第9話「フォーリンラブ・アゲイン(後編)」

「げほげほ…っ」吹き出した時、同時に気管にコーヒーが少し入ってしまったらしい。噎せる私。
「えっと…大丈夫?」私の背中をさすりながら心配そうに聞いてくる文。
嗚呼。今だけは、今だけはコイツの優しいところが憎いぃぃぃっ!
「けほっ…う…うるさいっ…アンタが変な事言うからでしょうが…」
「悪い悪い。…そんなリアクションするとは思わなくってさ」
「結構そう言うの気にするタイプだったのか。新しく買ってくれば良かったかな」と、済まなそうに後頭部をポリポリと掻く文。
「べ、別に気にしてなんかいないわよ」別の意味で大いに気にしてはいるけど。
「…ただ、イキナリ変な事いうからビックリしただけよ。そう、それだけ」プイ、とそっぽを向く私。
「まあ、それならいいんだけど」よくない。ちょっとは気にしろ。
何で私があんな反応をしたかちょっとは勘繰ってみろっていうのよ。
いっつも無自覚にこっちをドキドキさせるような事言ってさ。
そのくせそっちは私の気持ちになんか気付きもしないで飄々とした顔しちゃってさ。
不公平よ、まったく。
「…ブンは、気にならないの?」微かな望みを込めて聞いてみる。
これで顔の1つも赤らめたり、少しは動揺してくれればちょっと嬉しいのだけれど。しかしながらコイツは、
「うん?いや…別にそういう事は無いなぁ」
「そんな事気にする程、他人行儀な間柄でもないだろう?」と、間の抜けた顔で間の抜けた解答をしてくれやがった。
「………………………………………………」顔を顰める私。
そうよね、こんな鈍感な朴念仁に期待した私がバカだったのよね。
何時だって、世の中ってば私が思うより、少しばかり厳しいのだ。
「あれ?六華どうかした?」不機嫌なオーラを全身から発した私の様子にうろたえる文。
「うっさい。ほら、早く目的の店に連れてってよ」不機嫌な顔のまま、私。
「…そ、そうだね。それじゃ行こう」そう言うと、性懲りも無く私の手を取る文。
でも何よりも腹立たしいのは、コイツの鈍感さなんかじゃなくて。
また手を繋がれたくらいで、心の底では機嫌を直してコイツを許しちゃってる自分自身なのよね。はあ。

「―何よ、美味しいじゃないのよっ」
それが、歓楽街の一角に在るレストランへと連れて来られ、料理を食べた私の最初の台詞だった。
何か難癖でもつけて文句の1つでも言って、このやり場のないイライラをぶつけようと思っていたのに。
落ちついたクラシックの曲がかけられ、柔らかな間接照明が降り注ぐ店内、
悪趣味な派手さは無いものの、一目で高く上質な物である事が分かる調度品や椅子等の家具類。
それらが織り成す雰囲気の良さに、私は何も言えなかった。
店員のサービスも行き届いてるし、かてて加えてこの料理の美味しさ。
正直、気に入った。また来たいとすら思っている自分が居る。
当然、文句など出るワケも無く。結局、私は苦し紛れにこんな言い方をするしかなかった。
「はは、それはよかった。色々考えた甲斐が在ったよ」ホッとしたように笑う文。
「結構良い所ね。ブンにしては上出来かな」努めて素っ気無い口調で言う私。
「光栄の極みでござい」
「調子に乗らないの」釘を刺す私。その言葉に苦笑する文。
「でも、本当に良かったよ。君が気に入ってくれて」
「べ、別に気に入ったなんて一言も…まあ、悪くはなかったけどさ」
「それでもいいさ。ホント言うと、前々から何か君にしてあげたくてさ」
「え…」
「従業員は大分増えたけど、シェフは未だに1人。お陰で君には苦労かけっぱなしだ」
「そういうわけで、僕は君の労を労う機会が無いかずっと考えてたんだよ」
「だから、昨日ああいう話に持っていけたのは、正直ラッキーだったかな」
「こうして君に美味しい料理をご馳走できて、君に満足してもらえた」
「君の為に何かすることが出来て、嬉しいよ」

