その9

「じゃあ、さよなら」
「お疲れ様、山田君」
予備校の受付のお姉さんは、いつも愛想がいい。
柔らかな微笑みに微笑みを返し、玄関を出た。
右手に持った傘を差し、腕時計を確認するとすでに十時を回っている。
「遅くなっちまった……」
小さく鼓膜を叩く雨音の中、ポツリと独り言を呟く。
濡れた夜道を踏みしめて、ネオンや照明で満たされた駅前から裏道へと外れる。
手提げに入れた教科書やノートが、少し重たい。
「志望大学合格率、20%…」
数字が示す意味は、五回に一回落ちるとかいう意味ではなく、余程のことがないと合格しませんよ、という意味だ。
「これがちなみと、俺の差か……」
俺が志望しているのは、ちなみと一緒の国立大学だ。
ただでさえ偏差値で7ほど上の大学。めっちゃ焦ってる。
塾の講師(独身、男27歳)が言うには、
「お前は数学が得意だから苦手な英語でコケなけりゃどうにかなるんじゃねwwwww」
だそうだ。とりあえず殴っておいた。
ため息と同時に吸い込んだ空気は、濃厚な雨のにおいがした。
〜♪〜♪〜
「ん?」
腰の辺りから電話着信を知らせる電子音が鳴る。
サブディスプレイに表示された文字を見てから、電話を取る。
「もすもす」
『あ、もしもし。ウィンナーピザファミリーサイズください、生地抜きで』
「すいませんねぇ、ウチのピザ具は抜けないんですよ」
『……』
「……」
『ネタにマジレス……』
「うるさい馬鹿、何の用だ」
電波の向こうの別府が、息を吸い込むのがわかった。
『話が、あるんだ』
「あ?悪いが俺はそんな趣味じゃ……」
『結構、真剣なんだけどな……』
誤魔化すように別府は苦笑した。
「……悪ぃ」
『いや、気にすんな』
変な違和感を感じる、いつもの別府じゃない。
「とにかく、話せよ。聞くだけ聞いてやっから」
だから俺も柄になく、真剣に話を聞く事にした。


「―――――、って訳だ」
『そうか……』
話すだけ話すと、心が軽くなったような気がする。
もちろんそんなものは錯覚でしかないんだろうけど。
けどやっぱり、そんな感覚にさせてくれる友達がいたことに、感謝したい。
『でさ……お前』
「あ?」
『この事は、かなみに話したのか?』
ずきり、胸の奥が痛む。
「いや……まだだけど……」
『俺が言うことじゃないんだろうけど……知らねーぞ?』
「何がだよ?」
ぴきり、心の芯が痛む。
『急にこんなこと話したとして、後悔するかもしんねーぞってことだよ』
『ちなみには、俺が言っとくから、お前は早い内にかなみに伝えろ。いいな?』
「ああ、わかってんよ」
わかっては、いるんだよ。
『そうか。じゃあな、お休み』
「ああ、お休み」
電源ボタンを押して、通話を切る。
パキリ、と少し強めの力で折りたたんだ携帯を置いて机の上を見る。
かなみに借りたCDやMDが乱暴に置かれていた。
「……くそ」
舌打ち一つ、それらを丁寧に整理していく。ゆっくり、優しく。
まるで、かなみとの記憶を大切にしまいこむように。
パラパラと窓を叩く音で、雨が強くなったことが分かった。
降りしきる雨は、無邪気に、非情に、俺の心を揺さぶっていく。
「どうせなら……全部洗い流してくれよ」
俺の記憶も、この淡い想いも、全部。


「この……意外に難しいのよね…」
震える手を何とか抑え、作業を続ける。
さっきデパートで買った高めのハート型チョコに、ホワイトチョコを塗る作業だ。
たった数文字チョコで書くだけのことが、結構難しい。
けど、その難しさもなんとなく楽しかったりする。
「できた……」
試行錯誤を繰り返し、ようやく完成したそれを改めて見る。
中々の出来栄えだ。
「I LOVE YOU」と書かれたそのチョコを丁寧にラッピングして、大切にしまう。
明日……がんばらなきゃ。
晩御飯だよと呼ぶお母さんの声を聞いて、私はリビングへと向かった。


木枯らしが当たって、耳が痛い。
首に巻いたマフラーに、出来るだけ顔をうずめて道を行く。
「サボって家で勉強しときゃよかった……」
よく考えたらつくづくそうだった、と一人で頷く。
いつもは賑やかな通学路も、今日は人通りがまばらだ。
なぜなら、俺達三年生は一、二年生より遅く通学してもいい日だからだ。
「そっか……もう卒業なんだよな…」
春に転校してきて一年。
たった一年なんだけど、楽しかったぜ。
最低だった、前の学校に比べたら。


エコノミークラスの座席は、とても窮屈だ。
イランに向かう飛行機の中、背中とお尻の痛みに耐えつつ弟の事を考える。
地元の親からの
「来月から高志はそっちに行くから。」
という何の脈絡もない連絡が来たときにはさすがの私も驚いた。
普段は使ってない部屋だ。その方が払った家賃の元も取れる。
気軽に頷いた自分の考えが甘かったことを知るのは、五年ぶりに高志を見たときだった。
私の記憶にある高志とは、まったく違っていたからだった。
身長が伸びたとか、体つきががっしりしていたとかそんな違いじゃない。
眼が、違う光を宿していた。
高志が持っていた優しい眼と暖かい笑顔が消えて、戦慄した感覚は今も思い出せる。
眼は悲しそうに濁り、表情は寂しそうな無表情。
私の前では必要以上に明るくなり、他人と接するときには自嘲気味に微笑んだ。
肉親であるはずの弟のことが分からなくなり、戸惑った。
両親に聞いてみると、ただ「いじめ」という単語だけを聞かされた。
靴を隠されたりするなど、そんな優しいものじゃない。
机は倒され、ノートはトイレに沈められ、喋ろうが暴れようが気に留められず嘲笑される。
とどめは、それを教師に訴えても何もしてくれなかったこと。
「注意する」「なんとかする」そうやってお茶を濁され、本当に二三言注意してはい終わり。
そして親は、転校させることを決意した。
今思えば弟の変貌は、周囲の人に対するあの子なりの訴えだったのかもしれない。
ねえ、お姉ちゃん、助けて。俺、もうこんな笑い方しか出来ないよ。
そんな弟を残して日本を発つのは、本当に苦しかった。
デスクワークに没入しようと、取材に汗を流そうと、常にそのことは頭の隅に残っていた。
けれど、帰国したときそれは杞憂だった事を知る。
高志に、少しだけ暖かみが戻っていた。
何があったかは知らない。けど、何かあったことは分かった。
多分、これは憶測なんだけど。
「いい友達が、出来たんだね……」
雲の上に飛翔した飛行機の窓から見える景色は、澄み切った空と眩しく白い雲だけだ。
もう見えないわが町に、暖かい春が訪れる事を祈って、私は仮眠をとることにした。


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