その15

 その後は言葉もなく、私達はしばらく、ただ天空を瞬く星屑を見つめていた。時折私が、
綺麗な星を見つけてはタカシに質問する。タカシがそれに答える。会話といえばただそれ
だけの時が過ぎて行った。
 いつ果てるとも知れない時間。いや。私からすれば永遠に果てて欲しくない時間だった。
いつまでも時が止まったままでいればいい。それは叶わぬ願いだと知っていながら、時折
流れる流れ星に私は願わずにはいられなかった。
 しかし、その願いは届かず、ついに終焉はやって来た。
「かなみ」
 タカシが声を掛けて来た。その声の響きから、タカシの言葉を察して私は返事をしなかった。
「そろそろ……戻ろうか……」
『嫌』
 私は即答した。タカシが困った顔で私を見る。
「けどよ。さすがに戻らないと……明日、帰るんだし……」
『嘘よ。分かってる。言ってみただけよ。バーカ』
 わざと明るい声で私は言った。本当は未練たらたらなのだけど。
「よし。じゃあ戻るか」
 タカシは立ち上がると、お尻をバンバンと叩いた。うーん、と伸びをする。
 しかし、私は立ち上がろうとはせず、そんなタカシをただ見つめていただけだった。
「どうした? かなみ」
 不思議に思ってタカシが聞いてきた。私は一言、不満そうに呟いた。
『疲れた』
「はあ?」
 私は足を伸ばすと、ふくらはぎの辺りを手で揉みながら言った。
『足が痛いのよ。今日一日、誰かさんのせいで歩き回らされた挙句、せっかくお風呂でリ
フレッシュしたと思ったらまたこんな所まで登らされて』
「そんな大した距離じゃなかっただろ? 足が痛くなるほどでもあるまいし」
 呆れたような声を出すタカシに対して私はむくれた顔を見せた。
『うるさいわね。痛いものは痛いんだからしょうがないでしょ』
 タカシはハァ、とため息を吐いた。
「で、どうすりゃいいんだ? 足の痛みが引くまでここにいるか?」

『そんなの待ってたら夜が明けちゃうでしょ? 何とかしてよ。アンタのせいなんだから』
 タカシを責めつつ、微妙に声に甘えた感じを混ぜてみせる。タカシは気付いてくれるだ
ろうか? 今まではタカシの事を鈍感だと思い続けてきたが、タカシ自身が実は抑制して
来た事を知った今では、期待も掛かる。
「ったく……しょうがねえなあ。甘えやがって」
 タカシの言葉に、私は来た、と確信した。
『誰が甘えてるって言うのよ!!』
 文句を言いつつも、気持ちは期待感に溢れている。それを声に出さないようにするのに、
私は一苦労だった。
「こういう事だろ? ほれ」
 タカシは私に背を向けてしゃがんだ。
 よし、と私は内心で拳を握り締める。さすがは幼馴染。私が求めている事を的確に当ててくれた。
『な……何してんのよ。そんな格好して……』
 さすがにちょっと声が上ずってしまう。
「おぶってやるよ。足が痛くて歩けないってんならしょうがないから」
 その最後の一言に、私はちょっとムッとなったので、そこを全面に押し出した。
『しょうがないとはどういうことよ。しょうがないとは』
「別に俺からお願いしておんぶさせて下さいって程の事でもないからな。役得もあるっちゃあるし」
 そう言うタカシを、私はさらに睨み付けた。
『役得って……何考えてんのよ!! バカ!! スケベ!!』
「ニハハ……」
 詰る私を、タカシはニヤニヤした顔で見つめる。タカシにおぶされば全身がくっつくし、
素足は触られるし、胸は当たるし……まあ、ジャージ着てるから感じないかも知れないけ
ど、でもそれを役得と言ってくれたのは何だか嬉しかった。好きな人から何とも感じられ
なかったとしたら、却って女としての自信を喪失する。
「ほれ。どうするんだ? それともお姫様抱っこの方がいいか?」
『それはヤダ!! 絶対ダメ!!』
 その姿勢だと、タカシと真っ直ぐに視線を合わせることになってしまう。ダメだダメだ。
ダメダメ。そんな事したら真っ赤に熟れた私の顔がタカシに見られてしまう。
「じゃあさっさと来いよ。あまり遅くなると明日が辛いぞ」

