指先がすべる。
何往復かの後、ナツメは掌をぴたりと肌に合わせた。
振りほどこうと思えばできるはずなのに、和歩は動けない。
くすぐったくて恥ずかしくて、和歩は思わず身をよじった。
それが合図かのように、すっと身体を離すナツメ。
「ナツメ…?」
「…………」
ナツメは何も言葉を発しないままシャツを戻す。
そして、再び和歩のほうへ身体を寄せた。
その身体が、整った顔が、ゆっくり近づいてくる。
深い緑の瞳に吸い込まれるようで、和歩は微動だに出来ない。
とん、と額に軽い衝撃。
2人のおでことおでこがふれ合っていた。
「………っ…!」
息をすることすら忘れ、固まったままの和歩。
ナツメはしばらくそうして額を合わせてから、ようやく和歩を解放した。
「…心拍数が異常に高いですネ」
「…そりゃ…びっくりしたから…」
「なぜ驚くのデス?」
「そりゃ、あんなことされたら…」
「あんなこと」
「その……………………………キス、とか、するみたいで」
とても長い間をあけて、とても小さな声で言う。
顔はもう真っ赤である。
「ワタシはご主人サマの体調をチェックしていただけですが」
「…へ?」
「ワタシの前頭葉部には、各種のセンサアレイが集約されていますから、額を合わせれば体温、脈拍、脳波などが一度にスキャンできます」
「……………じゃぁ……」
「妄想は程々にしてくださいネ」
「〜〜〜〜っ」
まだ赤くなれたのかというくらい、さらに赤みを増す和歩の顔。
「まったく、おさるさんはこれだから困りますネ」
「うぅ…バカか俺は…」
頭を抱えて悶絶する和歩。
「――ふぅ」
大きく息をつき、未だどくどくと跳ねる心臓を落ち着ける。
時計を見ると、時刻は既に10時をまわっていた。
昨晩は12時くらいに寝たはずなのだが、何時に眠りに就いたのかはよく判らない。
「夢見が悪かったということですが」
と置いてナツメ。
「悪夢を見るのはストレスの発散行動のひとつデス」
「そんなに溜まってるとは思えないんだけどな…」
頭をかきながら和歩。
「溜めるのはよろしくありませんが、変なもので発散しないでくださいネ」
それだけ言ってナツメは部屋を出て行く。
―変なもの?
和歩は考えて―――。
最近ベッドの下から消え失せた、成人向け雑誌に思い当たった。
マズイ。
ナツメがあれを知っていたなどと。
見られたのか。
気分はエロ本を母親に見つかった息子である。
単に母親がメイドロボに入れ替わっただけなので当たり前だが。
恥ずかしい。
いや、それよりも。
「あれ捨てたの、お前かーっ!」
和歩の叫びが、家を震わせた。



背後で和歩がなにごとか叫んでいるが、ナツメは構わず階段を下りる。
危ないところだった。
もう少しあの場にいたら、オーバーヒートでもしてしまったかもしれない。
額を当てた瞬間、自身でも気づいたのだ。
これでは恋人同士がするキスの前触れのようではないかと。
それまではただ和歩の身体を調べることに夢中だった。
目の前でうなされる和歩を見て、その身を案じずにはいられなかった。
和歩が起きた瞬間には、一刻も早く健康状態を診ること以外考えられなくなっていたのだ。
額でふれ合ったことを思い出すと思考が乱れ、正体不明な信号が脳を飛び交う。
身体をめぐる不凍液が異常な速さで流れる。
ナツメは急ぎ足でキッチンへと向かった。
今すぐにこの熱をどうにかしないと、本当に壊れてしまいそうだった。
冷凍庫を開く。
広がる白い霧の中から氷を3個取り出し、そのまま口に放り込んだ。
舌の上で、氷が熱を奪って融けていく。
その冷たさが、散り散りになった気持ちを自分という義体(うつわ)に戻していった。
心地よさに目を閉じる。
途端、視界いっぱいに広がる和歩の顔がフラッシュバックした。
「―――!!!!!―――」
頭の中で何かが切れた。
ような気がした。
「おーい、ナツメー」
目覚めの一杯を飲りにきた和歩がキッチンに入ってくる。
「あ、いた。なんか飲み物がほし」
「ふっっ!!!」
「ってうお!?」
ナツメの肩に和歩が手を置いた瞬間、目にも留まらぬ速さで彼女は動いた。
和歩が驚きを表情にするより早く、右手で首を、左手で右腕を取る。
時計回りの回転力を利用して下方に引きずり倒す。
脇固めの体勢で床に激突した和歩は、再び眠りの世界に落ちた。



-2-

「ん…?」
目を醒ました和歩は、ふと違和感を感じた。
寝床が狭苦しい。
見れば、すぐ横の布団がこんもりと膨らんでいる。
正体はすぐに判った。
やれやれとため息をついて、上体を起こす。
めくれた布団の下から現れたのは、一人の少女の寝姿だった。
「…こら。起きろ」
「…んむ…うに…」
和歩に揺さぶられた少女は、眠り猫のような声を出しながらゆっくりと起き上がる。
目を左手の甲で拭う仕草などは、まるきり猫のそれである。
「くふ…ふぁ…」
はしたなく大きなあくびをひとつかます少女。
まぁその顔も愛らしいのだが。
「おはよう」
「………ん…おはようございま…す…すぅ」
少女は、半ば言葉にすらなっていない声で朝の挨拶をする。
