第7話「サクラリッジ」

「…しかし、ここの桜はいつ見ても壮観ね」
ほう、と感嘆の溜息をつきながら、稲穂。
実際、公園内の桜並木は、素晴らしいものだった。
これを見るために多くの人がここを訪れるほどだ。
植樹されている桜の木の数は数十万本に達するらしい。
それだけの数の桜が一斉に花開き、公園を彩っていた。
「ああ、すげぇな」と、気のない声で、耕平。
目線は桜…ではなく隙間なく公園内の道脇に立ち並ぶ露店に向かっている。
「…はあ。まあアンタみたいな即物的な奴に、マトモな感想なんか求めちゃいないけど」
「それにしてもアンタここに来ていいの?」
「気を使って桐生たちと一緒に行かなかったのに、ここにきたら意味無くない?」
「それなら大丈夫。タカシは二人の相手で周りに目が行かないだろうし」
「凛ちゃんとカナリアはタカシしか見てないだろうさ」
「はは、確かに」微苦笑する稲穂。
「それに、いざ見つかったら本来の目的の『眼鏡を買いに行く』ってのを言えばいい」
「俺等はそのついでに来たんだってな」
「すぐに立ち去ればノープロブレム、ってわけさ」
「へえ。するってぇと、私はアンタの猿知恵のダシに使われたと、そういうこと?」
稲穂は不適な笑みを浮かべる。
だがその目は笑ってはいなかった。

「いや、別に俺は、そんなお前を利用しようとなんて…」
不穏な気配を感じ取り、慌てて弁解する耕平。
「り・よ・う〜?舐められたもんね私も…」その声音に凄みが増す。
「イヤだからあのね?ちがうんデスヨ稲葉サン?」
冷や汗を流しながら、後じさる。
「ねえ、ダメ宮〜」
「パロ・スペシャルとコブラツイストとスリーパーホールドと腕ひしぎ十字固め、どれがいい?」
耕平へと詰め寄る稲穂。
ぞっとするような笑顔を浮かべ、手をにぎにぎと握ったり開いたりしている。
「どれもイヤです稲葉稲穂さま」涙目で、耕平。
我が身に迫る危機を感じ取ったか、顔色が青くなっている。
「OK正直者のアンタには全部かけてあげるわ」
直後。
千鳥遊公園に、耕平の悲鳴が盛大に響き渡った。

「…っつぅ、死ぬかと思った」しかめっ面で耕平がぼやく。
まだ体にダメージが残っているらしい。
「アンタが悪いんでしょ」
「まったく、バカみたいね、私…」
「あん?何がだ?」
「別に。何でもないわよ」
稲穂の言葉にそっか、とそっけない返事をすると耕平は視線を露店の方へ戻す。
そんな彼の様子を見ながら稲穂は、
(タカシの事鈍感だとか言ってる割に、コイツも中々よね…)
(ま、男なんてみんなそんなものなのかも)
と、心の中で呟いた。
さすがに耕平も、それは聞き取れるはずもなかった。

「ま、適当に露店でも回ろうぜ。こうしてても仕方ないし」
「アンタはそれしかないの?ホント花より団子なんだから」
「じゃ聞くけど、花を愛でつつ『ああ、美しい…』なんて言う俺どうよ?」
「さあ?アンタ見てくれはいい方なんだし意外と似合うんじゃない?」
「…本気で言ってんのかソレ?」耕平が眉を顰める。
「ウソよ。もしアンタがそんなことしたらあまりのキモさに靭帯破壊しちゃうかも」
「だろ?っつーか何か靭帯破壊って、17歳の女子高生が日常で口にする言葉か普通?」
「うるさいわね。ソレこそ私の勝手でしょ?」
などと雑談を交わしながら歩いていた2人だったが、
『止めてください!』と、誰何の悲鳴じみた声に足を止めた。
「何だろ?切羽詰った感じだったけど…気になるわね、行くわよ」と、声のした方へと踵を返す。
「そうするか。声の主は女の子みたいだったし、なんかピンチなのかもしれない。もしそうだったら」
「颯爽と彼女を助ける俺。その姿に彼女は胸をときめかせ」
「微かに頬を赤くし、潤んだ瞳で『付き合ってください』って俺に告白…」
「なーんて事があっちゃったりするかもな!」
その光景を想像してるのか、耕平の顔がだらしなく緩む。
「…一回アンタの頭の中覗いてみたいわね」
「どうやったらそんなアホ妄想が出来るんだか…」稲穂は呆れ顔だ。
「想像力豊か、って言ってくれよ。夢見る心を忘れない美少年、いいじゃねえか」
「バーカ。ほらさっさと行くわよ」
「へいへい」2人は再び歩き出した。



