第11話「氷解〜虎、再び〜(後編)」

1時間後。
居酒屋の座敷部屋だったはずのそこは、既に異界と化していた。
テーブル、床を問わず空になった酒瓶とグラスが散乱し雑然と言った有様で、
その中に埋もれるようにして『彼女』の最初のイケニエとなった八郎太が、
酔いつぶれぐったりとテーブルに突っ伏している。
今そこを支配しているのは、一匹の虎だった。
かつて、草薙 凛と呼ばれていた少女が酒を飲んで変貌したモノだ。
そして今、新たな被害者がテーブルに崩れ落ちようとしていた。
長い髪をポニーテールに結い上げている女性、六華は酒を大量に飲んだ事によって、青紫色のヤバめな顔色になっている。
「もう…カンベンしてぇ…」半泣きで懇願するように言う六華に凛は、
「あれぇ?なぁんなんですかァー?」
「この程度で泣き言だなんて六華さんらしくないですよねぇ〜?」
「さあグラスを持って!お酒飲んで!おつまみを食べて!」
「まだまだ夜はこれからですよォ?さあハリー!ハリー!ハリー!ハリー!ハリー!」
そう据わった目でまくし立てる凛。いつもの彼女の面影は何処にも無かった。
「うう…ブン助けて…」
六華が僕に助けを求めてきていると言う時点でかなりの異常事態だ。
それほどまでに六華が追い詰められていると言う事だが。
ちなみに既に奈那はここに居ない。
彼女も凛に無理やり大量のアルコールを摂取させられ、結果数分前トイレに駆け込んでいったまま戻ってこない。
そして酒にわりと強い僕と六華、何故か凛のターゲットの対象外となっている剛が残り、現在に至る。

「うう…もう…ダメ…ガク」ついにダウンしてしまった六華を見た僕は、
「草薙君…もうその辺で…」堪りかね、凛におずおずと声をかけ、
「んん?」彼女の妙に迫力の在る目で睨みすえられ、早速先程の行動を後悔した。
「その辺ってなんですか〜?私はお酒飲んでるだけですけど〜?」
「いや…その…六華達酔いつぶれちゃったし。君もかなり酔ってるみたいだから、これ以上は体に毒かな…ってさ」
正直2人もグロッキーにしやがってどうしてくれるこのアマ、後始末どうすんだ。
…と内心は思っていたワケだけど、
ただでさえ、酒で興奮している凛を刺激して、これ以上始末に終えなくなったら面倒なので、僕は慎重に言葉を選んで口にする。
だがその努力も空しく、凛は僕に向かって口撃を開始する。
「体に毒…ふふ、お優しい事ですね…貴方はいつだってそう。優しい優しい店長様」
僕をからかうように、謡うように言う凛。
流石に少し、癇に障る。
「…ちょっと、その言い方は無いんじゃないかな」
「あら、怒るんですかぁ?ちょっと本当の事を言っただけでコレですか…メッキが剥がれるのは本当、早いですねぇ」
「どういうことだい?」
「店長が人に優しくするのは誰かを思うわけでもなく」
「そうする事で自分を高める事でもなく」
「ただ…」
「ただ…何だって言うんだい?」聞き返す僕。
だが、続きを聞いてはならない。聞いてしまってはならない。
そんな、気がした。だがそんな思いなど知らぬ凛は遠慮なく口を開く。
「だって、店長はただ誰かに嫌われたくないからそうしてるだけ」
「そうやって人の顔色を伺う事でしか、人の心を繋ぎとめる術を知らないだけ」
「優しい?穏やかで怒る事を知らず笑みを絶やさない?…違いますよ」
「ただ、臆病なだけじゃないですか」
「………………………!!!!!」
思考が、止まった。何も、言えなくなる。
その言葉が、余りにも的を射ていたから。