その最後を言い終えると同時に、再び首がかくんと下を向いた。
上半身が均衡を失いふらりと傾いて、和歩はその背中を抱き寄せることで支えてやる。
「すぅ…すぅ…」
和歩の鶯色の浴衣につかまりながら、心地よい寝息を立てる彼女。
美しい髪を撫でながらもう一度ため息をつく。
今度のそれは、呆れてついた吐息ではなかったが。
「ほら、もう起きろ。朝だぞ」
「……は……あら、一穂サマ」
「おはよう」
「おはようございます。ところで私はなぜここに…?」
「俺は知らんぞ。自分で潜り込んだんじゃないのか?」
「…はっ、そうでしたね。昨夜、愛していただこうと思って来ましたら、一穂サマはもう寝てしまっていたんですの」
「それは悪かったな」
「もう。謝意が欠片も見受けられません」
「悪かったと思っているぞ?なんなら証拠を見せてやろう」
「嘘ばかり…きゃぁっ」
体を入れ替え、布団に夏女を組み敷く和歩。
彼女の浴衣は前を開けて乱れ、ほどよく膨らんだ乳房がふよんと揺れた。
白い肌から立ち昇る、まだ少女の域を脱しない色香が和歩の鼻をくすぐる。
「…どうだ?」
「あ、朝からこのような事をして…」
「夕べの侘びをしなければと思ってな」
「も、もう朝餉が出来ているのでは……」
「夫婦の契りに朝も夕もない」
「…伊吹に見られてしまいます…」
「…それもそうだな」
「残念でした?」
「そりゃまあ…む…」
「はむ…ん…ふ…」
言い終わらぬうちに、彼女に唇を吸われる。
和歩も、すぐに舌を絡ませて応えた。
「ふぁ…んく…」
「んむ…う…」
何回かお互いの唾液を混ぜあってから、は、と息を吐いて顔を離すふたり。
「…どうしたいきなり?」
「これで我慢してくださいませ」
「やれやれ、しょうがないな」
お互いに微笑む。
だがその表情は、穏やかな愛に満ちながらも、どこか哀しい。
「…もう…最後なのですね…」
「……そうだな……」
「…………」
朝の光に似つかわしくない、暗い空気が部屋に立ち込める。
「二人の日々に溺れすぎた。お前がいればそれでよかったからな」
「私だって…」
「それじゃ駄目だと判っているが…どうしようもなかった」
「…………」
「今日を以って俺は遠くへ流される…しばらく、おまえには会えないな」
「しばらく、などと…流される者には一生逢う事が出来ないのが世の常ではありませんか!!」
「…口にするな。言葉は呪いになって自分を縛るぞ」
彼女と、そして自らを戒めるように、きつく抱きしめる。
胸板にしがみつき、浴衣をぎゅっと握って涙をこらえる彼女。
「………………貴方のいない生活など…耐えられません…」
「俺もだ……心配するな。俺は必ず帰ってくる」
「そんなこと…!!」
「帝がな、文月の七日だけ逢えるようにしてくださるそうだ」
「…年に一回だけでは…悲しいだけです…」
「逢えないよりはいいだろう。…俺も辛い」
言って和歩はゆっくりと立ち上がった。
彼女も黙ってそれに従う。
和歩は彼女の浴衣をそっと脱がす。
鎖骨、肩、胸、腹、美しい肢体が順々に和歩の眼前に晒される。
彼女は表情を変えることなく、されるがままになっている。
そんな彼女の体を、和歩は指でなぞっていく。
細い肩も、柔らかな乳房も、僅かに浮いた肋骨も。
一通り無言で触れてから、彼女に部屋着を着せる。
大事に、慈しむように。
彼女の着替えが終わると、今度は彼女が和歩の浴衣を脱がす。
頭二つ大きい彼の、鍛えられたその体を、するすると布が滑り落ちていく。
露になったその胸に、彼女は顔をうずめた。
かすかに、声を殺して泣いている。
和歩は小さな頭を抱きしめる。
彼女の髪のいい匂いが伝わって、和歩も泣きそうになってしまった。
不意にどんどんと表の板戸を叩く音がして、和歩は我に帰る。
「朝のうちから失礼する。樋口丑曳一穂殿。お迎えに参った」
和歩を迎えに来た宮廷の兵士達の声であろう。
「…こんな時間から無粋な者達だな……行かなければならんか。伊吹」
はいと返事がして、一人の女性が寝室の戸を開ける。
「表の兵達に、しばらく待つように言ってくれ。何なら軽食でも出してやってくれ」
かしこまりました、と小さく言って、伊吹と呼ばれた女性は奥へ戻っていく。
目の前にいる彼女の小さいときからの御付の従者、それが伊吹だった。
背が高く、顔は美しく、そして武道の心得まである。
箱入りの彼女にはちょうどいい侍女役だった。
そんな伊吹とも、もう今日でお別れだ。
あまり長い付き合いではないが、それでもやはり、寂しい。
視線を彼女に戻す。
彼女は涙を目にいっぱい溜めて和歩を見上げていた。
「一穂サマぁ…」
「泣くな。これも勤めだと思え。全ては身から出た錆というものだ」
「ですが…っ!!」
とうとう、彼女の目から涙が零れた。
堰を切ったように雫が赤い頬をつたい、落ちる。
「共に暮らす夫婦として最後の朝だ。……出かける支度を頼む」
「……はい…」
震える声で言って、彼女は和歩から離れた。
弱々しい手つきで和歩の着替えを手伝い、替えの服や道具類が入った包みを手渡す。
大した時間を要することなく、和歩は宮廷へ参じる礼服になった。
