タカシは、ふと思った。この少女は指先で触れば、砂山のように崩れてしまうのではないか。
今日、再会した彼女には子供の頃は見なかった…影のようなものが付き纏っている。
タカシは思った。
快活な、少女の頃と変わらない彼女。大人びた、儚げな彼女。
そのどちらが彼女なのか、それともその陰陽どちらもが彼女なのか…彼には分からなかった。
自分が学生の身を良い事に遊び呆けていた間、苦労や経験を経たのか。それとも、
もっと何か…。

…なんと声をかければいいのだろう。沈黙の中へと沈み込んでいくような感覚に包まれる。
なぜだろうか、声が出ない。沈黙の海に飲み込まれてしまう。息が、詰まる。
ただ声をあげればこの重苦しい沈黙の海から逃げ出せる。しかし、彼にはそれが出来なかった。
彼に出来たのは、ただ彼女を見つめたまま、もがくこともなく沈黙に溺れることだけだった。

「…………。」
千夏『あらあら、二人ともこんなところにいたの?』
その沈黙を破ったのは千夏…かなみの母だった。
先程と変わらぬ笑顔のまま、パタパタと近付いてくる。
『あ…おかあさん。』
「あ…。」
俺の馬鹿野郎。何やってんだ。あいつだっておにゃのこなんだ、悩みの一つくらいあるだろうに。
彼は頭を振り、根拠のない妄想を振り払った。
…最も、それを否定する根拠もありはしなかったが、彼はそれには気付かなかったことにした。

振り向いた二人に、笑顔を振り撒きながら千夏は話しかけた。
千夏『そろそろご飯にしようと思うんだけど…』
『もうそんな時間なの?』
腕時計をみる。まだ時計の針は六時にもなっていなかった。

千夏『久しぶりにタカシ君が来てくれたんだもの…手料理くらい振る舞わないと、ねぇ?』
『な、なんであたしに振るのよ…』
いきなり話を振られたかなみは、少し動揺しているようだ。
千夏『んっふっふ…』
『だ、大体!コイツはただのお客なのよ!』
千夏の意味深な笑みに、かなみは声を大にする。
千夏『あら?でもあなた、タカシ君に料r』
『あ゛ー!あ゛ー!!分かったわよ!作れば良いんでしょ!』
あーあーきこえないきこえない。
かなみは千夏の言葉を遮り、タカシに振り返った。
その形相は既に人外のそれである。
『アンタッ!』
「は、はいッ!!」
『このアタシが!アンタに!直々に!手料理を!振る舞ってやるッ!この意味が分かるッッ!?』
「わ、わかりかねます…」
『アンタはッ!このアタシに感謝しなけりゃあいけないッ!!』
脅える青年に、彼女は更に畳み掛けた。
「あ、ありがとうございます…」
しかし、彼の記憶上、彼女は家事全般の才能が皆無だった。

「…な、なんじゃこりゃあ…。」
暫くののち、彼は情けない声をあげていた。
眼前に広がる光景が、彼にとって信じがたいものだったからだ。
『ふふふ…どーよ!』

これはなんだ。俺の記憶にある“ヤツ”の料理じゃあないッ!
なぜなら“ヤツ”が台所に立てば、どんな食材であろうと“確実”に生ごみか炭素になってしまうはずッ!
確実!そう、コーラを飲めばゲップがでるくらい確実だ!

「…これ、ホントにお前がつくったのか?」
『あ?何言ってんの?当たり前でしょ?』
「………。」
『…その顔、信じてないでしょ。』
信じられる訳がない。彼の目前の食卓には所狭しと、見事な料理が並んでいた。
「どっかに周富徳か道場六三郎でも潜んでるんじゃ…!?」
『…黙って食えッ!』
吹き荒ぶ拳の嵐。枯れ葉宜しく翻弄されながらも料理の鉄人を探す青年。
観客は苦笑しながら、その微笑ましい光景を眺めている。
…賑やかな食卓。これこそが家庭と言うもの。
あの子に必要だった大切な時間。