キミノタメニ。
その言葉に私の胸はきゅんとなる。
トクン。再び心拍数が増加する。
全く…この男は、何でそんな事を臆面も無く言えるのだろうか。
ああもう、嬉しいなぁコンチクショウ。
私には、そんな優しい言葉、かけられる資格なんて、無いのにさ。
だって、私は―
「本当、美味しいよね、コレ」
文の声が、人知れず鬱状態に入りかけていた私を現実世界に引きずり戻した。
「どれもいい出来でさ…えっと…その…」気まずげに言いよどむ文。それを見て私は、
「料理によっては、私のより遥かに美味しいのがあるんでしょ?」
「いちいち言葉を選ばなくていいわよ。返って不愉快」
「ごめん」
「だから謝る必要も無いって。事実だから」そう、テーブルの上に在る料理はどれも、かなり美味しかった。
まるで私の方が勝っている料理の方が多いような事を言ってしまったのは、私のちっぽけなプライドの所為で。
恐らくコレを作った料理人は私よりも数段料理の腕が立つ。
私が勝てる料理のほうが間違いなく少ない筈だ。
きっと、相当な素質を持ったものがそれに相応の努力をしたのだろう。
勝手な想像では在るが、間違いではないと思う。そんな人間に私が敵うわけが無い。
そう、アレ以来文に再開するまで、料理を棄てていた私には―
いかん、ここに居るとまた鬱になっていく気がする。
料理も食べ終えた事だし、私は文にそろそろここを後にしよう、そう言おうとして、
「満足していただけて何よりね、六道?」声を、かけられた。
聞き覚えの在る声。
そして出来る事なら聞きたくなかった人達、その内の一人の、声。

「零…!」私は声の方を振り向いた。
「貴方に呼び捨て去れる筋合いは無いわ、六道。負け犬の貴方なんかに」
「フン。何処に居るかと思ったら男とデート?いいご身分ね」
振り向いた先にいた女性は、私に向かって辛辣かつ呵責の無い皮肉を言ってきた。
コックコートに白いスラックス。頭にはコック帽をかぶっている。
「…知り合いかい?」彼女の余りの言い方に流石に文も不快感を覚えたらしく、顔を僅かに顰め、私に聞いてきた。
「…ええ。彼女は一ノ宮 零(いちのみや れい)」
「私と一緒にフランスで修行してた仲間の1人よ」
「仲間!?貴方と仲間だなんて、冗談じゃないわ。貴方と同じカテゴリで括られるのなんてまっぴらよ」
吐き捨てるように言う零。その顔には嫌悪感が浮かんでいた。
「随分六華の事を嫌っている様だけど…彼女が何かしたのかい?」
やめて。聞かないで。
アンタに知られたら、私―
「なんだ六道。彼に言ってなかったの?」わざとらしく、彼女は驚いたような顔をしてみせる。
「彼女は、六道 六華はね―」
お願い。言わないで。
この人だけには、文だけには知られたくないの。
嫌われたくないの。
失望されたくないの。
だから―
「逃げたのよ、彼女。留学先のフランスから突然姿を消したの。何も言わずにね」
私の想いも空しく、告げられた決定的な一言。
目の前が、真っ暗になった。

2人の顔をまともに見る事が出来ず、俯く私。
「…どういうこと?」聞く文に、
「さあ?六道が料理を棄てた理由なんて知らないわ。知りたくも無い。本人からでも聞けば?」
「貴方が居なくなったと知った先生に『つまらない奴ばかりが残ってしまった』って言われたあの時の惨めな気持ち、一生忘れない」
「彼氏の前でそんなこと言われて辛い?でも自業自得よね。だいたい貴方は―」
なおも責め立てようとする零。だがその言葉を―
「なにお客様を相手にいつまでも喋ってるんだテメェ」誰かの声が遮った。
声のした方を見ると、そこには10代後半くらいの少年がいた。
零同様、コックコートに白いスラックスをつけていたが、彼女と違うのは頭にはコック帽の代わりにバンダナを頭に捲いていた。
精悍な顔つきながら、どこか人の良さそうな顔をした、何処にでも居そうな少年だった。
「たかがバイト風情が何を言うの!?厨房に戻りなさい!」
「そのバイト風情に料理の腕が劣るからって、アシスタントに甘んじてるのは何処の誰だ?」
ぐ、と言葉を詰まらせる零。思いがけない事を知らされ私と文も絶句する
「その上お客様になんて顔させてんのお前。俺が作った料理を不味くする気かよ」
「接客も料理のうち。そんな事もわからねえからお前は三流なんだっつの」
「…………………………………………」何も言えず黙り込む零。
「戻れっつったな。ならお前も早く戻れ」
少年の言葉に不承不承と言った様子で厨房へ姿を消した零。それを見た少年は苦笑しながら私たちの方を向き、
「不快な思いをさせて悪い。今日の御代はいらないから」
「これに懲りずにまた来てくれな。その時は腕によりをかけてご馳走させてもらう。勿論タダで」
「それじゃまたのご来店をお待ちしてます…なんてな」
そういい残すと、彼も厨房へと戻っていった。
私は無言で席を立ち、出口へと向かう。
文が慌てて立ち上がったのが分かったけど、私は振り向かなかった。

