その14

 私は驚きのあまり言葉を無くした。さっきの優しい抱擁とは違う、荒々しい抱擁に、私
は身じろぎする事さえ出来なかった。
『ちょっ……や……離し……て……』
 言葉で辛うじて抵抗の意思を表すものの、全身はもうほとんどタカシに委ねきっていた。
今なら私は、タカシに何をされても抵抗一つ出来ないだろう。
 だがタカシはそれ以上のことはせず、ただ強く抱き締めたまま、私の耳元で小さく囁い
ただけだった。
「落ち着け、かなみ。お前は今、感情的になり過ぎてる」
『そんな……そんな事……』
 ない、と言いかけて私は口を噤んだ。確かに、タカシの言う通り、私はかなり感情的に
なっていたと認めざるを得なかった。
 けれど、私は自分を見失うほど感情的になった訳ではない。
「だから落ち着いて、それからもう一度良く考えてみるんだ」
『違う……わよ……』
 宥めようとするタカシに、私は反発した。
『本気……だもの。確かにちょっと……感情的になったのは、み……認めるわよ。だけど
……さっき言った事は……それは、あたしの……本心なんだから……』
 タカシに抱き締められている状態でこんな事を言うのは死ぬほど恥ずかしかった。けれ
ど、ちゃんと言わなければならなかった。そうでなければ、一時の感情として流されてし
まうかもしれない。そんなのはゴメンだ。
 しかし、タカシから返って来た言葉は意外なものだった。
「分かるよ。分かるさ…… お前が本気で言ってくれてるのは」
 そして、一呼吸置いてから、こう付け加えた。
「俺も……初めてこの星空を見た時は、感情が溢れ出て、止まらなくなったからな。お前
とは、ちょっと違うかもしれない。けど、ここから見る星空には人を惹き付けて離さない
何かがあるんだ」
 タカシも……やっぱり……そうなんだ……
 私は、僅かに顔を上げて空を見上げた。
 タカシも……この星空に魅了されたんだ。私と……同じように……

『でも、だったら何で……何であたしは、来ちゃダメなの? タカシも同じなんでしょ? 
だったら何でよ?』
 胸に浮かんだ疑問を、私は率直にタカシにぶつけてみた。
「ゴメン。正確には、今はまだ……だな」
 済まなそうにタカシは謝った。しかし、私にはそんな付け足しの言葉は関係なかった。
『そんなの関係ないわよ。何で今はダメなのか分かんない。後でなら良い訳? あたしが
イヤだからダメなんじゃないの?』
「そんな訳あるか。バカ」
 そしてタカシは、小さな声で、こう付け足した。
「俺だって……ホントは、お前に来て欲しいとは思ってるんだから」
『へっ!?』
 私は驚き、慌てて体を起こそうともがいた。タカシは腕に力を入れてなかったので、簡
単に、体はスルリとタカシから離れた。
『嘘…… タカシ、今……何て言ったの?』
 私の問いに、タカシは恥ずかしそうに顔を横に逸らした。
「二度も言えるかよ。バカ」
『何でよ? 何でそれじゃ、あたしがここに来ちゃダメなの? 意味分かんないわよ!!』
 私はタカシに詰め寄った。
「だから落ち着いてよく聞けって。さっきから先走りすぎだぞ」
 ウッ、と私は言葉に詰まる。そしてブツブツと小声で呟いた。
『だって……ショックだったんだもん……タカシに断られるなんて、思わなかったから……』
 言ってから私は自分の言葉が恥ずかしくなった。いつもなら、こんなセリフ、絶対に自
分の口から出てこない。けれど、何故か今の自分は素直になれた。
「分かってる。悪かったとも思ってる。ただな……」
 タカシは真面目な顔で、私の目を見つめた。
「お前には、性急に決めて欲しくないんだ」
『別にそんな……性急だなんて、そんな事ないわよ……』
 確かに、この場所に留まりたいと思ったのは今、この場でだったが、タカシの傍にずっ
といたいと思っていたのは、昔からのことである。そんな事タカシは知りもしないのだろうが。