声が聞こえた方へと歩く稲穂と耕平の2人。
「待っててくれよ、俺のカワイコちゃん。今助けに行くからね〜♪」
と、人ごみをかき分けつつ、うきうきとした調子でのたまう耕平。
混雑の中だと言うのに、妙に足取りは軽やかだ。
「その妙なハイテンションやめてよ、ウザいから」不機嫌顔で、稲穂。
「コレからピンチな状態の女の子を助けに行くんだぜ?」
「男としては萌え…じゃない燃えぬわけにはいかないっつーの!」
ぐ、と拳を握り、さらに耕平は歩きつつ器用に力説する。
「さっき花より団子とかいったな…だがな」
「男は食い物で生きるもんじゃない!」
「…じゃあ何?大体予想できるけど、言ってみなさいよ」
胡乱気な顔で、稲穂が話の続きを促す。
「そうだな、たとえば恋人とか」
「ガールフレンドとか」
「あと特に彼女とか!」
「…全部同じじゃない…」半目で突っ込む稲穂。
「病気?うんうん、確かに病気だな」
「そう、俺は恋の病に罹ってしまっているんだからな!」
「アンタもういいから黙って。本気で靭帯断裂させるわよ」
「うわ怖ぇ〜♪」その声にもどこか緊迫感が無い。かなり浮かれているようだ。
(わ、私がピンチになっても、助けてくれるのかしら…)なんていう稲穂の心の呟きに、耕平は気付くわけもない。
そして、声の聞こえた場所に二人は到着した。

そこには、怯え、困り果てた顔をした女の子がいた。
その顔はかなり可愛い部類に入るだろう。
複数のいかにも柄の悪い顔の、4人の男たちに囲まれていた。
それはまさに、耕平の望んだとおりのシチュエーションだったはずだった。だが、
「…俺帰ろうかな…」と、彼はやる気なさげに呟いた。
その顔には失望の色が濃く、あからさまにテンションが落ちていた。その理由は、
「男連れじゃねえか…まあ、こんなトコに女1人でなんかそう来ねえよなそりゃ…」ぼやく耕平。
そう、彼女の傍らには彼氏と思しき男性がいた。
彼女同様、どうしたら良いのか分からないと言った感じで怯えた目を泳がせていた。
「急いできて損した…さっさと行こうぜ、稲葉」踵を返そうとする耕平だったが、
「待ちなさいよ」その肩を稲穂が掴んで止めた。
「あの2人をこのまま見捨てる気?サイテーね」
稲穂は助けに行く気マンマンの様だ。元来正義感の強いタイプなのである。
「だってよ…彼氏いるじゃん。彼女を守るのは俺らじゃなくてアイツの役目だろ」
「それはそうだけど…やっぱり、見捨てるわけには行かないわ」
「だったらアンタはそこで見てなさい。私だけでも行くから」
そう言うと、稲穂は男たちに向かってズンズンと歩を進めていく。それを見た耕平は、
「まったく…タカシといいコイツといい…自分が何か得をするわけでもねえのに」
「なんで自分から好き好んで、知りもしない他人のために厄介ごとに首突っ込むかね?はあ…」
溜息を1つつくと、ゆっくりと稲穂の後を追った。

