――タタン、タタン。
――タタン、タタン。
漸く暖かくなりはじめた陽射しの中、三両編成の鈍行列車はゆっくりと走っていた。
三月の澄みきった空は、太陽をより一層輝かせているようだ。

半まで開いた窓。
そこから鼻をつくような新緑の匂いが、まだ冷たい風に乗って吹き込んでくる。
くたびれた文庫本のページがパラパラと捲れ、陽の差し込む列車の唯一の乗客はゆっくりと顔を上げた。
窓の向こうには見渡す限りに広がる田畑。雲一つない空には一羽の鳶が弧を描いていた。
「ん…。」
青年はそっとまぶたを閉じ、その緑の風を胸一杯に吸い込んだ。
瞼の裏側に、懐かしい景色が次々に蘇ってくる。
春夏秋冬、昔日は皆美しく、過日は二度と還らない。
幼い日々を共に過ごした仲間達は今頃何をしているのだろうか。そして、自分は。
彼はその思いを胸の中の空気と一緒に吐き出した。
目を開ければそこには、先程と変わらぬ閑な風景が流れていく。
この風景もいつかは変わってしまうのだろうか。

ガタタン、と列車が揺れ、アナウンスが駅に着いた事を知らせる。
《桐畑、桐畑です。お降りのお客様はお忘れ物のございませんよう、お気を付け下さい。》
ホームと車道の間にはフェンスが一枚。なんとも寂れた無人駅であった。
彼の降りる駅はここではない。くたびれた文庫本を開き、読み始める。

『――――…。』
ふわり、と甘い香りが漂い、彼は再び視線を上げた。
そこには若草色のワンピースを着た、綺麗な女性が立っていた。
『…ここ、よろしいですか?』
上品そうな顔立ち。肩にかかる栗色の髪は吹き込む風に揺れている。
優しげに微笑むその姿はどこか、幼い日に見た母の姿に似ている。彼はそう思った。

『………?』
「あ、すいません…。ど、どうぞ…。」
慌ててボックス席の向かいに置いていた荷物を動かす。
その時列車が動きだし、彼はバランスを崩してしまった。
「うゎ!?」
どしん。座席の間に尻餅をつく。
『きゃあ!』
どさっ。ほぼ同時に女性が抱きつくような形で彼の上に倒れ込んだ。
「っつぅ……。」
『うぅ…。』
目を開ける。青年の目の前には彼女の顔があった。
栗色の髪からは、甘い、ジャコウの匂いがする。クラクラとめまいのするような。そんな匂いだった。

『すいません…。あの、お怪我は…?』
ぼうっとしていた彼は、その声で我に帰る。
「あ、はい…だ、大丈夫…です…//」
彼の声は明らかに上擦っていた。
彼女はそんな彼の様子を見て、クスリと笑った。
青年の顔は、更に赤くなっていた。

…火照った頬と耳にあたる凉風が心地よい。手垢のついた本のページをゆっくりと捲る。
彼の心臓は、さっきからずっとドキドキしている。先程のとても甘く、心地よいの香りがそうさせていた。
「………。」
しかしなぜこの女性はこの誰も居ない列車の、それも知らない男の向かいに座っているのか。
彼は不思議に思い、彼女に視線を移した。
差し込む陽の光に目を細めた彼女の視線は、窓の外に向けられていた。
その水彩画のような美しく淡い横顔は、とても儚くみえる。彼の視線は自然と彼女へと向かってしまう。

『…本、読むの好きなんですか?』
「あ、いや…この本は昔友達に貰った本なんですよ。」
突然話しかけられた。今度は落ち着いて話す。
『お友達…ですか?』
「ええ。もう内容は覚えちゃってるんですけど…何と無く手放せなくて。」
彼は苦笑しながら喋る。
『ふふ…よっぽど大切なお友達から貰ったんですね。そんなボロボロになるまでお読みになるなんて。』
彼女の顔には笑顔が溢れていた。その笑顔からは何故か懐かしい、そんな感じがした。
「はは…、そうですね。…幼馴染みと言うか。」
『……ふふふ。』
なにが面白かったのか。彼女は突然笑い出した。
「あ、あの…?」
『ふふ、くくくく…っ!』
必死に笑いを堪えているようだが、肩が震えている。
『だぁはっはっはっ!』
豪快な笑い声が列車の中に響く。
「え?え?」
『いひ、ひぃっひっひ…お、お腹いた…ぁははは!』
お腹を抱え、笑う。彼女の目尻にはうっすらと涙までたまっていた。
『はひっ…ひぃ…あ、あんた…まだ分かんないわけ?』
「…………。」
青年は首を傾げるばかりである。彼にはなぜ彼女が笑っているのかが、全く分からなかった。
彼女は涙を拭き、彼に向き直った。そこには先程までの儚さは、みじんも無かった。
『ほら、私よ、わ・た・し!』

