その16

『あー、疲れたぁ……』
 部屋に上がるなり、私はうーんと伸びをした。そういえば、名残惜しいがジャージは返
さないといけないな。
 タカシに見られないよう、最後に軽く私は袖をクンクンと嗅いでみる。当然の事ながら
何の匂いもしないが、やってみずにはおれなかっただけだ。
『はい。タカシ。これ……ありがと』
 ちょっとぶっきらぼうに言うと、ジャージを脱いでタカシに差し出した。
「ああ」
 タカシは受け取ると、そのまま私にスッと背を向けてどこかへ行ってしまう。恐らくは
洗面所だろう。すぐに戻ってきた所からも、それは窺えた。
 タカシは、あたしが着てたジャージだって事に、何の思いも抱かないのかな……?
 一瞬、タカシがジャージの匂いを嗅ぐのを想像して私はドキッとした。あたふたとその
妄想を心から押しやる。全く、今日の私は次から次へと変なことばかり考えてしまうな。
「どうするよ。もう寝るか?」
 タカシに聞かれて私は顔を上げた。
『へっ……? 寝るってまだはや……くもない、か……』
 私は時計を確認した。時刻は既に11時を回っている。随分と長い事、星空の下で話しを
したんだな、とあらためて思った。
「寝るんなら布団敷くけど。明日は結構早く出るんだろ?」
『お願いだから明日の事は口にしないで』
 私はカッとなってタカシに厳しい口調で言った。今がこんなに幸せなのに、帰ることな
んて考えたくも無い。少なくとも夜が明けて、明日になるまでは。
「分かったよ。けど、どうするんだよ。それともお茶でも飲むか?」
 私は言葉に詰まった。確かに、このまま寝たくはない。かといって、さっきまであれだ
け感情を迸らせて、訴えかけて、そこまでしておきながら冷静にお茶を飲みながら会話、
なんてのも出来る訳ない。
『……お茶は……いいや』
 どのみち、明日はやって来るのだ。これ以上ぐずぐずしてタカシにみっともないところ
を見せるのも情けない。
『お布団。敷いてくれるかな?』

「了解」
 タカシはすぐ奥の部屋に言った。そこの隅が押入れになっていて、客用の布団が入って
いるらしい。
「お前はこの部屋でいいよな?」
 さっきまで食事をしていた部屋の続き部屋に、タカシは布団を引っ張り出して確認を取った。
 私は頷いた。しかし、同時にここで一人で寝るのは寂しすぎるという想いが不意に湧い
て来て仕方なくなった。
『あのさ。タカシ……』
「何だよ」
 布団を敷きながらタカシが答える。
『一緒に……寝ない?』
 その言葉を口にした瞬間、タカシの手から掛け布団がドサッと落ちた。
「ちょっ……ちょちょちょ、ちょっと待て、かなみ。幾らなんでもそれは……」
『かっ……勘違いしないでよね!!』
 私は、動揺するタカシの言葉を遮って慌てて言った。
『一緒にって言っても、同じ布団で、とか、ましてやその……性的な意味で、とか、そう
いう事じゃないのよ。あくまでその……同じ部屋で寝るとか、それだけだからね!!』
 真っ赤になって私が言い訳すると、タカシはホッと息を吐いた。
「焦ったぜ…… いや、まさかこの期に及んで性的な意味じゃあないとは思ったけどよ。
一緒の布団で、とかだったら、その……自分に自信がないもんでさ」
『バカ!!』
 タカシの言い訳に、私は真っ赤な顔のままで怒鳴った。
『言っとくけどね。キスも出来ないようなヘタレにあげるような体は、その……あたしは
持ってないからね!!』
 そう言うと、タカシはちょっと意地悪く笑った。
「何かその言い方、バージンの子みたいだな」
『んなっ……? ううう、うるさいっ!! 変な事言うな、バカ、スケベ!!』
 私の怒鳴り声に、タカシは慌てて謝罪した。
「ゴメン。ちょっと軽い気持ちで言っただけなんだ。悪かった。スマン」