これから帝に謁見し、最後の挨拶をし、そしてもう二度とここへは戻ることのない旅に出るのだ。
「……では、行ってくる」
「……行ってらっしゃいませ…貴方」
和歩は無言で彼女を抱き寄せる。
涙で濡れ、朝日にきらきらと光るその美しい唇に、自分のそれを重ねた。
ほんの数秒触れ合わせて、二人は離れた。
彼女はうつむいたまま、動こうとはしない。
そんな彼女の髪を優しく撫でてやる。
「…必ず帰ってくる。さらばだ」
短くそう言って、和歩は足を踏み出した。
指が離れ、支えを失った彼女はその場にへたり込んでしまう。
伊吹が慌てて駆け寄り、彼女の体を労わる。
「あいつを頼む」
「かしこまりました」
伊吹に彼女のことを任せ、お互いに軽く会釈で別れを告げる。
表で待機していた兵士達が脇を固めて、和歩はゆっくりと歩き出した。
もう振り向くことはしない。
いつまでも心囚われていては、彼女も悲しむだけだろうから。
和歩の姿は次第に小さくなり、表門を出、右に曲がり、消えた。
彼女はその場で泣き崩れた。
過ぎた日々を想い。
遠くへ消え往く人を想い。
いつまでも、いつまでも、泣いていた。



「……マ……んサマ」
誰かが自分を呼ぶ声がして、和歩の意識は覚醒へと向かう。
この声は誰だったか。
よく知った、そう―――。
「…うぅ…―はっ」
「…ご主人サマ…」
「…ナツメ?」
「ハイ」
よく知った声の主の名前を呼ぶと、澄んだ返事が返ってきた。
強烈な光が視界を焼いて、目を開けていられない。
自分はどこか柔らかな場所に、仰向けに寝転がっているらしい。
額に冷たいものが乗せられている。
この柔らかい感触はリビングのソファのようだ。
そして、枕だろうか、頭は一段高くなっていて、首から下よりも心地がいい。
ようやく目が光に慣れて、薄目でなら周囲の景色がわかるようになってきた。
そのぼやけた視界に飛び込んできたのは、深緑の半月形の目を持つ少女。
「ナツメ…」
もう一度、彼女の名前を呼ぶ。
ナツメに支えてもらいながら、ギシギシいう体を無理やり起こす。
額から何かが落ちて、和歩の腹の辺りに着地した。
冷たい感触に驚くと同時に、それが水を含んだタオルだと知る。
「大丈夫ですか」
抑揚のない声でナツメが尋ねる。
「なんとかね。ここは…リビングか…俺は一体どうして…あだだ…」
呻きながら頭を抑える和歩。
顔面が痛いし、ずきずきする頭をさするとコブができていた。
「…急に転んで気絶したのデス」
「そうか……ん…?…そうだったっけ?」
「そうデス。今説明したではありませんか」
「……………………」
「……………………」
奇妙な沈黙が場を支配する。
「なんか釈然としないような…まあいいか」
「頭を打って、記憶が混乱しているのデス。そうに違いありません」
「そ、そうか」
「そうデス」
なぜか押しの強いナツメ。
判然としないものを感じながらも、和歩は無理やり納得することにした。
「って、今何時だ。俺はどのくらい気絶してたんだ?」
「15分程デス。頭の瘤以外には外傷はありません。脳波も正常デス」
「それはよかった」
「念のため、外出を控えることをお勧めします」
「駄目だ」
「なぜデス」
「ナツメが行きたくないだけだろ」
「…ちっ」
ばれたか、と言わんばかりに舌打ちするナツメ。
「出る準備してくるから、ナツメも服着替えてきて」
「なぜワタシも着替えないといけないのですか」
「せっかく買った服を使わないつもりか」
「…仕方ありませんね。買っていただいたものですし、着ることにします」
「余所行きが欲しいとか言ったくせに…」
「ご主人サマが許して欲しいと言ったからデス」
「…あー、もうそれでいいから、頼むよ」
「覗かないでくださいネ」
毎度聞いているような気がするが、それを言わなければ気がすまないのだろうか。
ナツメはとんとんと階段を登っていった。
まだ少し痛みの残る頭を掻いてから、和歩は床に落ちたタオルを拾う。
ソファに手をついて体を支え、立ち上がってキッチンへ向かう。
タオルを水道水で洗っていると、その冷たさが先ほどの感触を呼び戻す。
後頭部に残る、気持ちのいい柔らかさ。
あれはなんだったのだろう。
目を開けたとき、すぐ上からナツメが見下ろしていた。
起き上がって見たナツメは、ソファに座っていて。
寝ているときには頭の部分が高くなっていて、ソファとは違った柔らかく暖かい…。
「えーと、もしかして…」
「何をぶつぶつ言っているのですか」
「うおう!?」
後ろからした声に驚いて振り向くと、突然現れたかのようにナツメが立っていた。
「な、ナツメ、いつの間…に…」
「今来たばかりデス」
「…………………」
「ご主人サマこそ支度は出来ているのですか。見たところ、服は外用ですが」
「…………………」
「まさか用意までワタシにさせるつもりですか。子供ではないのですから、そのくらいはご自分でなさってくださいネ」
「…………………」
「ご主人サマ?」
「あ、え?」
数十秒間たっぷりと硬直した和歩は、ナツメに呼びかけられてようやく戻ってきた。
「何を呆けていたのですか。またいやらしいことでも考えて…」