――ほら、私よ、わ・た・し!
私と言われても。彼は繁々と彼女の顔を見つめる。
そして、首を捻った。
『あんた…そういう鈍感なところも全っ然変わってないわねぇ。ほら、これで分かる?』
彼女はさらさらとなびく髪を指で束ね、ツインテールを作って見せた。
「………?」
「………。」
いつの間にか彼女の笑顔は、女性…というよりは少女。女の子と言ってもいい、あどけないものに変わっていた。
『………。』
「……………!」
彼の頭の中で、点と点が繋がる。
そして彼女の顔は、得意満面…いや、悪戯に成功した子供のそれになっていた。




「あ゛ぁ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!?」
彼の絶叫が、列車中に響き渡る。いや、きっと外にも聞こえていただろう。
最も、寂れた線路沿いには人間の姿など無かったが。
「か、か、かなみ……!?」
青年は目の前の少女の顔を指差し、口をぱくぱくさせながら、やっと声を出した。
『はぁ、何で気付かないのかしらねー?このタコスケは。』
彼女はわざとらしく溜め息をつき、彼を見据えた。

かなみと呼ばれた少女は今、恐らく心の底から、ニヤニヤしている。
「…うそだろ?」
一方の青年は未だに事態が飲み込めていないようだった。
『嘘ってなによ!嘘って!』
彼女は眉を吊り上げ、怒っている。
「またまたご冗談を…かなみがこんな綺麗なわけn」
ぶんっ。右拳が綺麗な弧を描き、青年の顎を砕いた。
「もるすぁ!?」
…このパンチ。本物だ。彼は確信した。
「い、いてぇ…。本物…みたいだな…。」
『…なんだか腑に落ちないけど。許したげるわ。』
そういうと彼女はケラケラと笑った。
しかし、最初に見たときの…大人の女性、という雰囲気は全く無かった。
今、彼の前にいるのは紛れもなく幼い日々を共に過ごした幼馴染みであり、悪友であった。

『…で、電車に乗ってみればアンタがいたって訳。そんでちょぉっと、からかってやろうってね。』
「…人違いだったらどうするつもりだったんだよ…。」
青年は半分あきれた様な、諦めたような顔をして呟く。
『アンタみたいなマヌケ面、見間違える分けないじゃない。』
少女は本当に嬉しそうに、少なくとも他からはそう見えた。
「………はぁ。」
『ふーん。誰でしたっけ?キレーなおねいさんに鼻の下伸ばしてたのは?』
「ぐ…あ、あれは…!」
『顔まで真っ赤にしちゃってさぁ。意外とアンタ、ウブなのね?』
…青年がかなみと呼ばれた少女にやりこめられるのは、時間の問題だろう。

列車は相変わらずゴトゴトとゆっくり走っている。
『で?今更何しに戻ってきたの?』
「傷心旅行。」
彼はぶっきらぼうに答えた。
『…フラレた?』
「いんや。就職浪人したから。なんとなく。」
『ふぅん…。』
かなみはつまらない、と言った感じで話を聞いている。その横顔には、先程とはまた違った魅力がある。

『で、どうなのよ?こっちの方は。』
彼女は小指を立て、ニンマリと笑いながら青年に尋ねた。
「…うるせー。人の傷に触れてくれるな。」
そんなやりとりをしている間に鈍行列車は、終点に到着した。
「やれやれ…よっこらせ、と。」
『オヤジくさ…』
荷物を背負った彼に、かなみは辛辣な言葉を投げ掛けた。
「うるさいっつぅの。」
その反論をすり抜け、彼女は先へと歩いていく。
『…綺麗、か。…ふふ。』
かなみは青年に背を向けたまま、ポツリと呟いた。
「なんか言ったか?」
『なーんにも。』
少女は、笑顔のまま返事をした。