街を歩く。まるで逃げるように早足で。
いや、実際文と顔をあわせづらくて逃げていたわけだけど。
「待ってくれよ…!」私の後を追ってくる文。
「追いかけてこないで…!」私は言うけれど、彼は私を追いかけるのを止めない。
それなら、と私は駆け足になる。
負けじと走り始める文。周囲からはさぞ奇妙なカップルに見えていることだろう。
追いかけて欲しくないのに。私はアンタに追いかけてもらうような女じゃないのに。
でも、追いかけてもらえる事がちょっぴり、嬉しくて―
私は、走り続けた。
ふと、視界が開ける。
目の前には、海が広がっていた。
聞こえてくる波の音。そして吹きつける潮風。私はしばし呆然とした。
「やっと…捕まえた…」その間に私に追いついた文がもう逃がすまいと私の手を強く握る。
「…なによ。なんで追いかけてくるのよぉ…」振り向かず、いや振り向けない私は半ば自棄気味に言う。
「聞いたでしょ。私は料理の修行の最中で逃げ出した卑怯者の半端者なの!」
「失望したでしょ?見損なったでしょ?ずっと隠してた事に腹が立つでしょう?」
「だから…もういいじゃない。ほっといてよ…もうそっとしてくれたっていいじゃない…」
でも…これでいい。これで文もこんな逆切れした女に呆れて、どこかに行ってしまうだろう。
レストランも辞めよう。いや、クビにされるかもしれない。
でも、仕方ない。もともと私はあそこに居る資格なんて無かったんだから。
なのに。なんで。私の手から彼の手の暖かい感触がなくならないの?
意を決し、振り向く。呆れ顔か、それとも怒っているのか。私はゆっくりと文の顔を見る。
そこには、私の予想を裏切り、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべる、彼の姿があった。
次の瞬間、私は抱きしめられていた。

「え…やだ…ちょっと…」思いがけない彼の行為に私は困惑する。
「もう、いいから」彼は、優しく私に語りかける。
「六華。もう自分を責めなくていいから」
「僕は、君の事をそんな風になんて思ってないから。だから―」
「そろそろ、自分を許してやっていいんじゃないか?」
その言葉に、私の中の何かが音を立てて切れた。
堰を切ったように、感情が溢れる。
押し留める事などもう到底出来ないそれは、涙となって私の目からとめどなく溢れる。
「ひっ…うう…うええええん…!」子供の様に、私は彼の胸で泣きじゃくった。
十数分後。泣き止み、落ち着きを取り戻した私は、文の胸から顔を上げる。
その後、しばらく私達は黙って海を眺めていた。
その沈黙を破ったのは、私だった。
「…フランスに行ってから、しばらくは順風満帆だった」ポツリ、ポツリと言葉を紡ぐ。
「先生にも認められて、周りの人たちにもチヤホヤされて、得意の絶頂だった」
「フランスに行く直前まで、不安でいっぱいだったから、なおさら」
「でも、だんだん行き詰ってきて。周りにも追いつかれて」
「自分と同じくらい料理が出来る奴は周りには掃いて棄てるほどいて」
「いつからだったのかな。楽しいから料理をするんじゃなくて義務として料理を作るようになったのは」
「いつの間に、そうなっちゃったのかな」
「誰かの為に作るんじゃなくて、自分の立場を守る為だけに、失望されたくないってだけの為に料理を作るようになったのは」
「気付いたら、料理を作る事が楽しくなくなってた。やりがいなんて、消えうせてた」
「慣れ親しんだ筈のキッチンや厨房、使い慣れ手に馴染んだ筈の食器や調理器具が、まるで見た事の無い異質なモノに見えた」
「まるで機械の様に、ただ先生たちや周りの人間に認められる為だけに料理を淡々と作る」
「私は、耐えられなかった。好きだった筈のモノに苦しめられたくなんて無かった」
「そう思ったらもう、一秒たりともそこに居る事が出来なかった」
「私は、フランスから出て行った」