「ち、ちがう!俺は――」
「昨日とパターンが同じデス」
「本当だって!信じてくれ」
「ではなぜぼうっとしていたのですか?」
「あー…言わなきゃダメか?」
「やましいことが無いのであれば平気な筈デス」
「………………」
「沈黙するということはやはり嘘だったのですネ」
「違う!」
慌てて否定し、ばたばたと手を振る。
「……言ったらナツメが不機嫌になりそうな気がして」
「ワタシにそういう感情はないと何度も説明しているはずデス」
半月形の瞳が和歩を射抜く。
無言の圧力に負けて、和歩はがっくりと首を落とした。
「わかったよ。言うよ」
「とっとと吐いててください」
「その、ナツメに、見とれてた。…これでいいか」
半ば叫ぶようにして白状する和歩。
対するナツメは相変わらずの無表情。
「なぜ見とれるのですか」
「買ってやった服が似合いすぎで」
「……はぁ」
「あーもう、恥ずかしいったらねーよ」
「本当に恥ずかしい人ですネ」
「…………」
「大体、この服装は昨日だって見たのでしょう」
「…昨日とは違うし」
今のナツメは耳のアンテナユニットを取り外し、常時つけているカチューシャさえも外している。
つまり、外見はどこから見ても人間のそれと変わりがないのだ。
耳パーツとカチューシャがないだけでも、ナツメの印象はずいぶん変わる。
ミステリアスな無表情がそれはもう、可愛らしいのだ。
いつものメイドルックのナツメも十分過ぎるほど可愛いのだが、普段しない格好をするというギャップインパクトは大きかった。
「一々ワタシの容姿に反応するなんて、ご主人サマの女性経験のなさが覗えますネ」
「そんなことはないぞ」
「また口からでまかせを」
「ナツメがいるじゃないか」
「ハイ?」
するりと出た和歩の言葉に、思わず尻上がりの疑問符を投げるナツメ。
目も心なしか大きめに開かれて、ぱちくりしている。
「ナツメだってオンナノコだろ?つーことは、一緒に住んでるわけだから、むしろ女性経験豊富なんじゃないかな?」
「メイドロイドと同居するのを女性経験とは言いません」
「むう、そうか?」
「当然デス。AVの見すぎデス」
「―――?…なんだよそれ」
「以前――6月16日月曜日ですが――辞書に偽装したブックケースにメイドロボもののアダルトDVDがありました。タイトルは」
「待て待て待て!それ以上言うな!」
ナツメの口からとんでもない台詞が飛び出して、再び慌てて制止する和歩。
「…………」
半目に戻ったナツメは、じろりと和歩をにらむ。
「な、なんだよう…いいだろ、男なんだし当然…」
「持っている事自体には干渉しません。男性ですから当然と言うのもおかしいことではないデス」
「じゃぁいいじゃないか」
「隠し持っているということに問題があるのデス。先週も成人雑誌をベッドの下に隠していましたネ」
「う…堂々と本棚に並べるわけにもいかないだろー。それに、ナツメだって勝手に漁って勝手に捨てただろ」
「隠していた罰デス」
「くそう、入手に苦労したのに…」
そりゃもう、苦労したのである。
「18歳未満なのですから当たり前デス」
「言っとくけどな、DVDは俺のじゃないからな」
「ワタシも1週間ほどで消えていたことと内容から正宗様の私物であると判断しましたが」
「そうだよ。正宗から借りた…いや、押し付けられたんだよ」
いわゆるAVと呼ばれるそれを、正宗は半ば無理やり和歩に貸してきたのだった。
ご丁寧に、偽装用の辞書型ケースに入れて。
「呆れるばかりです、ご主人サマ」
目を伏せてわざとらしく首を横に振るナツメ。
「こ、こういうときばっかり感情を取得するな」
「あのDVDで暴れる獣欲を処理し、先ほどもワタシを同じような目で見て――視姦していた訳ですネ」
「人聞きの悪いこと言うんじゃありません!大体、俺はあのDVD一回も観てないぞ」
「6月21日と22日では辞書型ケースの向きがそのままでDVDケースの前後だけが逆になっていたのですが」
「!?」
和歩の体が再び硬直し、冷や汗がだらだらと流れ出す。
ナツメは表情を変えず、今度はやや横目で和歩を見ている。
「1回も観ていないのですか。そうですか」
「あー、その、見たというか、見なかったというか」
あさっての方向を見ながらしどろもどろになってうろたえる和歩。
「言い訳ですか」
「ちがう!……いや、もう言い訳にしかならないか」
自嘲気味に顔をうつむかせる和歩。
ナツメは間を置いてから、平坦な声で言った。
「…聞いてあげないこともないデス」
和歩の顔に安堵の色が浮かび、そしてすぐに消える。
わずかに迷いを浮かべて、おそるおそると口を開いた。
「その…観たは観た」
目を逸らしながら、ぼそぼそと和歩。
「…………」
ナツメは無言。
「でもすぐやめた」
「――――」
「やっぱり、ナツメが嫌がるだろうと思って」
「――――」
「メイドロボじゃなければいいって問題でもないけど…少なくともナツメが嫌なことは、俺はしたくない」
「――――」
「とはいえ、その、ごめん」
両の手を合わせ、深く謝る。