『わ……分かったわよ。そんな急かさないでよね』
 私は一度立ち上がり、お尻についた草を払うとタカシの後ろに立った。両腕を首に回し、
そっと腰を下ろして体を密着させる。両脚の太ももをタカシの体を挟むように広げる。
「よし。じゃあ行くぞ」
 タカシの手が、膝の裏に回る。
「よっ……と」
 タカシが立ち上がると同時に、私の体がタカシの背だけを支点に浮き上がった。
「よいしょっ、と。でっけえ子供だなあ」
 体を揺らして姿勢を整えると、タカシの手が膝裏よりやや太ももの方に寄った。
『だ……誰が子供よ!! 誰が!!』
 私は、両腕で軽くタカシの首を絞めた。
「く……苦しい、苦しいって!!」
 指で私の太ももを叩いてギブアップの合図をする。私が力を緩めると、タカシはプハッ
と息を吐いた。
「あー、ぐるじかった…… お前、マジで首絞めんなよ」
『こんな綺麗な大人の女性に対して子供なんて言うからよ。反省しろ、反省』
「自分で言うか。つーか、おんぶしてなんてねだるのは子供だけだ」
『フンだ』
 軽快なテンポの会話が続く。すると、タカシがクスッと笑った。
『何よ。何がおかしいのよ』
「いや。やっといつものかなみに戻ったと思ってな」
『あたしはあたしよ。変わってないわ。ここに来た時も、今も、これからも』
 私は平然と言い切った。さっきの事を思い出すと照れ臭かったが、我を失ったわけじゃ
ない。星空の下で初めてタカシに対して素直な自分を見せただけだ。
「そうか……うん。そうだな。かなみはいつも同じかなみだよな」
 自分一人で納得してタカシは嬉しそうに笑った。
『何笑ってんのよ』
「いや。かなみは何も変わってない。あの頃と……俺と別れた時と全く同じかなみなんだ
なって思ったら嬉しくなっただけだ」

 その言葉に、みるみるうちに私の頬は赤くなる。いや。もう十分に赤くてこれ以上赤く
なる事なんて無いと思っていたが、それ以上に沸騰した。
『アンタだって変わってないわよ。二年経って少しは成長したかと思ったけど、全然成長 の兆しすら見えないし』
 悔し紛れに私は言い返した。本当はタカシは外面的にはあの頃より凄くたくましく、
カッコ良く見える。けれど、中身は本当に昔のタカシのままだ。
「俺……こっち来てからいろいろ勉強もしたんだけどなあ。特に料理とか……」
 残念そうな声でタカシが言うと、私は面白くてクスクスと笑った。
『まだまだ、全然よね。それだって泉美さんがしっかりと見ててくれてるからじゃない。
アンタ一人で成長したわけじゃないでしょ』
「まあ、確かにそう言われればそうだけどな。けど、まだまだ、これからだし」
『うん……まあ、そうよね…… ていうか、タカシはあたしが変わらない方がいいの?』
 タカシは頷いた。
「ああ。今のかなみが一番好きだからな。そりゃ見た目はいろいろと変わるだろうけど、
中身だけは昔と変わらない、素直じゃなくてそれでいて照れ屋なお前であって欲しいなって」
『だっ……誰が照れ屋よ!! 誰が!!』
 私はまたドキリとした。もしかして……全部、見透かされていたとか? 今、好きだと
言われて内心では物凄くうれし恥ずかしい事も。しかし、タカシは笑ってそれを受け流し
ただけだった。
 私はホゥ、と吐息をつくと、さらにタカシに全身の体重を委ねた。タカシの言葉が、優
しさが嬉しくて堪らなかった。
「どうした? 疲れたか?」
 そう聞くタカシの耳元にそっと囁いた。
『ありがと』
「何がだ?」
 そう切り返されて、私は先を続けるのが恥ずかしくなった。しかし、ここは勇気を持っ
て言うべきだ。というか、今しか言えない。
『自然なままの私が好きだって言ってくれて』
「う…… 何か、かなみからストレートにお礼を言われると、何かこう……照れ臭いな」
『あっそ。じゃあ何? お礼、言わないほうが良かった?』

 ちょっと意地悪に言うと、タカシはチラリと肩越しに私を見て答えた。
「いや。言ってくれた方が嬉しいよ。そりゃあな」
 私はそれには答えず、全身をタカシに預けた姿勢のままで耳元で囁いた。
『なら……今のうちに……素直な気持ちでいられるうちに、一言、言ってもいいかな……』
 タカシは頷いた。
「ああ。何でも言っていいぜ」
 その言葉が、妙に嬉しく感じた。私はもうどうなってもいいと思いながら、微かに、タ
カシの鼓膜に当てるような感じで言った。
『私も……昔のままのタカシが、大好きだよ……』
「あ……」
 見る間に密着した体がタカシの体温の上昇を感じ取った。照れてるんだ。喜んでるんだ、
タカシも。嬉しくって私は、さらにしっかりしがみ付こうと両手両脚に力を込めた。
「そ、その…………サンキュー……な……」
 それだけ言ってタカシは言葉を失くした。けれど、それだけで私には十分だった。
 今、私達は一つなのだから。身体も心も。