「俺もな。初めてここで、この星空を見た時に思ったよ。何もかも忘れて、ただこの星空
の下で暮らせたらどんなにいいだろうって。だけど、同時にこうも思ったんだ。もう一度
良く考えてみようって。一時の感情に流されてここに来て、後悔することはないだろうかって」
 タカシはグルリと周りを見て言った。
「だってよ。見てみろよ、ここ。何にも無いんだぜ? スーパーだってコンビニだってレ
ンタルビデオ屋もCDショップもパソコンショップも、全部車で行かなきゃいけない距離
だ。テレビだって局数少ないし、ネットもダイヤルアップしかない。こんな所で本当にやっ
ていけるのか、考えてみろよ」
『……確かに、都会の暮らしに慣れたあたし達には厳しいかも……』
「だろ?」
『でも、そんな事より、あたしはタカシと、この星空が欲しい!! 後は何にもいらない』
 また感情的になりかけた私を、タカシは制した。
「でも、俺は……かなみには、そんなに急いで決めて欲しくないんだ。今は感情が高ぶっ
ているからそう思えるかも知れない。けどさ、もう引き返せない所まで来てから、止めた
って言っても、後戻りは出来ないんだぜ」
 そう言われれば、私には反論できなかった。確かに、ここに来ると言う事は会社も、友
人関係も、全て捨ててしまうと言う事である。
 ふと、私は思った。タカシはどうだったんだろう…… もう一度、私はタカシが挨拶に
来た時の顔を思い出してみた。酷く辛そうな顔をしていたような気がする。それなのに、
私は自分の事ばかり考えて、怒鳴り散らしてしまった。あの時のことは、今思い出しても
後悔ばかりだ。あのせいで、結局タカシに再会するまで二年もかかってしまった。
『タカシは、どうだったの? あの時……あたしに、お別れを言いに来たとき、どんな気
持ちだったの?』
「身を切られるように辛かったぜ。何度お前に一緒に来てくれって言い出したかったか。
だけど、俺のせいでお前の人生をメチャクチャには出来ない。それは今も同じ思いだ。だ
から……ホントは、お前に来て欲しいなんて言っちゃいけなかったんだけど……お前が、納得してくれそうにないと思って」
 タカシも……辛かったんだ……
 そんな気持ちも知らず、責め立てた事への申し訳なさが私を襲った。

『……ゴメン。あたし……あんな事言って……タカシの気持ちも知らないで、置いていか
れる自分の事しか考えてなくて……』
「いいさ。身勝手だったのは俺の方だし、今でもそうだ。却ってお前には辛い思いばかり
させて来たような気がする。済まない」
 逆に頭を下げられて、私は困惑した。
『いいわよ、そんなの……っても、まあ確かに、アンタの方が身勝手と言えば身勝手よね。
アンタは、自分の好きな事してきたんだし』
 すると、タカシは小さく笑った。
「やっとかなみらしくなったな」
『るさいっ!!』
 私はちょっと顔を赤らめて怒鳴った。
「で、これまで散々勝手やってきて申し訳ないんだが、もう一つ、俺のワガママを聞いて
くれるか?」
『何よ?』
 そう聞きはしたが、言いたい事は大体予想が付いた。
「とりあえず……今回は、帰ってくれ。そして、日常生活の中で暮らしていて、どうして
もここで暮らしたいって本心から思えるなら……その時、もう一度、さっきの言葉を言っ
て欲しい。頼む」
 両手で拝んで頼み込むタカシを、私はジロリと睨み付けた。
『いいの? そんな事言って。もし家に帰って、日常に戻ったら、あたし、ここの事忘れ
ちゃうかも知れないのよ?』
「それなら……それまでだ」
『アンタなんかよりずーっとずーっと素敵な恋人作っちゃうかもよ?』
「それで、かなみが幸せになれるなら…… 俺は、身悶えするほど後悔して、おまけに泉
美さんあたりに散々怒られるだろうけどな」
 気を紛らわせる為か、タカシは軽く笑った。私もつい、泉美さんに怒鳴られるタカシを
想像して笑ってしまった。あの人ならタカシの事を、私の分までどつき回してくれるだろう。
 私はため息をついた。