神速の後ろ回し蹴りが延髄を切り裂き、崩れ落ちる男。
そして千夏は微笑んだまま、サッカーボールキックを放つ娘を止めに入った。

窓の外は、既に青暗く染まっていた。
しかし、彼女には、今一筋の光が差し込んできた。
それは薄く揺らぎ、瞬きすれば消えてしまいそうなほどに儚い。


「ウンまああ〜いっ!こっこれは〜っ!この味わあぁ〜っ!サッパリとしたチーズにトマトのジューシー部分がからみつくうまさだ!!」
「チーズがトマトを!トマトがチーズを引き立てるッ!“ハーモニー”っつーんですかあ〜、“味の調和”っつーんですか〜っ!」
「例えるならサイモンとガーファンクルのデュエット!」
「ウッチャンに対するナンチャン!高森朝雄の原作に対するちばてつやの“あしたのジョー”!」
数分の後、タカシの口からは、こんな台詞が飛び出していた。
目を見張る様なスピードで、食卓の料理が無くなっていく。
向かいに座った少女は、撫然とした表情のままそれを眺めていた。

『………それ、本当に誉めてるの?』
鋭い眼光を向けられた青年は、慌てて弁解を始める。
「いやいや!当たり前だ!こんなにすげぇもん食ったのなんて…久しぶりだぜ?」
『…………。』
「うんうん。いや、貧乏大学生それも男の独り暮らしの食生活なんてそりゃあもう素晴らしくだな、貧相な訳で。」
『…ま、アンタみたいに生活能力のない男なら、当たり前よねぇ?』
「ぐぬ……。」
『そんなのじゃあ女のコにモテるはずないわね。』
かなみの表情は言葉とは裏腹に、喜色を浮かべていた。
どうしたわけか、もじもじと手慰みまでしている。
「あ、あの……。」
『どうせさ、一人で生活できないならさ……//』
いつの間にかかなみはうつむいていた。声もか細く、聞き取りづらい。
「……な、なんだよ。」
沈黙。テレビの音、人の話声、喧騒が少し遠く感じられた。
『あ、あのさ…だから……///』
「…どうした?熱でもあるのか?」
『…はぇ!?ちょ、あ……///』

額に、手が。
こんな近くにアイツの顔が。

ボンッ!耳から煙を吹かんばかりの勢いで、かなみの顔が赤く染まった。
「おいおい…大丈夫か?雨で体冷えたんじゃないか?」
『ぁ……ち、ちがうわよ…//』
ぷいっ、と横を向いた彼女の顔はまだ赤かったが、どうやら病気の類ではないように思えた。
「…じゃあなんだ、やっぱり料理なんて馴れない事やったから知恵熱が…メメタァ!?」
『人をバカにするんじゃあないッ!』
千夏『そうよ〜。このコったらある日突然、アイツに褒めてもらうんだー、って料理の練習始めちゃって…』
『お、お母さん!なななななななななにいってんの!?///』
どこから湧いて出たのか、いつの間にか千夏が、倒れた青年の傍らに立っていた。
千夏『中学生の頃だったかしら…花よm』
むがむが。千夏はかなみに口を塞がれ、それ以上のことは口にできなかった。
『ああああのね、違うのよ、そういうんじゃなくって、ほ、ほら、アタシだって一応女の子なんだし、…////』
彼女は千夏の口をふさいだまま、くねくねと赤くなった体を捩りながら、なにか必死に言い訳をはじめた。
「いてて……ま、まぁなんだ…とりあえずお前の料理が美味いのは分かった。そのかなみを焚付けたヤツに感謝しないとな。」
タカシはゆっくりと起きあがり、かなみにこう言った。
千夏『……………。』
『…………。』
「………どうしたんだ?」
千夏『…じゃあ私は戻るわ。……かなみ、頑張りなさいね。それと、タカシ君もかなみの事…よろしくね。』
『ちょ、ちょっとお母さん!?///』
「は、はぁ………?」
千夏は素敵な微笑みと意味深な言葉を残して、再び去っていった。
タカシは遠ざかっていく彼女の後姿を見ながら、かなみに声を掛けた。
「…なぁ、さっきのどう言う意味だ?」
『………自分で考えなさいよッ!このニブちん!』