「ちょっと待ちなさい!彼女嫌がってるじゃない!」稲穂の鋭い声に、男たちが振り向く。
『んあ?何だお前?俺らはこの子をナンパしてただけだぜぇ?』
『で、邪魔な男には丁重に御退場願おうとお願いしてたわけよ』
『分かったらさっさと消えろよ。それとも何ですか?お前が俺たちの相手してくれるってか?』
口々に男たちはそう言うと、下卑た声で嗤う。
その言葉に稲穂は怒りに眉を吊り上げぎり、と音が聞こえてきそうなほど奥歯を噛みしめると、
パァン! 男の1人に平手打ちを喰らわせた。
「なに言ってんのよ、寝言は寝てから言いなさい」
「人の迷惑も考えないで…バカじゃないの?知能の程度が知れてるわね」吐き捨てるように言う稲穂。
『何だコラ?お前何様?』
『なんですか?俺らにボコられて剥かれて犯されでもしないと身の程がわかんないクチですか?」
『アレだ、もういいや、お前死ねよ』
稲穂に詰め寄る男たち。
「な、何よやるっていうの?アンタ達なんかにやられる私じゃないわよ!」そう啖呵を切る稲穂。
だが、現実はそう甘くない。複数の男たちに敵うはずもなく、
稲穂はアッサリと男の1人に羽交い絞めにされ、身動きが取れなくなってしまった。



「へ、でかいクチたたいたわりにコレかよ。あっけねえな」羽交い絞めにしている男がほくそ笑む。
「は、放しなさいよ…!」もがく稲穂。
だが男の力は思いのほか強く、抜け出す事が出来ない。
周りを見渡す。だが周囲の人間はこちらを見ようとしない。係わり合いになるのを恐れているからだ。
絡まれていたカップルも、既にいない。
どうやら男たちが稲穂に気をとられているうちに逃げたらしい。
薄情ともとれる行動だが、稲穂は恨まなかった。
ただ2人を助けられたことに安堵していた。知らず、笑みがこぼれる。
「なに笑ってやがるコイツ…まあいい。どっかに連れてってから考えようぜ」
稲穂を羽交い絞めにしていた男はそういうと、そのまま稲穂を連れ去ろうとする。
「くっ…ちょっと…何する気よ…誰か…」
コレから自分のみに降りかかるであろう事を想像し、弱々しくなる稲穂の声。
その様子を見た男たちは満足そうに目を細める。その時、
「言わんこっちゃねえ…何やってんだかな…」
いつの間にか稲穂たちに追いついた耕平は、呆れ顔で言った。
「ダメ宮…」耕平の顔をみて、稲穂の顔が明るくなる。
『なんだ?彼女を守るナイトさまの参上ってか?』男たちの1人がからかうように言う。
「ごめん…ダメ宮…お願い…助けて…」申し訳なさそうにいう稲穂。
だが、その言葉に対する耕平の返答は、予想外のものだった。
「は?何で俺がお前を助けなきゃいけないんだよ?」
冷たい眼差しを向けながら、耕平はそう言い放った。