そして一足先にホームへ降り立った彼女はくるりと振り返り、再会した時のような優しい微笑みを浮かべ、こう言った。
『おかえり、タカシ。』
「おう。ただいまだ。」
タカシ。そう呼ばれた青年は、彼女に笑顔で答えた。

二人の目の前を一台のバスが通りすぎていく。
青年は時刻表を見て呟いた。
「あー。次は…一時間後だな。」
『ったく!アンタがちんたら歩いてるからでしょ!』
彼女が不平を漏らした。
この街には、日に10本程度しかバスが走っていなかったのだ。

彼等が今しがた通ってきた駅前は開発され、昔の姿はそこにはなかった。
こんなものか、青年はそう思った。
幼い日に遊んだ小川はコンクリートで固められ、茶色い水がちょろちょろと流れている。
「…へぇ。少しは都会っぽくなったんだな。」
タカシは少し皮肉を込めて少女に話しかけた。
彼女は振り返りもせずにそれに答える。
『…うちとしてはお客さんが増えるからありがたいんだけど、ね。』
でも、昔遊んだ場所が無くなるのは少し寂しいな。と彼女言った。
彼女の実家は、この近くで小さな旅館を経営しているのだ。
彼…タカシがこの街を離れて8年が経っていた。歳月は街、人、全ての景色を変えて行く。
たった8年。8年も。受取り方は人それぞれである。
……月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。故人はそう言った。タカシは一体、どう感じたのだろうか。
「ま、ガキの頃とは俺達も変わったんだし。良い思い出だよ。」
彼は自嘲するように言葉を吐き出した。
『…それもそうね。』
そう答えた彼女の後ろ姿はどこか寂しげであった。

二人がいるバス停は再開発された駅前とはうって変わり、静かに畑の中に在った。
そよそよと吹く風は相変わらず新緑の香りを運んでくる。
「…文句言うなら、先、行けば良かっただろ?」
『む……!』
何か言おうとしたが、結局彼女はふてくされた表情のまま、そっぽを向いてしまった。
ベンチに腰かけた彼女の髪が、そよ風になびいていた。

『でさ、どれくらい…その、こっちにいんの?』
「ん〜、わからん。」
ベンチに腰かけた少女に彼はそう答えた。
『泊まる場所は考えた?』
「…実家が生きている事を信じる。」
このタカシという青年は、計画性と言うものがないのだろうか。
『そんな事だろうと思ったわ…』
そして、よかったらウチに泊まらないか。お代はまけたげるから。彼女は遠回しにそう言った。
考えておく。彼は少し考え、そう答えた。そして彼女は嬉しそうにに頷いて見せた。

地平線の先まで真っ直ぐに走っている道を少女は見据えている。
その横顔は、淡く、儚い。だが同時に、美しかった。
「なにボーっとしてんだ?」
『ひぁ!?』
冷たいものが首筋に触れる感覚に彼女は思わず飛び上がった。
『な、なにすんのよ!?』
「ほれ、ジュース。」
『あ…ありがと。』
目の前に突き出された缶ジュースを受取り、彼女は再び遠くを見つめている。
『……。』
「んー。さっきも思ったけどさ、お前…」
綺麗になったよな。ガキの頃からは想像出来ないくらいに。
少女はそれを聞くと、彼の瞳を暫く見つめた後、笑ってこう言った。
『あははは。アンタ、もしかして口説いてる?』

『そーかそーか。あんたもやっと私の魅力に気付いたかぁ。』
うんうん、と彼女は一人頷いている。

「いってろ。」
『なによー!』
こうやって戯れている時の彼女は、あの共に遊んだ時から変わっていなかった。

ふわり、と梅の花の匂いが青年の鼻孔をくすぐる。
「梅の花か…。こんなところに咲いてたんだな。」
『あ、ホントだ…。』
二人が見上げると、バス停の裏手にひっそりと、一本の梅の木がはえていた。
かなみは、風に乗って舞い落ちる花びらを掌で掬う。
『綺麗……。』