「店長を見ていると、とてもイライラするんです。『あの人』を思い出すから」
「まあ、店長とは違いますけど。誰かの力になる事が、『あの人』の生き様でした」
「何でもない事の様に、ただそうしたいからするだけ」
「『あの人』は店長みたいに自分の保身の為にそんな事はしません」
「さっきの私への言葉だって私を気遣ったものでは無いでしょう?」
「ただこれ以上面倒な事になって欲しくないから、そう言っただけ。言葉を選んで取り繕っても、ムダですよぉ?」
図星だったから、僕は言葉に返事を返す事が出来ない。
心が、痛む。胸に黒いモヤモヤとした【何か】が広がっていく。
「そんな店長を好きになる人が居るなんて、凄いですよね」
「でもその気持ちに店長は気付いていない」
「自分を護る為に沢山の物を見ている所為で、肝心なものは何一つ見えていない。滑稽ですね、店長」嘲笑う凛。
「僕の事が…好きな人が居るだって?…誰が…」
「そんな事に答える義理は在りませんよぉ?それは店長自身で気付かなくちゃ行けない事ですから、答えません」
一体誰が僕の事を好きだというのだろうか。
彼女の言う通り、人の顔色を伺う事しか知らない欠陥品の僕を。
懊悩する僕をよそに、凛はさらに言葉を紡ぐ。
だが、僕を見据える目は、徐々に焦点がぼやけ、何処か遠くを見るような寂しげなそれになり、
僕を責めている筈の彼女の言葉は、次第に誰に言うでも無い独白へと変わっていった。
僕は、ただそれを見ている事しか出来ない。
「『あの人』は、人に優しくする事、人を助ける事しか知らなくて」
「それが、自分のだけでなく他の人にもそうしていると知っても、それを忘れる事なんか出来なくて」
「だから、私は『あの人』を追いかけて、この街に来ました。でもその思いは届かなくて」
「その時、私はとても傷つきました。でも、それはもういいんです。整理のついたことですから」
「でも、その後、私は気付いてしまったんです」
「自分が、どうしようもなく、独りぼっちだったって事に」

「皆、自分を気遣ってくれる良い人ばかりだった。そう思ってたけど、それは自分を見てくれていたワケじゃなかった」
「私が『あの人』の知り合いだったからそうしていただけで、私と皆の距離は縮まってなんかいなかった」
「突然現れた私は【客人(ゲスト)】でしかなかった。いや、【余所者】って言った方がいいんですかね?」
自棄になったかのように、凛は今度は自分を嘲笑う。その乾いた笑みは見ているだけで痛々しい。
「寂しくて、寂しくて寂しくて寂しくて。私はどうにかなりそうだった」
「気がついたら、『あの人』と私と同じ人を好きになってなお、私に笑いかけた大切な人まで恨みそうになっている自分がいた」
「『あの人』が私を選んでくれたら、『彼女』が私から『あの人』を奪わなかったら、私はあんな思いをしなくて済んだ」
「私はこの事に気付くことなく、幸せな夢を見続けていられた…って」
「大切な人達を、嫌いになんてなりたくなかった。だから、私は皆の元から逃げ出したんです」
「草薙君…」
(だから、彼女は【こうなって】しまったのか)
恋破れた事で、視野が広がり、気付いた孤独。
いきなり現れた異邦人の彼女が入り込む余地が無いくらい皆の絆は深く。
まだ無関心か冷たい態度だったら、寧ろ彼女は楽になれていたのではないか。
僕は彼女の言う「皆」がどんな人間だったのか分からないけど、きっと気の良い連中だったんじゃないかと、彼女の話からそう思う。
その、彼らの暖かさが余りにも心地よかっただけに、
それが、見えて感じる事も出来るのに、どうしても手の届かない分厚いガラスを隔てた様なモノだと知ったときの絶望は。
皆に優しくされ、暖かい態度を取られる度に自分が独りである事を思い知らされる苦悩は。
自分と同じ『場所』に立ち同じ目線で物を見る事で、何かを共有し共感する人間が誰一人としていない事に気づいた寂寥感は。
一体どれ程のものだったんだろう。
それでも彼女は彼らにそんな思いを云う事は出来かったんだと思う。
だから、吐き出す事の出来ない暗い思いは、心の中で澱となって溜まっていった。
それでも彼女の言うとおり、皆や大切な人を憎みたくなかったから。心を凍らせて、そこから逃げ出す事しか出来なかった。
誰も悪くない、だからこそ救いの無い物語。でも、そんなの…
(そんなの…悲しすぎるじゃないか…)僕はいたたまれない気持ちになった。

