その8

「君を愛して、俺は泣いて」

少しかすれた、にごった音声が俺に届く。
それは電話ごしで聞く声の特徴だ。
「……で、わかったの?高志」
「うるっせぇな……何度も言わせんな」
俺をいつまでも子供と見下していてる声。わずらわしくなる。
だからつい、俺の口調は荒くなり、そのたびに後悔する。
こんなこと……八つ当たりと一緒だな。
長く、深いため息がスピーカーから聞こえた。
「……わかった。じゃあ、詳しい予定とかはあんたに任せるわよ?」
「オッケ、じゃあ切るぞ。お休み」
返事を聞かずに、携帯のボタンに手を伸ばした。
「………だりぃ」
携帯をベッドに投げ飛ばし、部屋の窓を開けた。
一月の冷たい風が、頬をなでていく。
「寒いな……」
白く染まる息。寒さで顔に走る痛みと心地良さ。
そんなものが、今の俺の鬱屈した気持ちを洗い流してくれることを願ってた。
目尻からは、一筋の涙が零れていた。


授業が終わり、ある生徒は受験勉強のために学校に残り、ある生徒は塾へ向かう。
かく言う俺も受験のためそれなりに勉強しなければいけない。のだが、
「高志!一緒に帰ろ?」
一足先に私立の音大へと進学を決めたかなみは、のんきに声をかけてきた。
「……わりぃ、俺受験勉強あっから図書館残る」
荷物をまとめ、立ち上がる。
「そんなの家でやればいいじゃない!高志なら大抵の大学は大丈夫だって」
それでもかなみは食い下がった。何も考えてない笑顔。とても無邪気な笑みで。
「……お前―――」
お前はもう進学決まってるからいいよな。そういってやろうと思った。
けど、その言葉は必要なかった。
かなみの笑顔が曇ったから。
「……ごめんね。無神経で」
硬く、繕った笑顔。そんな顔、すんなよ……。
髪をかきあげ、吐息。
「……ごめん、今度一緒に帰ろうぜ」
「……いいよ、私、迷惑かけちゃうし」
「そう思うなら、受験終わったときでも、な。それならいいじゃん」
「……うんっ」
笑って、くれた。
「……約束だよ」
「うん、約束だ」
ああ、俺は何をしているんだろう。
かなみの笑顔を見る度に、心が満たされていくのがわかる。
かなみの嬉しそうな声が、俺の脆い部分に響くのがわかる。
そして俺は、また後悔する。
満たされていく俺は、詰め込んだ幸せのぶんだけ涙を流す事を知っていくから。


かなみと別れ、図書館へ。
ちなみと山田が先に来ていた。
「ごめ、遅くなった」
「謝る事じゃねえよ、あ、そこ座れ」
山田が示した席に荷物を下ろし、自習の用意をする。
英語の参考書、ルーズリーフ、バインダー、英和辞典。
それらを机に並べ、ウォークマンを耳にセットして自習を始める。
耳に流れ込むのはあんまり流行ってないヴィジュアル系バンドやロックバンドの曲。
かなみ達がバンドでコピーした曲を貸してもらったんだ。
意外に名曲ぞろいで、すっかりはまっちまった。
長文論述の英語を片端から訳していき、メロディーに聞き惚れる。
そして、ちょうど十曲目が始まったときだった。
「……ん、…まえ……たく…いか?」
山田が俺に何か言った。
大きめに設定した音量のせいでうまく聞き取れなかった。
「ちょっと、待て」
イヤホンを取り、改めて山田のほうを向く。
「で、なんだって?」
「いや、だからお前最近かなみに冷たくないか?」
いたって真顔で聞かれた。
「……気のせいだろ」
だから俺は、心底真顔で答えるしかなかった。
「そうだったらいいんだけどね」
そこで数式を連ねていたちなみが、手の動きを止めて俺に向き直る。
「図書館に来て、一緒に帰らないとかならいいのよ。でも、最近の別府は休み時間とか登校中とかも、あの子を避けてるような感じがするのよ」
「……それ――」
「それも気のせいだとは言わせない」
断言された。
わかるの、私達はあの子の友達だから。
そして、追及された。
あなたは、そんなこともわからないの?
「…………」
「何があったかは、知らないけれど」
ちなみは、まっすぐ視線で俺を射抜く。
「かなみは、大事にしてあげて」


空はすでに群青に染まりつつあり、僅かに緋色が空の隅にある。
長く伸びた自分の影を、ぼんやりと見つめながら歩く。
一人で帰る違和感も、最近は無くなってきた。
そう、かなみが隣にいないことに慣れつつある自分がいる。
羽織ったコートのポケットに手を突っ込んで、白く湿っぽいため息。
さっき言われた一言が、ずっと心に反響している。

かなみは、大事にしてあげて。

「………わりぃ」
呟いた言葉が、誰かに対する懺悔であったとしても。
涙声の謝罪は届くべき人を見失ってほどけていき、もう誰にも届くことはない。
できるだけ俯くようにして、早歩きで家に帰った。