人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける

人の心は変わってもこの梅の香りだけはかわらない。
…しかしやがてはこの梅も枯れ、朽果てる。そして全ては土に還るのだろう。俺も、かなみも。
彼は、かなみの姿を眺め、そんなことを思った。
『な、なによ…』
「いや。ただ、綺麗だと思っただけだ。」
『…梅の事?』
『お前のことだよ。』
タカシはからかい半分でそう言ってみた。
しかし彼女は、耳まで真っ赤にしてうつ向いてしまった。
『ば、ばばばばかぁ…!!////』


沈黙。はらはらと舞い落ちる梅の花びら。
そのなかに佇む若草色のワンピースが揺れている。
風に流れる栗色の髪の甘い匂いは梅のそれと混じりあいなんとも甘酸っぱく、そして切ないような。
そんな香りで二人を満たしていた。
「…はは。」
彼は笑う。
『…なによ…///』
「は、ははは…!」
腹の底から笑う。
『もー!なんなのよ!馬鹿ぁ!///』
真っ赤になった彼女が怒鳴りかえす。
大人になった今でも、彼女は昔の魅力を留めていた。
彼にはそれが嬉しくて堪らなかったのだ。
徐々に暖かみを増す陽射しの中、二人は子供の頃と同じように、戯れ、じゃれていた。


やがて二人はノロノロとやって来たバスに乗り込む。
木漏れ日の中を走るバスの中、かなみは随分と機嫌がいい様子だった。
『ふんふんふーん♪』
「なんだぁ?」
『べっつにぃ?』
彼女は一つ前の席に座ったタカシの髪の毛をいじって遊んでいる。
「やめろっての!」
『うるさいわねー!』
そういって彼女は、彼の髪の毛をくしゃくしゃにする。
「ぅわ!ばか!苦し…」
ヘッドロックをかけられ、もがくタカシ。しかし、なかなか外れない。

『ね、ずっとこっちで暮らさない?みんなとまた、一緒にさ…』
ふ、と彼女の力が緩んだ。
『昔みたいに…ね?』
彼女の表情は、脆く、触れば崩れてしまいそうなほどに、儚い。
「…昔みたいに、か。俺もお前も昔とは違う。やっぱり…ぐぇ」
彼女はタカシの言葉を最後まで聞きたくなかったのか。腕に力を込め、彼の声帯をおし潰す。
『変わらないよ…。ずっと…。』
私の心は。アンタへの気持ちは。
しかし彼女の思いが、口から出ることはなかった。
「げほっげほっ!…お前少しは手加減てものを……かなみ?」
彼女の頬には、一筋の涙が伝っていた。
「かなみ…?」
タカシは指でそっと、滴を拭ってやる。
『ん…ごめん。何でもないから…。』

結局それきり、バスを降りるまで彼女は一言も口を開く事はなかった。
吹き抜ける風はいつの間にか湿気を含み始めていた。
遠くに見える山の陵線からは鈍色の雲が、ゆっくりと流れ込んできていた。そう、ゆっくりと。

雑草が繁茂する正門の前に立った彼は、蔦の絡み付く門を見上げ沁々と呟いた。
「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり、か。」
もちろん秀衝が屋敷とは比較にはならないであろう。
しかし彼の目に写ったのは、それにも負けぬ立派な屋敷であった。
ただし、随分とまた、荒れ果てていたが。
彼はバリバリと蔦を剥がし、門を力一杯引く。
「ふ…ぬぉぉ…!!」
湿気を含んだ木の門がギギギと、重たそうな音を響かせながら徐々に開いていく。

『…こりゃ酷いわねぇ。』
少女は思わず顔をしかめた。
開いた門の奥には、彼の実家である古びた日本家屋が黙然とそびえていた。
しかし石畳の隙間を縫う様にして生い茂っている笹、蔦、名も知れぬ雑草達。
「8年でこんなになるのか…?」

鬱蒼とした庭を掻き分け近付いてみれば、屋敷の瓦は落ち、漆食の壁には皹が入っていた。
外れかかった雨戸の下には、割れたガラスが散らばっている。
「こりゃまた…」
『そりゃ毎年台風やらなんやらに晒されてれば、ねぇ?』
傍らの少女…かなみは、当然といった顔付きでいる。
「む…。ま、中身が生きてりゃいいんだよ。中身が。」
彼は錆び付き、とうの昔に本来の役目を果たさなくなった鍵穴に鍵を無理矢理差し込み、回した。