「え…?」稲穂は何を言っているのか分からない、と言った顔だった。
「え、じゃねえっつーの。お前が勝手に首を突っ込んだのに、なんで俺がその尻拭いをしなきゃならねぇんだ?」
「わ、私は2人を助けるために…」稲穂が弱々しく反論しようとするが、耕平はそれを許さない。
「だからってお前が直接行かなくてもいいだろ?」
「う…」言葉に詰まる稲穂。
「誰か人を呼ぶなり、警察を呼ぶなりしても良かったんじゃねえか?」
「そうでなくても、周りの人間みたいに見てみぬフリしてもよかった」
「それは褒められた事じゃねえよ。でも誰も責めはしなかったと思うぜ」
「対処できない脅威から逃げるのは1つの権利だ。それは別段恥ずかしい事でも、悪い事でもねえ」
「それなのに、お前は。ワザワザ好き好んで首突っ込んで」
「勝てないのが分かり切ってるのに、手ぇ出して啖呵切って」
「なんでそんなバカなマネをして自滅しようとしてる奴を、ワザワザ危険を冒して助けなきゃいけない?」
「そう言ってるんだよ、俺は」
「稲葉、自分で責任も取れないことに首を突っ込むな」
「自分だけに被害が及ぶならまだしも、それで迷惑を被る人間の事を考えてくれよ」
畳み掛けるような耕平の正論に、稲穂は言葉をなくし、ただうなだれる。
『話は終わりか?ならさっさと行かせてもらうぜ。俺はこの女で楽しませてもらうと…』そこまで言ったところで、
「いやいやいやいや。なに言ってんだお前等?」と、さも意外そうに耕平が男たちにそう言った。
「俺は別に、コイツを―稲葉を―助けないなんて一言も言ってないぜ?」済ました顔で、しれっと耕平は言った。
『何だと…?』
耕平の言葉に、男たちのみならず、稲穂も意外そうな顔をした。
「ま、一応俺の連れだからな。助けないわけにもいかないし」
「お前等が大人しくソイツを放してくれないんならな…実力行使させてもらうぞ、と」
耕平は不敵に微笑んだ。



耕平は彼等に向かって1歩踏み込むと、来る途中で買っていたのか、手に持っていたジュースの缶を上に向かって高く放り投げた。
缶が緩やかな放物線を描きながら上へ上へと向かっていく。
耕平は男たちの1人に肉薄すると、その鳩尾に拳を叩き込む。たまらず崩れ落ちるように倒れる。
缶が放物線の頂点に達する。
そのまま返す刀で斬り付けるように、裏拳をもう1人の男の人中に叩き込む。白目を剥き男が倒れる。
ゆっくりと缶が落ちていく。
その勢いを残したまま耕平が後ろ回し蹴りを3人目の男に喰らわせた。そいつは何も言えず吹き飛んだ。
男が地面に数回バウンドした後ピクリとも動かなくなったのと、落ちてきた缶を耕平がキャッチしたのは、ほぼ同時だった。
まさに、瞬殺。男は実力の差を知り顔を青ざめさせ、稲穂は唖然とした表情で耕平を見ていた。
「さて、もういいだろ?さっさと稲葉を放してくれよ」
『う、うるせえ!』最後の1人となった男は稲葉を盾にするようにして後じさる。
「しょうがねえな…」耕平は缶を地面に置くと、男に近づき、右の拳を振り上げる。向かう先は、顔面。
「ひぃ!」男はとっさに稲穂を放し顔を庇う。
だが次の瞬間、男は【腹に拳を喰らい】吹っ飛んだ。
大げさに振りかぶった右の拳はフェイントで、男が顔面をガードすると同時にテイクバックなしで左拳を男の腹に叩き込んだのだ。
ワンインチパンチと呼ばれる難易度の高い技だ。
男はもんどりうって倒れた。気絶したらしく、起きる様子はなかった。
「ふう…手間かけさせやがって…」耕平がぼやいたその時、
『こっちです!早く来てください!』聞き覚えのある声。
見ると先ほど逃げたカップルの男のほうが、警察官の手を引いてこちらに向かっていた。
「ちっ…遅えっつの…ずらかるぞ、稲葉」と、耕平は強引に稲穂の手を取る。
「ちょ、ダメ宮…!?何で私たちが逃げなきゃ…?」
「ここまでやったら事情聴取とかイロイロめんどくさそうだし。ほら、行こうぜ」
そう言うやいなや、耕平は稲穂を連れて駆け足でその場を後にした。