「いやぁ…いい湯だった。露天風呂はいいねぇ。日本の生み出した文化の極みだよ。」
浴衣姿の青年は、タオルで頭を拭きながら受付に座る少女に声を掛けた。
『バカな事言ってると風邪ひくわよ…。』
「これでビールでもあれば最高なんだけどなぁ…。」
『図々しいヤツ…。』
広めのロビーには二人しかいなかった。テレビからは野球中継の実況が流れてくる。
それ以外は虫の鳴き声と、扇風機が生ぬるい空気を攪拌する音しか聞こえてこなかった。

『あのさ…。』
受付の少女がおもむろに口を開いた。
『さっきの話しなんだけど……。』
「んー、お前の料理?あれはホントに美味かったぜ?将来お前の旦那になるヤツが羨ましいくらいだ。」
『え…ほ、ほんと…?///』
かなみはパッと顔を輝かせ、青年を見返した。
「おう。俺が立候補してもいいくらいさ…。」
『ふぇ…?/////』
瞬間湯沸し機よりも速く、かなみの顔面の血液が沸点に達する。
見る見る顔が赤くなり、切断された思考能力が低下していく。
あああああああああああももうだめタカsくぁwせdrftgyふじこlp;

「その暴力さえなかったらな。……それに、おしとやかなかなみなんてかなみじゃnひでぶ!?」
タカシに向け高速で飛来する灰皿は、狙いすましたかのように顎を直撃した。
『アンタは一言余計なのよッ…!//』

『そ、そうじゃなくてさ…向こうの話しを聞く限り、このままじゃアンタ廃人まっしぐらじゃない?//』
「う、うむ…。」
彼はまだ痛む顎を擦りながら、ソファに腰を下ろしていた。
『こ、こっちならさ、その…アンタの面倒くらいならこっちで……み、みられるし…///』
「ああ…それもいいかもしれんなぁ。」
『な、ならさ…!///』
少女は受付から身を乗り出し、目を輝かせる。
しかし青年の答えは、釈然としないものだった。
「でもな、かなみ。考えてみろ。こっちに戻ってくるつっても金も無い、住む場所も無い、仕事も無い。」
『う……。』
「やっぱり現実は、な。」
『…………。』
先程までの元気はどこへやら、受付の少女は小さく蹲ってしまった。
其処に、突然、ふわりと柔らかな声が救いの手を差し伸べた。

千夏『あら、それだったらココで働けばいいじゃない。』

「………ええええええええええええええぇ!?」
『お…お母さん!?』
彼女はニコニコと微笑みをたたえ、さらっと重要事項を言ってのけた。
千夏『丁度男の子が辞めちゃってね…男手が足りなかったのよ。タカシ君なら大歓迎よぉ!』
「いや、でも…」
千夏『ああ、部屋なら余ったところを貸してあげるわ!』
「いや、その…」
千夏『もし何だったら実家の方でもいいわよ?ちょうどね、かなみの隣の部屋が空いてるのよ〜。』
『お母さんてば…!//』
「そうじゃなく……」

千夏『お給料はちょっと安いけど…ね。そうと決まれば早速準備しないと……!』
「…………。」
彼女は尚も言葉の弾幕を張りつつ、どこかへと去っていってしまった。
残された二人はただ、呆然とするだけだ。

『あ…あははは…今の…ホントかな。』
「ん…どうだろな。…でも…こっちで働くのも悪くないかもな。」
『…そう?』
「ああ。美味い飯も食えるし。」
『だ、誰も毎日作ってやるなんて言ってない!//』
「それは残念だ。」
『…どうしてもって言うんなら…作ってあげない事も無いけど。//』
「お願いします。」
『………へへ。///あ!それと、働くんだったらちゃんとしないと怒るからね!』
「…ちゃんとしても怒るだろ。」
『五月蝿い!下っ端のくせに…精々こき使ってやるわ。』
「はいはい。…あらためて、宜しくな。」
『……うん!』