メキッ。
「あ。」
『あら、御愁傷さま。』
嫌な音と共に鍵は根本からなくなり、彼は今晩からの寝床を失った。

ざわざわと草木が揺れ、彼の顔を濡れた風が撫でていく。
「…畜生。」
遥か高くを見上げた青年は、悪態をついた。
染みだした雨雲はいつのまにか広がり、大空は一分の隙もなく鈍色の雲で溢れている。

『雨…降りそうね。』
かなみは頬に張り付く髪を払い、青年に言った。
『ウチに来るんだったら、走れば降りだす前につくかもよ?』
ニヤニヤしながらかなみは彼に囁く。
「…スマン、厄介になる。」
…金、ないんだけどね、と最後に付け加えた。
『つけといたげる♪』
…負けてくれるんじゃなかったのか。
そんなことを思いつつ実家に別れをつげ、彼は走り出した彼女の後を追い掛けていった。
彼女は自分の頬が緩んでいることに気付くと、ぐっと走るスピードをあげた。


廊下を掃いていた手を止め、彼女は顔をあげた。
窓の向こうでは、雨が降り始めていた。
空から落ちてくる滴は全てを洗い流してくれる。
望むもの、望まぬもの。雨は全てを平等に清め、圧し流してしまう。
彼女がぼうっと、そんなことを考えていた時だった。
新緑の中、曲がりくねった道を小さな点が二つ、動いているのが彼女の目に写った。
?『あらあら…かなみったら…』
段々と近付いてくる点はどうやら人間のようだ。
彼女にはそれの片方…一人が我が娘である、とすぐにわかったらしい。
もう一人の方は…誰かしら。まあいいわ。
彼女はバスタオルを二枚持って、ぱたぱたと廊下を走っていった。

『あーもー!』
降り頻る雨から逃げるように一人の少女が広い玄関に駆け込んできた。
若草色のワンピースを着た彼女は濡れた髪をかき上げ、遅れて駆け込んで来た男に悪態をついている。
『なぁにちんたら歩いてんのよ!お陰でずぶ濡れじゃない!』
「…何で俺のせいにするかね?」
大きめの荷物を抱えたその男は濡れた前髪をかき上げ、大きな溜め息をついた。
『あんたがあんなボロ屋に寄り道するからでしょ!!』
「…お前、俺より足速えぇんだから先行けばよかったじゃん。」
水を含んだ荷物は彼の肩から離れ、ドチャリと重そうな音を立て床に吸い付いた。
『な、そ、それはアンタが一人じゃ寂しいと思って…』
「あのな、ガキじゃないんだから…」
(彼にとっては)わけの分からない言い訳をする少女に背を向け、ぽたぽたと雫を落とす上着を脱ぎ、彼は言葉を続ける。
「…いや、お前はガキの頃から変わってないか。」
うんうん、と一人頷きながら彼は上着を脱ぎ捨てた。
『う、うるさいうるさいうるさーい!!』
…彼女は何をそんなにムキになっているのか。
あの列車の中で見た彼女の姿は幻だったのかもしれない。
彼がそんな事を思いつつ猛り狂う少女をなだめていた時だった。
?『あらあら。あなた達、風邪ひいちゃうわよ。』
柔らかな声と共に、ふわり、とタオルが二人の頭に被せられた。
?『それにかなみ、お客さんにそんな口の聞方しちゃ…』
『あ…お母さん!こいつはお客じゃないわよ!』
タオルの隙間から見えたのは藍色の肝のを着た女将と、彼女を母と呼ぶかなみだった。