しばらく走り続け、露店の少ない広場までたどり着いたところで、耕平はようやく止まった。
「ふう…ここまで来りゃ大丈夫だろ…と、稲葉?」
「こんの…バカー!」稲穂が耕平を張り倒す。
「結構痛いぞ?助けてやったのにそれはないだろ」起き上がり、耕平。
「恩着せがましい言い方してんじゃないわよ!見捨てようとしたくせにぃ!」
「お前話聞いてなかったのか?最初から助けるつもりだったっての」
「お前いっつも無鉄砲な事ばっかするからな。ちょっと急をすえてやろうと思っただけだ」
「タカシなら男だし結構頑丈だからまだいいけどよ。まあ、アイツになんかよからぬ真似した奴は殺すけどな」
「お前は一応…その、女なんだからよ。ち、ちょっとは自分を大切にしろっての」照れくさそうに、耕平は言う。
「余計なお世話よ…」言葉とは裏腹に、稲穂の声からは先ほどの剣幕は消えうせていた。
人に心配されると言う事は、嬉しいものだ。それが特別な相手なら、尚更。
「…どっか気晴らしに遊びに行くか」耕平がそう言って歩き出そうとしたその時、
ぽふ。背中に重みと柔らかい感触。耕平が首を軽く後ろに曲げると、稲穂が背中に寄りかかっていた。
「ダメ宮…ちょっと、こうしててもいい…?急にさ、力が入らなくなってきてさ」
「歩くどころか…うまく立てそうになくてさ…」寄りかかった稲穂の体は、僅かながら震えていた。
どうやら人心地ついた事によって、ホッとして腰を抜かしたらしい。
「腰抜かすほど怖かったんなら、なんであんな事するかな…」と、器用に体を回転させ、稲穂を抱きかかえるようにして、耕平。
「べ、別に怖くなんてなかったわよ…それに、腰が抜けたわけじゃなくて…ちょっと、力が入らなくなっただけよっ」
「怖くなんて…なかったんだから…」だが、言葉とは裏腹に、体の震えは大きくなり、目は潤み、涙がにじむ。
しばらく稲穂は黙っていたが、ポツリ、ポツリと、言葉を紡ぎ始めた。

「ウソよ…怖かったに、決まってるじゃない…怖くならないワケ無いじゃない…」
「それなのに、アンタにあんな事言われたら…どうしたらいいか分からなくなるじゃない」
堰を切ったように、心のうちを吐露する稲穂。それを聞いた耕平の心は罪悪感でいっぱいになった。
謝らなければ。そう思うのに言葉が出ない。いつもなら謝罪の言葉くらい、幾らでも出るのに。
(コレじゃまるで、タカシみたいじゃねえかよ…)だが、考えてみれば、当たり前である。
特別な相手に対して、本気で申し訳ないと思った時、取り繕ったような上辺だけの言葉や、
どこかで誰かから聞いたような借り物の言葉で、気持ちを伝えられるわけがないのだ。
そして、そんな時言う言葉があるほど、彼はまだ大人ではなかった。ただ、それだけだった。
「悪い、ちょっと悪ふざけが過ぎた。…ごめんな、稲葉」
「別に謝ってくれなんて…言ってないわよ」2人の間に、気まずい沈黙が立ち込めた。
2人はしばらくそうしていたが、稲穂の震えがおさまってきたのを感じ取り、耕平が声をかける。
「…落ち着いたかよ?」
「…ん」稲穂がゆっくりと顔を離す。
「まあ…一応助けてくれたわけだし…心配もしてくれたから…その…アリガト(//////)」
頬を赤らめ、今だ涙で濡れた瞳でそういう稲穂の顔を見て、耕平の鼓動が早まった。古今東西問わず、女の憂い顔に、男は弱い。
(あ、あれ…?コイツ、こんなに可愛かったっけな…?)
無性に、抱きしめたい、体に触れたい…そんな衝動が強くなる。愛おしいから、そう思ってしまうことに耕平は気づかない。
唐突に、強い風が吹く。散った花びらと、地面に落ちていた花びらが舞い上がり桜吹雪になる。
桜吹雪が、耕平たち2人の姿を覆い隠した。まるで、『やるなら今のうちだぞ』と言わんばかりに。
気がついたら、耕平は稲穂の肩を優しく掴み、顔を近づけていた。
いきなり肩をつかまれ、ビクリと一瞬震える稲穂だったが、意を決したように、瞳を閉じると、軽く唇を突き出す。
それは中々に、可愛らしい姿だった。