満天の星空の下、少女の笑顔は一点の曇りもなく晴れていた。



天高く、突き抜けるような青空に、ポツンと一つ浮かんだ雲が流れていく。
彼女は慌ただしく鞄をひったくると、馴れた様子でひょいと靴を履き、玄関を飛び出した。
『いってきまーす!』
返事も待たず彼女は朝の空気を切り、走り出す。

「ふぁぁ…」
少年は大きな欠伸を一つつくと、透き通るような青が広がった空を見上げた。
寝癖の直り切らない頭を掻きながら、空を見上げる。雲が一つ、ゆっくりと流れていった。
ばしっ。肩に衝撃が走り、彼は二、三歩よろめいた。 

『おーっす!相変わらずシケた面してっわね〜!』
眠そうな顔で後ろを振り向いた少年は、溜め息を一つ吐きだした。
「んだ…お前かよ。朝から元気なヤツ…羨ましいぜ。」
視線の先にいたのは、彼の良く知った顔だった。
彼女はくるくると鞄を振り回しながら、舗装されていない道を歩いていく。
『アンタがだらしないだけしゃないの〜?』
そういって、カラカラと笑いながら少女は彼の横をそのまま通りすぎていく。
『今日くらいはしっかりしなさいよねぇ?』
少年の方を振り向きもせず、少女はすたすたと歩を進めていた。
「…夏休み、おわっちまったんだぞ?今日からまた学校だぞ、悲しいだろ?」
過ぎ去りし素晴らしき日々に想いを巡らせ、彼は少女の後を歩いていく。
『別にー。第一さ、アタシ、休みだと家の手伝いしないとダメだし。』
少年は少し後悔した後、少女の後ろ姿に向け口を開いた。
「あー…、そうだったな。ごめん。」
『別にアンタが謝ることないわよ。…さ、急がないと遅刻するわよん。』
「え?ちょ、待てよ!」
彼が顔を上げると、少女は既に走り出していた。
二学期初日からこれかよ。少年は不平を言う体を無理矢理叩き起こして、遠ざかる少女を追い掛ける事にした。

…家の手伝いは別に嫌じゃないし、お父さんの分までアタシが頑張らないといけない。
でも、やっぱりその間遊んでる皆が羨ましかった。
それに…アイツの顔が見れないと、なんだか寂しい。
…もちろんこんなことは、口が裂けても人前では言えないけど。
だから、学校が始まるのが待ち遠しかった。

「おーす。」
「ちーす。」
数少ないクラスメイトが、ぞろぞろと教室に集まってきた。それだけで広くない教室は、騒がしくなる。
彼は自分の席に座り、集まってきた友達と何やら話し込んでいた。
…斜め後ろの席から私はそれを眺めている。
アイツの周りにはいつも人がいて、賑やかだった。
なぜだろう、彼には人を引き付けるなにかがあるのだろうか。
…その何かにアタシも惹き付けられたのか。

…まったく、学校にまでエロ本持ってくるんじゃないわよ。
ぼーっと、(彼を含めた)男子が誰かが持ってきたビニ本に群がっている、その光景を暫く眺めていた。
…何よ、鼻の下伸ばしちゃって…!!
少女はビニ本少年達から視線をはずすと、小さな溜め息を吐き、窓の外を見上げる。
高度を上げた太陽は、八月と変わらぬ灼熱の光を放っていた。
…そういや初めてアイツにあったのも、今頃だったかな。

あの頃アタシの両親は忙しく、幼かったアタシはいつも一人で遊んでいた。
あの日もそうだった。
コロコロと転がってきたゴムボール。アタシはそれを拾い上げた。
誰のボールだろう。何処から転がってきたのだろう。
ぐにぐにと遊んでいる内に、マジックで書いてある名前が目に入った。