「日本に戻ってから、色々な職を転々としたけど、長続きしなかった」
「アンタと再会した時帰国したばかり、なんて言っちゃったけど。アレ、嘘なんだ」
「途方にくれた私は、小鳥遊に行く為に駅に足を向けてた」
「そこに戻ったって、楽しかった高校生の頃に戻れるはずなんて、ないのにね」私は自嘲気味に嗤う。
「そして、ブンに再会したの。コレで話はおしまい」
「つまらない話でしょ?やむにやまれぬ事情があったわけでもなく、ちゃんとした理由も無い」
「ただ、嫌になったから止めたの。そこに居たくなかったから、逃げてきたの。ただ、それだけ」
「もう、分かったよね。私は自信に満ち溢れた一流シェフなんかじゃなくて」
「根性ナシで、見栄っ張りで強がりで。そんな弱い、ちっぽけな女なの」
「…そう。そういう事があったのか―」感慨深げに、うんうんと、聞いた事をゆっくりと噛み砕くように、何度も頷く文。
「で。それがどうしたの?」突然の問いかけ。私はワケが分からずキョトン、とした顔をしてしまう。
「どうしたのって…分かったでしょ?私がどんな女だって事が。零の言うとおり、ロクでもない女なのよ、私は」
「ロクでもない?まさか。そんな事言ったら全世界のロクでもない悪女が暴動起こすよ?」
「嫌な事、辛い事から逃げる事の何処が悪いのさ。勿論逃げっぱなしなのは、ダメだけどさ」
「君はずっと、その事で思い悩んできた。それなのに、僕の店でシェフをしてくれてる」
「なら、それでいいじゃないか」
「何度でも言うけど。僕は君にとても感謝してるんだよ?」
「君はさっき途方に暮れた、って言ったよね。僕もあの時、突然親の店を預かる事になって、剛と一緒に途方に暮れてた」
「だから、君に会えた時。まるで君が救世主の様に見えたよ」
「事実、君が居なかったら今頃『Bird Nest』はどうなってたか」
「今、あの店が在るのは、君のお陰による所が、とてもとても大きいのさ」
「あの店のスタッフの誰が欠けても、僕を含め代わりは幾らでも居る。でも君の代わりを探す事は、相当難しいと思う」
「君の料理目当てに来る人が、毎日沢山居る。分かるかい?君は毎日、とても凄い事をしてるんだよ?」
「それに比べたら、君の言ったような、小っさい事なんて、僕にってはどうでもいい事以外の何者でも無いよ」
一片の迷いも無く、彼ははっきりとそう言いきった。

「だから、もうそんな顔をしないで。卑屈になるのは止めよう?」
「いつもの、勝気で一本気で。強気でいつでも自信に満ち溢れてる君に戻ってくれよ」
「そんな君が、僕は―」
「好きだから」
コイツはなんて時に、何て事を口にしてくれるのだろう。
そんな事を言われたら、私はアンタとずっと一緒に居たくなっちゃうじゃない。
惚れ直す、って言うのはこういう事だったのか。と思う。
これ以上コイツの事を好きになるなんて無いって思ってたのに。
好きになる気持ちに際限なんて無くて。
嗚呼。私は、また恋に堕ちて行く。
コイツに。山田 文っていう男に溺れていく。
だからこそ次の台詞で、私はどん底に叩き落されたわけで。
「皆も、そう思っていると思うよ」
「…ふ…ふふふ…そうよね…急にブンが私に告白なんておかしいと思ったのよね…」
「LOVEじゃなくてLIKEってわけですか…」
「ちょ、ちょっと六華…?」
肩を震わせブツブツと呟く私に何か不穏なものを感じ取ったか、不安げに声をかける文。
「そうよねそうに決まってるよね期待して損したって言うか私バカよねお馬鹿さんよねって感じだわよねうふふのふー!」
「いきなりどうしたのかな?少し落ち着こうよってあれその硬く握られた拳は一体なんなの僕物凄く嫌な予感がするんだけどー!?」
「こんの鈍感男!いっぺん死んじゃえぇぇぇぇぇッ!!!!!」
「モルスァ」
私の放った右フックがクリティカルヒットし、文の体はまるで木の葉の様に宙を舞った。

場所は変わり、私達2人は電車に乗り帰途に着いていた。
余程私を追いかけて疲れてしまったのか、文は私の隣で穏やかに寝息を立てていた。
彼の寝顔を見ながら、思う。初めて会った時、何て頼りない奴、と思った。
紆余曲折を経て、文達と友達付き合いを始めるようになってからもそれは変わらなかった。
私が引っ張って、リードしてるって、ずっと思っていた。だけど―
それは、大きな間違いだった。
強引に引っ張っていく私に、文は何も出来なかったわけじゃない。
黙って、私を支えてくれていた。寄りかかっていたのは、自分だった。
それを知ったその日から、私の頭の中から文の事が消える事は無かった。
いつもは頼りないヤツだけど、
                                               好き。
だらしない所のあるヤツだけど、
                                               好き。
何をやってもしまらない情けないヤツだけど、
                                               好き。
呆れるくらい私の気持ちに鈍感で、時々腹が立つけれど、
                                               大好き。
そんな奴に。私は惚れた。惚れぬいて、しまったのだ。
その、寝顔に引き付けられる。
もっと近くに行きたい。彼に触れたい。
その気持ちはもう抑えられなくて―
「ん…」彼の唇に、私の唇を重ねた。
少し苦い、タバコの味。やめて欲しいかな、と思う。
「ふふ…今日はこの辺で、カンベンしてあげるから」
何も知らず眠る文に向かって、私は悪戯っぽく笑った。


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