今日も、高志はそっけなかった。
私こと椎水かなみは、ベッドで布団にくるまりながらまた同じ結論に達した。
枕もとのコンポは、売れずに解散したバンドの曲が流れている。
片思いの女性を描いた曲で、メロディーが秀逸、それに歌詞がいい。
「高志、どうしたんだろうねえ?きゅーちゃん」
寝るときいつも抱いているきゅーちゃん(ジンベイザメのぬいぐるみ、すっごいラヴ☆)に聞いてみても、返事は帰ってこない。
「でもね、こんど一緒に帰ってくれるって約束したんだよ?」
「だから、その時『今度遊びにいこう』って誘うつもりなんだ」
「今度の卒業式とかに、たぶん一緒に帰れるんだよ」
「ちょうどその時はバレンタインデーでさ」
「えっとね、だから……渡そうかな…って」
って、なんでぬいぐるみ相手に赤くなってるんだろ。
こんなんだから、高志にうまく接せないんだ。
普段は素直に話せないし、今日みたいに自分の都合を押し付けたりしちゃうし。
私、どうしてこうなんだろ。
もっと、相手の事を考えなきゃ。
そして、もっと、自分の気持ちに素直になりたい。
そう、今流れているこの曲のように。

好きよ ずっと どんなときも あなたを愛してるわ

震えるほど切ない恋 あなたへ届けたくて

「……卒業式の日、高志に伝えられるかな?」
疲れがたまった体に纏わりつく眠気に耐えられず、私は眼を閉じる。
最後に紡ごうとした言葉は、声ではなく唇で母音を発音した。
「う い あ お」 と。


退屈と鬱屈を紛らわすためにつけたテレビでは、タレントが大声で笑っていた。
本当に幸せそうで、くだらない。
チャンネルを変えようとして、リモコンを伸ばしたと同時。
施錠した玄関の鍵が、外から開いた。
トントンと廊下を叩く音がして、視界の隅のドアが開いた。
「……ただいま」
「……久しぶり、姉貴」
そこには、数ヶ月ぶりにみるこの家の家主が立っていた。
「どこ行ってたんだっけ?今回は」
「ニューヨーク」
「あ〜、お疲れさん」
他愛ない言葉を交わし、目の下に隈を作った姉貴――別府はるかの顔を見る。
肩までだった髪が伸びて、肩甲骨を覆うぐらいまでになっている。
シンプルなヘアピンをつけていて、ふちなしのめがねは前と同じだった。
姉貴の仕事は、ジャーナリスト。それも国際的な問題専門だ。
日本と関係を持つ諸外国に、記事のネタが発生すればそこへ滞在しに行き数ヵ月後ひょっこり帰ってくる。そのあいだ集めていた資料は向こうやこっちで記事になり、それで飯を食う。
「毎度毎度、よくやってくるよな。信じられん」
「好きでやってる仕事だもん、ちっともしんどくないにょ」
「それが信じらんねぇっていってんの。で、ビールでも飲む?冷えてっけど」
「うん、頂戴」
無愛想に返事をする姉貴に懐かしさを思って、冷蔵庫からビールを取り出す。
コップに注いで、姉貴に差し出すと一気飲みしやがった。
「〜〜〜〜〜あぁ」
バカみたいな声とため息をつき、からのコップを俺に渡す。
お代わりという意味だ。
だからもう一度コップをビールで満たし、姉貴に返す。
今度は一口だけ飲み、残りはテーブルに置いた。
そして俺のほうに首を向ける。
「もうそろそろ、だね」
その言葉が示す意味は、単純明快。
「そうだな」
「もう、予定とかは決めたの?」
いつ、発つか。
「まだ余裕あんだろ。そのうち決める」
本当はそんなこと、考えたくもないんだ。
「……早い目にしときなさいよ、そうでなくても色々忙しくなるんだから」
「……わかってんよ」
「よろしい」
姉貴は満足げに頷いた。そして大きなあくびをして、
「あたし、そんなに長くここいられないから。こんどはイランにいってくる」
「いつだよ?」
「明後日」
急だな……。いつものことだけど。
姉貴は大きく伸びをして「疲れた〜」といった。
「疲れてんなら寝ろよ。ベッド使っていいし、俺は布団敷くから」
「ん、ありがと」
残りのビールを飲み干し、目尻をこすりながら寝室に向かう。
「あ、それから」
本当に姉貴は、思い出したように。
「友達とのお別れも、早い内にしときなさいよ?」
ドアが閉まる。部屋には俺一人しかいない。
「……ああ」
テレビからは、さっきからずっと馬鹿げた笑い声が響いている。
バカにしたり小突きあったりしながら、それでも笑顔で向かい合える。
それが、すっげぇ鬱陶しくて、ほんの少し羨ましい。


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