『…べっぷたかし。』
知らない名前。知らない子のボール。…なら、貰ってもいいかな。
そんな事を考えていた時だった。

「…ね。ぼくのボールしらない?」
『え…?』
後ろから声を掛けられ、アタシは驚いて振り向いた。
「…あ。それ…ぼくのなんだ。かえしてくれる?」
彼はニコッと笑うと、驚くアタシに手を伸ばした。
『…や。』
何故かは分からなかったし、今でも分からない。
アタシはその時何故か、そのボールを彼に返したくなかった。
いつもいつもいつも、独りだった。これ以上一人で遊ぶのは嫌だった。
もしかしたら、この子はアタシの友達になってくれるかも。
でもその気持ちをうまく伝えることが出来ない。
…ボールを返してしまえば、彼はアタシの前に二度と現れない。そんな気がしたからか。

「…じゃあいっしょにあそぼ?」
『え?』
彼は変わらず笑顔を浮かべ、その手でアタシの右手を掴んだ。
「ひとりじゃボールであそんでもたのしくないよ?」
どうしていいか分からず、躊躇っていたアタシの手を引っ張る。
『わ、わ…っ!?』
「ぼく、タカシっていうんだ。…きみは?」
『………か、かなみ…。』
彼の手は、とっても暖かかった。

タカシ。アイツがアタシに初めて出来た友達だった。
その時のドキドキした気持ちは、今でもよく覚えている。
「かなみちゃん、ていうんだ。」
『………。』
「よろしくね!」

嬉しくて堪らなかった。忙しい両親に構ってもらえず、友達もいなかったアタシに話しかけてくれた。
そして「一緒に遊ぼう」そう言ってくれた。
『…あ、あんたがどうしてもって、いうなら…あそんであげる。』
「ほんと?じゃあさ、早く行こう!」

それからアイツは、毎日アタシのところにやって来た。
晴れの日も、雨の日も。
「びっぷれんじゃーごっこやろうよ〜。」
『…やだ。つんでれかめんごっこがいい。』
「う〜…わかったよ。」
『じゃああたしがつんでれかめん、あんたがかいじん“ひきおたまほうつかい”ね。』
「ぅぇえ…“しろーとどーてー”の方がいいよぉ…」

暑い日も、寒い日も。
「か、かなみ…怒られるって…!」
『うるさいわね…大丈夫だって。』
「知らないぞ…!」
『…!やば…後は任せたわよ!!』
「え?ちょ、マジか!?」


小学校に入って、アイツと同じクラスになった時は、嬉しくもなんともなかった。
一緒に居るのが当たり前。そう思っていたし、実際その通りだった。友達も増えて、みんなで一緒に遊んでいた。
その頃彼は、アタシにとって友達という存在の中に埋もれてしまっていた。
…その関係に変化が訪れたのは、中学に入ってからだった。

『タカシー、あれ?タカシ知らない?』
級友「さっきユキちゃんに呼ばれて裏庭の方行ったよ?」
ある日の午後、アタシはアイツの姿を探していた。
『…?わかった、ありがと。』
そんなところで何してるんだろう。
アタシは、何も考えずに裏庭へフラフラと歩いていった。
全く、掃除サボって何やってるんだか…。明日はアイツ一人にやらせてやるんだから。
ぶつぶつと彼に文句を言いながら、裏庭に差し掛かった時だった。

ユキ『ね、別府くん…私と付き合ってほしいんだけど。』
「えぇ…!?」
『………!!?』
アタシは思わず、校舎の陰に身を隠した。
ユキ『…ダメかな?』
「…いや、俺…そーいうの、良く分かんないしさ…」

驚く程に、自分の心臓が跳ね上がるのが分かった。
なんで、どうして。
激しい不安と焦燥感に襲われたアタシは、その理由も分からず、立ち尽くす事しか出来なかった。


ユキ『…他に好きな娘いるの?』
「えぇ?いや、その…」
彼は態度をはっきりさせず、空を見上げたまま、ポリポリと頭をかいていた。
ユキ『…もしかして、かなみちゃんと付き合ってるの?』

『〜〜〜〜ッッ!!』
何故そこで自分の名前が出るのかわからなかった。
視界がぐにゃりと歪む。自分の顔から血の気が失せ、口の中がどんどん渇いていく。
霞んだ景色の中、その感覚だけはやけにはっきりと覚えている。