 短い時間はあっという間に過ぎて行った。視線の先に、タカシの家の灯りが見える。一
歩一歩、タカシが踏み出すにつれてだんだんと灯りは大きくなっていった。
「ふう……やっと着いたか」
 タカシがため息を漏らした。
『やっとってどういうことよ? やっとって』
「いや。別にその、他意はないんだが……帰りは何か、行きの倍近い時間が掛かったよう
な気がして」
『それは何? あたしが重荷だったってこと?』
 膨れっ面をして文句を言うと、タカシは慌てて首を横に振った。
「違う違う違う。そんな事は全然無いって。誓って」
『どうだか。どーせあたしは重いですよ』
 ワザとらしく嫌味を言うと、タカシはムキになって抗弁する。
「だから違うって言ってんだろ? 何なら、走ってやろうか?」

『止めてよ。そんな無茶して転んだりしたらどうすんのよ。あたしが怪我するかもしれな
いじゃない』
「そんなヘマしねーって。それにもう後は平らな直線だけだし」
『とにかく、絶対止めて。分かった?』
 一分一秒でも長くタカシに背負われていたい私は、必死になって止めた。タカシはちょっ
とうんざりしたように答える。
「へいへい。まあ、それはともかくとしても、お前もちょっとした言葉尻捕らえて噛み付
くの止めろよな。お前に合わせてたら、俺の発言権なんか無くなっちまう」
『なら、何で“やっと”なんて言ったのか納得の行く説明をしなさいよね。でないと許さ
ないから』
「言わなきゃならんのか?」
 タカシが聞き返す。私は強い口調でもう一度言った。
『そう。言うの』
 諦めたように吐息をついて、タカシは言った。
「だってさ。こうやってお前をおぶってるのって……すげえ緊張するんだぜ。こう……歩
く度に身体が揺れて、お前の胸とかすべすべの太ももとか意識しちまうし……嬉しいけど、
理性を失わないようにするのって結構大変なんだぜ。だから……そういった意味で、やっ
とこの危険から解放されるのかって。すごく残念でもあるけどな」
『なっ……バ、バカ!! この……スケベ……』
 いつものように、声に力は出なかった。というか、これだけ体を委ねきっている私が、スケベなどと言えた道理はない。
「仕方ないだろ。健全な男なら俺じゃなくたってそうなるさ」
『な、何よそれ。ごまかしのつもり?』
 こんな事を話している間も、一歩一歩、終わりは近づいてくる。
「真理だよ。世の中のな」
『何言ってんの? 悟ったフリしてバカみたい』
「ハハハ……」
 あ……着いちゃう……とうとう……
 私達は、タカシの家の庭へと入っていった。

「さてと。ここいらでいいか?」
『いや。ちゃんと縁側まで連れて行って』
 下ろして貰いたくなくて、私はワガママを言った。タカシはため息をつく。
「やれやれ。まあ、ここまで来たら一緒だからな。よいしょっと」
 もう一度私をしっかり持ち直して、タカシは歩き出す。ほんの僅かな距離を。
「よし。着いたぞ」
 タカシは縁側に背を向けると、ゆっくりとしゃがんだ。私の足が地面に付く。仕方なく
私は、タカシの肩に手を当てて体を支えると、しっかりと地面に降り立った。
「フゥ……お疲れ様」
 立ち上がると、タカシは笑顔で振り返って言った。しかし、それは私がタカシに対して
言わなければならない言葉だ。素直に言いたくない気持ちを殺して、私はたどたどしく想
いを口にした。
『えっと……その…… あ……ありがと。ここまでおんぶしてくれて……』
 照れ臭そうにはにかみながら口にする私のお礼の言葉を聞いて、タカシはちょっと驚い
たように目を見開いた。
「へぇ…… 今日はやけに素直なんだな」
 その言葉に、恥ずかしさと怒りが瞬時に私の心を染める。
『あっ……あたしだってねえ!! そりゃ、一応……感謝の気持ちくらいは言うわよ』
「そうか? 俺は今まで、かなみから感謝の言葉なんて貰った記憶無いけどな」
 おどけた口調でタカシがそう言うので、私はちょっと意地悪く言い返した。
『それはタカシがあたしにお礼を言われるような事をして来なかったからでしょ? 素直
に反省なさい』
 ピシャリと言い返すと、タカシは苦笑した。
「へいへい」
 そして、靴を脱いで、廊下へと上がる。私は一瞬、チラリと丘の方を振り返った。あの
丘にはいろんな物を置いたままにして来てしまった。
 必ず……取り戻しに来るんだから。
 そう誓うと、名残惜しい気持ちを振り切って、私もタカシの家へと上がったのだった。

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