『全くもう……アンタだからまだしも、完全なセクハラ発言よ。今度言ったらただじゃ済
まないんだから』
「分かったよ。もう言わない」
 さすがに、今度ばかりは私も、タカシのデリカシーの無さには呆れる思いだった。私が、
他の男性に初めてをあげる訳無いのに……
 今時、古臭い考え方だとは思うけど、そういう知識を得たときから、私の妄想の相手は
決まってタカシだった。そして、それは今も変わらない。
「じゃあ、俺の布団もこっちに持ってくればいいんだな?」
『うん。そうしてくれる? その……アンタとは、ここにいる間……ずっと、傍にいたいから』
 うわ。恥ずかしい事を言ってしまった。自分のセリフに自分で恥ずかしくなる。タカシ
をチラッと見ると、タカシも何だか顔が赤いような気がする。
「お、おう。じゃあその……持ってくるわ」
 そう言って、そそくさと出て行ってしまった。
 タカシも……恥ずかしかったのかな?
 そう思うと、ちょっと嬉しくなった。
 タカシが自分の布団を担いで持ってくると、私の布団の傍に敷いた。ちょっと距離が離
れていたので、私は文句を言う。
『あのさ。布団くらいは……くっつけても、いいと思うんだけど』
「ああ。そうか」
 素直に頷いて、タカシは自分の布団を私の布団にくっ付けた。
「それじゃあ、寝るか」
『……うん……』
 このまま寝てしまうのは、今だって惜しい。けど、いつかは寝なきゃいけないし、正直
今日はいろいろありすぎて、体の方も布団を見た瞬間、どっと眠気が押し寄せてきていた。
 私は、いそいそと布団に入る。タカシも同じように布団に入ろうとした。
「電気……消すか?」
『豆電球にしておいて』
 私がそう頼むと、タカシはクスリと笑った。
「相変わらず、真っ暗はダメなのか」
『ほっといてよ。もう……』

 タカシが蛍光灯の紐を引っ張ると、オレンジ色の微かな灯りだけが残った。
『ねえ、タカシ』
「何だ?」
『手……握ってて、くれる?』
 恥ずかしいお願いだけど、それ以上に欲求が勝って私は頼んだ。こうしていれば、寝て
いても、いつでもタカシを感じていられる。
「今日のかなみ、随分と甘えんぼだな」
 そんな事を言われて、私はまたカッと恥ずかしくなって言い訳をした。
『あたしだってそういう日はあるのよ。いつもいつもこんな訳じゃないんだからね』
「分かった分かった。ほら。手、出せよ」
 言われるがままに、私はタカシに右手を差し出した。キュッと優しく、タカシの手が私
を包み込む。安堵感が私を包み込んだ。
 不意に、タカシに対する感謝の念が湧き起こる。何だかんだと私の我がままにいつも付
き合ってくれたタカシ。それを口にするには今しかない。
『……タカシ』
「何だ」
『今日は……いろいろと、ありがと』
 心臓をドキドキさせながら言うと、タカシは小さく笑った。
「水臭い事言うなよ。俺とかなみの仲だろ。甘えたければ、遠慮なく甘えて来い。俺はい
つでも受け止めてやるから」
『ありがとう……』
 その暖かい言葉が余りにも嬉しくて、私は思わず涙が出た。タカシに見られていないの
が幸いだと思う。でなければ、みっともなくて仕方がなかっただろうから。
 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせてから、私は最後に一言、言った。
『お休み、タカシ』
「ああ。お休み」
 そして私は、タカシのぬくもりを手に感じながら、ゆっくりと深い眠りに落ちて行ったのだった。


 翌朝。私は携帯にセットしたアラーム音で目が覚めた。
『んん……良く寝た……』
 うーん、と伸びをしてふと横を見ると、タカシの布団はもぬけの空だった。
『タカシ……どこ行っちゃったんだろ……?』
 急に不安になってキョロキョロと周りを見る。そして、布団からスルリと抜け出た。
『タカシ?』
「おー」
 呼ぶとすぐに返事が来た。よかった。ちゃんといたんだ。私はホッとして声の方へと向かった。
 寝室として使っていた部屋の襖を開けると、ふわっ、と味噌汁のいい匂いがした。
「よお、かなみ。おはよう。良く眠れたか?」
 台所から、タカシが顔を覗かせて聞いてきた。
『おかげさまでたっぷりとね。もしかして……朝ごはんの用意、してくれてたの?』
「おう。といっても、朝はご飯と味噌汁と卵焼きに納豆くらいだけどな? ああ。かなみ
は納豆嫌いだっけ」
『そうよ。あんなねばねばにちゃにちゃした腐った大豆のどこが美味しいのか、さっぱり
分かんない。まあ、好きな人にはそこがいいって言われるんだけど、あたしには気持ち悪
いだけだわ』
 頷きながらしかめっ面で言うと、タカシは笑った。
「相変わらずだな。まあ、座って待ってろよ。後は卵を焼くだけだから」
 私は慌てて頭を振った。
『ちょっと待って。それくらいあたしがやるわよ』
「いいって。お客さんなんだから、大人しく待ってろって」
 しかし私は頑として譲る気は無かった。
『ダメよ。別に気を遣ってるとかそんなんじゃなくて、あたしがやりたいからやるの。お
客さんの言う事はちゃんと聞かなきゃダメじゃないの?』
 そう言うと、タカシは素直に折れた。
「分かった。じゃあ、俺はご飯と味噌汁をよそってるわ」
 私が卵を焼くのをこだわった理由は簡単だ。タカシと一緒に台所に立ちたかったからだ
け。もっとも、こんな事は本人には口が裂けても言えないが。