その場を、なんとも居心地の悪い沈黙が支配する。
「草薙君…僕は…」
「なんですか?同情の言葉なんかいりませんよ?それより店長は…」尚も僕に言い募る凛の言葉は、
「草薙君」それまで沈黙を保っていた剛の言葉によって遮られた。
「…何ですか?」
「少し黙れ。文は君のサンドバッグではない」
「…なんですかそれ。貴方には関係の無い事じゃないですか」
「そうだな、関係は無い。だがそれならば…」
「君が先程のたまっていた戯言も俺たちには関係ない、だから黙れ」
「戯言?戯言と言いましたか?…私が味わった苦しみもわからないくせに、勝手な事言わないで下さい」
少しずつ、語気が荒くなる凛。握り締められたその手は、僅かに震えていた。
「分かるわけが無いだろう。俺は君では無いのだから」
「君が文の事を何一つ分かっていないのと一緒だ。そのくせ好き勝手言っていたようだがな」
「大体…君の言っている事は、要は仲間はずれにされた子供が泣き喚いているだけだ。違うか?」
「その程度で不幸を味わった気になるな。笑わせる」
「…うるさい!貴方に私の何が分かるって言うんですか?」ついに、押さえきれず感情を爆発させる凛。
「同じ事を2度言わせるな。君の事など分かるわけが無い。理解したいとは、思うがな」
「ならば…逆に聞こう」そう言った次の瞬間。
剛は凛の襟首を掴み思い切り自分の方へ引き寄せる。
軽く咳き込む凛。いきなりの事に彼女の顔から怒気が雲散霧消していくのが分かる。
「草薙 凛。君に…俺たちの何が分かる?」
「…何故そんな質問に答えなければ…!」弱々しく反論する凛。
だが五代 剛は、彼女のその程度の小さな反撃の機会すら赦さない。
「質問に答えろ。君程度に俺たちの何が分かるというのだ」

「君に分かるのか?両親に先立たれ、独り遺された人間の気持ちが」
凛は答えない。
「君に分かるのか?両親に棄てられ、その後見つけた居場所すらも、仲間の為に捨て泥水を啜る様な生活を強いられた人間の気持ちが」
凛は答えない。
「君に分かるのか?微笑みの仮面をかぶり、人に優しくする事でしか誰かを助ける術を知らぬ不器用な人間の気持ちが」
凛は答えない。
「君に分かるのか?自分の中の大切な物を見失い、自分の夢だった筈の物に苦しめられ苛まれ途方に暮れるしかなかった人間の気持ちが」
凛は、答えない。
「分からんだろうな。だがそれで当たり前だ」
だから人は大切な誰かのためにそれを理解しようとする」
「それを互いにしようとするのが仲間であり、友であり、恋人であり、伴侶だ。少なくとも、俺はそう認識している」
「人間、生きていれば辛い事にあうことなんて掃いて棄てるほどある」
「そんな事を理解しようともせず都合が悪くなればすぐ悲劇のヒロイン気取りか」
「君は文の事を臆病だと、滑稽だと言ったな…ならば君のそう言う所は卑怯で、身勝手だ」
「他人を理解しようとしないくせに、自分ばかり他人に分かって貰おうなどと、図々しいとは思わんか?」
「なら…ならっ!こんな私をが一体何が出来るとしたら言うんですか!どうすれば良かったと言うんですか!」
「簡単だ。甘えれば良い。誰かに、少しでも寄りかかればいいんだ」
「自分の心に抱えた物を、誰でもいいからぶちまけてしまえ」
「誰も君の傍に居なくて、寂しい思いをしたのなら、君から誰かのところに行けばいい」
「自分を見ないのなら、振り向かせろ。溝があるのならそれを埋めてしまえばいい。壁があるならぶち壊せ」
「な?とても簡単な事だとは、思わんか?」
「…無理ですよ。皆の所から逃げた私が…どうやって…」
「?君は何を言っている?俺が、居るだろうが」
「え…」

「君が望むのなら、俺は何時だって君の傍に居る。全てを、受け止めてやる。2度と独りになどさせるものか」
「な…なにをいきなり…口説き落としてるんじゃないんですから…」
「ふむ?俺はそのつもりだったのだが?」
「な…な…(/////)」彼女の顔が酔っているときとは比べ物にならないくらい朱に染まる。
彼女の此処までの表情の変化を見られるのは後にも先にももう無いかもしれないな。
「なに…恥ずかしい事言ってるんですか…可笑しすぎますよ…」
「あんまり…バカなこと言うから…涙が…出てきちゃうじゃないですか…っ」
彼女の目から、大粒の涙がポロポロと零れる。
「アハハ…まだ、涙なんて…流せたんだ…とっくに…涸れたと…思ってたのに…」
「どうしてくれるんですか…ばか…ばかぁっ…!」
泣き笑いの様な表情を浮かべながら、剛の胸をポカポカと叩く凛。
彼女の涙は止まらない。
それは、彼女の涙が長い間心を凍らせていた出来た氷が、解け出たものがあふれ出たからなのかもしれなかった。
でもって、一方の僕は。
「おぅ〜いぃ……………置いてけぼりかよぅ」
そんな2人だけの世界に入った2人を見て、呆然と呟くしかないのだった。
今日は一体、なんだったんだろう?そう思いつつ隣をみると、赤い顔の六華が穏やかな寝息を立てて寝ている。
好きだった料理で心の傷を負ったはずなのにそれで僕の助けになってくれる六華。
僕らを引っ張り学園生活を色鮮やかな物に変えてくれた眩しい六華。
『そんな店長を好きになる人が居るなんて、凄いですよね』凛の言葉が脳裏で蘇る。
もし彼女が僕の事を好きだったら…そう思うだけで。
ドクン。鼓動が早鐘を打つ。ああ、そうか。
僕は、六道 六華の事が、好きなのか。
彼女が、僕の事を好きだったなら、どれ程幸せだろうか。
まあ、僕みたいな人間に彼女が恋愛感情を抱くなんて、有り得ないけれど。
小さく、溜息をつき、僕はビールを一口のんだ。