「…何を真面目に頭など下げているのですか」
「え?」
「ワタシが本当に怒っているとでも思っていますか」
「だ、だって」
「ご主人サマをからかっていただけデス」
「お、おまえ」
「必死になるご主人サマの姿、しっかり保存させていただきました」
「な、な、な…」
和歩の顔が見る間に真っ赤に茹で上がる。
ナツメは目を細めてそれを見て、くるりと背を向けて歩き出した。
リビングと廊下をつなぐドアのノブに手をかけ、そこで立ち止まるナツメ。
「…でも」
「…?」
「お心遣いは、とても…」
言葉は途中で切れ、しばしの静寂が訪れる。
「外で待っていますから」
気を取り直したようにぽつりとそれだけ呟いて、ナツメは廊下へと消えた。
置いていかれた和歩はしばらくの間、怒りと放心の中間のような間抜けな顔で立ち尽くしていた。


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-3-

「お待たせ」
「遅いデス」
「ま、待てよ」
ややぶっきらぼうにそう言って、愛用のレトロな革の肩掛け鞄を直したナツメがゆっくり歩き出す。
和歩は慌てて玄関の鍵を掛け、ナツメとは対照的なワンショルダーのリュックを引っ掛けて転びそうになりながら後を追う。
横に並ぶと、ナツメはまっすぐに前を見たままで歩調だけを和歩に合わせた。
「えと、まだ怒ってたりする?」
「いえ、そんなことはないデス」
「そうか」
「ハイ」
「…」
声の調子は確かに平静そのもの。
不機嫌なときの拗ねたような声音も感じられない。
だが、2人の間を過ぎる空気はどこかぎこちない。
和歩は携帯で出発した旨を正宗にメールする。
「ナツメは正宗の家知ってたっけ?」
「アドレスと地図上の所在地なら」
「じゃあ見たことないのか」
「あちらの方向には普段用事はありませんから」
「そうか」
「ハイ」
…会話が続かない。
無口ではないものの、ナツメは自分から喋るタイプではない。
和歩もまた話が得意というわけではなかった。
とはいえ、普段ならつながるはずの言葉が、お互いに出てこない。
沈黙をぶらさげたまま、2人は真昼の道を歩く。
和歩はせめて返事のメールでも来ないかと思うが、携帯は黙ったままである。
穏やかな紫外線の波と遥か西の空にたなびく雲。
時折、湿り気を帯びた風が2人の髪を揺らす。
坂を上り、和歩が通っていた中学校の前を過ぎる。
色あせた校舎を見て、ほんの半年前までそこにいたのだと不思議な感覚を覚えた。
振り返れば、遠くに大きな川や駅、そして町並みがきらきらと輝いて見える。
国道を渡り、ドブ川を越える。
周囲の情景は次第にゆったりとした山の手の住宅街へと姿を変えていく。
どの家も趣向を凝らした、上流階級の家ばかりである。
気の早いセミの鳴き声の中に、突如として高い柵壁が現れた。
コンクリートの土台と装飾のなされた柵は遥か消失点まで続いている。
それは高級住宅街といえる家並みにあってなお、自身が囲う土地面積の巨大さを誇示していた。
学校をはさんで和歩の家と正反対の位置にあるこの広大な土地が、正宗の家だった。
柵の向こうにはさまざまな植物が林立し、木々の隙間から近代的なビル建築が見え隠れしている。
黒い帯のようにも見える柵に沿って歩くと、レンガタイルの門が堂々とそびえ立つのが目に入る。
その赤い門の前に、メイド服の女性が1人立っていた。
和歩の姿を見とめた彼女は優雅な礼をし、和歩は軽く手を振って応える。
「いらっしゃいませ、和歩様」
「伊吹さん、こんにちは」
伊吹と呼ばれたメイドがもう一度深い礼で挨拶をすると、眼鏡が陽光にきらりと反射する。
明るめの紺色のワンピースはボリュームのある胸を強調するようなデザイン。
ロングのスカートには編み上げコルセットタイプの腰布を巻き、さらにその上からエプロンを纏う。
ゆったりとした所作に合った笑みを絶やすことのない柔和な表情。
四角い黒縁の野暮な眼鏡も、彼女の落ち着いた雰囲気にはよく似合っていた。
ナツメが同じように礼儀正しくお辞儀する。
「ナツメ様ですね。私は正宗さま専属のメイドで伊吹と申します。よろしくお願いいたします」
「樋口家で働かせて頂いております、ナツメでございます。敬称は必要ありませんので」
「では、ナツメさん、でよろしいですか?」
「結構デス。ご主人サマが大変ご迷惑をおかけして申し訳もございません」
「そこはお世話になっているとかじゃないのか」
「ご主人サマにはそれでは生ぬるいデス」
「ふふ、はっきりおっしゃる方ですね。さ、中へどうぞ」
伊吹に促されて『神野アンドロイド研究所』の表札がかかった門柱の脇、格子の小門から敷地内へ入る。
すぐ左手に駐車場、門から正面のおよそ50m向こうには先ほど見えていた3階建ての白いビル。
右手の同じくらいの距離には、近代建築を合わせた一戸建て住宅があった。
「ところで、正宗は?」
「正宗さまでしたら、技研のほうで準備をなさっております。出迎えは本人にやらせるべきだと思ったのですが、頑として動かないので」
「あいつらしい…さぞかし張り切ってるんだろうな」