 卵を二つ、ボウルに割って混ぜ、フライパンで焼きながらまたかき混ぜて、適当な頃合
になったら折り畳む。それを二人分。あっという間の料理だったが、それでもタカシと一
緒に台所に立っていられて幸せだった。
 また。こういう時間は作れればいいな……ううん。いいな、じゃなくて作る。それも毎日。私は、そう決意したのだった。
 朝ごはんは何事も無く淡々と進んだ。もうお互いの会話もそんなに無いので、朝のワイ
ドショーを見ながら、その内容について会話をするだけ。だけど、そんな時間すらも貴重だった。
 だけど、時間は容赦ない。時間は8時半を回り、そろそろ支度をしないといけない時間
になってしまった。
 しかし、私は自分から動く気にはなれなかった。自分から踏ん切りが付けれないなんて
情けない話だけど、立ち上がることが出来ずにグズグズしていると、タカシの方が声を掛けてきた。
「かなみ、いいのか? そろそろ支度しないと帰りが遅くなるぞ」
『分かってるわよ。今からやろうと思ってたの。アンタに言われるまでも無いわ』
 言い返したものの、タカシの言葉が無ければ動けなかったのは、私自身が一番よく知っていた。
 軽く化粧をしながらため息をつく。
 帰るのかぁ……
 たくさんの、想いを置き去りにしたまま……
 それから私は思い直し、頭を振ってから頬をピシャッと叩いた。ダメだダメだ。こんな
事でウジウジしてたら、タカシに馬鹿にされちゃうかも知れない。
 私は気持ちを強く持ち直して、背筋を伸ばし、顔を上げて洗面所から外へ出たのだった。
『お待たせ』
「準備はいいか?」
『うん。大丈夫。もともとそんなに荷物ないし』
「よし。じゃあちょっと待ってろ。車、回すから」
『ちょっと待って』
 私がタカシを呼び止めると、タカシは不思議そうな顔で振り返った。
「どうしたんだ?」
 私は真面目な顔でタカシを見つめて言った。
『車じゃなくてさ。その……歩いて、駅まで行こ?』

 当然の事ながらタカシは驚いた顔をした。
「お前、昨日あれだけ散々文句行ってたじゃねーか。それに、歩いて行ったら、まあ昨日
よりは早く着くけど、それでも一時間半は掛かるぞ?」
 しかし私は頑として言った。
『いいの。家には今日中に着けばいいんだし、何か歩いて行きたい気分なの。あたしがそ
うするって言うんだからいいでしょ?』
「まあ、そりゃそうしたいって言うならいいけどさ……」
 戸惑いながらタカシは頷いた。
 当惑されるのは分かる。けれど、私は去る前にもう一度、今度はもっとしっかりとこの
地の風景を頭にしっかりと焼き付けておきたかったのだ。タカシが住まうこの地を。
「それじゃあ荷物貸せよ。駅まで俺が持ってくから」
『あ……うん……』
 私はタカシにバッグを手渡すと、タカシはよっ、と肩に掛けた。こういう時、いつもタ
カシは頼もしい。もっとも、惚れ惚れした目で見つめても、一向にタカシは気付いてくれ
なかったけど。
「よし。じゃあ行くか」
『うん』
 頷いてから、私は一度、玄関からもう一度中を見て言った。
『お邪魔しました』
 するとタカシが後ろから声を掛けた。
「お前、誰もいない家に向かって言ってどうすんだよ。普通、そういうのって家主に言うもんだろ?」
 しかし私は振り返ってタカシを睨み付けた。
『あたしは一晩泊めてくれたこの家にお礼を言ったんだもん。何か文句あるの? ていう
か、そういうの、普通自分から要求する?』
 畳み掛けるように言うと、タカシは面白く無さそうに口を尖らせた。
「へいへい。俺が悪かったよ」
 玄関を出て、タカシが鍵を掛ける。たった一晩しか泊まっていないのに、この家もひど
くいとおしく思えた。
 必ず、もう一度来るからね。
 私は心の中でこの家に、そう言って別れを告げた。


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