―幕間―

あれから数時間後。
凛と剛は住んでいる所が近いということもあり2人で帰途についていた。
あんな会話をした後だ。どんな微妙な空気が漂っているかと思えば…
何事も無かったかのように、並んで歩いている2人がいた。
2人はしばらく黙っていたが、やがて剛が口を開いた。
「…大した演技だな、君は」彼にしては本当に珍しい事だが―大げさに溜息をつき、肩をすくめながら言う剛。
「お褒めの言葉どうも。あの鋭い店長を誤魔化せるかどうかってのは、正直不安でしたが」
「可笑しいですよね。漫画じゃあるまいし、普通あの程度の酒で顔が赤くなる事はあっても人格変わるほど泥酔するわけないのに」
口の端を僅かに歪め、ニヤリとここに居ない文に向かって嘲笑する。
文も虚をつかれ動揺していなければ気付いていただろう。
彼女が人にお酒を勧めている割に、自分はそれほど飲んでいない事に。
「そうか…しかし驚いたぞ。君がドッキリを仕掛けよう俺と八郎太に今日の計画を持ちかけた時は」
「まあ、八郎太は文と六華がくっつけば好都合だからな。君が利用すると思ったが」
今頃、酔いつぶれた振りをしていた八郎太は奈那の看病をしてポイントを稼いでいる事だろう。
「俺に言ってくるとはな。止めるとは思わなかったか?」
「協力者は多いに越した事は無いですから。それに、貴方が店長の為になると分かっていて断るとは思わなかったので」
「はは、確かにな」
「しかし、だ。なぜこんな事をしようと思った?」
「真面目そうな草薙君がそんな事するわけ無い…ですか?他人の事など分かるわけが無い、と言ったのは貴方じゃないですか」
「むぅ…」唸る剛。
「まあいいですけど。あなたが2人に対して抱いている思いと同じですよ。もどかしいからです…まるで昔の自分たちを見ているようで」
少し遠い目をしながら、凛。
「あの店の人たちは嫌いじゃ無いですし、結構、あの場所は居心地悪く無いですから」
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「だから、ちょっと後押ししてあげようと思いまして。…あの2人に必要なのは、きっかけですよ」
「なかなかに好感触だったのは良かったです。…まさか貴方に説教喰らうとは思いませんでしたが」
「君が余計な事まで喋りだすからだろう?」
「まあ、折角なので少々愚痴らせて頂きました。折角酔ってて見境の無い状態だと思われてることですし」
「その程度には心を開いていると受け取っても構わんのだな?」
「ご自由に…それより先程…言っていた事は本気ですか?」
「ああ、俺が君に対して言った事か…当たり前だ」
「なら…ずっと…傍に…居てくれますか?」
「私は、貴方が居ないとダメになってしまいました。貴方の所為ですよ?」
「貴方の事が、頭から離れなくなってしまいました。どうしてくれるんですか?」
「責任…取ってくださいね?出ないと、承知…しませんから」
「無論だ。君が望む限りずっと俺は君の傍にいる」
「それは…俺の望みでもあるからだ」
「君に始めてあった時から、ずっとそう思っていた」
「一目惚れだった。だから…こちらから頼みたいくらいだ」
「君の傍に居させてくれないか、とな」
「…なかなかにクサい台詞吐きますね(/////)」
「俺は、不器用だからな。文の様に言葉を選ぶ事など出来ん」
「…それが貴方の良さなのでしょうけどね…でも、それなら」
「む?」
「これから…宜しくお願いしますね、剛さん」
「む…」
「折角だから、名前で呼び合いましょうよ」
「むぅ…そ、そうか…では、これから宜しく頼む、凛」
「はい!」そう言う彼女の顔に浮かんでいるのは、
もう誰にも見せる事の無くなった可愛らしい笑顔だった。


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