「それはもう。必要も無いのに朝の6時から機器チェックなどをしていました」
「今12時なんだけど…」
「一通り準備ができた後、診察台で寝てました。馬鹿です」
「困ったやつだな…」
「私、そろそろ配置を換えて頂こうかと思うのです」
「それがいいかもね」
和歩が呆れてため息をつき、つられて息吹も嘆息した。
それを見て和歩は苦笑してしまう。
「正宗様は研究所に住み込みなのですか?」
広い敷地を見回しながらナツメ。
「自宅はあちらの住居の方です」
右手の一戸建てを指して息吹。
「この自宅敷地内に技研を移転させたのです」
「それは、どなたが」
「もちろん正宗が」
「もちろん、ですか」
「納得はできるだろ?」
「…確かに」
頷いたナツメを見て、伊吹が楽しそうに微笑む。
「移転計画の方が先にあったのですが、候補地が無かったのです。正宗様は近い将来に絶対自分が所長になる、と言って、こちらに持ってこさせのですよ」
「正宗様はそういった権限をお持ちなのですか?」
「当然ございません。ですが、系列社長のご子息ですから、それなりに意を通しやすい立場ではあるでしょうね」
「でも移転なんて話、よく正宗の意見が通ったよね」
「利害の一致です。関係者の、それも社長宅の敷地内に作るのであれば、わざわざ買収交渉の必要もありませんし、法律上の土地問題もクリアできます」
「正宗が言いだしっぺってことは、会社は知ってるの?」
「知っていると思いますよ?本社のほうからは有望株だと期待されているらしいので。私にはとてもそうは思えませんけれど」
肩をすくめて見せる伊吹。
「あの方は単に自分の趣味を仕事と偽って遊びたいだけですわ」
「つくづく変な方ですね」
やや気後れするような口調で言うナツメ。
そんな彼女を見て、和歩はにやりとする。
「怖気づいた?」
「来たくなかったのは最初からで今も変わりません。ご主人サマが懇願したことと、経済的なトレードオフが理由デス」
「経済的なトレードオフ?」
「ワタシのメンテナンスを他ですれば、かなりの額が必要でしょうから。機会を最大限利用させていただくということデス」
どう返事をしていいのか判らない和歩は、助けを求めて伊吹を見る。
「いいんじゃないですか?正宗さまが信用おけないのは判りますし」
微笑を変えることなく、ゆったりと言う伊吹。
「ほんと、正宗さまはいつもアンドロイドのことばかりで。私でなく大好きな『ロボ子さん』でも付ければいいのに」
本人がいないことを幸いと、主人の愚痴を言い始める。
「アレさえなければいいやつなんですけどね」
「和歩様、それは間違いです」
「え?」
「正宗さまの良くない点は他にいくらでもありますわ。学校での成績や態度が悪いことや、すこし自意識過剰なところとか」
「いや、そんなことは、あー…」
親友を思い否定しようとし、言葉に詰まる和歩。
ロボ子の件もそうだが、物事は見方次第で良くも悪くも取れる。
しかし、伊吹が挙げた欠点はみな…あまり良いとは言えない。
「あんな様子では将来が心配でなりません」
嘆く伊吹。
「将来?」
「お嫁さんですとか」
「あー…ロボ子ロボ子言ってるからね…」
「生身の女性に興味がない訳ではなさそうなのですけど…」
「あいつが!?…いまいち想像できない」
「それでもやっぱり一言目にはロボ子さんですからね」
「お嫁さん、か。あいつには無理そうな気がしてきたな」
「そのときは…」
「おーい和歩ー」
何ごとかを言いかけた伊吹の声に、はつらつとした男の声がかぶる。
声のしたほうを見ると、正宗が手を振りながら研究所から出てきたところだった。
駆け足で3人のもとへやってくる正宗。
「2人ともいらっしゃい、伊吹、ご苦労さん」
「正宗さま、ここで出てくるくらいでしたら最初からしてください」
「どうしても手が離せなかったんだよ」
「準備なら朝のうちにしたはずでしょう。何をこれ以上することがあったというのですか」
「機密事項だ」
「もう。すぐそうやってはぐらかす…」
「ナツメさん。お待ちしてました」
和歩と伊吹にはそれ以上目もくれず、ナツメに礼をする正宗。
「今日はよろしくお願いしマス」
「なんのなんの」
「正宗さま、ドサクサに紛れて変なことしないで下さいね」
「俺がそんなことするわけないじゃないか」
「信用されると思ってるんですか?」
横目で正宗を見やる伊吹。
正宗は腰に手を当て、やれやれといった顔で彼女を見る。
「俺がロボ子のことで熱くなるのは確かだけど、伊吹はちょっと信用しなさ過ぎるぞ」
「それは今まで私が抑えてきたから何も無かっただけですわ。一人でロボ子さんと向かい合わせたら、何が起こるか判ったものではありません」
「だからな、」
「あー、表でゴタゴタするのはやめにしないか?」
口喧嘩に発展しつつある二人を和歩がなだめる。
「申し訳ありません和歩様。ほら、正宗さまも謝ってくださいな」
伊吹が慌てて頭を下げ、正宗にもそれを促す。
正宗は抵抗する素振りを見せたが、伊吹が彼の頭を掴んで無理矢理下げさせた。
「痛い痛い!わかった、ちゃんとするから離せ」
「…まったくもう」