「稲穂…」無意識のうちに耕平は稲穂を名前で呼んでいた。稲穂はそれを黙認した。
唇が、近づき、ついに触れ合った。
「んっ…ふぁ…」稲穂から声とも吐息ともつかない音が漏れる。
ただ唇と唇を触れ合わせるだけの、味気ないキス。
だが、その感触の、そしてキスしているという実感の甘やかさに、2人の心は蕩かされた。
実質には数秒―だが当人同士にとってはとてもとても永い時間が―たち、2人はようやく顔を離した。
瞬間、タイミングを計ったように、桜吹雪が収まっていた。
「あ…その…なんだ…」気恥ずかしそうに、耕平が口をようやく開いた。
「…え?な、何?(//////)」と、上目遣いで、稲穂。
「えっと…ごちそうさま?」その言葉に、稲穂はにこり、と微笑むとくるりと耕平の後ろ側に回り、
「何言ったらいいか分からない気持ちは分かるけど…言うに事欠いてそんな言葉かぁッ!」
叫び、強烈なヘッドロックをかました。堪らず耕平は首を押さえ悶絶した。
しばらくして稲穂が耕平を解放すると、耕平が、
「ケホッ…あのさ…眼鏡買いに行く件についてなんだけどよ」
「…それがどうしたの?」
「いや…それ…今度の休みに変更できねえかな…」
「いいけど…なんで?」怪訝そうな顔で、稲穂。
「いや、ついでに映画見たり遊んだりしないか…と思って」
「ま、まあアンタがそこまで言うんならいいけど…1つ、条件があるわ」
「な、何だ?」
「…2人っきりの時は、名前で呼び合う事。コレ破ったら、承知しないから」
「分かった。それじゃ日曜日にでもな…い、稲穂。…コレでいいか?」
先ほど名前で呼んでいるにもかかわらず、耕平は大いに恥ずかしそうだった。稲穂はそれを聞くと、
「よろしい。良く出来たわね…耕平(//////)」はにかむ様に、稲穂は笑った。



―幕間:隆side―

俺たち3人は、公園にたどり着くと、桜を見つつぶらぶらと公園内を歩いていた。
「ホラホラタカシ〜!早く歩け〜!楽しまないと損だもんね!」梨亜が俺の右手をぐいぐいと引っ張る。
「うわぁ…すごいですね、タカシさん!」凛は立ち並ぶ露店や屋台に目を奪われていた。
売っている物というよりは、祭りのような雰囲気と色とりどりの露店や屋台そのものを楽しんでいたようだった。
こっちの事など目に入らないかのようだったが、凛は俺の左手をしっかり掴んで放さない。
「お前らなぁ…ちょっとは桜を見ろよ」
「見てますよ、私はタカシさんと違って器用ですから」
「そうだぞ〜っていうかノリ悪いなコイツ。両手に華を抱えていながらまだ不満足ってか?強欲な奴だねタカシは」
「罰としてなんか奢ってよタカシ〜」
「カナリア…お前はそれしかないのか…」呆れ顔で俺はカナリアに突っ込むが、思わぬ援護射撃があった。
「そうですね。タカシさんは私たちと居る事に何か不満何ですか?」
「とても傷ついたので誠意を見せてもらうためにも何か奢ってもらうのはいいアイデアだと思います」
「凛まで…はあ…分かったよ。奢るよ。でも高い物はカンベンな」
「よっしゃ〜何にするかな〜」凛とカナリアが露店や屋台を物色し始めたその時。
風が吹き上げる。風は桜の花びらを巻き上げ桜吹雪となって俺たちや他の客に襲い掛かる。
その凄まじさに、視界は利かなくなり、数メートル先すら見えない。
ふと、違和感に気づく。いつの間にか俺にしがみついていた2人の感触が無い。見ると、2人は忽然と姿を消していた。
桜吹雪が収まる。だが、視界に飛び込んできた景色は先ほどまで居た場所ではなかった。
そこは―


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