「いや、別に…つきあってるわけじゃないけど……」
ユキ『じゃあ……』

歪んだ視界がぐるぐると回りだす。ぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
眼に映る景色から色が消え、白と黒の世界に変わっていく。
やがてその濃淡も薄らぎ、アタシの意識は暗く、底のないところへと墜ちていった。



「…い。おい、かなみ!」
『………!』
いつの間にかアタシは、地べたに座り込んでいたようだ。
ふと見上げると、彼が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫?こんなところで何やってんの?」
『あ……え、えと…あはは。』
デバガメしていて気を失ったなんていえるわけがない。
アタシが言い訳を必死に考えていると、すっと額に彼の掌が宛てがわれた。

『ぁ…………///』
「…熱でもあるんじゃないか?」
暖かな掌が、額に触れる。
それだけでアタシの顔は火を吹いたように熱くなった。
『〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!////』
「おいおい、青くなったり赤くなったり…ホントに大丈夫か?」
『な、何でもないわよ!馬鹿!!///』
アタシはその手を払い除ける。
スカートについた汚れを落とすと、アタシはくるりと背を向けた。
「俺、なんかしたっけ……あ、おい!…ホントに大丈夫かぁ…?」

何がなんだかわからないといった様子のアイツを放って、アタシは走り出していた。
まだ顔が熱い。それに、少ししか走っていないのに心臓が破裂しそうだった。
この感覚、過去にどこかで経験がある。
そう、アイツに初めて会った時のあの感覚だ。
勢い良く玄関に飛び込み、自分の部屋へと駆け上がる。
制服も脱がず、アタシはベッドへとダイブした。
『…でも。///』
でも、今度の“これ”はあの時の“それ”よりも、もっと強い…そう強烈な感覚だった。
この気持ちの、感覚の、正体。
まさかアタシがあの―――へちゃむくれで――――甲斐性無しの―――――あんぽんたんに―――――――。
頭では、必死に否定しようとしている。しかし、アイツが他の誰か…例えば昼間の。
女のモノになってしまったら。そんな事を考えただけで、胸の辺りがぎゅうっ、と締め付けられる。
言い様の無い不安と共に、泣きたくなるような、痛みにも似た感覚が押し寄せてくる。
―――――これってもしかして。
ああ、そうだ。
今まで気付かなかっただけなんだ。
初めて会った時から…。
アタシはアイツの事――――――。

『くっ……。』


『はぁぁあぁぁぁぁぁあァァァァ!!////』
そこまで考えて、アタシは大きくて可愛くない猫のぬいぐるみを思いきり抱き締めた。
脳裏に刻まれた彼の笑顔。それを思い浮かべ、かなみは独りベッドの上を転げ回ったのだった。

…その後聞いた噂によれば、タカシは彼女(ユキだったか、よく覚えていないが)の気持ちに対して答えなかったと言うことだ。
この瞬間、アタシはどれだけの安堵を覚えたことか。


キーンコーンカーンコーン。
鳴り響くチャイムの音に、彼女は我に返った。
じわじわと上昇する気温に、肌にはいつの間にかべったりと汗が浮かんでいる。
辺りを見渡せば、少年達はいつの間にか己の席につき、教師が現れるのを待っていた。

「はァ…ついに二学期が始まっちまったよォ〜…っ!?」
だらしなく机に突っ伏した少年の背中に、バチン、と衝撃が走った。
『シャキッとしなさいよ!このスケベ!!』
後ろを振り向いた彼は、何か言い返そうとした。
しかし扉を開けた担任の姿をみると不満げな顔のまま、視線を前方へと戻していった。

一緒に勉強して、遊んで、馬鹿やって。そんな生活が続いていく。
そんでもっていつかは、アイツにアタシの魅力を分からせてやる。
それで、それで……へへへ。
少年の後ろ姿を見ながら、少女は少しだけ笑みを浮かべた。
いつの間にか太陽と彼女との間には、何処からともなく、黒い雲が流れ込んできていた。
だが、気付くものは誰も、いなかった。


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