「…あてて…どこからそんな力が出て来るんだか」
実のところ、正宗は嫌がる素振りをしていたのではない。
本気で抵抗していたのだ。
つまり、伊吹はそれを力でねじ伏せたということになる。
「たく、怪力メイドめ…。とりあえず、中に入ろうか。二人とも、メシは?」
「食ってないけど、起きたばっかりだからそんなに空腹でもない」
「よしよし。じゃあ先に研究室の方だな」
正宗の先導で、ビルの方へと向かう一行。
休日ゆえか、建物の中には和歩たち以外の人間は誰もいない。
階段を上ったすぐ前に、両開き式の自動ドア。
正宗が首から提げたIDカードをフラットスキャナに当てると、静かなモーター音とともにドアが開いた。
案内された部屋は大きなガラス窓のある壁で二分されていて、手前の部屋にはキャスターチェアの周囲を囲んだシステムデスク。
その上や傍らにはコンピュータや計測器のモニタが整然と置かれている。
ガラスの向こう、奥の部屋には人間用の診察台やTVでたまに見るCTスキャナ、リフレッシュカプセルに似た棺おけのようなものまである。
それはさながら手術室のようである。
「さて、それじゃあさっそく診察を始めますよ」
言いながら正宗が椅子を2つ引っ張り出してきた。
和歩とナツメは伊吹に勧められてそれぞれに座る。
「まずは、と」
「待て、正宗。おまえがやるのか?」
「??…そうだが」
「こういうのって免許とかいるんじゃないのか?」
「持ってるぞ」
「なんだって!?」
「普段から関わってるんだから当然だろ。それにだな」
「?」
「持っていなくても、ここでは治外法権だから」
「おい」
半分以上本気で言っているらしい正宗。
和歩は本当に大丈夫だろうかと不安になる。
「和歩がやりたければやらせてあげるぞ。ナツメさんがよければな」
そんな胸中を知ってか知らずか、にやりと笑って和歩とナツメを交互に見る正宗。
「ご主人サマに体を触られるなどもってのほかデス」
動じることなく即答して、ナツメ。
予想していたらしく正宗がにやにやと笑う。
「信用されてねーな、和歩」
「貴方も大概信用なりませんけどネ」
「ウソぉ!?」
「正宗さま…」
額に手を当てて、呆れた顔で伊吹がため息をつく。
「ええい、黙れ黙れ。ナツメさん、診察は真面目にやりますよ?」
「当然デス」
「では気を取り直して…。まずは問診から」
「そんなことするのか」
「診察の仕方が多少変わるからな。ナツメさん、頭蓋が閉鎖型か開放型かわかる?」
「開放型デス」
「情報処理は」
「主脳、補助脳で統括制御デス」
「ふむふむ」
「…話についていけないんだが」
「別に判る必要はないぞ」
「ナツメのマスターユーザとして知っておきたい」
「ワタシのマスターユーザは旦那様デス。ご主人サマはワタシの所有者ではありません」
「そういうこと言うなよ…というかそういう問題じゃなくて」
「冗談デス」
本当に冗談だろうか。
「説明してやる。長くなるぞ?」
「う……まあ頼む」
「ロボ子の頭蓋には、全体を一体成形して完全に封じ込めた閉鎖型と、ホールドオープン出来るようにいくつかのパーツに分けられた開放型とがある」

正宗が手元のコンソールを操作すると、モニタに人の頭部を模したCGが表示される。
続いて『閉鎖型』の文字と人工頭脳のモデルが表示され、その周囲を着色された頭蓋が覆っていく。
人間のそれと違うのは、継ぎ目が全くないところか。
閉鎖型は強化プラスチックなどで一体成形し、バランスが取れて安く出来る。
そのほとんどはリース業者が所有し、各現場への派遣という形で使われている。
局部的な劣化で素体交換が早い工事現場などでは、買わずに安価なモデルを専門企業から借りるというわけだ。
大型チェーンなどでない限りは大抵これを利用している。
貸主に戻った際は分解、検査され、使用に耐えるパーツを選び抜いて再組み立てされる。
そのため、現在のリース業者はほぼそのままアンドロイドメーカーの系列企業が大部分を占めている。

「開放型は主脳の交換やメンテがやりやすい利点を持つ」
モニターには、色の違ういくつかの部分に別れた頭部モデルが図示される。
それぞれの接合面が分離し、頭蓋骨の2/3が外へ開いて人工頭脳が露出した。
開放型の頭蓋は人間の頭部にさらに近く作られていて、前頭骨、左右の側頭骨と頭頂骨、後頭骨から構成される。
このうちの頭頂骨、後頭骨が開くことによって人工頭脳を簡単に取り出せるようになっているのだ。
各パーツの接合部は人間の頭蓋に合わせ、冠状縫合、矢状縫合、ラムダ縫合と呼ばれる。
脳は普段、大泉門ボルトと呼ばれる部品によって、人間で言う大泉門穿孔の部分で前頭骨と頭頂骨に挟まれて固定されている。
大泉門ボルトには静電気場を発生させ、これによって主脳の周囲を『整電』し、常に正常な作動状態に保つ役割ももつ。

「新しいボディに脳を乗せ替える、あるいは逆に脳だけを交換すると言う作業が手軽に出来るわけだな」
開放型か閉鎖型かで、メンテのやり方は大幅に違ってくる。
頭蓋を開いて脳を直接見られるのと、閉鎖されていてスキャンしかできないのでは大きく差があるからだ。