「あ、すいません…」
タカシは差し出されたお茶を受け取った。
視線の先には先程の女性がニコニコと笑みを浮かべている。
?『ホント、久しぶりねぇ…中学生の頃かしら?かなみの面倒みてもらって…あ、そうそう…』
この女性はかなみの母親で…確か千夏と言う名前のはずだ。
「………。」
『………。』
『幼稚園の頃なんておままごと…』
彼女は困惑するタカシに、微笑みを浮かべながら絶え間なくマシンガンのように言葉の雨を浴びせていた。
タカシ達はかれこれ三十分以上も、この言葉の弾雨の中を耐えている。
千夏『もう小学校の頃は二人で…』
「あの…」
千夏『でねぇ、かなみったらタカシくんが引っ越すって聞いたら…』
『ちょ、お母さん!ストッピング!!!』
今まで僅かな遮蔽物に身を潜め、ただひたすらに千夏の機銃掃射に耐えていたかなみが、突然反撃に移った。
千夏『いやぁ、いやぁって…なに、かなみ?』
『お母さん!それくらいにしてよ!』
千夏『…どうして?』
千夏はおかしそうに首を傾げて娘に微笑んだ。
『え…いや、なんでも!…それにタカシだっていやでしょ!?』
「え…いや俺は別に…」
『いやでしょ?』
「はい…」
彼女の剣幕に圧され、彼はおもわず同意してしまった。
千夏『タカシくんも嫌だって言うなら仕方ないわねぇ…』
「あ…はは…」
心底残念そうな千夏を見てタカシは少しだけ可哀想な気がしたが、これでよかったんだと自分にいい聞かせる事にした。
『はぁ…今日はこれくらいで済んだか…』
でなければきっと、日が沈んでもテーブル越しの機銃掃射を浴びるはめになっていただろう。


染み付いた汚れを拭い取った夕暮れの空は澄み切っていた。
その空に浮かぶ太陽は、雨雲の切れ間を縫う様に地平線へと吸い込まれていく。
「綺麗だよなぁ…」
ベランダに立ったタカシは、都会では滅多にミルコとの無い光景に目を奪われていた。

『おっさんくさ…』
彼が振り向くと、着替を済ませたかなみが立っていた。
「なんだよ…折角人がいい気分になってたのによ。」
オレンジ色に染まった景色の中、かなみは歩を進める。
『だぁから、おっさんなのよ。』
タカシの横に立ったかなみは、夕陽の光に目を細めた。
先程までの雨が嘘だったかのように、空気は透き通っている。
「…綺麗なものを綺麗だって言って何が悪いんだ?」
『おっさんをおっさんだって言って何が悪いのよ。』
得意気に言い返すかなみを見て、タカシは一つ溜め息をついた。
「ふぅ…コイツを一瞬でも可愛いと思った俺が馬鹿だった…」
『おっさんに可愛いなんて言われても…キショいだけよ。』
そう言うと彼女は悪戯っぽい笑顔で、青年に微笑みかけた。

湿り気を程良く含んだ冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
「はいはい、わろすわろす。」
『なによー!』
イヤミを軽く流された彼女は頬を膨らませる。
「全く…こんなヤツに騙されるとは…我ながら情けない。」
溜め息をついた青年の肩をぽん、と小さな手が叩いた。彼が顔をあげる。
『あんたも何だかんだ言って、まだまだお子様なのよ。』
其処にいたのは、8年前と変わらぬ、活発な、彼のよく知る少女だった。

「…ほほう。そういうお前こそ、厨房の頃から成長していないようだな。」
『……?』
かなみは彼の視線をたどり、暫く考えた後、拳を振り上げた。

『な、なななにいってんのよ!このスケベ!変態!!///』
もう片方の腕で胸を隠し、黄金の右を振り回す。
「うわ!冗談だ!やめふくぁwせdrftgyふじこlp;!?」
ボディに食い込んだ拳は、タカシから本日二度目のダウンを奪った。
『はぁ、はぁ、はぁ…あ、あ、あんたこそ!頭ん中身が変わってないじゃない!///』
「い…っつ〜…冗談に…決まってんだろ?」
タカシはズキズキと痛む脇腹を押さえ、立ち上がった。
「二十歳も越えて…それくらいで怒んなよ…」
『うるさいわねぇ…』
夕陽に照らされた彼女の笑顔は、彼からはよく見えなかった。

『…ふふ。』
風にそよぐ栗色の髪を掻きあげ、彼女は再び微笑んだ。
彼女の甘い香りと、シャンプーのいい匂いが、青年の鼻をつく。
「…どした?」
『ううん…なんか、さ。こうやってると昔に戻ったみたいだなぁ…ってさ。』
彼女の視線は、遥か地平線に吸い込まれていく太陽に注がれている。
「…あぁ。確かに。」
『…ね。タカシ…。』
彼女は、青年の目を見つめ、何かを言おうとした。
「………。」
しかし彼女の口から、声が発せられる事はなかった。
太陽は姿を消し、東の空は徐々に闇が流れ込みつつある。
しかし彼女の視線は遠く、虚空へと注がれたままだった。


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