『分かったわよ。そこまで言うなら……無理に残るとは言わないわ』
「そうか……」
 タカシも、ホッと吐息をつく。しかし、その言葉にはどこかに残念な響きが混じってい
るように感じられたのは、私の気のせいだろうか。
 しかし、私はまだ納得はしていなかった。タカシの事を繋ぎとめておきたい。それには
証が必要だ。
『けど、あたしからも一つ、いい?』
「何だ?」
 私は息を呑んだ。このお願いを言うのにはかなりの勇気がいる。しかし、今の私は無敵
の素直さだ。だって、星々が味方についているんだから。
『あたしはね。本気でタカシがあたしに来て欲しいって思ってるかどうか、まだ心からは
信じられないの』
 タカシはちょっと驚いた顔をすると、慌てて弁解を始めた。
「いや、そんな事ないって。俺は――」
『黙って聞いてて』
 ピシャリと言ってタカシの言葉を封じる。
 私は大きく吐息をついた。心臓が激しくバクバクと音を立て始めた。
 勇気を出して……勇気を出して……
 意を決して、私は言った。
『だから……その、証拠が……欲しいの……』
「証拠?」
 私は頷いた。
『そう。その証拠に……キス……して欲しいの……』
 言った。言ってしまった。
 私は全身がブルッと震えるのを感じた。夜気のせいではない。明らかな緊張から来る震え。
 思えば、何で今まで、タカシと一度もキスしたことが無かったんだろう? 二人で一夜
を明かした事すらあったというのに。でもいつもテストの前とかで、勉強して、寝落ちし
ちゃったりしてそれだけで終わってしまったり。いつも近過ぎて却って遠い存在だった彼。
 でも、私はようやく決意したのだ。

「ちょ……ちょっと待てよ、かなみ」
 タカシが慌てて制する。しかし私は聞く耳持たずに言った。
『い……言っとくけどね。あたしにこんな事言わせるなんてよっぽどの事よ。今晩……こ
んな状況でなければ、あ……有り得ないんだから!!』
 強気に言って私は押し切ろうとした。ここまで言った以上、もう後には引けないのだ。
私は勇気を奮い立たせた。
『だ……だから、ほら。アンタも男だったら……ちゃんと自分の言葉を証明して見せなさ
いよ。あたしに本気で来て欲しいって思ってるんだったら……キ、キスくらい……出来るでしょ?』
「かなみ……お前は、その……いいのか?」
 そう聞くタカシの言葉も震えている。動揺していると知って、ちょっぴり嬉しかった。
『いいって言ってるでしょ!! 大体あたし達、もういい大人なんだからキスくらいで緊
張する事ないじゃない。ほら、早く!!』
 そういう私は緊張でガクガクである。私はそっと目を閉じると、顎を軽く上げた。思わ
ず唇が突き出そうになり、自分を抑えた。そんなみっともない顔はさすがにタカシには見
せられない。
「分かったよ。キス……すれば、信じてくれるんだな?」
 タカシの言葉に、私は無言で頷く。
 来る……
 心臓が痛いほどに鼓動を繰り返す。こんなに気温が低いのに、体は熱く火照り、汗が滲
み出た。
 タカシの手が、優しく私の顔を包み込むのが感じられる。私はギュッと目を瞑らないよ
うに、顔の力を抜こうと必死で努力した。
 その時。
 私は額に柔らかな感触を覚えた。
 え――――?
 頭が一瞬真っ白になった。そして我を取り戻した時には、額の感触は既に無かった。
『タカシ…………』
 さっきとは違う、震える声で、私はその名を読んだ。あまりの怒りに、激情を通り越し
て、冷静さが私を支配する。

「スマン!!!!」
 タカシがバッとその場で即座に土下座した。
「今はこれで勘弁してくれ!! 頼む!!」
『……あれだけ言ったのに……何で……』
 私はタカシを見つめた。恥を掻かされたという思い以上に、口づけしてくれなかった絶
望と虚無感を含んだ視線で。
「今の俺にはこれしか出来ない。もし……ここで俺が、お前とキスしたとしたら……お前
の心を、ここに縛り付けてしまう事になってしまう気がして。それじゃあ何の為に、一度
帰って見つめ直せって言ったのか、分からなくなっちまうから……」
 タカシの言い分は分かる。私の中にあった冷たい怒りは、スウッと引いていった。私が
嫌なんじゃなくて、私の心に気を遣っているんだと。
 だけど、タカシは馬鹿だ。こんな事されたら……逆に、心をここに置いて行ってしまう
事になると言うのに。いっそ、キチンと口づけしたほうが、余程スッキリしたと言うのに。
「それによ」
 と、タカシは付け足して言った。
「今、キスなんてしちまったら、俺が自分を抑えられなくなりそうだから。かなみを帰す
ことに、我慢出来なくなりそうだから……」
『バーカ』
 もう、私はそれしか言う事が出来なかった。
『もう、二度とこんなチャンスないのかも知れないのよ?』
 そう言うと、タカシはホッとした顔で笑った。
「かもな。俺は今、人生最大の失敗を犯したのかもしれん」
『間違いなくそうよ』
 そう言って、私はまた、星空を見上げた。
 真実は、あの星々だけが知っているのだ。


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