ちなみに材料には合金系が多く、アルミ、ステンレス、近年ではモリブデン、チタニウム、スカンジウム等の合金なども使われ始めている。
「主脳と補助脳の話は?」
「統括制御か相互助制御かの違いだな」
統括制御は主脳が補助脳の面倒も見ていて、あくまで補助脳はサポート機器であるタイプ。
相互助は同じ機能を持った脳が2つあり、お互いを監視しあっているようなタイプである。
「どちらもメリット・デメリットはあって、シェアは綺麗に半々といったところかな」
ナツメの頭の構造を思い浮かべて、和歩は妙な気持ちになった。
やっぱりヒトとは違うんだな、と小さく思う。
「さーて、それではお待ちかね、頭蓋開放の時間だ」
大きく伸びをしながら正宗が立ち上がる。
「ナツメさんはあちらの部屋へどうぞ」
「承知しました」
伊吹がナツメの手をとって促し、2人は奥の『手術室』へと向かう。
「…いいねえ」
「は?」
唐突につぶやいた正宗。
彼の顔は真面目そのもので、しかしその感情までを読むことはできない。
「やっぱりロボ子はいいよ。…人間もな」
「…どういう意味?」
「人間に似せて造られたロボ子、それと手をとり合う人間――」
そこまで言って、正宗は黙った。
ただその細い目で、伊吹とナツメが奥で準備をしているのを眺めている。
和歩はそれ以上問いかけをしなかった。
正宗がもう何も言いはしないだろうというのが判ったし、それに――。
その意味は自分で考えることなのだと、そう思った。


伊吹に案内され、ナツメは作業室に入る。
「こちらへ」
示されたのは棺桶状の大きな装置。
伊吹が横についているキーを押すと、ジャッキによって装置が起立する。
蓋は横へ開くようになっており、頭の部分にのみ球状の覗き穴があった。
「今日はこちらを使います。服を脱ぐ必要がありますから、シャッターをしましょう」
言ってエプロンのポケットから小型のリモコンを取り出し、スイッチを押す。
ふたつの部屋を隔てるガラスが、一瞬で鏡面仕上げの壁のようになった。
「電気信号で透過させるスクリーンウォールです。これで向こうからもこちらからも見えませんわ」
「ご主人サマ達に見られなくて安心デス」
「まったくですね。ふふ。ちなみに、こちらからのみ向こうが見えるマジック機能もありますけれど、見ます?」
「いえ。大方予想はつきますから」
「そうかもしれませんね」
目を細め、どこかうれしそうに笑う伊吹。
その笑顔にナツメはなぜだか見とれてしまう。
「どうかしましたか?」
「…いえ、なにも」
ふと感じたなにかを振り払い、気を取り直して服に手を掛ける。
ショルダーレスの上着を脱ぐと、伊吹が脱衣かごを差し出してどうぞ、と言った。
スカートを脱ぎ、下着姿になる。
黒いブラの肩紐を下げて肩を抜き、半回転させて胸の前でホックをはずす。
おそろいのショーツを脱ぎ捨て、ナツメは完全な裸になった。
小ぶりな胸が、わずかに浮いたあばらが、細い腰が、しなやかな脚が。
いまだ誰にも見られたことのない裸身が、伊吹のまえで初めてあらわになる。
「綺麗ですね」
憧れのような色を含んだ声で言う伊吹。
「所詮は作り物デス」
「あら、人間だって母親の胎内でつくられるのですよ」
「―――」
何気ない、しかし深い言葉に、ナツメは返す言葉が見つからなかった。
「ハーネスを繋ぎますので、失礼します」
ナツメの黒髪が束ねて持ち上げられ、白いうなじが蛍光灯の光に晒された。
背中にある人口皮膜のカバーが開かれ、主電源コネクタにプラグが接続される。
わずかな沈黙。
それこそ母親のように、美しい髪を指ですいている伊吹。
「あのときも、こうして…」
不意に彼女が呟いた。
ナツメの聴覚でさえかろうじて聞き取れるような小さな声で。
「……?」
「………」
ナツメは無言でその意味を問うような仕草をしたが、伊吹は黙って髪を整える。
「はい、準備できました。このランプが青に変わったら電源を落としてください」
「了解デス」
ナツメは装置の中に入り、クッションに身を預ける。
最終確認が終わり、静かに蓋が閉められる。
頭のすぐ脇で赤いランプが小さくともっていた。
壁をガラスモードにもどした伊吹が戻ってくる。
「では、あとは私たちにお任せください。技術者がアテになりませんけど」
伊吹は正宗をちらりと見てから悪戯っぽくウインクをしてみせる。
ナツメは、和歩を見る。
ガラス越しに、目が合った。
彼の目はただじっとこちらを見ているだけで、表情というものは伺えない。
数秒間、何も感情を含ませない視線が絡まる。
空白は、赤いランプが青に変わることで途切れた。
ナツメは意識的にランプへ視線を移す。
シャットダウンを実行。
並列動作しているアプリケーション、センシングデバイスがの機能が次々と閉じていく。
目を閉じる直前、彼女はもう一度和歩を見た。
彼は変わらず、ナツメを見つめている。
深く黒い瞳が、やけに印象深かった。



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